里山の指標としてのトンボ類

−愛知県瀬戸市海上の森を例として−

 

高崎保郎、八田耕吉

 

里山の動物相における主要な構成者である昆虫の中でも、特にトンボ類は環境指標として、主に次のような理由から適していると考えられる。

@ トンボは古くから広く国民に親しまれており、生物の専門家でない一般の人々に対する自然環境の説明材料としても理解されやすい。

A 本邦(日本産)記録種は偶産種を含み220種弱と種類数が少なく、大型で比較的同定(種名の確定)が容易であり、分類、生態ともに研究が進んでいる分類群である。

B 幼虫(ヤゴ)は水中、成虫は陸上と、水域、陸域の両方の評価に利用できる。

これらの環境指標種としての利点を持ったトンボ類を材料として、名古屋市東郊に位置する東海地方固有な東海丘陵要素を基盤とした尾張平野東部丘陵地帯(長久手町も含む)のトンボ相について述べる。

 

I.            里山生態系が持つ多様性の成立要素

1.生物多様性がもつ意味

多様性を表す尺度として多様性指数(種類数と個体数の関係を示す指数で、種類間の量的な関係が均等なほど多様性が増す)が良く使われているが、移動性や飛翔性の強い、逃げることができる陸上性昆虫、採集面積や採集個体数などを示すことが困難なために正確さの判断ができない定量採集が困難な昆虫には不適切な評価法である1

さらに、ベイトトラップやライトトラップなど広範囲から集める誘引法やスウィーピング、ビーティング、ツルグレン法など無作為にかき集める採集効率の高い採集法は、採集個体数による環境負荷が定性的な採集法に比して大きいことも考慮に入れておかねばならない。前述の環境指標としての利点でも述べたように、トンボ類は大型で比較的同定が簡単なため熟練度に応じての目視や、捕獲しての観察をおこなうことにより、採集による負荷は低く抑えることができる。

1)環境の特異性

里山の構成要因として、個々の生態系の多様性をとらえることは必要であるが、それを形成している植生に依存する種の多様度の大きさを比較することはあまり意味を持たない。むしろ、それぞれの植生別に依存する昆虫相の特徴を捉えることのほうが重要である。里山はいくつかの生態系の寄り集まりで構成されていることが重要であり、どの植生が多様性が高いのかはあまり重要ではない。

「瀬戸市南東部地区に生息する生物の多様性に関する調査」の結果の中に、「スギ・ヒノキ幼令林」や「スギ・ヒノキ植林」の多様性が高く、「コナラ−アベマキ群落」が低く書かれており、一般的な観察における「コナラ−アベマキ群落」の方が多様性が高いという認識とは異なった結果となってくる。この植生別調査における昆虫類の出現数を見ると、例えば「コナラ−アベマキ群落」では、82種類いる中の32種がその場所でしかとれなかった種であった。これを、その環境における特異性を表す数値だと考えてみると、39%がその環境に特異的な種ということになる。同様に、「スギ・ヒノキ植林」でみると、84種中48種、すなわち57%もの種がこの地点でしか確認されなかったことになる。これら7つの群落における出現種は445種で、各群落における特異度は前記の39%から57%の間であった。生態系の多様性を、いろんな壊境が寄り集まっているという意味で考えるなら、当然構成要素としての植生環境の特異性を重視していくべきであろう。

)いろいろな環境の組み合わせが大切

人為的な管理が里山においてなされてきたという観点から里山の保全が人工的管理技術の開発や、技術者の要請により可能であるかのようにとらえられている。それは、里山に対する評価の誤解により生み出されていると考えられる。「海上の森」の里山がもつ多様性は、原生林などで見られる個々の植生環境内における多様性の高さだけでなく、貧栄養湿地など特殊性の高い、そして容易に壊される小規模な43ものタイプを持った多様な植生環境の集まりである。その多様な環境がパッチ状に入り組んでできた植生環境の駆け引きの結果として、いくつもの遷移の過程をもっていることであろう。

「レッド・データ・ブック」の編集にかかわった自然保護協会も絶滅危惧種などの貴重種の選定により、珍しい種がどれだけいるかといったことに目を奪われていることに、注意を促している。さらに、環境アセスメントなどの調査報告書などで、「レッド・データ・ブック」の多用に対して、種名リストを公表するだけで、「なぜ、そのような事態に至ったかに配慮した評価が見られない」と警告を発している。

最近、「レッド・データ・ブック」にリスト・アップされたメダカ、ホトケドジョウ、カワバタモロコや、オオタカ、ホタル、ギフチョウなどは、最近までごく身近にいた里山を代表する生き物たちである。そのごくありふれたとされる里山、「海上の森」には、注目すべき植物種が48種、注目すべき動物種が45種を越え、絶滅危惧IB類、II類、準絶滅危惧、危急、希少種などの「レッド・データ・ブック」記載種が生育・生息している。これらの希少な種は従来言われてきた原生林や熱帯のジャングルなど、人がなかなか入っていけない地域にいる珍しい生き物をさすのではなく、秋の七草のフジバカマやキキョウ、昔から人々に親しまれてきたメダカやホタルのような身近な自然に普通に見られた多くの種が「どこにでも分布する」といった理由で失われてきたためである。

2.遷移と撹乱

里山は雑木林、林地(人工林)、草地、田・畑、あぜ道、小川、湿地、ため池などのごくありふれた小さな生態系の集まりでできていることは先に述べたが、これらの植生環境は植物相の遷移のいろいろな段階を含んだ多様な生態系を持っていることでもある。これらは小さな変化を受け入れることができる反面、小さな地域を保全するためには、水系や地形をも含んだ広がりをも含めて保全する考えが必要である。「海上の森」の湿地などの成り立ちを含む地形・水系・植生・生態などの自然特性を十分に理解されぬままに開発が進み、湿地の密度が少なくなった現在では、代償処置としての移植では貴重な種の保全が出来ないのはもちろんのこと、「海上の森」全体を保全しない限り不可能である。

1975年に、木曽川のトンボ池と呼ばれる池がつぶされる代償に、河川敷に素掘りをして池(造成池)を造った。この木曽川堤外河跡湖群(通称トンボ天国)は、その後の保護運動によりそのまま残されたトンボ池を含み4つの湿性遷移の段階が異なる河跡湖(古池、マコモ池、中池、トンボ池)と、新たに掘られた造成池とコンクリート護岸されたため池(公園池)と呼ばれる池により構成されている。この池沼群全体のトンボ相の推移は、造成池が掘られる前の1973年は20種であったのが、1983年に28種、1988年には38種と増えている。1975年にトンボ池18種、古池13種いたのが、いくつかの遷移段階を持つ池の相乗効果により1988年には両池ともに26種に増えている。新しく掘られた造成池では、素掘り後2年目で9種確認されたのが、その後も増え続け1988年には32種も確認された2。トンボ天国全体で13年の間に38種類のトンボがくるようになったのは、元からあった池の遷移が進んでコカナダモやクロモなどの沈水植物、ヒシなどの浮葉植物が繁茂したり,岸辺はマコモやヨシ、ガマなどの抽水植物で岸辺が埋めつくされたり、ヨシ群落からオギ群落に移行する状態、湿原の草原化おこったりしたが、新しい池(造成池)を掘ることにより、いくつかの遷移段階を持つ池沼群になり,多様性が増したためと考えられる。トンボ天国と呼ばれていた1973年には20種類だったのが、現在までに確認された種は44種にのぼる。しかし、多様な遷移段階を持つ池沼群も、1990年代に入り周りの芝生広場などの公園化による手入れがおこなわれたため、水際の水生植物の衰退、周辺の排水の改善による水量の減少、水質の悪化などにより、現在では30種をやや超える程度で推移している3

 里山の生態系の形成にも撹乱・遷移は非常に大切で、そのときどきに応じた大きさや時間の程度の違った改変が起こり、大きな機械ではなく、長い時間をかけて少しずつ、多様な環境をつくり出してきた。人の手による開墾などの開発行為や、植林の手入れも撹乱として位置付けられる。

確かに里山では、田畑の開墾や人の生活などの人為が加わることにより、たくさんの生物が失われてきた。しかし、近年行われているゴルフ場やスキー場などの観光施設やイベント施設などを含む大規模開発により、広い面積を短期間で改変することで失われる生物たちとは比較にならない。この長い時間をかけてつくられた里山は、大規模な開発による改変と違い、その地域における、時間や人為の入り込みの量、そこに棲む生物たちの駆け引きにより独特な生物相をつくりあげ、それによりつくられるいろいろな遷移段階が入り組んだ、その地域特有な里山の生態系を維持している。

3.地域生物相の確立

それぞれの地域における生物の集団としての生態系は、その地域独特な地形、水系、気候などに影響を受けて生息し、遷移の段階に応じて移動・定着する。トンボの成虫は移動能力が強く、適した環境を求めて分布の拡大をはかるが、幼虫は卵から孵化するとその水域からの脱出は困難であるため、水質などの生息環境の悪化により死滅することもある。それゆえ産卵習性を含め、幼虫や成虫の生息環境などへの影響は直接的に受け、環境指標性が高い。

猿投山を含む高地は土岐面形成後に断層による隆起で形成されたものであり、基盤は花崗岩から構成され、砂礫層が地表面を形成する痩地の中に島状に分布している。教科書に出てくる遷移の話では、すべての植生環境はやがて極相林になっていくといわれている。「海上の森」一帯は幾度かのはげ山による表土の流出が起こったと言われているが、もともと地質・母材的に痩悪林地になりやすい。「海上の森」を含む、この地域独特のやせ地を形成する土岐砂磯層は非常に栄養分が少ないため、コナラやアカマツ林くらいでストップすると考えられる。本来ならばツブラジイ・アラカシを主とする照葉樹林を極相とするが、人の手による低木層の除伐などでできた二次林を構成しているため、浅い土壌にも耐えるアベマキがコナラ・クヌギなどに代わって優占している。

もう1つの特徴としてあげられることは一つ一つの湿地の面積は小さく、個々の湿地の寿命は短く、せいぜい100~1,000年程度と推測されるが4、地すべりなどの小さな崩壊が無数におこり、小さな湿地が高密度に存在することによる植物や動物などの移動が保障されていることが重要である。

また非常に崩れやすい花崗岩あるいは砂群層なので、次々に山が崩れ、生態学でいう撹乱が起こり、また新しく遷移が始まる。「海上の森」にはそういう動きが非常にたくさんあり、そのために「海上の森」は非常に複雑で、いろんな生態的環境を持っている。

「自然の状態を伝統的な手法によって管理するのが里山であると考えられる」、「自然に対する積極的な管理と創造を図ることが必要です。」などとした里山に対する間違った理解により、里山は人の手が入ることによってつくられたのだから、人の手を入れることにより管理することができると思い違いをしている。人と自然が長い時間をかけてつくりあげたモザイク状に入り組んだ多様な生息環境は、自然につくり出されたものであり、まねをしてつくり出されるものではない。たとえ似た植生環境をつくり出すことができても、そこに棲む多様な生物相を再現することはできない。

 

II.里山に棲むトンボ

名古屋市東郊に位置し、愛知県瀬戸市及び長久手町の万博予定地を含む尾張平野東部丘陵地帯(丘陵性山地)の里山の各環境に棲むトンボは表1の通りである。この里山は地勢的には標高数十mから400m程度の丘陵地から低山地にあり、トンボの種類の多い地域である。このような地勢から、当然のことながら、沿海の低湿地帯に多い種や、平地の中・大河川を主たる生息地とする種、標高数百m以上の山地急流に産する種は少ないかこれを欠く。この東部丘陵地帯で現在見ることのできる種は70種強で、愛知県の既知定着種89種の約80%に当たる。

本州各地の里山にあっても、種構成は若干異なるところもあるがこの数字に大差ない。

1.里山に存在する水域

里山の深い谷筋上部では、滲出した雨水が徐々に集まり林床の細流となる。細流は水量を増しつつ緩傾斜を流下し、やがて渓流と呼ばれる形態になる。緩傾斜には小湿地や小水溜りを伴うことが多い。渓流の途中には砂防ダムが築かれ滞水し、ため池状になったり、大きい場合には、小規模なダム湖状になったりする。これらの滞水の上端流入部には砂泥の流入により湿地が形成され、遷移が進んだところでは、挺水自然草原化する。渓流は麓に達し、林を出て水田を潤す。

大規模な谷筋には谷戸水田(谷津田)が作られていることが多い。谷頭には後背集水域から集められた水を貯めた湿地か、ため池があり、それらから水は田越し又は側溝を伝って順番に下方の水田に供給される。

不透水層断面からの滲出水で、林内の斜面や、露出した崖の下に湿地が形成される。さらに、里山山脚部にはため池が散在し、渓流から中河川と大きくなった川が流れ、水田や畠が広がる。ヤゴが棲める里山の水域は大凡以上のような姿で存在する。

産卵は普通、種ごとに適した水面またはその周辺で行われる5。止水性種は産卵された場所で生育するが、流水性種は流下して下流で羽化することも多い。源流とか向陽湿地とか特定の環境に固執する種もあるが、多くの種は最も好む場所はあるけれどもそれ以外の場所でも生息できる。時には止水性種が緩流に、あるいはその逆に流水性種が止水に育つ場合もある。一般に羽化したばかりの未熟な成虫は遠近の差はあるが、一時的に水域を離れ、草地や林で摂食し成熟した後、交尾・産卵のため再び水域へ戻ってくる。成虫の生活圏の多様性も大切であるが、それにも増して幼虫の生息に適した水域の有無が狭義の分布を左右する。従って、ある地域のトンボの種類が豊富であることは、その地域の水辺環境が多様性に富んでいることの現れである。

以下、尾張平野東部丘陵地域の里山を例として、いろいろな水域とそこから羽化するトンボの多様性について記す。

2.里山におけるヤゴの生息状況

 里山に存在するいろいろな水域に、どのような種が生息するかを概観する。

1)林内の湿地

林内の細流や細い山道脇には、ミズゴケ、トウゲシバ、キジノオ、ミズギボウシなどが生育する泥状でごく浅く水を保った小湿地が存在する。イヌツゲ、ヒイラギ、タカノツメなどの幼木が疎らに生え、湿地林に覆われた半日陰である。このような湿地の際にある斜面部分に穴をうがってムカシヤンマ成熟幼虫が棲み、5月頃羽化する。若令幼虫は平らな部分でも見ることがあり、湿泥の穴の中で数年の幼虫期間を過ごす典型的な里山林床のトンボである。成虫も林に依存し林から遠く離れることはなく、動作も緩慢で、白く明るい衣服にとまりに来る人懐っこい種でもある。(写真12

2)中・大規模の向陽湿地

主として渓流の塞き止めで生じた滞水上部に生じた湿地や、林内のやや開けた場所に存在する明るい湿地は、大変好適なトンボの生息地である。普遍的ではないが湿地のイトトンボを代表するモートンイトトンボ、湿地のアカトンボの代表ヒメアカネをはじめとし、ハラビロトンボ、シオヤトンボ、シオカラトンボ、ハッチョウトンボや、比較的稀であるがエゾトンボ、ルリボシヤンマなどが産卵し、飛来する成虫の種も多い。

3)小規模向陽湿泥地

ハッチョウトンボが生息する。本種は浅く水を湛え、丈の低い湿性植物が豊富な平坦な湿地に多産するが、砂泥又は粘土質で植生貧困な斜面の裸地に近い湿地状部からも発生する。瀬戸市万博予定地(海上の森南・西地区)では土取りや崩落跡地があちこちに在るためか、むしろ後者の環境に個体数が多い。又、本種は発生地から離れないと一般的に解説されているが、林を縫って複数の♀が90m離れた草地に移動している例や発生地から500m離れた造成地の水溜りで2♂を採集した例など、かなりの距離の移動をしばしば見ている。形成過程の湿地へ向かって積極的に移動拡散する能力を有するものと考えられる。

4)林内の小水溜り

林内の窪地に小水溜りが存在することがある。水底には落葉が堆積し腐葉土化している。半日陰の泥土に接泥産卵するサラサヤンマ、ヤブヤンマ、タカネトンボの幼虫がかなりの密度で生息していることがある。サラサヤンマは林内や池畔の湿地も産卵場所である。(写真3

5)

里山の林内、林縁、山脚部などいろいろな地形の場所に、自然、滞水、築造など成因を異にする大小の池が存在する。それぞれの池は構造、池自体と周囲の植生、水質など各々特性を持っている。

池は止水性トンボの一番の拠り所で、池の特性に応じた生息状況が見られる。

ア)  林内のうっ閉された池

岸周囲に樹木が迫り、枝が水面を覆い、岸が直立し、池底は深く固く、その上に落葉が溜まった、岸辺の草本(抽水植物)、水草(沈水植物)を欠く池にはトンボは少ない。

このような池には、日陰で産卵するタカネトンボ、コシアキトンボ、水面に張り出した枝に産卵するオオアオイトトンボなど限られた種しか生息しない。クロスジギンヤンマはギンヤンマとは習性を異にし、このような暗い池にも飛来する。

イ)  開けた池

開けた場所にあり日がよく当たる池でも、コンクリート護岸が大部分であったり、土の岸でも直立して高く、丈の高いヨシ、マコモ群落だけが優占し、植生の多様性にも乏しい池には殆どトンボは寄りつかない。オオヤマトンボ、コシアキトンボ程度である。

砂泥底が池の中心部に向かってなだらかに続き、抽水、浮葉、沈水植物が連続的に生じ、陸上部も緩傾斜で、草地、潅木、樹林と順序よく並び岸は程良い空間となっているような環境が最も望ましい。池畔に湿地を伴えばさらに生息種は増える。このような池では30種以上の成虫を見ることができる。前記の瀬戸市地内の最良の池では39種、同じく長久手町地内の池では45種の成虫が記録されている。渓流のセキ止めで生じたダム湖状の帯水域の岸では、大湖と同様に、流水性種であるキイロサナエ、オジロサナエが生育羽化する。(口絵写真B

6)水田

規則性のある一時的な水溜りである水田からは、池に生息する10種程度の種が主に発生する。廃田初期には湿地性の数種が一時的に発生する。谷戸のアカネ類の動態については田口6、上田7に詳しい。

7)林内の細流

渓流に発達する以前の原流部の砂礫底の細流にはハネビロエゾトンボが特異的に生息する。近縁のエゾトンボと同所的に明るい空間を翔ぶこともあるが、♂は薄暗い林内の細流上を行きつ戻りつして探雌飛翔していることが多い。(口絵写真A

8)  渓流

大礫の多い急流とか、いかにも貧栄養的なあまりにも清冽な礫底には幼虫が少ない。砂泥底の上に落葉が溜まっているやや緩流の淵の餌が多いポイントに、幼虫は多く生息する。ニシカワトンボ、ダビドサナエ、オジロサナエ、ヤマサナエ、ミルンヤンマ、コシボソヤンマ、オニヤンマ幼虫が生息し、成虫はニシカワトンボが最も多く、オジロサナエは幼虫の多さに比して成虫を見る機会は少ない。ミルンヤンマはより上流に、コシボソヤンマはより下流に棲み分けている。

9)中流

渓流が里山を出はずれる辺りから、山脚部の耕作地帯を川幅を広げながら緩流となって流れる部分、或は上手の地域からの河川が山裾に沿って流れ、里山からの何本もの渓流がこれに合流するような地点である。

ハグロトンボや近年丘陵地から姿を消しつつあるオオカワトンボ、ヤマサナエの近似種でより下流の緩流に棲むキイロサナエ、コオニヤンマなどが加わってくる。特筆すべきは、8)渓流域で掲げたすべての種の幼虫が成長過程で流下して、幼虫密度の最も高いのは実はこの中流域であることである。この地帯で羽化した成虫は遡上し、上流で産卵、このサイクルを繰り返している。(写真4

10)水田側構など

谷津田環境のわずかな流水部でも各種のヤゴが育ち、ミヤマアカネはその典型である。オニヤンマも湧水や流水に非常に幅広く適応し、里山の優占種である。

3.成虫の棲み場所

羽化直後の成虫は、羽化ポイントから周りの草地や林縁へ、まだ光沢の強い柔らかな翅を弱々しく羽ばたかせ移動し、体がしっかりするのを待つ。成虫に必要な生活空間の第一は、この羽化直後の柔弱な時期を過ごすための水辺周辺の植生である。次いで、アオイトトンボ科、サナエトンボ科、ヤンマ科、トンボ科アカネ属などは林で、イトトンボ科、トンボ科の多くの種などは草原や潅木帯で双翅目などを捕食し、成熟していく。例えば初夏林縁の日溜り空地でフタスジサナエの集団が、夏季林内でコノシメトンボ、マイコアカネ、ノシメトンボ、マユタテアカネなどアカネ類多種が見られる。イトトンボ科は水辺至近の草木に拠って成熟するが、周知のようにアキアカネは夏季山地に、遠く移動して成熟する。種により要する時期はまちまちであるが、やがて成熟した成虫は水域へ戻り生殖活動を行う。

トンボの生活の本拠は水辺であるが、羽化直後の休息の場と、成熟のための食の場としての水辺後背の草地、林の存在は重要である。

以上述べたように里山には、トンボが多産し、自然観察会などで漫然と山道を歩くだけでも、或る程度トンボを見ることはできる。山道でよく見かけるのは、初夏では明るい路面に好んで静止するTrigomphus属の小型のサナエトンボ、道沿いの潅木上に多いヤマサナエ、やや開けた草地を好むダビドサナエ、林道はたいてい渓流に沿っているので、渓流で生まれ遠くへは移動しないCalopteryx属のカワトンボなどである。

盛夏には、路上を往復飛行するオニヤンマが普通であり、やや高所を旋回している金緑色の未熟のタカネトンボを見ることもある。秋には、草本や樹上にアカトンボ類を多く見る。真っ赤なアカトンボ類が秋に目立つので、トンボの季節は秋だと一般に思い込まれているが、実際には多くのアカトンボは7月上旬頃にすでに羽化し林間に潜んでいる。

しかし、さらに詳しくトンボを探索しようとするならば、やはりそのトンボが生息する個々の水辺を尋ねなければならない。

 

III.里山のトンボの観察

ため池は止水性トンボの重要な発生(ヤゴが育ち羽化するの意)源で、たいていは道がついていて近づくことが出来る。自然的な岸構造で植生豊かな池であれば表1に示すようにいろいろなトンボが発生し、湿地を付帯していればさらに多くの種を見ることが出来る。

岸の構造はひとつの池でも一様でなく、一般に適度の植生がある部分にトンボは集まっている。したがって可能な限り池の全周を踏査する。サナエトンボ類は水面すれすれの場所で羽化するためちょっとした波でも水没し、羽化失敗するので水面に踏み込む場合は充分気をつけなければならない。

ヨツボシトンボ、ショウジョウトンボは茎の先端に止まり、クロスジギンヤンマやオオヤマトンボは岸沿いに巡回飛行し、メスを捕らえる機会をうかがっている。初夏から秋にかけてイトトンボ類やヤンマ類は抽水植物や浮葉植物などの組織に産卵し、イトトンボ類が茎につかまったまま水中まで降りて行き潜水産卵を続ける様子も良く見られる。秋季多数のアカトンボ類が、雌雄連結しながら空中から卵をばら撒いたり、水面や泥に尾端を打ちつけ産み落としたり、各々の種固有の方法で産卵している。

樹木でうつ閉された林内の池は、一般にトンボにとって好ましい環境ではなく、飛来する種は限られるが、そのような池でも水面に張り出した樹木の枝に真夜中でもオオアオイトトンボが産卵している。

池や湿地の草本や岸の砂地や石、護岸がしてあればその壁面を注意深く探すとヤゴからトンボが羽化した抜け殻(脱殻または羽化殻)を見つけることができる。時にはずいぶん離れた樹上で見つかることもある。脱殻はヤゴの終令の特徴をそのまま残しており、標本として終令幼虫と同等の価値を有する。(写真5

幼虫採集はなかなか億劫なものであるが、脱殻探しはむしろ楽しい。セミの抜け殻探しと同じ要領である。

流れで産卵や羽化を観察できるチャンスは止水と比べ少なく難しい。ミルンヤンマやコシボソヤンマは樹木に覆われた薄暗い渓流で産卵し、この様な場所には道はなく、小枝をかきわけ流れの中を歩かねばならない。(写真6

林床の水層はほとんどない泥土や、ほんのちょっとした水溜りからムカシヤンマやサラサヤンマは発生する。路上ではしばしば目撃されるこれらの種でも、その発生源は林内の思いもよらないこのような環境である。通り一遍のアセスのような調査・観察では奥深い自然の姿を究めることはできない。

成虫を見るには、一般に快晴無風の昼過ぎまでがよい。しかし、たそがれ飛翔性のヤンマ類は、昼間は林内で静止し、早朝と夕暮れに現れるなど、種によってあるいは産卵など行動によって、適した時間帯は異なるので、どの種のどのような生態を見たいのか目的意識をもって観察するのが望ましい。

 

IV.里山のホットスポット(危機地帯)としての海上の森

1.「海上の森」の重要性

愛知県全体のわずか0.1%のこの地域に、県内の在来植物2,200種の約半分にあたる1,077種が、鳥類では愛知県全体で376種確認されているうち、海・干潟をもたないのに約1/3133種が、昆虫類は愛知県の記録種(6,063)の約1/3を越える2,301種以上が海上の森で確認されている。注目すべき植物種が48種、動物種が45種、保全上重要性の高いエリアが17生育地確認されていることからも「海上の森」の重要性は容易に理解できる。

 「海上の森」の昆虫が2,301種類もいるというのは、このようなリストが出た調査の中ではトップクラスだと思われる。その原因の1つに、非常に精密な調査が行なわれたということもあるが、確認された2,301種のリストには、種名が確定されていないもの(例えばトビムシ類が8種類区別されている)が数十種書かれているが、それらは「・・属の1種」として確認種リストに入っていない。さらに昆虫では種レベルまで特定できない種が200種以上あり、クモ類が194種、今回明らかにされていないが土壌性動物のダニなど、底辺を支える小動物の種の多さである。

そういう土壊性の動物はまだあまり調べられておらず、現在確認されている既知種の数を見ると、例えばミズトビムシ科では90%以上が分かっているが、ヒメトビムシ科は、半分以上はまだ分かっていない。種の多様性を維持するためには,生態系の頂点としてのオオタカの保護も重要であるが、そういう生態系の底辺を占める種がむしろ非常に大切である。

2.ホットスポットとしての里山

1)水系の豊富さ

土地の造成や改変が自然に与える影響として表れた例として、「海上の森」の中に「瀬戸の大正池」として親しまれた砂防ダムがある。このダムの水抜きが、1998年の秋に行われたが、下流の北海上川の川底が押しながされてきた土砂で埋められ、水生昆虫の生息に大きく影響を与えた。八田らの調査では、川底の石に付く付着藻類を食べるカゲロウ類や、石の裏などに潜み小昆虫類などを食べるカワゲラ類が壊滅状態になっていることがわかった8。このことは、「海上の森」の水系を分断しておこなう初期の万博計画(新住宅市街地開発構想)による土地の造成が、如何に下流部を自然保全地域として残しても、中央の部分を開発によって大きく改変すれば、川底に棲む水生昆虫の生息に影響を与えることの一例であろう。その後、2000年の9月に起こった豪雨により、「瀬戸の大正池」をはじめ、「海上の森」の小河川は砂により埋められた。

それは水生昆虫などを餌にしている鳥などの小動物に影響を与え、さらにオオタカなどの上位種の生息までをも危うくする可能性も含まれている。自然の保全は部分的な貴重種が生息する地域のみの保全ではなく、大きなその生態系がセットされた地域にまで広げて考えなければならない。かつて里山の代表種として有名なトキの日本での絶滅は、現在中国から借りてきて人工ふ化をさせているように、種を維持できない数になっては、如何に飼育などによって種の維持を図っても、あるいは自然に戻す環境がなくなってからでは、もはや自然の回復は望めない。

水系の豊富さは同時に、その地域の地質、地形、植生等、水域を涵養する母体の環境の多様性を意味することでもあり、トンボが指標性に優れている所以でもある。トンボは産卵場所や幼虫の生息場所,成虫の行動場所が多様性に富み,環境を捉える指標として有効な種である。「海上の森」では,67種類が確認9,10されており,環境の多様性が高いことを示している。

1997年の3月より11月までに調査した女子大学のゼミ学生による調査結果と、愛知県による1991年より数ヵ年におよぶ万博関連の調査、及び市民の自然保護団体による調査をトンボの確認種数により比較してみると、各グループともに47種を確認している。全体を合わせてみると62種類であるが,この3つの調査では同じ大きさの円が重なり合っている種、すなわち3調査ともに確認された種は34種であった。このことは、初めて網を持った女子大生の下手な採集人の調査に対して、事業アセスと称する大金を使って採集の専門家を動員したおおがかりな県による調査で採集できなかったトンボが10種もいたことになる。如何に精度の高い調査をおこなったとしても、年数回の調査ではあくまで広域的な広がりの一瞬を点でとらえているにすぎず、初めて網を持った市民がおこなう自然観察会などのおこなう線あるいは面で継続的にとらえる調査を無視することはできない。

)低山地における山地型と丘陵型との違い

数百mの標高を有する山地からなだらかの続く標高100〜400mほどの樹林帯である里山と、比較的小規模の二次林と耕作地がモザイク状に混在する標高数十mから150m位までの里山山脚部の丘陵地帯は連続的に連なり区分し難いが、この地勢の違いは、内蔵する水域環境の違いに繋がる。名古屋市東部丘陵地帯にあっては、前者は瀬戸市東南部(海上の森)、後者は計画変更により万博主会場とされた愛知青少年公園を含む長久手町丘陵地帯である。

前者の低山帯の流水系は行程が長く多様性に富み、ダビドサナエを含む流水性種が種数、量ともに多い。林内斜面湿地も多くムカシヤンマの多産がこれを証明する。その反面、崩落や採土、流れの塞き止めでできた比較的新しい半端人工的とも言える止水域には、古い池に棲むイトトンボ類が貧弱である。

一方後者の丘陵地は、林が浅いため流水系が比較的短く小規模で原流域のハネビロエゾトンボは多産するが、ほかの流水性種は少ない。山地性のダビドサナエ、オジロサナエはここではもう産しない。ムカシヤンマを育むだけの保水性の高い林床斜面湿地は無く、本種の記録は極めて稀である。平坦な向陽湿地は前者より富み、エゾトンボは前者を凌ぐ。ため池は多く、低湿地に多いベニイトトンボを始めイトトンボ類ははるかに豊富である。山地性のルリボシヤンマ、オオルリボシヤンマの最先端の産地である。両種は樹林を離れて拡散することはできないようで、かつては生育していた適地が近傍に残存していても、林で繋がっていなければ見ることは無い。

里山山脚部から隣接する平地にかけて存在するため池や小河川に棲む種が、開発による生息場所の喪失や改変、水質汚染などにより最も影響を受けている。緩流に棲むホンサナエは絶滅し、オオカワトンボ、ハグロトンボ、キイロサナエ、オナガサナエ、アオサナエは激減した。ため池のマダラナニワトンボも激減し、急拠RDBの絶滅危惧T類に指定された。

 

V.まとめ

以上、東部丘陵地帯の里山の各水域とそこに生息するトンボを概観してきた。表Tに示した種が生息することは、それに対応する水域が存在することを示す。モートンイトトンボ、ムカシヤンマ、サラサヤンマ、エゾトンボ、ハネビロエゾトンボ、ルリボシヤンマ、コシボソヤンマ、ミヤマアカネ、マダラナニワトンボなど適応の幅が狭い各種の存在は、かなり環境が多様性に富むことを示唆するが、普通種といえども多数の種が存在することは、総合的に里山の環境が良好であると評価できる。万博による破壊が当初懸念されていた「海上の森」では2000年現在67種が記録されており非常に自然状態が優れた里山である。

 

表1 尾張平野東部丘陵地帯の里山のヤゴが生息する水域と生息種

 

水域の種類       左の水域をヤゴの主要生息場所とする種

 

湿

 

 

 

林内半日陰

ムカシヤンマ、サラサヤンマ

中・大規模向陽

モートンイトトンボ、ルリボシヤンマ、エゾトンボ、ハラビロトンボ、シオヤトンボ、ハッチョウトンボ、ヒメアカネ

小規模向陽

ハッチョウトンボ

 

 

 

 

 

止 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

林内水溜り

サラサヤンマ、ヤブヤンマ、タカネトンボ

林内うっ閉された池

オオアオイトトンボ、ヤブヤンマ、クロスジギンヤンマ、タカネトンボ、コシアキトンボ

植生乏しい池

オオヤマトンボ、コシアキトンボ

 

 

植生豊かな池

ホソミイトトンボ、キイトトンボ、ベニイトトンボ、アジアイトトンボ、アオモンイトトンボ、クロイトトンボ、セスジイトトンボ、ムスジイトトンボ、オツネントンボ、ホソミオツネントンボ、アオイトトンボ、オオアオイトトンボ、フタスジサナエ、オグマサナエ、タベサナエ、ウチワヤンマ、アオヤンマ、オオルリボシヤンマ、マルタンヤンマ、ギンヤンマ、クロスジギンヤンマ、トラフトンボ、シオカラトンボ、オオシオカラトンボ、ヨツボシトンボ、ショウジョウトンボ、コフキトンボ、アキアカネ、マイコアカネ、マユタテアカネ、リスアカネ、ノシメトンボ、コノシメトンボ、マダラナニワトンボ、ネキトンボ、キトンボ、ウスバキトンボ、コシアキトンボ、チョウトンボ

水田

モートンイトトンボ、カトリヤンマ、シオカラトンボ、シオヤトンボ、オオシオカラトンボ、ウスバキトンボ、アキアカネ、ナツアカネ

廃田初期

モートンイトトンボ、ハラビロトンボ、シオヤトンボ、ハッチョウトンボ、ヒメアカネ

 

 

 

 

 

林内細流

ニシカワトンボ、ミルンヤンマ、オニヤンマ、ハネビロエゾトンボ

渓流

ニシカワトンボ、ヤマサナエ、ダビドサナエ、オジロサナエ、ミルンヤンマ、コシボソヤンマ、オニヤンマ

中流

ハグロトンボ、オオカワトンボ、ヤマサナエ、キロサナエ、ダビドサナエ、オジロサナエ、アオサナエ、オナガサナエ、コオニヤンマ、コシボソヤンマ、オニヤンマ、コヤマトンボ

水田側溝などの細流

ヤマサナエ、オニヤンマ、ミヤマアカネ

文献

1)八田耕吉(1998)東海地方の里山の自然誌−万博アセスに生態学的視野を−.科学68620627

2)岐阜県笠松町(1989)「木曽川トンボ天国の自然」笠松中央公民館.

3)安藤尚(1999)濃尾平野木曽川堤外の造成池の8月のトンボ17年.佳香蝶51199):3336

4)菊地隆夫ほか(1991)集伊勢湾植物群の自然保護.世界自然保護基金に本委員会.

5)高崎保郎(2001)トンボ類「ため池の自然(浜島繁隆他編)」pp125140.信山社サイテック.

6)田口正男(1997)「トンボの里−アカトンボに見る谷戸の自然−」信山社.

7)上田哲行(1998)ため池のトンボ群集・水田のトンボ群集「水辺の環境保全(江崎保男・田中哲夫編)」pp173393110.朝倉書店.

8)八田耕吉(2000)昆虫から見た海上の森の生態系、pp85106「日本人の忘れもの−海上の森はなぜ貴重か?−」名古屋リプリント.

9)高崎保郎(1998)愛知県瀬戸市万博予定地のトンボ相.佳香蝶50198):33−41

10)高崎保郎(2000)愛知県瀬戸市および長久手町万博予定地のトンボ相(第2報).佳香蝶52201):110

自然史編纂委員会(1990)「東海の自然史」(財)東海財団.

 

 

写真説明

写真1 ムカシヤンマ幼虫が生息する湿地、ミズギボウシ群落が見られる

写真2 地表直上で羽化するムカシヤンマ♀

写真3 林床上を低く探雌飛翔するサラサヤンマ

写真4 流下した中流で羽化したばかりのダビドサナエ

写真5 林内小水溜りから羽化したサラサヤンマの羽化殻

写真6 渓流に横たわる枯木に産卵するコシボソヤンマ

 

口絵写真A 林内細流上を探雌飛翔するハネビロエゾトンボ

口絵写真B 砂防ダム湖畔で羽化するキイロサナエ