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母衣衆
[HorosyuHoro's]

黒母衣衆【くろほろしゅう】
{Kurohorosyu/Kurohoro’s/Black Knights/Order of the Black Mantelet}

赤母衣衆【あかほろしゅう】
{Akahorosyu/Akahoro’s/Crimson Guards/Order of the Red Mantelet}


1)概略

黒母衣衆とは、織田信長に近侍する家臣(馬廻、小姓)から選り抜かれた二つの集団の一方の名称であり、もう一方が赤母衣衆である。
定数は黒赤共に10名。欠員は補充された。
信長の、戦場における(とも限らないが)側近中の側近であり、のちに大名となる者も含まれている。
選抜された時期は、永禄2年(1559)以前と見られ、その後、何人かの入れ替わりがあったようである。

母衣(ほろ。幌、保侶、武羅とも書く)とは、日本中世の軍装品である。
背中に装備する布帛(ふはく)で、存在誇示と流れ矢を 避ける効果を与えられた。
初期の頃は、肩から背中に垂らされた、西欧の騎士に連想されるマントのような形状であり、または端を腰へ結び風を受けて膨らませもした。
平安時代末より大型化、装飾化が進み、室町頃から風をはらませた形状を固定する為に母衣串を入れるようになっていく。
主に使番(伝令のコト。軍使とも云う)が用いるので、母衣衆とはその代名詞として使われることもある。
だが、両母衣衆が徒の使番で無いであろうことは想像でき、この場合は上位者のシンボルとしての性質を与えられていたと思われる。

2)構成人員

母衣衆の名は、『当代記』『甫庵信長記』『武家事紀』などに登場するが、『高木文書』(美濃の国人、高木氏の子孫の伝える文書群)には、母衣衆の名簿が載っているそうである。

 信長黒ほろ之衆     よき者とゑらひ出
                    河尻与兵衛
                 後中川八郎右衛門と云
                    織田駿河守
                 後陸奥守ト云
                    佐々内蔵助
                 後津田隼人正ト云
                    織田左馬允
                    毛利新助
                    平出久左衛門
                    伊藤武兵衛
                    水野帯刀
                    松岡九郎次郎
                    生駒正ノ助
                 後に入ル衆
                    蜂屋兵庫
                    野々村三十郎
 同赤武羅之衆
                 後羽柴筑前其後加賀大納言と云
                    前田又左衛門
                    浅井新八
                 津田隼人正弟後木下雅楽助と云
                    織田薩摩守
                 武兵衛弟
                    伊藤清蔵
                    岩室長門守
                    山口飛騨守
                 加賀大納言舎弟後藤右衛門と云
                    佐脇藤八
                    毛利河内守
                    飯尾茂助
                    長谷川橋助
 赤ほろ衆かけて後ニ入る衆
                    福富平左衛門
                 後原田備中守ト云
                    塙九郎左衛門
                    渥美刑部丞
                 後刑部卿法印と云
                    金森五郎八
                    猪子次左衛門
                    織田越前守
                    加藤弥三郎
 右渥美刑部丞入道會干出之也

これを書き出した渥美刑部丞の名前が載っている―その割に他の史料では渥美刑部丞の名は見当たらないので、この文書の信憑性を疑う向きもあるが、その他不審な点は見当たらない。これが事実であり過去の栄誉を書き残そうとしたのか、それとも栄誉に与かろうと自分の名前を書き加えたか。
この文書の書かれた時期については、「加賀大納言」と附記のあることから慶長元年(1596)以降と推測される。
実際の選抜の時期については、岩室長門守が永禄4年(1561)6月に戦死、前田又左衛門(前田利家)は永禄2年(1559)頃から同4年5月まで勘当されているので、永禄2年以前と考えられる。
後に欠員などで「後に入ル衆」が加わったようである。

3)赤黒の別

谷口克広氏は、黒母衣衆は馬廻衆から、赤母衣衆は小姓衆から選ばれたのではないかと推測している。
馬廻とは、戦場で主君の本陣を構成する、戦闘の他に護衛・伝令といった性格を与えられた家臣である。一家を成し数百の郎等を率いた者から、単騎の士までいる。
小姓とは、平時には主君の身の回りの世話をし、戦時には馬廻と共に本陣を構成する、常に主君の側に在った家臣である。大抵の場合、馬廻や有力武将の子弟、特に次男以下である事が多い。
母衣衆に名を連ねる二組の兄弟、中川八郎右衛門・津田隼人正と木下雅楽助の三兄弟、伊藤武兵衛と伊藤清蔵の兄弟は、どちらも兄が黒母衣衆に、弟が赤母衣衆に振り分けられている。
また、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いにおいて、清洲城から駆け出した信長の後を追い掛けた小姓衆、岩室長門守・山口飛騨守・佐脇藤八(前田利家弟)・長谷川橋助の4人が全て赤母衣衆に属している。
このことが、谷口氏の推論の元となっている。

4)母衣衆の変遷

 『当代記』には、永禄12年の記事に、「この頃、信長馬廻の中、戦功の衆二十人、母衣衆に定められる」という書き出しの一文がある。

 佐々内蔵助・毛利新左衛門・河尻肥前守与兵衛事・生駒勝介・水野帯刀左衛門・津田左馬介・蜂屋兵庫頭・中河八郎左衛門・中島主水・松岡九郎次郎、是黒幌衆也、織田越前守・前田又左衛門・飯尾隠岐守・福富平左衛門・原田備中守塙九郎左衛門事・黒田次左衛門・毛利河内守・野々村三十郎・猪子内匠助、此九人赤幌也、廿人に一人不足

初期のメンバーから幾人か入れ替わった結果が、この姿か。
この中には、『高木文書』には乗っていなかった人物が二人いる。かつて犬山の織田信清の家臣だった中島主水(中島主水正)と、三河出身で馬廻の黒田次左衛門(黒田次右衛門)。

そして、『信長公記』にある永禄12年(1569)の伊勢大河内城攻めに参加した諸将の配置を見ると、「尺限(柵きわ)廻番衆」には、母衣衆のメンバーが入っている(以下は池田家本版)。

菅屋九右衛門・塙九郎左衛門・前田又左衛門・中川八郎右衛門・木下雅楽介・福富平左衛門・松岡九郎二郎・生駒平左衛門・河尻与兵衛・湯浅甚介村井新四郎村井作右衛門中川金右衛門佐久間弥太郎・毛利新介・毛利河内・生駒勝介・神戸賀介荒川新八猪子賀介野々村主水山田弥大郎滝川彦右衛門山田左衛門尉・佐脇藤八・長谷川橋介・賀(加)藤弥三郎・山口飛騨

28名中約半数が母衣衆として書き出されていた者である。だが、ここには母衣衆であるとの記述は見当たらず、続く記述が、

信長御座所御番の事、御馬廻・御小姓衆・御弓の衆・鉄炮衆に仰付けられ候なり。

とあることから、普通の馬廻衆とは別の性格を与えられていたと考えられる。

因みに、母衣衆の内、佐々と蜂屋は、馬廻から昇格したのか四方を囲む寄せ手諸将に混ざっている。

5)各人の経歴

用例:
(高木文書での)名前【読み】
―文書等に見られる実際の名前【読み】生没年。幼名、通称、官位、前名など。
略歴

<黒母衣衆>

河尻与兵衛【かわじり よへえ】
−河尻秀隆【かわじり ひでたか】1527?〜1582。与兵衛。
愛知郡岩崎村の出身という。早くから信秀に仕える。
永禄元年(1558)、信長の弟信勝を誘殺した時、命を受けて刀を振るったという。
永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦い、同年8月堂洞城攻めなどに参加。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。
その後しばらくは、馬廻兼小部隊指揮官を務める。
天正に入り、信忠軍団が形成されるとこれに属し、東濃の押えを任される。
天正10年(1582)、武田攻めでは、主力となった信忠の補佐役として、信長から幾度と軽挙を抑えるよう文書を受けている。
武田氏滅亡後、甲斐一国を拝領。だが本能寺の変に際し、蜂起した武田旧臣により殺された。

織田駿河守【おだ するがのかみ】
−中川重政【なかがわ しげまさ】生没年不詳。八郎右衛門。前名織田駿河守忠政。
永禄11年(1568)の信長上洛後、京畿の行政担当官の一人として、木下秀吉や明智光秀、丹羽長秀らと組んで仕事にあたる。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。この頃はまだ、軍事面での身分としては馬廻のようである。
元亀元年(1570)には、部将(部隊指揮官)に昇格、近江内に所領を受ける。
だが、柴田勝家との複雑に入り組んだ知行地・権益争いの結果、弟津田盛月が勝家の代官を斬り、兄弟共々改易されたという。
剃髪し家康の元で三方が原の戦いに参加。一年後信長に召喚されたという。
本能寺の変後、信雄に仕えたか、小牧陣において犬山城に置かれ、池田恒興に攻略された。

佐々内蔵助【さっさ くらのすけ】
−佐々成政【さっさ なりまさ】?〜1588。内蔵助、陸奥守、侍従。
尾張春日井郡比良村の人。弘治2年(1556)8月、稲生の戦いで次兄孫介が討死、永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いでは長兄隼人正が討死している。上洛までの身分としては、比良城をを本拠にする在地領主にして、信長の馬廻・小部隊指揮官。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めでは、尺限廻番衆ではなく、柴田勝家らと共に東側の攻め口を受け持っている。
元亀元年(1570)6月、小谷より退却の途、簗田広正、中条将監とともに殿を務める。
天正3年(1575)5月、長篠の戦いでは、鉄炮奉行を務めている。
同年、越前一向一揆平定後、前田利家・不破光治と三人で越前二郡(今立・南条)を相給で与えられ府中城に入る。彼ら三人は「府中三人衆」と呼ばれた。
その後、柴田勝家指揮下の「越前衆」として北陸方面軍を形成、加賀の一向一揆、上杉家攻略を担当する。
天正9年(1581)2月、越中一国を与えられる。
天正10年(1582)6月、松倉城攻囲中に本能寺の変が発生、攻囲を解く。成政は越中に押えとしておかれ、勝家のみ弔い合戦に向かう。
清洲会議では近江北郡に新領を得るにとどまる。
天正12年(1584)、一時秀吉と同盟するが後敵対、加賀の前田利家を攻める。また上杉家とも敵対し、両面作戦を強いられていた。
同年12月、佐良峠を越え信濃経由で家康に面会するも不首尾に終わり、加賀より撤退。
天正13年(1585)8月、秀吉本軍が討伐を開始し、抵抗空しく敗走、降伏した。生命は助けられ、新川郡のみ安堵された。
天正15年(1587)、九州陣に参加、平定後肥後一国を与えられる。隈本在城。
強引な統治方法に国衆の反発を買い蜂起が続発、救援により鎮定されるが、領地は没収。
謝罪のため大坂に向かうが尼崎で止められ、幽居。
天正16年(1588)閏5月14日、秀吉の命により自害。

織田左馬允【おだ さまのじょう】
−津田盛月【つだ もりつき】?〜1593。前名織田左馬允。四郎左衛門、隼人正。
中川重政の弟。
永禄11年(1568)の信長上洛後、本圀寺に置かれ将軍義昭を護衛、三好三人衆と戦う。
元亀元年(1570)5月、兄重政の補佐として安土に在城。
ところが、柴田勝家と領地を巡りいさかいが起こり、盛月は勝家の代官を斬り、兄弟ともども改易される。
後、秀吉に召され、名を変えて仕える。
天正12年(1584)4月、小牧陣に従軍、家康との講和・縁談に蜂須賀正勝とともにあたるという。
九州陣にも参加、のち北条対策に従事。
文録2年(1593)、伏見にて没。

毛利新助【もうり しんすけ】
−毛利良勝【もうり よしかつ】?〜1582。新助、新介、新左衛門。
永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いにて、今川義元の首をとる。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。
天正10年(1582)、甲信遠征に従軍、諏訪在陣時、信長の他の代表的側近達と共に興福寺大乗院より贈品を受けている。
信長上洛以後は、馬廻としてだけでなく、文書の発給、信長判物の副状など、吏僚的役割をこなしている。
天正10年(1582)6月2日、二条御所で信忠とともに討死にした。

平出久左衛門【ひらで きゅうざえもん】
−平井久右衛門【ひらい きゅうえもん】生没年不詳。
馬廻、弓衆。
永禄初年ごろから、弓衆として信長に仕える。
弓衆の統率者としてだけでなく、奉行衆としても活躍、天正10年(1582)、本能寺の変で延引となるが、伊勢大神宮の遷宮の奉行を務めている。
その後の消息は不明。

伊藤武兵衛【いとう ぶへえ】
−伊東武兵衛【いとう ぶへえ】?〜1569。夫兵衛。
相模出身だが、尾張に移り、信長に召し出されるという。
天文年間7月18日の盆踊りにて一役演じている。
その後、坂井迫道という人物を斬って出奔、今川氏に仕えるという。
永禄12年(1569)、掛川天王山の戦いで家康軍と戦い、椋原次左衛門に討たれる。

水野帯刀【みずの たてわき】
−水野帯刀左衛門【みずの たてわきざえもん】生没年不詳。
刈屋の水野氏の一族か。
永禄3年(1560)5月、今川への備えで、丹下の砦に入れ置かれる。
翌永禄4年(1561)5月、軽海の戦いに参加。その後は史料に現われない。

松岡九郎次郎【まつおか くろうじろう】
−松岡九郎二郎【まつおか くろうじろう】生没年不詳。
馬廻として軽海の戦いなどに参加。
永禄12年(1569)8月、伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。
本能寺の変後は秀吉に仕え、小牧陣の時、淀城の留守居を務めている。

生駒正ノ助【いこま しょうのすけ】
−生駒勝介【いこま しょうすけ】生没年不詳。庄之助とも。
初めは犬山の織田信清の臣、永禄元年(1558)7月、信清に従い浮野の戦いに功。
その後信長に転仕。
永禄12年(1569)8月、伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務めている。

<黒母衣衆追加衆>

蜂屋兵庫【はちや ひょうご】
−蜂屋頼隆【はちや よりたか】?〜1589。兵庫頭、出羽守。侍従。
美濃出身という。早い時期から信長に仕える。
永禄年間は馬廻として仕える。
永禄11年(1568)の信長上洛時には、部将として一隊を指揮している。
上洛後は、柴田勝家・森可成・坂井政尚とともに京畿の政務に携わっている。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めでは東の攻め手を受け持っている。
その後、数々の戦陣に従事するが、政務に就くことは少なくなり、同僚が出世して行く中、一部隊指揮官としての地位にとどまっていた。
天正8年(1580)8月の佐久間父子追放後、信盛の持っていた和泉国の支配権を与えられる。岸和田城にて和泉衆を掌握。
天正10年(1582)5月、信長三男神戸信孝を総大将に四国遠征軍が編成されると、丹羽長秀・津田信澄とともに副将として付けられる。
本能寺の変時は岸和田に在城、東上してきた秀吉軍に合流し、山崎の戦いに参加。
その後は秀吉に組し、賤ヶ岳の戦い後、越前敦賀郡に転封。
佐々成政攻め、九州陣に従軍。
天正17年(1589)9月25日没。継嗣はなく、蜂屋家は断絶。

野々村三十郎【ののむら さんじゅうろう】
−野々村正成【ののむら まさなり】?〜1582。三十郎、幸久。
美濃出身で、はじめ斎藤氏に仕え、軽海の戦いに参加、織田方の織田信益を討ち取ったという。
その後信長に仕え、馬廻。
天正3年(1575)5月、長篠の戦いでは鉄炮隊を指揮。
吏僚も兼ね、他の吏僚役の馬廻とともに携わっていた。
本能寺の変では、二条御所に駆け込み、光秀軍と戦って討死にした。

<赤母衣衆>

前田又左衛門【まえだ またざえもん】
−前田利家【まえだ としいえ】1538〜1599。幼名犬千代。孫四郎、又左衛門。羽柴筑前守。右少将、右中将、参議、中納言、大納言。
尾張海東郡荒子城主前田利昌の四男。
14才の時、信長に仕えるという。
永禄2年(1559)6月、信長の同朋衆十阿弥を斬り、勘当される。
永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いで首級を3つあげるが勘気は解かれず、翌年、森部の戦いの活躍で赦された。
永禄12年(1569)8月、伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。この帰陣直後、長兄利久が継いでいた家督を利家に譲るよう命ぜられる。
永禄11年(1568)の上洛から、天正3年(1575)の間は、馬廻・小部隊指揮官として活躍する。
天正3年(1575)9月、越前一向一揆平定後、佐々成政・不破光治とともに越前二郡(今立・南条)を与えられる。府中城にいれられ、「府中三人衆」と呼ばれた。この三人は相給知行で、その任務は、越前の大分を任され、北陸方面の軍事指揮権を与えられた柴田勝家の目付けである。
天正8年(1580)11月中には、加賀を平定。次いで能登・越中の攻略を進め、国衆を従わせた。
天正9年(1581)10月、能登一国が利家に与えられ、鹿島半島を与えられていた長連竜をそのまま与力とする。七尾に新しく築城し居城とした。
本能寺の変後、秀吉と勝家の対立の中で、勝家の組下にとどまるが、天正11年(1583)4月の賤ヶ岳の戦いでは、秀吉との友誼もあり、戦線離脱という道を選んだ。
勝家を追撃する秀吉軍に降り、北庄攻めの先鋒となる。
加賀平定後、加賀の石川・河北二郡と金沢城を与えられる。
天正12年(1584)、佐々成政と戦う。越中攻略後、越中の内、砺波・射水・婦負三郡が長子利長に与えられる。
この年、越前国主丹羽長秀が亡くなり、利家は北陸道の惣職とでも言うべき地位に就く。
天正15年(1587)の九州陣では、秀次を補佐して京・大坂の留守居を務めた。
天正18年(1590)小田原陣では、北国勢の総指揮を委ねられる。遅参した伊達氏への尋問を行ったという。
文録元年(1592)3月、諸将に先んじて肥前名護屋へ向かう。自ら渡海しようとする秀吉を家康とともに思いとどまらせている。
大政所の葬儀で秀吉不在の間は、家康とともに指揮をとった。
文録2年(1593)1月、渡海の命を受け準備するも、明との講和の動きが進み、渡海はせず。
文録4年(1595)7月の秀次事件後、秀頼の傅役を仰せつかる。越中新川郡が加増され、伏見の旧秀次邸が与えられた。
慶長3年(1598)7月頃、大老に就任。この年8月18日、秀吉死去。
慶長4年(1599)元旦、伏見にて秀頼を抱いて着席したという。10日、秀頼とともに大坂に移居。
秀吉の遺言に対する家康の違反を詰問、対立が起こるが、2月2日に和解成立。
だが、伏見に戻った利家は寝込む日が続き、閏3月3日、没した。

浅井新八【あさい しんぱち】
−浅井新八郎【あさい しんぱちろう】生没年不詳。
尾張中島郡刈安賀に居住し信長に仕える。有力部将と一緒に行動する場面が見られ、馬廻ながら、小部隊の指揮官でもあったようである。
天正2年(1574)頃から、信忠の尾張・美濃支配が進むに従い、尾張衆として麾下に組み入れられる。
天正6年6月、播磨に築いた砦の警固の将として信忠に従っている。これを最後に史料に登場しなくなるが、ほどなく没したか。
子の田宮丸は、信雄に老臣として仕える。

織田薩摩守【おだ さつまのかみ】
−木下雅楽助【きのした うたのすけ】?〜1584?。織田薩摩守、周防守。
中川重政・津田盛月の弟。永禄3年(1560)5月、桶狭間、森部の戦いに参加。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。この戦いで右股を負傷する。
元亀3年(1572)八月、兄重政・盛月の追放に連座したものと思われる。
後、秀次に仕え、天正12年(1584)4月、長久手の戦いで討死にしたという。

伊藤清蔵【いとう せいぞう】
−伊東長久【いとう ながひさ】?〜1585?。七蔵、清蔵。初名を祐之。姓は堀江とも。
伊東武兵衛の弟。鑓三本の人数に数えられる。
尾張三本木村の戦いでは、兜をつける暇がなく、編笠を被って戦ったので、「編笠清蔵」の異名で呼ばれた。
元亀3年(1570)6月、小谷城攻めの功により、信長の一字を賜り、「祐之」から「長久」に改めるという。
天正元年(1573)8月の小谷最後の戦いでは、刀・脇差を紛失しながらも、無刀で3人を討ち取ったという。
秀吉に従い、腰母衣衆、旗奉行。天正12年(1584)4月、小牧の陣に従軍。
翌天正13年(1585)8月、佐々成政攻めに出陣の途、金沢で病没したという。

岩室長門守【いわむろ ながとのかみ】
−岩室長門守【いわむろ ながとのかみ】?〜1561?
信長の小姓。永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いの時、清洲を飛び出した信長に従った、6騎の内のひとりである。
翌永禄3年(1560)5月、小口の戦いで討死にしたという。
十蔵と呼ばれたのは長門守ではなく、子の岩室小十蔵のようである。

山口飛騨守【やまぐち ひだのかみ】
−山口飛騨守【やまぐち ひだのかみ】?〜1572。
信長の小姓。永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いの時、清洲を飛び出した信長に従った、6騎の内のひとり。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。
その後、長谷川橋介、佐脇良之、加藤弥三郎共々信長の勘気を蒙って出奔。家康の元に寄り、元亀3年(1572)12月、三方が原の戦いに参加し討死にする。この時、長谷川橋介、佐脇良之、加藤弥三郎も同時に討死にしている。

佐脇藤八【さわき とうはち】
−佐脇良之【さわき よしゆき】?〜1572。藤八郎。
前田利昌の五男。利家の弟。佐脇藤右衛門の養嗣子となる。
永禄元年(1558)7月12日、浮野の戦いに従軍、林弥七郎を討ち取る。
永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いにも参加、最初に信長に従った小姓衆の内のひとりである。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。
その後、長谷川橋介、山口飛騨守、加藤弥三郎共々信長の勘気を蒙って出奔。家康の元に寄り、元亀3年(1572)12月、三方が原の戦いに参加、討死にする。

毛利河内守【もうり かわちのかみ】
−毛利長秀【もうり ながひで】?〜1593。河内守。秀頼。羽柴河内侍従。
一説には、尾張守護斯波義統の子で、津川義近の弟という。
永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いに従軍、戦功を上げる。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。
信忠の尾張・美濃支配が進むと、尾張衆としてとして麾下に組み入れられ、対武田、対上杉戦などで信忠軍団として活躍が見られる。
天正10年(1582)2月の武田攻めにも信忠軍団として参陣、武田氏滅亡後、信濃の伊那一郡を与えられた。飯田城主。
本能寺の変時、所領を棄て尾張に戻る。その後は秀吉麾下となり、小牧陣、九州陣に参加。
天正13年(1585)10月6日、侍従へ任官。後、豊臣の姓と羽柴の氏を授けられている。
天正18年(1590)、前田利家の組に属して、小田原陣に参加。戦後、飯田城主に返り咲く。
文録元年(1592)、名護屋に参陣、渡海はせず。
文録2年(1593)閏9月12日没。遺領の大部分を婿の京極高知が継いだ。

飯尾茂助【いいのお もすけ】
飯尾尚清【いいのお ひさきよ】1528〜1591。茂助、隠岐守、出羽守、侍従。
弘治2年(1556)6月26日、父・飯尾定宗とともに守山城攻めに従軍。
永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いには、父と共に鷲津砦に篭る。今川軍に攻められ、父は討死。
天正2年(1574)7月の長島攻めなどに従軍しているが、馬廻として戦闘に参加するより、吏僚としての働きの方が多い。
本能寺の変後は、信雄に仕える。

長谷川橋助【はせがわ きょうすけ】
−長谷川橋介【はせがわ きょうすけ】?〜1572。
永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いに参加、最初に信長に従った小姓衆の内のひとり。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。
その後、佐脇良之、山口飛騨守、加藤弥三郎共々信長の勘気を蒙って出奔。家康の元に寄り、元亀3年(1572)12月、三方が原の戦いに参加、討死にする。

<赤母衣衆追加衆>

福富平左衛門【ふくずみ へいざえもん】
−福富秀勝【ふくずみ ひでかつ】?〜1582。平左衛門尉。
信長の代表的な側近。尾張時代から本能寺の変まで、一貫して馬廻として仕える。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。
元亀元年(1570)4月、越前攻め、同年8月には南方陣に参加。天正元年(1573)8月13日の朝倉追撃戦には、他の馬廻と共に目覚しい働きを見せている。
天正3年(1575)5月、長篠の戦いでは、鉄炮奉行を務めている。
信長自身が戦場から遠ざかるにつれて、秀勝の活躍も吏僚的なものが多くなって行く。
天正10年(1582)3月、信長に従い甲信攻めに参加。
同年5月、信長の上洛に従い、京都市内に宿泊。本能寺の変報を聞き、二条御所に駆け付け、同所で討死にした。

塙九郎左衛門【ばん くろうえもん】
−塙直政【ばん なおまさ】?〜1576。九郎左衛門尉。正勝。賜姓任官されて原田備中守。
尾張春日井郡比良村の人。大野木村を領すという。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。
元亀年間は武将としてより、吏僚的性格が強く、京畿の行政担当として、丹羽・羽柴、島田といった部将クラスと肩を並べている。
天正になってより、より重要な任務を任されるようになり、天正2年(1574)5月、山城国の守護に任じられる。守護といっても、村井貞勝・明智光秀・細川藤孝との分割支配であった。槙島城主。
天正3年(1575)3月23日、大和守護の兼務を命じられる。所領は少ないが、筒井順慶ら国人衆の軍事指揮権を任された。
同年4月以降、河内にも臨時的に支配権を与えられている。同年5月、長篠の戦いでは、鉄炮奉行を務める。同年7月には、賜姓任官されて原田備中守直政を名乗る。同年8月の越前一向一揆討伐にも、信長に従い参陣している。
天正4年(1576)、対石山本願寺戦に山城・大和衆を率いて参陣、天王寺口の戦いにおいて討死にした。

渥美刑部丞【あつみ ぎょうぶのじょう】
−渥美刑部丞【あつみ ぎょうぶのじょう】生没年不詳。
『高木文書』の母衣衆の名簿にのみ登場する。他の母衣衆は信じてもよさそうだが、この人物については自己宣伝と思われなくも無い。

金森五郎八【かなもり ごろはち】
−金森長近【かなもり ながちか】1525?〜1608?。五郎八、飛騨守、兵部卿法印。入道号素玄。初名を可近。
美濃の出身。元は斎藤氏の臣か。永禄2年(1559)頃には信長に仕えていたようである。信長から諱字を与えられ、長近。
馬廻ながら、有力家臣に準ずる地位にあったようである。
幾度と実戦に参加、天正3年(1575)5月の長篠の戦いでは、酒井忠次の検使として、鳶巣山砦攻めに参加している。
天正3年(1575)8月、越前一向一揆討伐において、別働隊として濃州口から侵入、大野郡を平定、戦後大野郡の3分の2を与えられる。
以後越前衆として、柴田勝家の指揮を受ける。
本能寺の変後は、勝家に従い、賤ヶ岳の敗戦後蟄居、後、赦される。
天正12年(1584)4月、小牧の陣に従軍。
天正13年(1585)8月、佐々成政攻めに参加した後、飛騨に侵攻、10月には三木氏を降伏させ、翌13年、飛騨拝領、高山城に居。
小田原陣、九州陣に参加、名護屋にも在陣。秀吉死後は家康に接近。
慶長5年(1600)、上杉攻めに参加、東軍に加わる。戦後、美濃四郡の内、二万石を加増される。

猪子次左衛門【いのこ じざえもん】
−猪子一時【いのこ かずとき】1542〜1626。内匠助、内匠頭、三左衛門、次左衛門。
猪子兵介の兄。はじめ犬山の織田信清に仕える。
本能寺の変後、秀吉に仕える。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは、東軍に属す。大坂両陣にも参加。

織田越前守【おだ えちぜんのかみ】
−織田越前守【おだ えちぜんのかみ】生没年不詳。
馬廻。『高木文書』以外の史料には、全く登場しない。

加藤弥三郎【かとう やさぶろう】
加藤弥三郎【かとう やさぶろう】?〜1572。別名岩室勘右衛門。
熱田加藤氏13代順盛の二男、14代順政の弟。
永禄3年(1560)5月、桶狭間の戦いに参加、最初に信長に従った小姓衆の内のひとり。
永禄12年(1569)8月の伊勢大河内城攻めに参加、尺限廻番衆を務める。
その後、佐脇良之、山口飛騨守、長谷川橋介共々信長の勘気を蒙って出奔。原因は、「道盛」を斬ったためという。流浪の末、家康の元に寄り、元亀3年(1572)12月、三方が原の戦いに参加、討死にする。

6)母衣衆出世チャート

名前 選抜時 永禄年間 上洛 大河内城攻め 永禄十二 元亀元 元亀三 三方原 天正元 天正二 長篠 天正三 天正四 天正九 武田氏滅亡後 天正十 本能寺 賤ヶ岳 小牧陣 天正十三 九州陣後 天正十六 天正十七 天正十九 小田原陣 朝鮮陣 文録二 慶長三

黒母衣衆 河尻与兵衛 馬廻 尺限廻番衆 馬廻 馬廻/小部隊指揮官 信忠軍団 甲斐国主 討死(本能寺の変の際、旧武田臣の一揆による)
織田駿河守 馬廻 京畿行政官 尺限廻番衆 馬廻 部隊指揮官 改易 徳川家蟄居 織田家再仕 信雄臣 不明
佐々内蔵助 馬廻 馬廻/小部隊指揮官 東側攻口 馬廻 馬廻/小部隊指揮官 鉄炮奉行 越前二郡 越中国主 勝家方 秀吉同盟→敵対 秀吉臣 肥後国主 自害(領地不首尾を問われ)
織田左馬允 馬廻 改易   秀吉臣 死去
毛利新助 馬廻 尺限廻番衆 馬廻 馬廻/吏僚 討死(本能寺にて)
平出久左衛門 馬廻/弓衆 遷宮奉行 不明
伊藤武兵衛 馬廻 出奔↓今川家臣 今川家臣 討死
水野帯刀 馬廻 不明
松岡九郎次郎 馬廻 尺限廻番衆 馬廻 秀吉臣 淀城留守居 不明
生駒正ノ助 馬廻 尺限廻番衆 不明
黒母衣衆追加 蜂屋兵庫 馬廻 部将/京畿行政官 北側攻口 馬廻 部隊指揮官 和泉国主 四国副将 秀吉方 秀吉臣 死去
野々村三十郎 馬廻 鉄炮奉行 馬廻/吏僚 討死
赤母衣衆 前田又左衛門 小姓 勘当↓復帰 馬廻 尺限廻番衆 前田家家督 馬廻 鉄炮奉行 越前二郡 能登国主 勝家方 秀吉方 加賀/越中/能登国主 死去
浅井新八   馬廻 馬廻/小部隊指揮官 信忠軍団 不明
織田薩摩守   尺限廻番衆 馬廻 改易 秀次臣討死
伊藤清蔵   秀吉臣 病死
岩室長門守 小姓 討死
山口飛騨守 小姓 尺限廻番衆 出奔   家康居 討死
佐脇藤八 小姓 尺限廻番衆 出奔   家康居 討死
毛利河内守 馬廻 尺限廻番衆 馬廻 信忠軍団 伊那一郡 棄領   秀吉臣 飯田城主 名護屋在陣 死去
飯尾茂助 馬廻 馬廻/吏僚 信雄臣 死去
長谷川橋助 小姓 馬廻 尺限廻番衆 出奔   家康居 討死
赤母衣衆追加 福富平左衛門 馬廻 尺限廻番衆 馬廻 鉄炮奉行 馬廻/吏僚 討死
塙九郎左衛門 馬廻 馬廻/吏僚 尺限廻番衆 馬廻/京畿行政官 山城守護 鉄炮奉行 山城/大和/河内 討死
渥美刑部丞 不明
金森五郎八 馬廻 馬廻/小部隊指揮官 鳶巣山攻手 大野郡 勝家方 秀吉臣 飛騨攻略 飛騨国主 名護屋在陣   東軍
猪子次左衛門 馬廻 秀吉臣 東軍
織田越前守 馬廻 不明
加藤弥三郎 小姓 尺限廻番衆 出奔   家康居 討死

※英語表記はデタラメなので信じない様に。また、他に良い訳があれば御教授願いたし。
※引用部分は谷口克広氏の著書『信長の親衛隊』(中公新書)からの孫引きいうテイタラク。
※実は内容も引き写しでなかろうかという意見はそのとおりです反省します。
※各人の略歴も、谷口克広氏著『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館)を参照しています。


(平成13年9月9日作成−平成14年8月17日更新)

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