信長の名前と官位
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吉法師
きちほうし
(1534〜1546)
幼名。
二家に分かれていた尾張守護代、その一方である清洲城の大和守系織田氏の三奉行の一人、織田弾正忠信秀の嫡男として勝幡に生まれる(生地については諸説あり)。
「〜法師」という幼名は、男子は幼少の砌、剃髪していたので、それを法師に見立てて付けられている故。
三郎信長
さぶろう・のぶなが
(1546〜1549?)
元服すると幼名を改め、他称に用いる通称と、自称に用いる実名がつけられる。
通称 三郎。信長自身が三男であることもあるが、父信秀、祖父信貞も三郎であり、先祖の多くも三郎を名乗っていることから、伝統的な理由が存在すると思われる。
実名 信長。「信」の字は織田家の通字(伝統的に踏襲する一字)である。
上総介信長
かずさのすけ・のぶなが
(1549?〜1568)
受領名系通称。
信長公記では1549年頃、自ら任じたとある。
官職・受領名を勝手に通称とすることは珍しくなく、父祖の授かった職への栄誉の感から用いる場合が多いが、信長の場合、祖父・父ともに弾正忠であるが、なぜ上総介を用いたのかは判然としない。
現存文書に初見されるのは、1554年の判物から。このときは「上総守」と称している。
上総・常陸・上野の三国は親王任国であるが、親王は赴任しない為、一般には副長官である「〜介」が使われるが、実質的な長としての意味で「〜守」が混用された。
上総介の初見は翌1555年で、以後はこちらが使われている。
尾張守信長
おわりのかみ・のぶなが
永禄九年(1566)七月十七日付けの十市遠勝宛て大覚寺義俊書状に見える。(『多門院日記』永禄九年八月廿四日条)
永禄三年(1560)五月、今川義元を討ち取り手に入れた義元左文字の茎には、「織田尾張守信長」と彫り込んであるが、細工の時期が不明である。
弾正忠
だんじょうのじょう/だんじょうのちゅう
(1568〜1574)
歴名土代では、天正二年(1574)三月十八日弾正忠、従五位下叙任。のちに従四位下となっている。参議就任前には正四位下。
足利義昭を奉じて上洛し、畿内を平定、義昭を将軍位に就ける。副将軍・管領職を辞退し、かわりに就いたのが弾正忠。
弾正台の三等官で、宮城の内外を巡察し非違を糺弾する職であるが、職権は消滅し有名無実の官職。他の官職も同じではあるが。
参議
さんぎ
(1574〜1575)
天正二年(1574)三月十八日叙任。位階は従三位。これは遡って任ぜられたか。
蘭奢待の切り取りを行っている。前年に足利義昭を追放。
朝政を参議する職。大臣・納言に次ぐ重役で、唐名では宰相。
権大納言兼右近衛大将
ごんのだいなごん・うこんえのたいしょう
(1575〜1576)
天正三年(1575)十一月四日権大納言、七日右近衛大将叙任。位階は従三位。
越前一向一揆を鎮圧、長篠で武田家を破る。
大納言は大臣とともに天下の政事を議し、大臣なきときは太政官の政務を専行する職。
権とは定数外の人数のことで権官(ごんかん)という。
近衛府は、禁中の警護・行幸の警備を行う職。左右にわかれている。
長官である大将は、大臣・納言が兼任することになっている。
内大臣兼右近衛大将
ないだいじん・うこんえのたいしょう
(1576〜1577)
内府(ないふ/だいぶ)。
天正四年(1576)十一月十三日に正三位。同月二十一日内大臣。
安土築城、二条造営に着手。石山合戦本格化。
内大臣は、天下の政務を司る太政官の職。左右の大臣に次ぐ。
左右大臣不在のときは政務儀式のすべてを司る。
右大臣兼右近衛大将
うだいじん・うこんえのたいしょう
(1577〜1578)
右府(うふ)。
天正五年(1577)十一月十六日従二位。同月二十日右大臣。
紀州根来討伐。反織田戦線活発化。
右大臣は、天下の政務を司る職で、左大臣に次ぐ。
左大臣不在のときは政務儀式のすべてを司る。
前右大臣
さきのうだいじん
(1578〜1582)
天正六年(1578)正月六日正二位。同年四月九日右大臣・右近衛大将の両官辞任。
位階だけで職務のないのを散官、または散位(さんに)という。
前官待遇となり、前(さきの)〜と呼ばれることになる。前右府(さきのうふ)。
泰巌
たいがん/たいげん
(1582〜)
法名。
ハ見院と号す。「ハ見院殿大相国一品泰巌大居士」。※諸説あり。
信長の家系は法名に代々「〜巌」を用いている。
大相国一品とあるように、死後従一位太政大臣に叙せられたのであった。大相国とは太政大臣の唐名。
藤原信長
ふじわらの・のぶなが
天文十八年(1549)十一月付発給文書に見える署名。
織田家は代々藤原姓を名乗っており、これに倣ったものと思われる。
平信長
たいらの・のぶなが
元亀年間から平姓を名乗るようになり、平清盛にまで連なる家系図を工作した。
源平交代思想を考慮した結果だといわれる。
第六天魔王
だいろくてんまおう
元亀三年(1572)の武田信玄西上の折り、「天台座主沙門信玄」と署名された信玄書状への返書として、「第六天魔王信長」と記した書状を送っている。
このことは、ルイス・フロイスがイエズス会へ送った書状に見えるのみという。
第六天とは、六欲天(欲界六天)の最上第六位に位する天で、正法を害して仏道を障害し、人心を悩乱して、智慧、善根をさまたげる天魔が住まう所。この天魔の王が第六天魔王で、悟りの妨げとなる煩悩を吹き込む、仏法の天敵である。
この名は、信玄への対抗上持ち出したものと思われる。
(平成13年12月10日作成−平成14年8月17日更新)