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平成13年度特別史跡安土城跡発掘調査現地説明会

日時:平成14年3月17日(日)
場所:安土城大手門跡周辺西側中央部
◇第一回:午前11時〜
◇第二回:午後1時半〜
第一回参加者224名/総参加者約480名(過去最多)


資料によれば、今回の調査対象地は大手門西側、昭和55〜56年度にかけてコンクリート板・暗渠排水等が敷設された約2000uの範囲。平成5年度の遺構確認調査の際には、大手門西側石塁の北面石垣とその裾に設けられた排水溝が確認されています。
今回は平成5年度調査分を含んだ約1400uの範囲にトレンチが設けられ、調査が行われました。

近江国蒲生郡安土古城図(部分)
↑近江国蒲生郡安土古城図より、大手門周辺部分

上の絵図は貞享四年(1687)に作成された、安土城の最も古い絵図である「近江国蒲生郡安土古城図」の大手門部分。
それでも信長の死後約百年程経ってますが。城跡復元に一役かっています。
中央右寄りを上下に通っているのが大手道で、その大手道と直角に交わっているのが先般確認された石塁です。
さて、赤いワク線辺りが今回の調査対象地ですが、絵図の通りだとすれば石塁は麓の石垣に突き当たり、何も無いように思われていた訳で、思いがけない発見となり吃驚しきり。

大手門側より発掘現場 現場前町道より
↑発掘現場(ほぼ)全景 ↑奥に見えるのが虎口

これまで城の正面の入り口は「大手門」のみと考えられていましたが、今回その西側で二個所の開口部が発見されました。ひとつは大手門から西へ約60mほどの位置。そこで石塁が途切れ、台地の石垣とで桝形虎口を形成していたと考えられています。途切れた石塁から石垣への延長部分と、石塁西端部から北へ向かう部分に門があったと推定されていますが、その存在を示す礎石等が全く発見されず、門があった「だろう」としか言えないとのこと。

虎口西側石垣 虎口から西へ伸びる側溝
↑枡形虎口・西壁面(下部が築城時、上部が江戸後期) ↑桝形虎口から西へ伸びる側溝

左上の写真の「虎口」とある札の後ろの石、上半分に苔が付着しています。その辺りが当初露出していた部分なのですが、掘ってみると上下二段になった石垣が顕れました。下段が築城当時の石垣、上段は江戸時代の終わり頃、畑をつくるために構築された石垣ということです。
石垣上部には櫓等があったと思われますが、後世の耕作等により、抜き取り穴を含め何も発見されなかったそうです。

また、南面裾部分は「安土古城図」などの記述から一面沼であったと思われていましたが、開口部から石垣南面に沿って側溝が発見され、道が通っていた可能性が示されました。安土城西側の百々橋口(総見寺への参道で、唯一城下町と繋がる登城口)まで続いていたのではないかということでした。

西石塁北壁
↑西側石塁側溝北壁

大手門推定位置から東西にのびる石塁は、平成5年の調査で内部に裏込め石(栗石)が詰められている事、東側の石塁の幅が4.2mであることが判っています。西側の石塁について、北面は野面積みで傾斜を持たせた当時の石垣が残っていますが、南面は根元にも栗石が詰まっていたこと、加工された小振りの石で垂直に積まれていることから、後世の積み直しであると思われ、埋まっていた陶磁器の年代から、江戸の終わりから明治の初めごろに積み直したものと考えられています。

水の手御門(仮)その1 水の手御門(仮)その2
↑水の手御門と推定される部分 ↑水の手御門「たたき」(右下部分)

二つ目の開口部は、西側石塁の中間、虎口より18mの位置に。
西側石塁の北壁が南に折れ、5mほどの開口部を形成しています。石塁北面の隅には角石が用いられています。
開口部には側溝と同じ高さの石積みが残り、内部に栗石はほとんどなく、上辺は「たたき」になっています。
ここは船着き場に利用していたのではないかと考え、仮定として「水の手御門」と呼ばれています。


最後に、今後の発掘予定を説明会資料より抜粋。

平成14年度
 「大手門跡周辺東側全域 発掘調査」
 「大手門跡周辺環境整備基本設計」
 「大手門跡東西石塁整備工事実施設計」
平成15年度
 「大手門跡周辺西側上部・下部 発掘調査」
 「大手門跡周辺西側上部・下部整備工事実施設計」
 「大手門跡東西石塁整備工事」
平成16年度
 「大手門跡周辺整備工事」(石塁部分除く)

大手門跡周辺も、大手道のように整備される模様です。


(平成14年8月12日作成)

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