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平成13年度小牧山城発掘調査現地説明会

平成13年9月15日(土)
午前11時/午後2時
愛知県小牧市堀の内一丁目地内


去る9月15日、小牧山にて行われた現地説明会に参加しましたので、そのご報告を。

小牧山の変遷
  小牧山――愛知県小牧市、濃尾平野北寄りに孤立する標高85.9mの小さな山。
永禄6年(1563)、織田信長が対美濃戦略の拠点として居城を築き、南側には城下町を形成。その4年後、斎藤家を滅ぼしたのち岐阜へ移ったため、廃城に。
再び注目されるのは17年後の天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いにおいて。家康が本陣を構え、土塁・堀等を築く全面的な改修が施される。
江戸時代には、神君ゆかりの地「御勝利御開運の御陣跡」として尾張藩領となり、一般の立ち入りが禁止に。
明治5年、一時民間に払い下げられるが、すぐに県が買い戻し、県立小牧公園として一般公開される。
明治22年、徳川家所有の土地と交換され、所有は徳川家へ移り、再び入山禁止に。
昭和になると、国の史跡に指定され一般公開を再開、そして昭和5年、徳川家から小牧町に寄贈され現在に至る。
平成10年、東麓にあった市立小牧中学校が移転し、以後史跡整備の為、発掘調査を行っている状況です。

史跡整備計画
 現在残る遺構は天正期のものとされ、主郭地区・西側曲輪地区・大手曲輪地区・西側谷地区・帯曲輪地区の五つに区分されます。
小牧中学校があったのが帯曲輪地区東部で、平成10年、11年に試掘調査、平成12年に本調査が行われ、今回の説明会は第二回となります。
二重の土塁、そして空堀に囲まれた山麓最辺部が帯曲輪地区。西麓が最も狭く、北麓から東麓にかけてが大きく広がり、小牧・長久手の戦いにおいて、北から東にかけて布陣した豊臣軍に対する為、多くの兵員を収容した場所と考えられています。
平成10年に行われた一回目の説明会では、家康が構築させた4つの虎口の内、東側の虎口に注目、内部または前面に深い堀を配置するという類例の無い強固な防御機構であったということでした。
そして今回の調査で、永禄期の武家屋敷群の存在が確定されたのです。

帯曲輪地区北東部分の調査結果
  今回の調査は旧中学校の北門から東門までの部分で、三つの屋敷跡を区画する堀、溝が12条、土坑が7基、それらの埋土から陶器・土師器等が検出されました。
これらは、平成10・11年の調査及び「昭和2年地形測量図」の分析により、帯曲輪東部を巡るように並んでいたと推定されていた武家屋敷群の南端三棟のもので、北側からは一辺45M級の武家屋敷が並び、最南端の一棟のみ一辺75Mの大型の武家屋敷が配されています。
この最南端の屋敷について、信長の住居ではなかったか?との推測は立ちますが、それを確定する遺物も裏付ける史料も見つからないので断定は出来ない状況です。捏造に敏感な時期でもあるので滅多な事は言えないんですよねえ。

写真1/現場全景 写真2/堀遺構
↑画面下方が75m級屋敷跡。奥の方へ屋敷が並ぶ。 ↑堀の遺構。橋状の物は地層確認のための堀り残し。

  この永禄期の遺構に被さっているのが天正期の遺構。武家屋敷の区画を無視する形で土塁の痕跡が確認されました。遺構の埋土に地山の土が混ざっているので、天正の陣地構築の際、人為的に埋められたものと考えられます。
現在外周を取り巻くように残る土塁は天正期に作られたものの名残ですが、その外側を流れる川は空掘を利用したと思われる人工用水で、比較的新しいものです。この用水を挟んで土塁跡が確認できるそうです。

写真3/天正期の遺構
↑右側を斜めに走る黒い部分が天正期・小牧陣の土塁跡。平たく削れているのは学校の造成工事のせい。

撹乱された遺構
  そして、これら永禄・天正期の遺構をダイナシにしてくれたのが小牧中学校の造成工事です。
帯曲輪地区東部の大部分に亘る重機による削平は、天正期の遺構のみならず、永禄期の遺構にまで重大な影響を及ぼしています。豊臣勢に対し効果を発揮したであろう土塁は真っ平に切り崩され堀は埋められ、埋もれていた武家屋敷群の痕跡は、堀・溝等の底面部分を除いて消滅――それは特に山側において著しく、遺構の最深部までもが尽く消滅。実際に確認できたのは麓側の三分の一に満たない部分であり、そこではご丁寧にも重機の爪痕をも発掘されたのでした。
嗚呼、江戸・明治・大正を通じて保護されてきた歴史的証拠物件が無残な姿に。天辺に偽天守建ててラジオ体操してる場合じゃないぞ。ええぃ、鉄筋コンクリート製の天守閣なぞ認めるものか。いえいえ、故平松茂翁(私財を投じて小牧城歴史館を建て、寄贈した名古屋の実業家)に悪意は無いですが。

写真4/重機の爪痕
↑45M級屋敷跡のひとつ。写真では判別しにくいが、重機の爪痕が残っている。

総括
  見学参加者は大雑把に見て二百人ほど、年配の方ばかりで、若い人はほとんどいませんでした。結構地味ですからね。  見学参加者は大雑把に見て二百人ほど、年配の方ばかりで、若い人はほとんどいませんでした。結構地味ですからね。
前日までの荒天で、現場の状況が心配でしたが、少々の水溜まり・ぬかるみがある程度で、肝心の遺構については殆ど影響無く、現場へ降りて見学出来ました。しっかり靴は泥だらけになりましたが。汚れても良い靴を履いていくべきでした。当たり前ですか。
今後も発掘調査は進められ――小牧山全域を対象に、麓から頂上へと継続。最終的には史跡公園として整備されるそうですから、行く末多いに楽しみな歴史スポットなのであります。


(平成14年8月13日作成)

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