常よりも、激しい熱情がほとばしった夜。
夢見心地に敷布へと横たわる悟空を、天頂に君臨する月が静かに浮かび上がらせる。
その傍らにあるのは、むろんあの男だ。冴えた光により、ひときわ鮮やかに輝く金糸の持ち主、三蔵。その口元は、呼吸に合わせ明滅する小さな明かりに飾られている。
「どこ、行くの」
小さな問いかけが、まだ情炎のくすぶる室内の空気を揺らがせた。インナー姿の男が、不意に身を起こしたからだ。
「……ちょっと、外へな」
お前は寝てろ。あっさりと返された答えに付け加えられたのは、さりげない一瞥だ。
紫暗の瞳のきらめきは、言外に示される拒絶。
そのままタバコを揉みつぶせば、漂っていた紫煙は徐々に薄闇へとかき消えていく。
「オレも行くっ!」
叫ぶようにして、悟空はその身を跳ね起こそうとした。しかし相手の思うがままに翻弄された身体は、まったく動かないようだ。ほんの少し浮いた上体は、すぐに崩れ落ちる。
「チッ……」
煩わしげな舌打ちが、男の口から漏れた。ぶすくれた表情もあらわなものだ。
けれど次の行動は迅速だった。
「う、わぁ……っ!」
「……るせぇ」
悲鳴は、悟空のもの。敷布に包み込まれたと思うやいなや、三蔵の腕にがばっと抱き上げられたからだ。おかげで声の攻撃をまともに受け、男の顔はいっそう渋くなる。
「ま、まだ服も着てないっ!」
「うるさい。待ってられるか」
いきなりの行動にあわてさせられた声音は、かなり高く響く。けれど一言の元に却下した男は、相手を抱き上げたまま力強い腕で惑うことなく扉を開く。
「夜中なんだ。ちったぁ静かにしやがれ」
見られたいなら、かまわんがな。そんなふうに鼻先でせせら笑いながらも、ただ正面だけを向く男の顔からは、真意は窺えない。
そもそもこの姿では、おりて歩くとも言えない。悟空は促されるまま、その腕を相手の首元へと回した。
「なんか、空気が湿ってる……」
回廊へと連れ出され、一番はじめに感じたこと。
肌が知ったそれを、抱えられた者はただそのまま口にした。
「一雨、きそうだからだろ」
「そっか」
会話の合間も、早足で進む足は止まらない。どうやら目的地はもう少し先であるようだ。
「でも、月は明るいね」
「そうだな」
「三蔵も、光ってるね」
庭へと歩を進めれば、屋根に阻まれていた月もその姿を見せる。
「……なら、お前もだろう」
蒼銀に冴えた月は、世界を同じ色合いに輝かせている。
けれどその中でただ一つ、それに対抗するものがある。そして今は悟空だけが、それを知ることができていた。
「かもね。でも……違うんだ」
優越に満ちたかすかな言葉は、わずかな笑いへと溶ける。首に回した腕は、一度だけ、そんな異色の髪を梳いた。
「なあ。そういえば、どこに行くんだ?」
ただ庭を歩いているだけとはいえ、予想外の深夜の外出。
落ち着かなさもあいまってすっかり失念していたが、目的もなく三蔵がこんな事をするはずもない。
時間はかかったが、ようやく悟空はその疑問までたどり着いた。そして一度気になると、問わずにはいられないのが、彼である。
「なあってば」
「……これだ」
てっきり無視を決め込むであろうと思われていた男は、その腕が使えないからであろう。くっと顎をしゃくってみせた。どうやらちょうど目的地に着いたためらしい。
その先にあったものは。
「さくら……?」
悟空とて、この寺の庭ならば、知らないところはない。
けれど知り尽くしていてさえ、声を飲む姿がそこにはあった。
「もう満開、だな」
その木の根元まで、ほんの数歩。そんな地点で、男はその足を止めた。
一本だけ、その存在を忘れられかのような場所にある、古木。それは他の桜とは一風異なり、その花を枝からこぼさんばかりにつけていた。
すこし小さめの花びらは、はらはらと舞い落ちてくる。あたりの地面を埋めつくす様子は、あたかも天からもたらされる雪のようだ。
その幽玄な景色は、わずかな足音さえも拒んでいる。
魅入られたように、二人はしばしその世界を眺めていた。
「すごく、キレイだね……怖いくらいに」
「ただキレイなワケじゃないからな」
ぼそりと漏らされた言葉に、悟空は思わずその視線を声の主へと奪われる。けれど、男の視線は変わらず、古木に向けられたままだ。
「……『桜の木の下には、死体が埋まってる』」
「へ?」
「そういう言い伝えが、ある」
そして普段ならばうんちくなど請われても語らない唇が、かすかに尖らされたまま動く。
「樹は【気】に通じる」
散り急ぐかのような花びらは、ただ佇む二人にも次々と降りそそぐ。自身の力すべてを費やして、有終の美を飾るかのように。
しかしまとわりつく死骸を払いのけるように、三蔵は頭を振りたてる。
「精気を……そして生気すら奪い」
不意に語りつづける口の端が、くっと持ち上げられた。
「おびただしい血を吸って、ようやくこの花はほのかに色づくんだそうだ」
「三蔵……」
「だとしたら、この聖地であるはずの寺ですら、血に汚れているんだな」
小さな皮肉は、いつもどおりの彼のものだった。
けれどその表情は一瞬でかき消される。
「お前は……俺が、お前の【気】で輝くのだとしても、そばにいるのか?」
向けられた視線は、痛いほどにまっすぐだ。切なる問いは聴くものの心を締めつける。
「どうなんだ、悟空」
「……血を流さずにすむ場所なんて、どこにもないよ」
思いがけない答えに、男はその紫の瞳を見開いた。
それは、確かな真理。
「キレイなものは、キレイ。それでいいじゃない?」
そしてふわりと浮かべられたのは、暖かな太陽の微笑み。
『サルはこれだから……』
「お前は、いつまでその顔で笑ってられるんだろうな」
ほんの少し負け惜しみの色が濃い苦笑を浮かべ、男はゆるりと天を仰いだ。はらりと崩れた髪は、ひときわ強く黄金の輝きを放つ。
そして、ゆっくりその顔が元へと戻された。
「俺には、お前を咲かせて、朽ちることなどできないぞ」
仮に大地が、俺をお前のエサとしてそばに置くとしても。
「当ったり前じゃん、そんなの」
悟空がそう笑い返せば、微笑みが闇にも似た紫の瞳に浮かぶ。肩すら揺れれば、抱かれている者がしがみつく。
(そうだ、そうしてもっと俺を捕まえていろ)
そうでなければ。
俺はお前をいつか喰らいつくす。
(お前が生まれた、この夜の……月に)
この狂気を託そう。
せめてその日が遠い未来のものとなるように。
「あ」
「春雨だな……」
ぽつりと頬を濡らした感触に、二人はひそめた声をあげた。
静かに降りはじめた雨は、きっと朝まで降りつづくことだろう。
そしてこの木を……花を濡らし、散らしていく。
「戻るか」
「……うん」
『すべては、俺とお前の望む【幻想】であろうとも……』
一夜に散りゆく、はかないこの花のような、夢。
だからこそ、美しい。
人の一生も、また……。
【終】