噛み合わない歯車
  狂いかけた回転数
  動かなくなった感情

  いつからだろう……イカれたと感じたのは

  内部で生じた軋みは
  間違いなく外界へと
  ゆがみを生じる

  いや むしろ
  外のひずみが
  精神を破壊するのか

  いまは何もわからない
  ただこの凍りついた情炎だけが
  あまりにも痛すぎて
  いつになれば……壊れてしまえるだろう





     すれ違いは
     なおも続き

     心は日毎に
     麻痺していく



  終焉のベルは いまだ鳴らない……











 西方への旅を終え、丸一年。懐かしくなくもないこの寺院へ、二人、戻ってきてからなのは間違いない。
 いつからだったろうか、三蔵は、あの“三蔵”ではなくなってしまっていた。








◆   ◆


 夏の盛り。旅から戻り、知らぬ間に故郷と定めてしまっていた土地に入ってすぐ、悟空は途方に暮れていた。
(オレって、これから何処へ行きゃあいいんだろ……)
 逡巡しながら回す視線は、活気あふれる街並み、そこへの入り口である門、連なるように囲い込んでそびえる城壁、遠くに見える緑の山並みと蒼い空、そんなふうにぐるりと巡る。そして、この旅で最後までともに来た、金の髪の同行者のところでとまった。
 その彼、玄奘三蔵には戻るべき先があった。この街の中核を成すともいえる、寺院という場所が。彼はそこの高位僧、最重要人物の一人であるからだ。
 けれどこれ以上、悟空は一緒に行くわけにいかない。寺についていく必要は、どこにもないからだ。
 もはや彼は、保護がどうしてもいるという年齢ではない。かつ寺側にとっては、いくら過去に一時は居住していたといっても、あくまで預かりもの。当時も、そして現在に至ればなおさら、迷惑極まりない存在だ。
 そして最も重要なのは。三蔵にしてみたところで、もともと悟空自体には、かけらの必要性を持っていないということだ。彼はただ、任じられた使命に従って、四人で行動していたに過ぎないのだ。すべてが片のついた今、もはやともにある理由はない。
 だから、悟空には帰るべき場所はない。
(やぁっと厄介払いってか……)
 日光に煌めく金糸を、まばゆさにその目が痛くなるほど見つめ続けていた、もはや子どもなどとは言い切れなくなった少年は、深いため息とともにそこまで思い至った。そうして自身を不要と定めたと同時に、心臓にズキンとした痛みを感じた。思わずしかめた顔を隠すように、自然とうつむいてしまうほどにだ。
「……おい、サル。とっとと帰るぞ」
 そんな様子を窺ってもいなかったであろう三蔵の、不機嫌もあらわな口調に、いまだに妖力制御装置の輝く頭が、勢いよく跳ね上がる。
「行って、いいの?」
 途切れ途切れに問う表情は、微妙なものだ。引き締めようとしているであろう口元が、わずかに綻んでしまっている。期待にその瞳を輝かせないようにしていても、なお鮮やかな瞬きが隠し切れていない。自らの“太陽”を見上げる金晴眼だからこそ、上空の太陽にはじける金鈷の煌めきよりも強烈なのだろうか。
「オレも……寺に?」
「仕方ねぇだろ。俺はイヤでもあそこに帰んなきゃならねぇんだからよ」
「じゃあっ!」
 満面の笑みが、大地に祝福された悟空の顔に花開く。
「いちいち訊くな」
 くわえタバコの煙とともに、対照的に無表情な三蔵は言い放った。いかにも気怠げに、頭なんかも掻きながら。まるでふたりが一緒であることなど、当たり前のことのように。
「……なんてクソ暑いんだ」
 蒼すぎる空を紫の瞳で一瞥した後、ばさりと肩を覆う布地を落とした男は、返事を待つことなく歩き出した。背中に確信すらのせて。
 だから悟空はついてきた。そしてしばらくは何事もなく過ごしていた。

(ナノニ、ドウシテ……?)

 なぜこんな現実が訪れたのか。それは誰にもわからない。けれど紛れもなくこれは、今から決してそれほど遠くない、ある穏やかな日から始まったのだ。





  当たり前の日常
  それが虚構だと知ったとき
  ヒトは新たな日常を創りだす

  それこそが非現実だというのに……









◆   ◆


 正月も過ぎ、ようやく春らしい気候が、昼中中だけでも感じられるようになった。そんなうららかな陽日は、まさしく未来への希望をはらんだものだった。

 奥深い寺院の、一際奥まった室内。そんな場所にすら、陽射しは平等に、暖かく差し込んできていた。うたた寝にこそ最適な優しい光は、読書にも似つかわしい。たとえそれが新聞であろうともだ。
 というような考えとはまったく関係なく、三蔵はただ惰性的習慣でもって、今日もまたその紙束に眼を走らせていた。むなしいほどに環境に左右されない男である。
 そしてそれ以上にこの空間にふさわしくないのは、その背後に響き渡る、怪音、異音、破壊音。すくなくとも一般生活で耳にすることはなさそうな、公害的騒音である。
 その根源は言わずと知れた悟空だ。
 このふたり、風流とか風雅以前の問題で、とことんまで何事にも左右されないようである。
「……うるさいぞ」
 しかし、めずらしくも三蔵は、もっとも明るい一角の机のほうから、冷たい声を飛ばした。
 周りを気にしないのだから、通常の彼がいちいち注意などするわけはない。むろん忍耐強いわけでもないので、どうにも我慢ならなくなれば指先を一曲げするだけなのだが……要するに、銃を発砲するわけだ。なのに何故あえて彼は、不平などという遠回しな形で忠告などしたのだろう。
「うるせえっ!」
「あ、ごめんっ。でも、もうちょっとだから」
 しびれを切らしつつも、いまだ最終手段に出ない男をよそに、運の良い悟空はどたばたと走り回っている。しかられてもやめないのはいつものことだが、ここまでキレる寸前そうな三蔵を目の前にしてはめずらしい。そのほかの相手に対してはともかく、この養い親に対してだけはわりあいに素直な彼だからだ。
(変わったことも、あるもんだ)
 あまりの珍しさも手伝って、実のところ三蔵は、今現在の状況にはそれほど腹立ってはいない。あくまでもこの騒動自体には、でしかないが。彼の気は、どうやら他のことに囚われているらしい。
 重ねて怒られるでもなく、ハリセンが飛ぶでもない状況に、普段なら悟空も疑問を覚えたであろう。けれど今の彼はただ無性に、その静けさに感謝していた。それほどに早くに終わらせようと、焦っていたのだ。待っていてくれるのだからと、たぶん急いてもいたのだろう。
「あと少しっ!」
 だからこそ、ただ必死に動きまわる彼は、三蔵に関心を払わない。そしてそのことがかえって三蔵を無反応に追い込んでいることに、気づくこともできない。
 そう。紛れもなく、三蔵はイラついていた。
 苛立ち……それは、自覚してしまえば、なおさら強くなるしかない種類の感覚だ。翻弄されているという事実が、ただ感情を波立たせていくからだ。
 なおかつ、そんな不機嫌さに気づかず、対象が自分の言葉に背いて騒ぎつづけている。ますます持って気分が悪くなるのも、一応は仕方がないといえよう。
『……るせぇ』
 どこおか狂わされた調子に、声にならない不平で歯をギリッと噛みしめた瞬間、数枚重なっている紙束の、上部四分の一ほどが見事に裂けた。
「……三蔵?」
「なんでもないっ」
 派手な物音で不思議そうに視線を投げた悟空に、鋭い一喝が飛ぶ。ようやく目を向けてきた相手の、無邪気さ加減が腹立たしかったのだろう。
「……」
 あまりの語気のキツさに、ほんのちょっとしか様子を窺わず、悟空はすぐさま作業を集中した。いつもならば決して追及を厭わなかったであろうに。むろん、常の三蔵ならば、その選択は喜ばしいこと以外のなにものでもないことだった。
 けれど思惑は交錯する。
 こんなすれ違いは、もちろん些細なことでしかない。けれど個々にすれば微細なことも、つもりつもれば大きなことになっていく。
 ふたりともが、その重要性に気づけていなかった。
「そう。きっと、なんでもねぇんだ……」
 力ない男の呟きを、聞き咎めたものはいない。
 そしてその後の、ちょこまかと動きまわる悟空を破けた新聞の隙間から追いつづけてしまう、つくづくらしからぬ様相の三蔵が、その首を大きく打ち振るう姿も、また誰の目にも止まらなかった。
 その彼の目の前で相変わらずつづけられている格闘。それはどう見ても旅支度、もしくはそれ以上のものだった。
 誰の目にも明らかな、怒りになりきれない苛立ちを身にまとい。あえて男は馴染んだタバコを口にして、ぼろぼろの新聞へと視線を落ち着けた。それはあたかも、目の前の存在自体を意識から除去しようとするように。
 しかし目を塞いだところで、無意味なことだ。悟空は相変わらず、一人で騒ぎつづけている。
「あと、あれはどこだっけ……?」
 弾んだ口調そのままに、悟空ははしゃぎ、飛び跳ねている。それはある意味、まだしもこの室内で唯一、春の陽気にふさわしいものであった。
 それでもまだ、うららかな日々は何事もなく進んでいくかのようにみえた……少なくとも、このひとときは。

 こんな三蔵すらも戸惑わせる状況を作りだしたのは、確実に、悟空側における変化だった。それでは何故、彼は変わったのか。
 きっかけは、ただ単なる悟浄の一言。
『お前、いま何してるワケ?』
 そんな、たわいもない疑問文だった。






  絡み合う二つの感情 それはまるで
  螺旋のDNA 生命の源流
  きっかけなど 何の意味もない
  すべては何かに仕組まれている

     極小から極大 はじめから、おわりへ……








◆   ◆


『お前、いま何してるワケ?』
 その質問を悟空が受けたのは、昼下がりの街角。近ごろ馴染みとなった、さほど広くもないが決して小さくはない料理屋のテーブルでのことであった。
「なにしてる、って?」
「だから、最近は、いつもどーしてるかって、コト」
「このごろ、ねぇ……」
 妙に途切れがちの会話に、ほんの少しばかり沈黙が生まれた。考え込んだからではない。所狭しと並べられた皿を間にはさみ、お互いに健啖家な口をもごもごさせながらのやりとりで、単に話すための場所の余地がなかったからだ。ちなみに卓上には空き皿のほうが、既に目立ちかけている。
「えーっと、朝起きてメシ喰って。昼喰って……三蔵がでかけてりゃ、帰ってくんの待ってる、かな」
 勢い余って口からはみ出しかけた酢豚をゴクリと嚥下し、次のエビチリを箸に刺して口元に運ぶまでの合間に、悟空は屈託なくそう答えた。
「……なんだ、そりゃ」
「なんだよ、文句ある?」
 訊いてきたのはそっちだろ。反論ついでに、呆れた声を上げた問いかけの主へと、箸先からチリソースが飛んでいった。続いて悟浄の方から、甘酢が散る。
「では、三蔵が寺院にいるときは?」
 ようやく割って入ったのは、しつこいほどに噛んだイカ団子をやっと飲み込んだ八戒だった。妙なことに細かい彼は、咀嚼百回を実行し、かつ何かを口に含んだまま話すことを是としなかったからだ。
「特に三蔵が拘束されてないときですが」
「そんなの一緒にいるに決まってるじゃん」
 重ねての言葉に、悟空はさらっと応えて、ソースをつけ直したエビを幸せそうに噛みしめる。その表情は、それまで絡んでいた相手のことなど、すっかり忘れたかのようにとろけている。箸のすばやさは、それに比例してはいないが。
「はぁ……ンなもんデスか」
「八戒だって、そうだろ?」
 すかさず肉マンを掴んで、悟空は八戒にだけ笑いかけた。ますます呆れの度合いを強めた悟浄は、シカトである。
「まあお互い何もなければ、ですがね」
 湯呑みを手にした彼は、花の香りのするお茶を啜り、苦笑まじりに返した。その視線は、今や自他ともに認める半身、悟浄を柔らかく包んでいた。
 彼らは現在、寺院とその寺前町という違いさえあれ、さほど悟空から離れない場所で、共同生活を営んでいる。そのため滅多に寺院を離れられない三蔵はともかく、この三人はこうしてそれなりに、基本的にこの場所で顔を合わせていたのである。
「しっかし、お前はさ、それでいーのか?」
 向けられた翠の瞳に照れているのか、悟浄はわずかに顔を逸らしながら問いかける。むろん食欲は相変わらずなので、口調が途切れがちなのは否めない。
「何してるってワケでも、ねーんだろ?」
「だって三蔵が、来いって……」
「まるで奥サンみたいだねー」
 常ならば反駁しかありえない、そんな冷やかしもいいところのセリフに、なぜか悟空は饅頭を握りしめたまま絶句した。そしてそのまま勢いが萎えるかと思えば、ヤケのように手の中のそれにかじりつく。
(役立たずってことじゃん、オレ)
 感情を抑えるような食欲も、けれどその次へと手を伸ばさせなかった。
「ちょうどいいです」
 そんな様子を横目で見ながらも、見事に自分の皿を片づけていた八戒は、箸をきちんと揃えて下ろした後、その細い指先で壁面を指した。そこには、墨書きの文字も雄々しい一枚のチラシが掲示してあった。
「急募……?」
「そう。ここで働いてみるんですよ」
「このサルがかぁ?」
 唖然とする二人をよそに、淡々と言葉はつづけられる。
「特に何もしていないのなら、どうですか?」
 まっすぐに見つめてくる視線は、悟空の心を揺さぶるにあまりあるものだった。そしてその陰で笑い転げている悟浄の姿も。
「やる。やるよ、八戒! オレ、働いてみるっ」
「そうと決まれば『善は急げ』ですね」
 あくまでも悟浄を無視する悟空の言葉に、八戒はすぐさま立ち上がって店主を呼び寄せた。
 そこから先は、トントン拍子。ここらあたりはいつでもどこでも求人中で、現代日本の不況風とは大違い。
 しかも悟空ときたら、この店ではアイドル並にもてはやされていたのだ。
 料理人に好かれるコツは、食べっぷり。おいしそうに必ず食べきるその姿は、誰から見ても好ましいものであっただろう。
『明日からでも、来てくれよ』
 好意的な店主からの、そんな言葉。そしてやる気に満ちた悟空の返事と、八戒からの保護者じみた感謝。
 ちょっと不安そうな悟浄を残し、みんなが新しい門出を祝って乾杯したのだった。

 けれどそれが、すべての発端だった。
 飲食関係という都合上、新米の悟空も夜はどうしても帰りが遅くなる。いろいろと教わることもあるからだ。
 そして、結果として朝も遅くなる。早朝から勤めのある三蔵とは見事にすれ違うわけで、常時顔をつきあわせている、そんな旅のときのような状況は皆無となり、またロクに話もしないそんな日々が、日常のようにむしろ続いていくのだった。

……互いを見ていることが、できない。

 ただそれだけが、彼らの関係をどう変化させていくかなど、本人たちにすらまだお呼びもよらなかった……。




   運命の輪など 信じちゃいないが
   廻りだしたら止まらない
   そんな何かは必ずある

   すべてを凌駕する 感情……








◆   ◆


 そして、悟空がドタバタ戸騒ぎ出したのは、三蔵と悟空、ふたりがこうして昼間から一室で過ごすことなど、稀なことになりつつあった、ある日のことだったのだ。

「いつになったら終わるんだ、仕事のジャマだ」
 あくまでも悟空にはポーカーフェイスを気取っていた三蔵は、何をしているんだとすら訊かずに、再び非難の声をあげた。
 その実教典の上に、もはやビリビリに裂けた新聞を載せているあたり、仕事をする気がないのは明白だ。もちろんその紙クズすら、目に入っているわけではない。
「もうすぐ……こんで終わりっと」
 けれど少し離れた場所にかがみ込んでいる悟空に、そんなことが気づけるはずもない。
 ぴょんぴょんとトランクケースの上で飛び跳ねて中身を押さえ込むと、その蓋を無理矢理とめつけた。
「三蔵もこれからは、静かに新聞、読めるよ」
「これから?」
 その声と同時につながらない文字の羅列をただ追っていた視線が、ぴたりととまる。男の相貌は、不自然なまでに無表情だ。しかし瞬間のみ垣間みせたうつむき気味のそれは、誰にもそのことを悟らせない。
「そう、これからずっと」
 くったくなく笑う悟空もまた、その瞬間を見逃した一人だった。きっかけなど、今日はいくらでもあったというのに。
 もはや見逃した理由は、三蔵の鉄面皮のせいではない。
 あまりに自らの“これから”に眼を奪われていたがために、悟空は現在というものを見落としてしまったのだ。
 それは現実と言い換えても、よいかもしれない。
(これで、一緒だよな)
 けれど浮かれ調子の“子供”は、どうにかまとめ上げた荷物の上であぐらをかいて、そのようやく並び立つことが叶った相手を眺めている。
 対等、同格。これが、最近の悟空の行動すべての原因、キーとなっていたのだ。
 三蔵の『何か』ではなく、『悟空』自身として、誰からも認められたくなっていたのだ。三蔵からだけではなく、周りから。そうでなければ、彼のそばにいてはならないと認識しはじめたためだ。
 きっかけは、悟浄の言葉だったかもしれない。
 けれど、そこから考えをまとめるに至ったのは、紛れもなく悟空の成長であろう。
 だから仕事を外で見つけ、住処も外に求めた。
 まださすがに対等とまではいかないが、スタート地点に立てた。
 そう彼が思ったのも、致し方のないことであろう。
 あと彼のすべきことは、自分以外に認めさせるだけだ。自分が、三蔵とともにいることを許される存在であることを。
(まずは……三蔵に、だよな)
 絶対に理解してほしいから……。
 だからこそ彼は、新聞を障壁のように立てたままでこちらに目もくれていないであろう相手を、強いまなざしで見つめたのだ。
 絡まない視線。招きもしない手。呼びかけすらしてはこない、そんな男を。
 けれど、実のところ三蔵は、その様子を新聞の破れ目からじっと観察していた。もはや血の気の失せた顔色を繕うことさえできずに、次なる相手の行動を待っていたのだ。一縷の望みをつなぐかのように。
 そして、男の小刻みに揺れる手の中で、がさりと紙がこすれ合う音がした瞬間。
「ウチ、見つけたんだ」
 あまりにあっけらかんと口にされたセリフは、悟空にとってはもはや確定した現実だった。
 仕事を始めたときから、ずっと考えつづけてきたことだ。相談もなく決めたことも、まずいとすら考えられなかった。あくまでもともにありつづけるために選んだ、最高の道だと信じていたからだ。
 けれどそれは、客観的に見れば、相手にとっては唐突に突きつけられた別れの宣告に、他ならなかった。
「…ここ……ろ」
「あ、まだ残ってたっ!」
 取りこぼしに気づいてふたたびケースの蓋を弾けさせた悟空は、男の渇ききった低い声を聞き取ることができなかった。
 とにかく一つ残らずまとめ上げる、それだけに夢中だったのだ。
 ほとんどないに等しい個人の品とはいえ、そのすべては三蔵のくれたものだ。置き去りになど、彼にできるはずがない。
 その間、聞き逃された声の持ち主が、新たな言葉を発することはなかった。
 だから、再び鞄にのしかかった悟空は、思ったままに言葉を紡ぐ。ずっと言いたくて、それでも確定するまで隠していたのだ。堰を切ってしまえば、水はあふれるしかない。
「それもな、この寺のすぐ側なんだっ」
「……ここにいろ」
「え?」
 ガタガタと震える腕で、崩れそうな新聞の次のページを開きながら、視線を投げることなく三蔵は言い放った。二度目となる言葉は、今度こそ明瞭な発言だった。
 至極あっさりと、それが当然のことであるかのような、端的な言い回し。
 けれども悟空は、疑問を口にせずにはいられなかった。
「どうして?」
「お前はここにいればいい」
 まったく説明になっていない、答え。
 けれど、畳みかける言葉にさりげなさを飾りつける。それは、どれほどの努力と忍耐の上にのみ、成り立つものだったのだろうか。
 むろんそれに気づかなかったのは、悟空のせいとは言い切れない。
 けれど幼さも、ときには罪だ。
「……でもさ」
 いくら嬉しくとも、それは受け入れてはならない。
 言葉の真意など計りきれない、まだ幼い悟空は振り向いた……いや、何かわけの判らない力によって、強制的に振り向かされた。
 その瞬間に耳を打ったのは、完全に新聞を引き裂いた、強烈な音。
 そして……その隙間から見えた、三蔵の顔。
 紫暗の瞳が放った、激光。魂の咆吼。

 均衡が崩れたのは、この瞬間だったのかもしれない。







   崩れかけた意識は
   日常すらも認めない
   壊れてしまう すべてが

   ならば

   壊してしまえばいい……







◆   ◆



 そして唐突にはじめられた、囚われの日々。

 いま悟空の身につけられている物は、数限りない拘束具だけだった。衣服など、ほとんどない。
 最初のうちは、抵抗を封じるように、帯で手足をまとめるくらいのことだった。それがいつしか、余分な身動き一つを許さないとばかりに、力の限りで縛りつけられるようになった。
 その帯を、ふとした弾みで引きちぎったために、行為はエスカレートをはじめた。
 かたく戒めた手首と足首の縄を、痛みのあまりちぎれば、椅子にくくりつけ。木製のそれを破壊すれば、壁の飾り格子に。縄ごときでは手に負えないと知れば、鎖を。最後には重い枷すらも、科せられた。
 わずかでも抗えば、なおさら強くなる拘束。逃げ出す意志を、初めから奪い取ろうとするかのような、そんな主張の露骨な具現だ。


 そしてその延長にあるはずの、いま現在の夜……。


「……おとなしかったらしいな」
 ひどくそっけない、淡々としたそんな言葉。
 それが、今宵もまた彼らの関係に変化のないことを示した。つづく、白い法衣を脱ぎ捨てる男の動きが、今日もいつもどおりの刻がはじまることを告げるのだった。
 公務から戻ってきたばかりの、本来の部屋の主は、月光すら差し込まない暗い室内で先住の相手を見下ろしながら、ゆるめた帯を放り出しつつ、ため息をついていた。
「しかし、お前は相変わらずだな……」
 この“お前”という語が、目の前にいる対象、すなわち悟空を指すのは明白だ。
 しかしそれ以外は、何を指すのかわかりにくい。感情の薄い言葉遣いは、それこそ彼も相変わらずである。
 というよりも……三蔵の変化は、言語で表現することなど、到底不可能なものだったのだ。
 もともと、仕事に対する態度や一般的人づきあいのような、いかにも外面的要素で何かをバレさせるような男ではない。いかにもいままでどおりに、彼はいまも、普通きわまりない生活を送っているのだ。
 朝はそれなりに勤行に列席して朝課をすませ、経典研究と称して自室にこもる。昼は運び込ませた質素な膳で軽くすませ、そのまま部屋から出ることなく過ごす。そして夕刻、また再び勤行に参加をして、食事の椀を手にして、すぐさま引きこもっていく。
 ときには大きな法要や、“三蔵法師”としての執務などで、多少のバリエーションはある。けれど基本的にはそんな、寺院に戻ってきて以来の生活習慣そのままに、彼はずっと日々を過ごしている。
 変化をそれとして、欠片も悟らせない。
 そう、要するに“変わった”と評されることすら、彼にはありえないのだ。
 疑いを差し挟む余地などない。さすがは面の皮が並ではない、鉄面皮の三蔵というべきだろうか。
 とはいえ、そもそも最初から、やる気のない仕事態度に、小馬鹿にすることすら惜しむ他人への態度なのだ。どうしてわかるというものだろうか。
 何にせよ、彼の変化を察した他人は、どこにもいないのである。
 いや、ただ独り……悟空だけは、知っていた。
 なぜなら、一つだけ確かな変化があったから。一日のうちで三蔵ともっとも長い時間を過ごす、彼だからこそ気づける違いが。
 ただしそれは、悟空自身が監禁されている、そのことなのだった。
 それとて、監禁という語が、本当に適切かどうかはわからない。なぜなら囚われているはずの悟空に、本気で逃げ出す気などないからだ。

……それは何故か?

『外に行きたい、八戒たちに逢いたい』
 そんな、抵抗とも言えない、希望を口にしただけで強まる拘束。
 そしてその度ごとに見せられる、三蔵の哀しげにくすむ紫の瞳。
『お前は、ただここにいればいいんだよ……』
 魅入られながら、繰り返される暗示のような言葉は、多分に感情を含まない。それでも優しげな響きを漂わせて、悟空へと与えられるのだ。
 むろん、これは紛れもなく、悟空の想いでもあるはずだ。
 もともと彼の望みは、ただ一つ。
(単にオレは、三蔵のそばにいたかった。それだけなのに……)
 すべてはそこからはじまっているのだ。
 拾われて、旅につれられ、戻ってきて。それだけの年月が経てば、もはや彼も子供ではなくなっていた。
 何かを考えなければ、ともに居ることすら出来ないほどに。
 だからこそ、選んだのだ。寺を出ることを。
 働いて、独りで生活をし、その上で三蔵と居ることを望んだ。
 その思考が誤りであったとは、誰にも言えないだろう。
 確かに短慮ではあったかもしれないが、悟空自身も、この状況に追い込まれてなお、間違いだったとは思っていない。
(だから、哀しい瞳をしないでくれよ)
 【わかる】ということなどありえないと思っている三蔵が、唯一知っていた、否、信じていたこと。むしろそんな言葉すら、いちいち当てはめないほど、日常としていたこと。当然のことすぎて、気づくことも出来なかった。それは確かに間違いではなかったから。

 あの日々が、その終焉の時まで、永遠に続くであろうということは……。

(いまだって、そうじゃんか)
 そこまで考えたとき、悟空はいつも、思わず独りほくそ笑んでしまう。
 曇った顔を見たくないからなんて、所詮、キレイゴト。
 本当はただ、この状況を喜んでいるのだ。どれほどつらく苦しい監禁生活であってさえも、逃げだそうなどと思えないほどに。
 閉じこめられているのは、紛れもなく悟空だ。
 けれど、自身の望みを叶えたのもまた、悟空の方なのかもしれない。
 この狭い牢獄に囚われたのは、彼だけではない。きっと三蔵も同じ。
 監禁する者も、この暗黙の了解…デキレースに気づいている。
 しかし、それなのに。どうして徐々に拘束の度合いは高まっていくのか……それだけは、囚われの悟空には、未だわからないのだった。

「……メシだ」
 三蔵が戻ってきてしばらくの後に、ゴトリと乱暴な音を立てて、悟空の前に盆が置かれた。
 死なせないため、それだけかどうかは知らない。けれど意外に三蔵は細かく世話を焼くのだった。入浴、食事、その他諸々。その面倒見の良さは、小坊主の手を何一つ借りたことがないという点で、如実に示されていた。
 その理由はいまの悟空の姿を、誰にも見せたくないだけかもしれないが。
 なにせほとんどない衣服に拘束具では、どこも隠しようがない。欠片でも独占欲や所有欲に類似した者があれば、隠すのが当然だろう。
 そもそも“三蔵”を装いつづける限り、決して晒してはならない面。その象徴が、悟空という存在なのだ。
 だからこそ、目を離すことすらしない。
 これが拘束の強まる要因の一つではあろう。
 妖怪退治のような物事は、もはや悟浄たちに任せきりだ。
 泊まりがけでしか片づけられない仕事は、基本的に受けることもし、さもなければ悟空もつれていく。寺院内にいるけれど抜けられない法要があるときなどは、昼飯と称したものを用意しておく。
 それはいま現在、目の前に置かれた盆と、ほぼ同じものだ。
 乗っているのは、握り飯と漬け物。それと、椀に入れた、ロクに具のない汁物らしきもの。単に箸や匙など、ヒトらしいものを使わせる気がないだけかもしれないが、括られた手でも食べられるほどに単純なものばかりだ。
 なににせよ、寄せられる気遣いは、紛れもなく悟空自身へのものである。
 その事実が、囚われた者にとってどれほど救いであるかを、捕らえた者である三蔵が知ることは、きっとない。
「メシくらい、喰え」
 ぶっきらぼうさ加減は、それでも以前とかけらも変わらない。目元などは、すこしやつれたからか、いっそう凄みを増している。
 なんのリアクションも起こさない悟空に焦れる。そんなときにだけ、無感動もあらわな三蔵に、こうして表情と呼べるものが浮かぶ。
 それが生命維持に関する事柄であれば、なおのこと際だった変化として現れる。やはり、殺したくはないのだろう。
(でもオレ、死んでなんかやらないよ)
 もう二度と捨てられない……捨てさせなんか、しない。
 そんなことには、もはやどちらも耐えられないだろうから。
 喪失の恐怖を一度魂に刻み込んだ者に、再びの衝撃は受け止められるものではない。
 しかし現状は。
 椀の中の透き通った水色を見つめながら、悟空は唇を小さく噛んだ。
 せっかく見つけてきた仕事も、強制的に、というよりなし崩しにやめさせられた。
 何度かは店の主人も会いに来てくれたようだが、完全に門前払いを喰らわされたようで、いまでは音沙汰もないようだ。結局は迷惑をかけただけの、八戒や悟浄にもずっと逢っていない。寺の者にすら、一度も……。
 そんな孤独な状況を見つめてしまえば、心はこの現実を招いた原因を探ることに、救いを求めてしまう。要するに、自己の世界で思索に耽ることだ。
 まだ春も浅かったあの日のこと。
 また仕事を決めたときのこと。
 眩しかった、夏の太陽のこと。
 そして、そのときどきの、三蔵のこと……。
 思考は、徐々に過去へとさかのぼっていく。あの懐かしい、五行山の出逢いまで……。
(助けてもらったことが、もう間違いだったのかな)
 悟空の考えは、そこでの記憶に翻弄される。
 自分が何であるかもわからず、ただ生きつづけていた。
 閉じこめられた、小さな空間。檻の中でつけられていた、重い枷。冷たくて、かたくて……。
 唯一のぬくもりは、自分の髪の毛だけだった。
 その包み込むような感触は、何かあたたかいような記憶すらよみがえらせてくれていた。そんな過去が本当に存在したことであったか、それがわかることは永遠にないだろうが。思い出さえ、残されていないのだから。
 わかっていることは。
 無意識のうちに、誰かを……太陽を、呼んでいた。
 ただそれだけ……。

「二度も言わせるな」
 そんなセリフで、悟空は意識を現実へと引き戻された。
 しかし視線は、ずっと三蔵を追っていたらしい。無意識下で、彼が来てからの一部始終を認識していたからだ。
 食事を置いたあと、一本だけろうそくをともした男は、法衣を脱ぎ捨てたタンクトップ姿でたたずんでいる。ゆったりとした着物の僧侶然とした姿より、よほど禁欲的な外見だ。
 その上に乗った顔は、とうに苦り切った表情さえ消していた。
 もともとポーカーフェイスが常の彼とはいえ、あまりの無表情さは、かえって苦悩を超えた、完全な苦痛を感じさせる。
(痛いんだろうな……)
 まじまじと見つめながら、悟空はただ相手のことだけを考えていた。視線に促されるまま、一口、二口と食べはじめる。
 食欲などまったく感じていない。けれど味気ないはずの粗食も、いまの彼にとってはご馳走であった。
 相手の想いを受け止めることに長けた、彼だからこそであろうが。
「三蔵……」
 半分ほどをどうにか口にした状態で、悟空は小さく呼びかけた。
 そっと見上げた金の瞳に映ったのは、座ることを忘れたかのような男の姿だ。ただこちらを見下ろしているだけの、何の感情も双眸に宿していない。
 そんな相手に声をかけたところで、何が出来るというわけでもないことを、悟空は理解していた。
 それでも、呼ばずにはいられない……。
「ねえ、三蔵」
「なんだ」
 しかめた顔つきが、端的に問いかける。冷たく流された視線は、無言の圧力だ。
 そしてその沈黙の時間も、数秒にすぎない。
「言うことねぇなら、黙ってろ」
 ほとんど続けざまといってよいタイミングで、名を呼ばれた男は、相手からの働きかけを切り捨てた。
 けれどこの程度で諦めていては、何も始まらないであろうことも、悟空は身を持って知っている。
 自分に唯一残された、三蔵に対して、出来ること。
「さんぞぅ……」
「うるさい」
 そんな必死の呼びかけに対してさえ、叩き切って捨てる調子は、以前と変わらない辛辣さだ。
(痛いなら、痛いと言ってくれよ……)
 無駄のない口数も、どこか冷ややかな瞳も、以前と同じなのに感情の片鱗さえ窺わせることはない。強いて形としてあげるならば、そのすべての裏にあった者が、消失してしまっているということだろうか。
 欠落も、一つの感情だ。形にしようとしていないことが、だからこそ、突き刺すように訴えてくる。圧迫はおさまることを知らない。
 もはや悟空は黙り込むしかなかった。
「……もう、いいのか?」
 口の利用価値は、栄養摂取だけだと言いたいのだろうか。その問いかけへかすかにうなずいた顔の、その小さな口に、いきなり三蔵は枷をはめさせた。
 囚われてから、早一ヶ月以上が過ぎている。
 その間で既に馴らされた行為とはいえ、大きすぎる球体をくわえさせられるのは、意外に苦しいことだ。
 いかに呼吸孔がいくつも空いていようが、顎を中空のプラスチックボールで固定されるのだ。舌が動かせない、口が閉じられない、言葉どころか声すらまともに発せない。口が閉じられなければ、唾液を嚥下することも叶わない。
 呼びかけの煩わしさに、閉口していたのだろうか。
 三蔵はいきなりかがみ込んで、悟空の身体に触れた。飾り格子と手首をつなぐ、長目の鎖だけが、鈍い金属音とともに外される。
「……立て」
 足首に絡まる鎖はそのままに、強引な腕は命令に従うより先に、相手の身体を引き起こす。そしてなおさら横暴な膝は、肩幅程度にその脚を開かせるよう、ジャラジャラとした音を立てさせながら、割り開いていく。
「腕、あげろ」
 わずかにも抵抗する間なく、手枷はあっさりといつもの壁飾りへと引っかけられる。
 それだけのことで悟空の身体は、開かされたままの脚を限界まで伸ばして床に着くか着かないか、そのギリギリを見計らった高さへと、標本のように留めつけられた。
 当然、早々都合のよい位置に、格子や飾りがあるわけもない。それはそのためだけにつけられた、真新しい固定用のフックだった。
 磔は、これだけにとどまらない。
 腕だけに負担をかけて肩が抜けたりしないよう、腰のあたりにも鎖を巻きつけて飾り格子へと括りつけることも忘れない。最後に、床に転がしてあった鉄の棒の、その両端を足先に結わえつけて、拘束は完成だ。
 そして始められるのは、定められた一連の、もはや儀式と称して何ら支障のない行為だ。
 まず三蔵の腕は、ベルト類の具合を確かめるように触れていく。
 口枷を咬ませた頬、宙づりに固定する手首から腕、安定を図るための腰。脚を開かせつづけるため一本棒へと括った足首。
 薄明かりの中で、上から下へ。そして下から上へ。
 一つずつを丁寧に確認しながら、弛みがあればためらいなく留め直していく。あたかも採集した蝶の羽根を、もっとも麗しく見えるように開いて、その身体に針を打ち込むかのようにだ。行為を施す三蔵の目は、紛れもなく収集家の色を宿していた。
 もはや捕らえきった獲物……生け贄。
 哀しみ以外の感情を浮かべないはずの瞳に、どろりとした執着が露骨ににじむ。それはある意味では、欲望と呼べるものだ。けれど俗に呼ぶ肉欲などというものとは、まったく異なっている。
 それは縛られた者が、もっとも痛烈にわかるものだった。
 数々の拘束帯以外、身にまとうものを失っている悟空は、全身を余さず晒すこの磔姿に、多大な抵抗があった。恥という概念など、衣服を奪われ屈辱的な外見にされたときに、とうに失われたと思っていたが、それでも拭えない羞恥があった。
 けれど、その姿を見据えてくるまなざしは、どこか狂気めいていて、見られる者から性的な感覚を奪い去る。
 三蔵の執着は、肉欲ではない。それを如実に悟らせる、強い輝きだった。
 その輝きでも、くすんだ哀しみの紫を、完全にうち消せはしなかったが……。







◆   ◆



「さて、と」
 そんな前置きのような言葉を、男は吐息で発した。そしてその右腕を、最終確認の素振りで伸ばしていく。
 もう一度上から順に、ひとつずつ、ベルトをたどる動き。
 それは露出した肌を、ついでのように触れていく。
 どちらが目的であるかなど、言うまでもないだろう。
 手甲の黒い布地が、悟空の上を奇妙な感触で舐めていく。嵌められた枷によって飲み込むことも許されず、張りつけられる間ずっと、ただあふれるままに流さざるを得なかった唾液を吸い込んだ、手甲の黒い布地。湿り気を帯びたそれが、悟空の上を奇妙な感触で舐めていく。素肌の部分との差が、被虐的な感覚をもよおさせる。
(三蔵、少しはオレ、役に立ってる?)
 言葉でも、それ以外でも、呼びかけるすべを失った。
 殻に閉じこもってしまった相手に働きかける手段を、悟空は知らない。相手を殻から引きずり出してしまう、三蔵のような力を、持っていないのだ。
 彼にできるのは、せいぜいがその一時、苦痛という感情から逃れさせることだ。
 それがこれからはじめられる行為だというのならば、甘んじて受ける覚悟はしている。
 いや、むしろそれ以外何もできない自分が、歯がゆくてならなかった。一時の救いなど、真実求めているものではないと、濃紫のまなざしは切実に語りかけてくるのだから。
 揺らぐ明かりの中、視線の先で動いている、淡い輝きの髪を見下ろしつつ、悟空はそんな自己の思考世界に陥りかけていた。
 そんな相手の無関心さに微妙に焦れかかっていた三蔵は、だが彼もまた獲物の感情に目を向けることをやめて、苛立ちのない自分だけの中へと入り込んでいったようだった。犠牲は無反応であることこそ、正しい反応なのだと。
 収集家と化した男の乾いた左手は、自らの愛しい所有物を形取るようになぞっていく。緩やかな動きは何の作為もないかのように、単純な素振りをくり返した。ベルトではなく、完全に肌の上を滑っていくそれは、触れられる者に確かな感触と安心感を与えている。
 とはいえ、重ねているのはあくまで、その左の掌だけだ。
 ときおり爪先がかすめたりはするが、指先での細やかな愛撫や、口づけが降らされることはない。手触りを楽しむ、自身の快楽を追求するのみだ。
「……っ、ふ」
 呆然と見下ろしていた悟空の瞳が、深い呼吸とともに静かに伏せられていく。その様子に対して、三蔵は遠い眼で、なお同じ動きをつづける。
 身体の曲面に沿って単調に施される、執拗で、かつ意図の見えない行為は、緩慢であるがゆえに、あらゆる感覚器を鋭敏に仕立てあげていっていた。
 手甲のよじれた布の感触、また指の腹の、直に触れる肌のきめ細やかさ。ほんの一瞬停滞するときに継がれる、微妙に詰まった息の音。そして目を閉じてさえ感じられる、男の視線。
 優しいそれらの感覚に、緊張感に強ばっていた身体が緩む。ガシャリと、手首の金具が鳴った。つけない吐息は、枷の中でくぐもってしまった。
 すべてを相手に預けたような状態だ。この安堵が永遠につづけばいいとさえ、いまは密やかに願ってしまう。
(……?)
 その瞬間を狙っていたかのように、男の掌は動きを止めた。喪失感に、思わず伏せていた瞼が持ちあがる。
「ク、クク……」
 まだ視界が開ききれないうちに、押しつぶしたような低い嗤いが、急速に耳元を打つ。
「ヒァ……ッ」
 冷たく湿った何かが触れたと感じた瞬間、いつの間にかプツリと勃っていた、まだ色薄い小さな乳首は、強くつねりあげられていた。それが乾くことのなかった、唾液まみれの右手だということに気づくまでには、まだ数秒のタイムラグがあった。
(どうして、三蔵……?)
 完全に開いた金晴眼が認めた男の姿は、悟空の想像域を超えたものだった。
 反応を引き出したことに満足こそすれ、苛立つ道理はどこにもないはずだ。けれど、おもむろにタバコをくわえた無表情な顔から窺えるのは、まさしくそれだ。
 確かめたがっていると思ったから、三蔵を受けとめた。素直に身をゆだねたくなったから、心地よさに浸ろうとした。
 ただそれだけなのに、何故そんなきつい、そのくせ限りなく哀しげな表情を浮かべるのだろう。
 悟空にはわからない……いや、きっと三蔵自身にも。
 そんな、自らにすら怒りを向けた男は、だからわざとらしく口端に嫌みな険を宿してみせる。そして腰から愛用の銃を取り出した。恐怖を煽り、長引かせるように、その硬質な輝きをかざしながら。
 悟空の視線が、その銀の塊に集中する。
 わかっていたこととはいえ、身体が硬直するのは抑えきれないようだ。カチカチという金属音が、全身につけられた鎖から立てられる。 
 かすかに走るおびえの色に、凶器を握る男は、満足げに舌を舐める。
 そして震える身体へと、その銃口をゆったりとした仕草で這わせはじめた。
 こめかみから首筋。心臓の真上。つねりあげられ、より凝り固まった場所を経て、脇腹を辿り、臍にぴたりと当てられた。徐々にその硬い冷感が、下腹部へと向かう。最も奥まった場所に向けて、ためらいもなく。
「ビクビクしてるな……いや、ヒクついてんのか」
 銃口は肉の抵抗をものともせずに、望みの場所を抉りこむように侵略した。
 昨日も同じそれにムリヤリ貫かれたそこは、もはや粘膜がめくれて腫れあがっている。傷らしいものが見あたらないとはいえ、そんなところを無造作に開かれれば、反応するのが当然だ。
 蹂躙する横暴な無機質から少しでも逃れようと、固定された脚を突っ張って伸び上がろうとすれば、ひきつれ出される粘膜を観察するように、浅い入り口のあたりだけを幾度も擦られる。
 ヒュッという息だけの音が、咬まされた球体からあがる。いや、叫んだにせよ、それ以上の声にならなかっただけだろう。ついでのように、ドロドロの液体も、まき散らされた。
「ふん。そんなにコレが欲しかったのか?」
 浅く埋めた位置で、男は嘲りの表情を、その顔に造りあげることに成功した。そしてとどめのように瞳を眇めると、手首をぐるりと返す。それと同時に、ギリギリと位置で突っ張っていた悟空の膝を崩させた。
「グ、ゥ……っ!」
 いつもよりほんの少しゆるみのあった、頭上の鎖。
 それがために、三蔵の腕に固定されていた銃身は、重力によってたやすく悟空の身を貫いていった。充血していたところに与えられた金属の硬さは、すぐさま紅い液体を流させた。
「こんな血だらけのくせに……このエロザルが」
 そのぬめりを利用して数回深く受け入れさせたあと、ずるりと抜き出したメタルを、汚れをなするように悟空の腹部へとこすりつける。その直下には、ようやく幼さの抜けたばかりの象徴が、しっかりと勃ちあがってしまっていた。
「やっぱり寺にいたガキは、こうなわけか」
 稚児遊びのことを指すのだろう。
 芯を持ちかけたそれを軽く握ってもてあそびながら、紫煙を悟空の顔へと吹きかける。本人が意識しない露悪的な表情は、けれどなおその無意識下で造られたものだ。
 少なくとも、霧がけられた視界の向こうに置かれた潤んだ瞳は、そうとしか感じ取れずに、切なく細められた。
(守ってくれてたじゃんかよ)
 遊びの対象にされないように、すべての力を総動員して守ってくれていた。その手段がいかに綺麗なものでないにせよ、いや、むしろ完璧であるためには清冽さなど求めないかのように、囲い込んでくれていた。
 その純粋さが、行きすぎた……。
 だから無意識のうちに生まれる、以前と変わらない怜悧さ。歪みもしない口元が、あまりに冷たくて。
 そんなふうに彼を悲しませることしかできないこと。悩ませるしかできないこと。
 つまりは三蔵が苦しんでいる。
 それだけが、唯一。
『哀しいんだ……』
 もはや悟空は、目の前の男から、片時も目を離すことが叶わなくなっていた。瞬きすら、しない。
 そのまなざしを、三蔵はどう受けとめたのだろう。
 くゆらせていたうちに、かなり短くなっていたタバコを、その指先へと彼は落とした。その熱源は、磔に処された身体の、あちらこちらへと押しつけられていく。
 けれど悟空は、呻きすらあげなかった。
 戦いで鍛えられたからではない。この痛みなど比ではないほどに、目の前の相手の心が傷ついていることが、わかるからだ。自らの手もまた焦がしながら、消えない痕を刻みつける男の魂が。
 いま許されている視線というものだけに、悟空は力を込める。
 そんな、ただ追いつづけてくるまっすぐな瞳を避けるように、指先で火をつぶした男は目線を伏せた。その視界に入ったのは、逆の手に握りしめたままだった、紅いもののこびりついた拳銃だ。
「……こんなんじゃ、浅くてつまらなかったよな」
 悟空の想いは、伝わらない。
 なおさら無表情の仮面をつけた男は、あまりにわざとらしく脅しの声音を紡いだ。そして片手で器用に握りかえて、今度は銃把のほうを、形ばかりの抵抗すら放棄した身体に、再び埋め込んでいく。乾いた紅いラインを残していた、少年らしい細い腿に、もう一条、より濃いラインが刻まれはじめる。
(……三蔵)
 せめて、この姿に感じてくれていれば、まだしも救われるのに。この貫く銃が彼自身だったならば、どれほど嬉しいことだろう。
 現在、エスカレートしていくのは、性的接触とすら呼べない代物。
 三蔵は、普通の意味で抱くことを、決してしなかった。それどころか、唇で触れることも、その指を体内に埋めることも是としなかった。
 触れれば、反応する。
 ただそれだけのことに、執心しているようだ。生命すら脅かしかねないところへ達するのも、もはや時間の問題かもしれない。
 どうして此処まで来てしまったかなど、悟空には到底わからないだろう。受け入れるしかできない者に、要求する者の苦痛はわからない。
 けれど想いをぶつけあった躰は、重ねられた回数の分だけ、着実に馴染んでいっている。熱情をごまかせないほどに。
「……勝手にイクんじゃねぇ」
 侮蔑的な物言いに、けれど力はない。
 その言葉を低く発するときだけ、ほんの少し、その酷薄そうに造られた顔が苦く歪むのを、三蔵は自覚しているのだろうか。
 そしてまた、その一瞬の彼の存在すべてが、酩酊感にも似た悦びの心境を悟空に与えていることを、気づけているのだろうか。
「う、うぅ……」
 どう言えば。いや、どうすれば、通じるのだろう。すべて三蔵だから許せるのに。
 許すも何も、最初から、すべて三蔵のものだということを。
 悟空の頬に、もはや自らのためには流れなくなった涙というものがこぼれ落ちる。透明で純粋な雫が、あふれた感情のままに筋を描く。彼の感情は、すべてただ目の前の相手へと向けられていた。
 跳ねつけられることが、何よりもおそろしい。三蔵がいなければ、凍えて死んでしまう。生きていくことなど、できるはずがない。
 いや、そんなことは関係ない。
 生きていたいなどという理由もないのだ。ただすべてが彼にあるのだから。
 どんな状況であっても、三蔵という存在だけが、悟空の唯一なのだ。
「……悟空」
 思わぬタイミングでかけられた、呼びかけ。
 囁きは、小さく。けれどゆっくりと触れてきた掌の熱さは、違えようのない感覚だ。塩気に痛む眼を無理に開けば、間近で見つめる三蔵の顔が、かすんだ視界の中に揺れている。
『三蔵……』
 声にならない応えは、水晶をこぼす瞬きの数で。
 じっとこちらを向いている三蔵の顔が、歪んで見えてしまうのは、きっと涙のせい。けれど外されることなく向けられている、紫水晶の輝きは……。
 微妙に愉悦に歪んだ表情を目の当たりにし、悟空は息を飲まされる。そんな姿からも逸らされないまなざしには、何の覆いもない。濁りもくすみもない。
 ただ純粋な、深い闇のような濃紫だけ……。
 泣きはらした瞳でも。苦しみに喘ぐ息でも。血にまみれてよがる、この躰でさえも。
(三蔵はいま、オレを……。オレだけを見ている……)
 それならば。
『この叫びを、聞いてくれよ』
 身も世もなくあげてみせる。この身体で訴えつづけられる限り。

 そのすべてを知らしめるために……。

 想いを吐き出して弛緩しきった肉体は、次の瞬間、細くも筋肉質な三蔵の腕に抱きとめられていた。
「俺は……何処で狂ってしまったんだろう」
 ぼそりとこぼれた、苦さの塊のような言葉。喉を灼くように吐かれたそれは、聞き取ることができないほどに微かなものだった。
 けれど悟空は、それこそ気が違ったかのように、首を打ち振るった。
 拘ることすら、元々めずらしい男。それが三蔵だった。
 一時の執着という単語すら当てはまらないほど、欲から遠い存在であった。
(けれど、いまは……)
 互いに、拘りあっている。
 欲求に従順そうで、実はもっとも離れた位置にあったはずの悟空に、執着を植えつけたのは三蔵だ。
 互いに持つ、言葉では表しきれない感情。
 最も強く、最もまっすぐな心を秘めていること。
 ……世界がそれを、狂っている、というならば。
「そうか。狂ったのは」
 少しだけ緩んだ空気をまとった男の、その紫の瞳がまつげの影にしばし潜められる。
「俺たちか……」
 わずかな安堵をにじませて、彼は髪を掻きあげた。無造作な動作に舞った金糸は、そんの少しだけ濡れたように紅く光った。
 血に汚れた手は、そっと悟空の顔にかかるベルトを外して、枷を床へと落とさせる。カランという軽い音が、口元から垂れる雫の糸をぷつりと絶った。
「さんぞぅ……」
 そしてようやく言葉となった、悟空の声。
 まだ涙の名残をとどめた瞳は、まっすぐに相手に向けてだけ輝きを放つ。
 身体を動かすことの許されない今、彼にできるのは見つめることと、ただ名を呼ぶことだけ。その他には手段も、また言葉さえもない。
「さん、……っぁ」
 再び薄く開かれかけた唇に、吸い寄せられるように男の口は触れていた。それはどちらにとっても思いも寄らない行為であった。
 けれどもそれは、柔らかな唇の裏側から、綺麗に並んだ歯列、微妙にざらつく上顎、舌など、触れられなかった箇所は何処もないほど執拗で、そのくせひどく優しく、すべてを溶かし奪うほどのものだった。
「お前を、喰いたい……」
 睦言以外のなにものでもないかのような、かすれた甘やかな口調が、まだ細く銀糸でつながれたままの悟空の唇へと注がれる。
 それは、発した本人にすら、思いがけない言葉だった。
 失したくはないはずなのに。
 けれど言葉として形となった想いは、真実を彼自身に思い知らせる。すべてがそのためにのみ選ばれてきたかのようにさえ、鮮やかさに満ちた甘美な誘いだ。
 揺らぐ炎の空間の中で。一瞬の後、ぷつっとつながりが切れた。
「オレ、三蔵になら……喰われて、いいよ」
「そうか……」
 再び交わされる、不思議な接吻。壊れきった二人の、奇妙なバランス。

 そして、今日もまた。危うさだけがその空間を支配していった……。





この迷宮にふさわしいのは
果ての知れない螺旋階段
巡りめぐって行く先は
天空の城か 地界の宮か

その歩みは
誰にもとめられない……



to the next stage



『Irritated Night〜空の牢獄〜』