◆ ◆  ◆ ◆


 三蔵が、悟空に触れることすら避けるようになって、もはや数ヶ月という月日が流れていた。
 時節はすでに、秋の終わりすら越えようとしている。寺院内も、いつもの静粛さを少しだけかき乱され、冬支度に忙しない。雪深くなり物資の運搬が困難になる前にと、門扉を完全に閉ざす冬ごもりを目前に控え、次々と運び込まれる荷。そのわずかに活気だった雰囲気は、厳しい季節を迎える前の、最後の華やぎのようであった。
 そんな空気の中、まったくその色に染まることのない、あたかも冬の申し子のような人物が独り、長い外回廊を淡々と歩んでいた。遠目にも鮮やかな、白い法衣に金糸の髪。冠こそ外しているが、その姿は法要のとき同様に印象的で、圧倒するかの存在感はかけらも変わらない。
 まっすぐに正面だけを見つめ、進みつづける。その背へ向けて、庭先のほうから甲高い声がかかった。
「あ、三蔵様っ!」
 まだ幼いとしか言い様のない小坊主は、ようやくかの人を探し当てることが出来たのであろう。息を切らしながら、相手の正面へ回り込むように駆け寄っていく。
「本日の荷は、いかが、いたしましょう」
「物はなんだ」
 息を切らしながらかけられた声に、投げかけた視線だけで男はそっけなく対応する。膝丈の衣にわらじしか許されない小坊主ごときに関心を払う必要のない、高位の僧侶だからこその横柄さだろうか。
 そんなことを気にとめる様子もなく、地面の童子は視線すら合わせぬほどにへりくだっていた。紡ぎだす声が幾度もかすれ震えるくらいだ。
「新しく取り寄せました解釈書が数巻、先ほど着きましてございます」
 運び込んだ物は、衣類や食料などの生活必需品だけではない。天竺にある原典の写しや漢語訳、またその解釈術を記した書物など、仏道に励む彼らにとっての必需品も含まれるのだ。紙や墨などもまとめ、それらの統括は、さすがに三蔵の関与すべきところである。
「三蔵様ご所望の経典も、一巻ございますが」
「そうか」
「いかがいたしましょうか」
「すぐに運んでくれ。いつもの部屋にな」
 低頭したままで、重ねて次の行動を問う。わずかに逡巡した三蔵は、顎をしゃくるようにして指示をした。
「はい。別棟のほうでございますね」
「ああ」
「すぐに、お運びいたします」
 そんな一言とともに、まだ荷運びしか言いつかることない小坊主は、深々と頭を下げる。けれど、その姿を目にすることすらなく、とうに三蔵は背を向けていた。
 誰の目も気にすることなく、白い袂をひるがえしながら、新設されたばかりの研究棟へと歩いていく。緩やかで大きな歩調。どこか宙空を睨みつけるような目つき。 そんな姿は周囲の注視を呼び、はるか遠巻きに輪を作らせる。三蔵のように徳が高いとされる僧侶をめったに見ることのできない下位の者にとっては、彼の態度が傲慢で尊大であるほどに、神に近しい【額の刻印】を持つ者の孤高さを感じ取られるのだ。
 元来、世間に左右される男ではないが、深閑とした回廊を、物音一つ立てず悠然と進む姿は、確かに彼ならではのものであろう。
 気迫すら必要とせず、気配だけで周囲からの働きかけを拒めるほどの力量。独り、この忙しない現実から遊離している。自然さえも彼からは遠慮をしているようだ。
 何一つ連れることなく、さながらすべてから乖離しているかのように。法衣の裾は、緊迫した雰囲気の待つ、研究棟へと消えていった。



「お帰り、三蔵っ!」
 そしてその夜、居室の扉を開けたばかりの彼を襲ったのは、いつもながら大音量のそんな言葉だった。
「今日も遅かったんだな」
 返らない答えを気にしないかのように、出迎えの声をつづける少年、悟空は、パタパタと相手へと駆け寄っていった。その横を抜けるようにしつつ、男は書斎机の上の新聞を手に取って、その奥の部屋へと進んでいく。
「なあ、今日は何してたんだ?」
「いつもの仕事だ」
 顔もロクに合わせぬままに、そう三蔵が無造作に上着を放り出せば、後を追いかけてきた悟空は、丁寧に衣紋かけへと片づけていく。
「だったらここでも出来るじゃん」
 満足のいく出来なのだろう。毎日のことながら、自らの仕事の結果にうんうんとうなずきながら、その間も、言葉を途切れさせないようにつないでいる。
 その姿を視界に入れないよう、新しくもないニュースの詰まった新聞を、立ったまま三蔵はばさりと開いた。灯火ひとつの薄暗い部屋で、字面を追うにも見出しがせいぜいというのにだ。
(何を考えているのか、まったく理解不能なサルだ)
 どれほど冷たくあしらってもつきまとう。何をしたところで、堪えた素振りを見せない。気迫に怯むどころか、いつだって立ち向かってくる。
 そして。今もまた、返答を待ち続けている……。
「……この部屋で大人数じゃ、ウザい」
「そっかなぁ」
 耐えかねたように口を開いたのは、三蔵のほうだった。
 そんな限界から口にしたセリフに返されたのは、気合いのこもらない疑問符だった。
 むろん、悟空が首をひねらせたのにも、理由はある。
「でもさぁ。他人と何かするのなんか、たりぃって。そうずっと言ってたじゃんか」
「バカも、使いようなんだよ」
 一言返したならば、あとはどれだけ答えようが同じことだ。三蔵はどっかりと寝台へ腰を下ろし、眉根を寄せる相手を後目に、なおさら新聞へと顔を寄せた。
 確かに、彼の言葉は事実だった。
 研究棟の建設後、先ほど素通りした執務室においてこれまで行っていた作業を、一切合切移したのだが、それは思いがけない効率の良さを三蔵にもたらしていた。
 毛嫌いしていた愚かな者も、手はかなりかかったが、使いこなせればうざったいだけの手間仕事を任せられたからだ。内容の仏法的解釈など難解な問題はともかく、資料の検索や漢訳程度の・作業・になら、どうにか利用できるというわけだ。他の僧侶と意見を交わすことも、解釈の幅を広げるのには無益ではなかった。
 とはいえ、他人をアテにしない本質が、そうそう簡単に変わるものではない。同じ部屋にいるだけで親しいと思いこめる奴らにも、あの程度で役に立ってると思い込む輩にも、反吐が出そうだった。
(他人なんか、気にするようなもんじゃねぇ)
 だからこそ、自らに言い聞かせるように、男は小さくうそぶく。アテになるのは己だけだと。意志をより強靭に。この世の事象すべてに立ち向かえるほどまで、鍛え上げるために。
 しかしながら、ここにはひとつだけ矛盾があった。
 他人を使うためには、この隣にある元々の執務室では確かに手狭だ。けれども、そもそも他人をアテにしないのならば、研究棟の部屋を使ってまで助手を求める必要があるのか。雑務だけを任せるならば、なおのことだ。ムカつく者の巣窟に詰めている必要などないだろう。
 誰もそのことに、気づいてはいない。
『信ジラレルノハ自分ダケ』
 望んで困難な状況に身を置き、くり返し言い聞かせる、そんな三蔵だけが知る矛盾なのだった。
「なあ、他にはどんなことしてた?」
「お前こそ、何をしていた」
 うまく会話をつなげなかった悟空は、自分用の寝台に転がりながら、改めてきっかけをふった。けれどわざわざ会話のネタを提供する気のない男は、頁を繰りながらそのまま質問を切り返す。
「えっ、オレ? オレは……」
 その言葉とともに、悟空の頭脳は記憶の検索に入ったらしい。片頬杖をついて、目線を宙に泳がせている。
 そんなふうにころころと入れ替わる豊かな表情は、昔から変わらない。一つ一つの鮮烈さも、同様だ。今もしかめた眉の下の瞳は、きらきらと強く輝きを放っている。
 それはいくら新聞で遮ったところで、三蔵には見てとれてならないものであった。
「えーっと今日はぁ……」
 仕事の場所を移したのも変化。方法をかけたのも変化。
 ならば、こんな夜。こうして悟空の行動を問い、その返答をゆっくりと待つ。これも変化といえよう。
 すべての契機は、あと二ヶ月と少しで迎える、去年の、あの春まだ浅い日に。けれどこの焦燥は、そのまた後の……長雨の、湿り気を含んだ夜にあった。
 耳元でくり返し鳴る、リフレイン。
『喰われても、いいよ……』
 失くせないはずの存在を、この手で。この口で。
 歯を立てて、貪って。
 喉奥へ流し込み、糧とし。
 自らの生命力にし……そして自身を形成さえさせる。
 どれほど甘美な誘惑なことだろう。
 わずかな想像だけで、口腔内が血を求めて。

『渇いちまう……』

 ゾクゾクと身の内を這い昇る感覚を堪えながら、歪めた口元の奥で密かに喉を鳴らす。そんな様子を、目の前のエサは、本当に気づいていないのだろうか。それとも気づかぬふりで、避けているのだろうか。
「三蔵が先に喰っちまってたから、独りで朝メシ喰って。窓開けたら鳥がいたから、ぼーっと見ててぇ。午後にはいつもの猫が来てたっけ」
 間延びした口調に、緊迫感はない。狙われている自覚などあるはずもない悟空は、記憶を順序立てようとして、口ごもりながらも説明をはじめるだけだ。
「あ、あと埃かぶるとヤダから、机の上とか拭いてたりもしてたよ。うーんと、あとは……」
 あまりの静かな調子に、遊んでばかりだと怒りを買ったと思ったのか。あわててつけ加えられたのは、そんな内容だった。
 愚かしいと切り捨てればそれまでのこと。
 しかし、たやすくそうはできない。三蔵にとって悟空というのはそんな存在だった。
(なくせねぇ、こいつだけは)
 彼自身の知りうる真実はひとつ。確かに感じてしまっている、その飢えだけだ。
 このまま衝動のまま喰らいついて、ひととき喉の渇きを癒すか。それともみっともなく涎を垂らしながら、ただひたすら眺めつづけるか。
「ま、そんなトコかな。って、三蔵?」
「聞いてる」
 返した声は、いつもどおりだっただろうか。
 いまだ座り込んだままで障壁を立てた男は、かすかな不安を覚えさせられる。そんな同様すらも、気取らせてはならないものだというのにだ。
「なら、いいんだけどさ」
 三蔵の物より弾性の悪い、安物の小さな寝台が軋みを立てた。悟空がごろりと転がって、体勢を直したのだろう。きっと、ほんの少しふてくされた顔をのせて。
 そう。何かに阻まれ目には映らないとしても、男にはそんな様が手に取るようにわかる。
 声も聞こえる。表情すらも視える。
 ただし、すべて同じ響き、あの繰り返しをともなって……。
「結局のところ、今日もここに一日いたんだな」
 黙り込んでしまえば、今日の所はおさまりがついたかもしれない。強くあろうとする意志と理性は、このままの平穏を望んでいた。
 けれど確認したいと思う衝動が、三蔵の貝であるべき口を、ため息まじりに開かせていた。
「そうなるね」
「別に鍵なんか、かかってねぇんだぞ」
 あっさりとした相手の返答が、重ねての糾弾を誘う。そして呆れ口調を装いながらも抑えが効かずに告げた内容は、紛れようのない事実だ。
 この小部屋からの、囚人解放。
 あの鳴り止まない一言がもたらした変化は、少なくとも監禁犯にとっては、違うことなくこれが一番であった。大きくも小さくも、両側面からの意味でだ。
 最大であるのは当然だ。監禁からはじまった行為の終結は、解放なのだから。
 では、なぜ小さくもあるか。
 それはひとえに、囚人であるはずの悟空が、いまだにここを出ていこうとしないからだ。
「もう枷も鎖もない」
「知ってるよ」
「どこにでも、行けるんだぞっ」
 呆れを通り越せば、到達するのは諦めか怒りだ。そして三蔵の感情が一方以外に向くことなど、まずはない。
 悟空以外なら、シカトできる。
 悟空だからこそ、無視しなければならない。
(なのに、どうして!)
 腹立ちまぎれに新聞を叩き下ろした男の目は、血走っていた。その眼に飛び込んできたのは、なぜか、この場に不釣り合いなほど邪気のない笑顔だった。
「いいじゃんかよ、何してたって」
 ようやく正面から見ることの叶った三蔵の顔の前には、微笑みを隠しきれなかったのだろう。たとえそれが怒りもあらわなものであれ、いや、感情が露骨に示されていたからこそ、にじみでてしまった表情なのだろう。
「ここにいちゃ、いけないのかよ」
 返らない返事に焦れての、いじけたような口調に合わせて、口先だけが尖らされた。それでも飽かず眺めつづける目元は、輝きを放ってしまっている。
 感情のままに変化するのは、何も顔だけではない。目の前に横たえられた肢体。そのすべてが雄弁に語りかけている。
(清浄な魂……ピュア・ソウル)
 一瞬見ただけで、濁った瞳から毒気を一気に抜く、その輝き。陳腐かもしれないが、三蔵の心の底から湧き上がったのは、そんな形容だった。
 けれど、毒を抜かれて、なおあふれ出すばかりの欲求。
 もしかしたら、純粋さを口にすれば、少しはこの身も浄化されるのだろうか。意志の力は、この無垢な存在の前では、脆くも崩壊していくだけだ。
 どこまで欲望同士のせめぎ合いに耐えられるか。
『ナクセナイ』
 けれども。
『喰イタイ』
 だからこそ、もう触れられない。
 確かにあるはずの、目の前のこの存在を。
 この手で感じる手段さえ、失った。

「……三蔵?」
 ギリギリと手にしていた新聞を握りしめる様子を、さすがに不審に思ったのだろう。怪訝に、そして心配げに問いかける悟空は、やはり感情をその身に具現化する存在であった。まとうのは、今にも手を伸ばしてきそうな雰囲気だ。
「なんでもない」
 そんな震えを隠した声と、新聞をかなぐり捨てることで、男は拒絶を示す。たとえ何も手にしていなかろうが触れることを許されない。そんな自分で嵌めた枷が葛藤となって存在する限り、相手からの接触は怖ろしいものだからだ。どちらに転がるかわからない二つの衝動に、三蔵は延々と脅かされている。
 囚人にとっては悪夢でしかなかったであろう、過去のあの日々は、監禁犯にも間違いなく苦い物であった。けれど、確かに夢のようなひとときだったのだ。凶行としかいえない行為に耽っていた、あの短い数ヶ月の期間は。
 すべてに翻弄されながらも、これほどまでの焦燥感を感じることはなかった。それは確かめる手段だけは、何もないこの手に残されていたからか。
 この小さな空間に閉じ込め、鎖でくくり、器としての存在を失う不安はなく。執着のままに触れ、泣かせ、喘がせ……少なくともその一瞬は相手の心まで、この身体で実感することができていた。
 その幻想世界を喪失したのは、今も響きつづけるあの言葉のため。悟ってしまった自分の欲望のため。もはやあの
ままでは充足しない、真の願望の。
 ではあの世界へ堕ちた、そのきっかけは……。
「もう、寝るぞ」
「あ、……うん。おやすみなさい」
 なんとなく腑に落ちないのだろう。突き放されたとすら感じているかもしれない。それでも悟空は素直に、就寝の挨拶を告げた。
 明かりは消された。けれど挨拶に返される声はない。
 数分ののちには、寝息が室内にかすかな音を立てはじめる。その規則的なリズムを耳に、微睡みのささやかな影さえ来ない中、三蔵は近くも遠いはるか過去を彷徨ってしまうのだった。
「あのまま、時が止まっていれば……な」
 小さくこぼしながら、男の手はタバコへと伸びる。上体を起こし膝を立て、一筋めの煙を吐き出せば、胸に残るのは苦さだけだ。
『お前は何を考えてるんだ』
 ただ一言問いただすことが叶っていれば。あの春まだ浅い日、寺から何故出ようとするかを訊ければ、少しは異なる 『今』 があっただろうか。
「……同じことか」
 理由次第で、結果は変わりなかったことだろう。溜め息のたびに、煙の苦みが走る。
 そんな紫煙は、暗い寝室では見えない物だ。けれど呼吸に合わせて明滅する小さな灯りは、当たり前のように闇に浮かび上がる。過去を振り返ったところで詮なきことだと、当然の摂理で諭すかのように。
「苦ぇな」
 見えなくとも口中を刺激する、いつもよりきつい感覚は、このところ眠れていない身体だからか。それとも、過去の苦さが味を足しているのか。
 喉が焦げるように燻されていく。その感触が、もはやどうにもできない、過ぎ去ってしまった時へと記憶を揺り戻しかける。
(全部、認めちまえ)
 終わってしまったことは、受け止めるしかない。エスカレートしていくしかなかった、悪夢の日々すらも。
 きっと、すべてあるべきものだったのだ。
『喰いたい……』
 そんな、ただひとつの希求を知るために。
 今ある焦燥も葛藤も、きっかけを追究したところで、抑えられるものではない。触れることすら恐れてしまうほど、飢えている。
 だから隣で安堵したように眠る姿に、苛立ちすら募る。そんな無償の信頼を、打ち壊してやりたい。それで、この存在を守ることができるのならば。
「さっさと、朝になりやがれ……」
 じりじりとフィルター際まで迫ってきた熱に、指先すらも灼きかける。涸れた喉も心も、とうにひりついて焦げついている。
(認めちまえ……)
 もう悟空がここから出ていくことはない。それは確信めいた予感で、知っているけれど。
「もし、お前が……」
 荒れた喉は、最後まで言葉を続かせない。上体を起こしたまま、立てていた膝を投げ出してみれば、無駄なくらいに入っていた力を感じる。
『お前が、俺を見ていないなら』
 心の内だけで再び問いかけ直しながら、短くなったタバコの先を指でひねりつぶす。襲いかかったのは、熱さよりも、鋭い痛み。けれど火傷を負うことなど、気にならなかった。
「きっと、殺す……」
 喰いたいという欲望のままに。
 闇の向こうで寝入る相手を睨みながら口にする、形にしてしまえば、認めるしかない自らの願望。火傷よりも、熱く焦げる痛みの生み出す希求だ。
 けれどそれは、唯一の想いではない。
 どんな形でせめぎ合いに終止符を打つのか。いまだ三蔵にはわからない。
 だから、朝を求める。
 悟空とともにいる時間を、断ち切って。ここから出ていくことの許される、その時を。
「殺したく、ねえんだ」
 無意識のうちに、胸を灼く二本めへ手を伸ばす。そして抱えるように立て直された、両の膝。
 鳥のさえずりが響きだす時刻まで、紫煙をまとわりつかせたその影は、同じ形を保ちつづけるのだった……。







◆ ◆  ◆ ◆



「三蔵……っ。あ、ぁ!」
 小さくも尾を引く嬌声が、ひどく薄い闇へと融けた。甘さの漂う余韻が、寝室の空気を名残のように震わせている。振動の途切れた後には、荒い息切れの音。それも徐々におさまっていく。
 そして残されたのは、ただ一人分の呼吸音。
「どうして、しなくなったんだろう……」
 遂情の証に濡れたべたべたの手を、金色の瞳が見つめている。窓辺に揺れる布地の隙間から入る、冬場の弱い陽射しすらキラリと輝く、わずかな翳りを帯びていても、綺麗に透きとおるまなざしだ。
「ワケなんて、あるのかな」
 思わず口をついた疑問は、つづけて言葉を誘った。
 そもそもあんなふうに監禁されていたことにすら、理由があったのか疑わしい。
 こうして白濁にまみれた手を見ていても、一瞬前の感覚が幻であったかと思う。
 そんな感覚と同様に、あの囚われの日々も、今ではあまりに遠く、現実であったかどうかも、悟空の中では定かでなくなりつつある。
「ワケなんて……ないよな、きっと」
 深いため息がひとつ、少しばかり渇いた喉からこぼれおちた。相手が三蔵であれば有り得る理論だと、そう納得させようとすれば、全身から力が抜け落ちた。
 むろん、普通ならば成り立たないであろう論法である。世界のすべてが三蔵によって廻っている、悟空ならではの発想だ。
 けれど本当の疑問は、そんなところにはない。
 この部屋に光が入るようになって、要するに、監禁を解かれ、寝室の雨戸も閉めきりでなくなってから、もうすぐで半年。
 閉じ込めないどころか、三蔵は悟空に、指一つ触れなくなった。もちろん性的な接触以前の問題でだ。本当に三蔵自身に貫かれたことなど、もはやはるか昔のこと。
 別に抱いてくれないのは、仕方ない。触れてくれないのも、構わない。
「理由があるなら、知りてーよ」
 口を尖らせて強がってみたところで、寝台の上にうずくまった姿勢からは解放されない。手が汚れていなければ膝を抱え込みたいほど、悟空は落ち込んでいた。
 三蔵の態度ひとつひとつ。それらが急速な執着の放棄を示しているようで、不安でならなかったのだ。
 彼が、自分からどころか、すべてから執着をなくしていっているようで、怖い。
 たぶん、それは間違っていないだろう。耳に入る他人への対応すべてが、物語っている。小坊主への冷たさも、宙を見つめて歩く姿も、硬化した心の成すことのほかならない。
 世界から乖離しようとしたがっている。
「仕事だって、あんな遠くでさ……」
 他人と共同研究をしていることは、矛盾のようでいて、きっと彼の中ではきっと理がある。ただこの場所から離れるためだけではないだろう。
「教えてくれれば、いいのに」
 がっくりとうなだれながら発する低いうなり声は、独りには寒すぎる寝室の、薄すぎる闇に溶け込んでいく。
 聡すぎる悟空は、気づけない。彼が真に離れたがっている存在が、何であるかを。三蔵の態度ひとつで、これほどまでに左右される“悟空”という存在があるにも関わらず、想像できないのだ。
 悟空から離れるために、世界を捨てるしかない。そんな玄奘三蔵という人物が、この地にいるということを。
 もはや悟空のない世界など、彼の中に存在しないというのに。
「何か、言ってくれよぉ」
 自分ではどうにもならない。そんなふうに今の状況を考えてしまえば、落ち込みも最高潮だ。独りでいる限り、この調子は上を向きようもない。
「三蔵の……バカぁ」
 せめて彼がいてくれれば、強がりのしようも、しがいもあるというのに。こんなに寒くもないのに。
「……! 三蔵だっ」
 そんな瞬間に耳に飛び込んできたのは、彼の聴覚だからこそ捉えられる、聞き違えようのない独特の足音だ。
 ゆったりとしているようで足早な歩き方の発するそれに、飛び起きた悟空は、まず濡れた掌を敷布になすりつけた。そしてつづけて衣服を直す。着衣の乱れを異様なほどに嫌う相手に、めざとく今までの行為を知られたくないからだ。ついでに掛布のしわも、どうせいつもいい加減にしか整えてはいないのだからと、気休め程度にだが直しておく。そしてその上に座り直せば、完璧だ。
 隣の元執務室のドアが開いた。見回せばそこに誰もいないのはすぐわかる。三蔵がこちらの部屋へ来るまで、あと数秒。
(あ、このにおいっ!)
 痕跡をなんとか隠したと、深呼吸をして気づいたのは、独特の臭気だ。
 あわてて窓掛けの布と窓を開け放てば、外気が一気に吹き込んでくる。思いがけないほどの冷感が、悟空を襲う。
 けれどその風が、こもったすっぱいような臭いを、密やかな闇とともに運び去っていった。
「……風邪ひいても、自分で世話しろよ」
「お、おかえり!」
 扉が開かれ早々にぶつけられたのは、この寒空に窓を目一杯開け放っていたことへの非難らしかった。憮然とした表情が、少し離れた位置からもありありと窺える。
(間にあったっ!)
 そんな快哉を、悟空は心中であげる。欠片の不審さも抱かずに、不満をぶつけてきたのだ。三蔵にはあの行為を気づかれてはいない。
「どうしたの? こんな早い時間に」
 安心してしまえば、近づきたくて仕方がない。悟空は笑いながら小走りになって、いまだ入り口に立ち止まっている三蔵の元へと駆け寄っていった。
「仕事、おわったのか?」
「服……着替えろ」
 質問に答えるでもなく、男は低く言い放った。真正面まで回り込んだ相手を見下ろす視線は、どことなく気難しげだ。
 どうやら重ねての質問は許されないらしい。
 最礼装という出で立ちではないが、法衣に経文を掛けて、キリリと唇を引き結ばれれば、もはや鉄壁の障壁である。
「……お客なの?」
「八戒たちが、会いに来ている」
「会わせてくれんの?」
 突然の申し出に、悟空はその目を見開いた。あまりにも思いがけない内容だったからだ。花が一斉に咲いた花のような微笑みが、満面を彩っていく。
 確かに、表情も変えずに言いだされる内容にしては違和感を覚えるが、それでも歓びのほうが勝る。
「今年もまた明日から、冬ごもりに入るからな」
「そうだったっけ?」
 悟空のはしゃいだ様子をよそに、あくまでも三蔵は無表情の仮面を外さない。視線もどこか泳がせたままだ。何か気になることでもあるのか。それとも、あえて無関心を装っているだけなのだろうか。
「そっか、冬ごもりかぁ」
「……早くしろ」
「わかった! ちょっとだけ、待たしといてっ」
 突き放すように低い声とともにロクに目線すら合わせず踵を返した背中に、叫びのような返事をしながら、悟空はあわてて先刻整えたばかりの衣服を脱ぎ散らかすのだった。
「服装よーしっ!」
 やたら気合いの入った声で完了を宣言したのとほぼ同時に、再び隣室の扉の開く音がした。複数の声が響きはじめる。着替えを待つことなく出ていった三蔵が、ふたりを連れて戻ってきたのだ。
「こっちにいんのかよ?」
 少しばかりダラけた調子の言葉が、一際大きく悟空の耳を打った。視線を流せば、ちょうど、ひどく紅い髪が開きっ放しの扉から覗くところだ。
「悟空っ!」
「あ、八戒。ひっさしぶりー。悟浄もな」
 けれど、先に飛び込んできたのは八戒だった。
 普段ならば、執務室にある応接兼昼寝場所の長椅子で待っているはずの彼だ。私的な寝室に飛び込んでくるとは、よほど待ちきれなかったのだろう。
「なんだ、元気じゃんか」
 後ろからひょっこりという感じで、ようやく悟浄も現れる。どこか飄々とした雰囲気は相変わらずだ。
「どうしてたんですか? 急に会ってくれなくなったから、心配してたんですよ」
「うん……だって、さ」
 目線を合わせようと、八戒が目の前でしゃがみ込む。そんな優しげな、けれど鉄壁な障壁に言葉を濁しながら、悟空はなんとか目だけで部屋に入ってこなかった残りの人物を窺おうとする。
 ほんの一瞬だけ、絡まる視線。
 思いがけないまなざしに、見られることを知らない者は息を飲んだ。しかし、すぐさま繋がりは断ち切られる。男が背を向けたからだ。
 それでもその広い背中に瞳があるならば、いまだ視糸は途切れてはいない。少なくとも見つめる者にはそう感じさせながら、それでも三蔵はあっさりと扉を閉めた。
「ここへも何度か、来てみたんですよ?」
 そんなふたりの様子を気にすることもなく、八戒はようやく会うことのできた悟空の肩をがっしりと掴んだ。
 心配性の八戒のこと。自分が仕事をと提案をしたのだ、気が気ではなかったのだろう。隣で待つことすらせず、この部屋まで押し掛けてきたのも、そのせいだ。むろん悟浄とて、平然とした素振りでこそあれ同じなのだろう。
「だって、仕事すぐやめちゃったから、ちょっと恥ずかしくってさ」
 出ていってしまった男の、常にない行動は、多分に落ち着かない気分を誘いはした。けれど今は、肩に食い込まされた手のほうが、痛かった。
 だから悟空は、少しばかり恥ずかしげに笑ってみせた。
 心配をかけてしまったこと。不安に思わせてしまったこと。それを、負担にならぬよう謝罪するために。たとえここへ幾度も来てくれていたことを、誰からも聞かされていなかったとしてもだ。
 それほどまでに、真正面で見つめてくる八戒の瞳は、深すぎる碧色を湛えていたのだ。
「仕事、気に入ってたみたいだったじゃねーか」
 食い込む八戒の手をさりげなく外させながら、悟浄が声をかけてくる。わずかに苦笑しているところを見ると、助け船のつもりらしい。
「うん! だって、旨いもんの近くにいられたから」
「なら、どうして……」
 全力で首を縦に振りながらの返事は、紛れのない真実だ。けれどかえって、八戒は疑問を強めたらしい。それも、問うことにすら不安を駆られるレベルでのようだ。
「どうしてだ?」
 安定を欠いた彼の肩に掌をあてながら、言葉を受けたのはむろん悟浄だ。わかりやすい形を取りこそしないが、彼の優しさはこんなときによくにじみでる。
『いいよなぁ……』
 このふたりのコンビネーションは、完璧だ。だからこそ、悟空の声は小さくなる。三蔵と自分、その噛み合わなさを思い知らされるからだ。
 けれど、ここにいることを選んだ理由に、嘘はない。
「……それより、三蔵の近くのほうが、よかったから」
 迷いのなさを自覚するために、まっすぐに悟空は碧瞳を見つめ返した。きっと穏やかな微笑みがもらえるだろう、そう予測してだ。
「……八戒?」
 しかし目の前にいたのは、なぜか声もなく硬直している男の姿だった。
「それに、旨いもんの近くにいれたって、どうせ喰えるわけじゃなかったしさ」
 どうしてかなど、悟空にわかるはずがない。それでもこの場をなんとか凌がねばならない。ただその想いだけで口を開けば、出てきたのはそんな情けない言葉だった。
「ははっ! そりゃ正しいな」
 軽口には軽口で。悟浄は最愛の相棒の背を、当たり前のようにはたいた。うながしの様なそれは、しゃがみっぱなしだった八戒を、自然に立たせる効果を生んだ。
「まあ、サルらしいっちゃ、らしーよなぁ」
 ゲラゲラと笑いながらコケにするセリフがかかれば、これぞ渡りに船だ。
「サルっていうな! カッパのくせにっ」
「なんだとー!」
 そうしてはじめられるのは、追いかけっこもどきの大乱闘。寝台の上を飛んだり跳ねたり、壁にも激突しかねないほどの騒動だ。
「ふ、ふたりとも、あまり騒がないで下さいね!」
 こんな状況を一応は仲裁するのが、八戒で。
 いつものパターンを演じれば、いつものキャラクターも戻ってくる。
 そんなお定まりのやり取りをきっかけに、三人の間に笑いの輪が広がりはじめる。果てなく続きそうな、うるさいやり取り。
 けれどその中に、三蔵が戻ってくることはなかった。








◆ ◆  ◆ ◆


「喰らいたいって衝動、お前に判るか?」
 久しぶりに四人が顔を合わせたその夜。隣の寝台に横たわる小さな背中に、三蔵は自分から声をかけていた。
「え……っ?」
 ゆっくりとまず肩越しに振り返った表情は、質問の意図さえ掴みかねているようだった。身体ごとこちらへ反転させた時には、明らかに『もう一回』という要求を示していた。
「俺が、お前を。喰らいたい。そんな衝動に駆られているとしたら、どうする?」
 一語ずつ区切るように、男は問いかけ直す。
「壊したい、でもない」
 区切りつつの言葉に合わせた呼吸は、あまりに深すぎて、悟空にも同じペースを要求するかのようだ。
「じゃ、なくて……?」
「あくまでも『喰らいたい』だ」
 夜の闇は濃密だ。その中でもはっきりとわかる紫水晶の輝きは、冗談や戯れ言ではない、真剣さを宿している。
「よくわかんないけど……」
 互いに横たわったまま、抑えた声音で言葉を交わす。寝台間の数メートル、その距離がやけに長い。
「要は、オレを喰いたいってコト……だよね、三蔵が」
 訥々と質問を噛み砕いて、問いただす。返される、うなずき。そして導き出された答えは。
「別にいいよ?」
「……つまらん」
「つまらんって……」
 絶句されられたのは、意外にも悟空のほうだった。沈黙が空間を包んでいく。
 そんな、口を開いたままで硬直した相手を、冷たいほどに透きとおった紫の輝きが鋭く射る。かすかな身じろぎすらなく、視線がぶつかる。
(欲しいのは、そんな答えじゃねえ)
 恐れとおののきと。逃げだそうとする意志。それ以外は、絶対に受け入れられない。
 オレはただ、喰らいたいだけなのだから。

『うん……だって、さ』

 今日、あの視線が絡んでしまった瞬間。ともにいることができずに、オレは寝室から逃げ出した。見つめていることを、悟られたくはなかった。
 執務室にいることすら、出来なかった。漏れ響く声に自然、耳を傾けてしまう自分が嫌で、どうにも耐えきれなかった。なのに。
『それより三蔵の近くのほうが、よかったから』
 たぶんあの一瞬、八戒は儚げな笑いを浮かべたことだろう。何もかもを悟って。あの深い湖の哀しげな色は、すべてを見通してしまうから。
 そして、気づいた彼が、彼らがとる行動は。
(きっと、連れ帰るだろうと思っていたのに……)
 夕刻、部屋へ戻るときに、出迎えはありえない。そう考えていた……いや、自分に言い聞かせていた。
 それは望みでもあったはずだから。
『おかえりー!』
 なのに、悟空だけが残っていた。そしていつもどおり騒々しいほどの大声と、満面の笑みで出迎えてくれた。その時の衝撃は、驚愕。そんななまやさしいものではなかった。
 それは……。

「ねえ!」
 意識下の回想は、いきなりの呼びかけで叩き切られた。
「なんだっ」
「今日……なんかヤケに外、うるさくない?」
 深夜にふさわしくない音量に、いまだに保護者癖の抜けない男は、ギロリと睨みつける。返される声は、これまたそんな相手にしつけられた悟空のものだ。身体ごと縮こめるようにしてのそれは、十二分にボリュームがしぼられている。
「夜通し解放してるからな」
 静かにしていれば耳を澄まさなくとも、雑多な外の音が聞こえてくる。ざわざわとした声は、どうやら警備の僧侶と参詣者のものらしい。
「冬ごもり前の、最後の日だからだろ」
 つけ加えのあっさりとした説明に、悟空がなるほどとうなずく。その瞬間、畳みかけるように三蔵の口が開く。
「朝までは、自由だぞ」
「なんでそんなコト、言うんだよ!」
 突き放す感すらない声音に、悟空の身体は飛び起きた。対して三蔵は、横たわったまま、背中さえ向けかねない体勢をとってみせる。
「もしかして、オレに出ていってほしいの?」
「ああ」
 一度起きてしまえば、おさまりはつかない。寝台の上に座り込んで、重ねて問いかけをはじめだした。そんな様子を窺いみれば、なおさら無干渉な態度を示す相手だというのにだ。
「そんなに、いてほしくないのか?」
「……あぁ」
 上方からの言葉が、詰問の色を強める。それに淡々と返すはずの男の声は、瞬間つまったようにしてかすれがちに発された。
 出ていってはほしい……けれど、いてもほしい。
 どちらも三蔵の中では、本当の想いだからだ。矛盾がここでも彼を悩ませる。疲弊感が、全身を襲う。
(もう、俺には決められない……)
 残っているのは、何も考えたくないという思考だけだ。
 きつい口調であっても、追いすがるようなまなざしをしている、訣別すべき相手。その姿が視界に入らないよう、完全に身体をまわして、三蔵はその背だけを相手に見せつけた。
「ここにいちゃ、ダメなのかよ」
 いつもの、最終質問 ── 伝家の宝刀。
 普段なら、無言で返すところだ。嘘だけはつきたくない、そのために。そしてそれは、悟空にとっては許可とも取れる、都合の良い回答だった。
 けれど今日の口は。
「ああ、そうだっ」
 自分でも戸惑うほど、思考に振り回されている。怒気がまじってしまった言葉は、ぶつけられた者に強烈な一撃を与えただろう。
「ウソだっ!」
「オレは、本気だ」
 はねつけるように返された悟空の悲鳴に、冷静さの仮面が三蔵の元へ降ってくる。それを装着しながら、ゆっくりと身体を返した。
「お前に、出ていってほしいんだよ」
「本気だったら、『出ていってほしい』なんて、わざわざ言うもんか!」
 夜の闇では見えないだろうが、嫌みな嗤いを添えてのセリフは、すぐさま大音量の強い否定で打ち消された。興奮しきっている悟空の理論は、読めない。
「本気なら、出ていけって言うだろっ」
 真実を鋭く突いた一閃。
「それか、いるもいないも自由だって。三蔵なら、そう言うはずなんだ」
 困惑を誘われた男が理解しきる前に、すかさず息を吸い直して、悟空は強気なまでに言い募る。
 嫌な相手といるくらいなら、自分が出ていく。追い出す手間をかけることすら、そんな相手にはうざったい。
 確かにこれこそが、常の三蔵の理論だ。相手まかせになどせず、自分の意志を絶対に突きとおす。
(バレバレ、ということか)
 言い当てられた男は、心の中で深くため息をついた。
 いなくなってほしいはずなどない。今日の夕方、あの迎えの声を聞いた瞬間、背筋に電撃が走ったのだ。
 驚きを隠すのに、苦労するほどだった。
 言葉にではない。存在すること自体を喜んでしまった自分自身に……。
「じゃないから、ウソなんだ」
 反駁の様子を見せない相手をよそに、悟空は唇を噛みしめるようにしながら断言した。
 とはいえ、彼とてすべてがそうあると信じているわけではない。むしろ彼の聡さや鋭さは、あくまでも強がりなのだ。不安だからこそ、わかることをフル活動させて、自らに言い聞かせていくのだから。
 そして、もっともわかっているのは。
「三蔵がいてほしくなくても、オレがいたいから。だからオレはここにいるんだっ」
 決断が、室内の空気を震わせる。
 夜目にも目映い金晴眼が、まっすぐに三蔵だけを射る。ようやく上体を起こした男の紫の瞳も、ためらうことなく見つめ返す。火花が飛び散るかと思うほどの緊迫感が、その場を支配した。
「堂々めぐりだ」
 一触即発の気炎は、そっと瞼を伏せたながらの言葉に、緩やかに吸収されていった。
「……そうしてんのは、三蔵じゃんか」
 ごろりと横になってからのそんな呟きもまた、暗い宵闇は消失させていく。ふたりの耳に聞こえるのは、いまだ騒がしい戸外の楽しげな喧噪だけだ。

── 煮えきらない、沈黙。

 いつもとはほんの少しだがどこか違う、彼らの間を流れる空気。それはつっかかっていく悟空のせいか。それともつい熱くなりかかる三蔵のせいなのか。
「なあ……もう、しないの?」
 普段との些細な差異。それだけを縁に、悟空は敷布に顔を埋めたまま、小さく問いかけた。常とは異なる、今だからこそ、何か起きそうだと。
 物事などは、きっかけひとつでどう転ぶかわからない。この質問が吉と出るか、凶と出るか。
 心拍数が上昇する。強すぎる脈動が、問いの成す意味のもたらす羞恥を上回って、顔面を紅潮させていく。そんな様子を悟られないように、悟空はますます強く枕へと押しつけ、上掛けを手繰り寄せた。
「そんなにしてほしいのか」
 上方から氷のように降り注いだのは、予想外に低い声音だった。
 疑問符も感嘆符もつかない淡々としたそんな言葉つきが、体勢すら変えさせる間を与えずに、聞く者に視線だけを走らさせる。その瞳が瞬間的に凝視したのは、あまりに冷たく凍りついた表情だった。
「三蔵……?」
 相手への呼びかけは、身体を引き起こす契機になった。上半身を起こせば、なおさら深く絡む視線。正面からぶつけられていたまなざしに、自然、腰が引けてしまう。それでも顔を背けることはできない。
「してほしいんだな」
 目的語の伏せられた会話は、怒気もはらまない。薄く歪められた口元から発された断定口調には、嘲笑の影すらもなかった。視線の先にある二つの水晶玉にも、激しさや鋭さはなく、純粋な色味だけが宿っている。
 高貴で、狂気な ── 深い紫闇が。
(誘ったのは、お前だからな)
 答えを待つ気はない。男はゆっくり寝台を降り立った。
「逃げるなら、今だぞ」
 そんな意志が本当にあるのかどうか。彼自身にもきっとわかってはいない。それでも口だけは、試すように動いていく。
『俺を見ているかどうかなど……関係ない』
 所詮、お前も他人だ。
 もはや男が離れたがっているものは、ここにいる悟空という存在からではなくなっていた。また彼がいなければありえない世界からでもなかった。
 単に自分自身。矛盾をはらむ自己というものから、離脱したいだけなのだ。
(均衡が崩壊しちまえば、楽になれる)
 選択権すら、もう放棄してしまえ。
 逃がすか ── それとも、壊すか。

 どちらにせよ、リミットは夜明けまで……。

 二つの寝台に背を向ける形で、男は音もなく足を進めた。闇に惑うことなくスムーズに動き、片隅の床の上を探っていく。そしてしばらくのちに、何ともつかない堅く鈍い音がその場から発された。
「なに……?」
 物音だけでは判断がつかないらしい。無言のままで振り返って窺いみれば、それでも金色の輝きは、怯えをありありと浮かべながらも、紅く染まった顔の中にさりげなく収まっていた。
「なんだよ、それって」
「さあな」
 歩み寄っても、夜目でははっきりとはわからないのだろう。手近な燈台に火をともして、男は概要を見せてやることにした。
 金属で出来ているらしいそれは、全体には半球型だ。直径二センチほどの突起が、十センチくらいその頂点から伸びている。寝台の上へ載せれば、ギシッと嫌な音を立てて沈み込む。両手で抱えねばならない程度には、重量がある物だ。
「それ、スイッチ?」
 興味津々といった様子で、三蔵の寝台へとやってきた悟空の瞳は、突出部の先端にひきつけられていた。そこが、一センチ弱ほどのボタン形状になっていたのだ。
「押してみていい?」
「死にたきゃな」
 内容にふさわしくないほどあっさりした口調に、好奇心で伸ばしかけていた指がぴたりと止められた。首から上だけが問いかけるように、跳ね上げられる。
「押したら、爆発するぞ」
「こ、これって、もしかして……」
「もしかしなくても、地雷だ」
 硬直した相手をよそに、男は面白くも何ともなさそうに再び物陰へと潜み、棚を探っている。がさごそとした動きは、意外に早く終わった。
「まあ、たいした物じゃないがな」
 寝台脇まで戻ってきてもなお淡々とした相手の姿は、逆に悟空にも冷静さを呼び起こした。間近で座り込んでいることの危険性を察知して、とりあえず乗り上がっていた寝台の端へと後ずさる。
「たいしたもんじゃないって……」
「所詮、防犯用だからな」
 さすがに寺院に対して手足の吹き飛ぶような物品は持ち込めなかったのだろう。出入りの業者が置いていった、対人用としてもかなり火薬量の減らされた地雷だ。
 とはいえ、さらりと流せる内容の物体ではない。
 そんなものを引きずり出して、どうするというのか。男の怜悧な表情からは、何を考えているのか推測すらできない。そんな悟空の目の前につづけてぽんっと放り出されたのは、大きなチューブ……速乾性の粘土だった。
「お前の好みに造れ」
 入れ替わるように相手の寝台に腰かけた三蔵は、変わらぬ口調でそう告げた。そのまま悠然とした態度で、取り出したタバコに火までもつける。
「このみ、って……」
「お前のそこが欲しがるサイズにだよ」
 唖然と見開かれた瞳が、真向かいの男の様子を窺うように覗き込む。けれどひとつばかり灯火がともったところで、夜の深い闇はさほど薄らがない。その中にどうにか浮かび上がった男の顔は、微妙な笑みを浮かべていた。
「ずっとしてやってなかったからな」
 自虐的衝動は、もっとも彼が疎んじていた行為を、欲望のうちから引きずり出した。あの監禁の日々と同じ、ただの暴力を。
 少なくとも彼自身はそうとしか認められないものを。
「してほしいんだろ?」
 答えを求めてなどいない口調の疑問文は、そのくせただひとつだけを望んでいる。それはこの走り出した狂気を止めるための何かだ。
 否定か、制止か。それとも同意か。
(わからない……)
 字面だけは同じ思いを胸に、チューブを握りしめたまま、悟空は呆然と男の歪んだ口元を見上げていた。その嗤いは自嘲めいたものなのだろうか。侮蔑の色のない言葉と、無関心そうな表情。そのくせ裏腹なまでに純粋な色味の瞳。
 そんな相手に、言葉でなど返すことは出来ない。確かな行動以外、きっと求められていないから。そして拒絶も出来はしない、彼が自分に望んでくれる限り。
 突き動かされるように、悟空の掌は握っていた物の中味をひねりだした。
「ふん……」
 ためらいがちに動かされる手。そのまだ線の細い指に注がれる視線は、どこまでも冷徹だった。薄闇に白く煙を立ち昇らせながら、近づくこともなくただ遠巻きに見つめるだけだ。
 どこまでも受け入れられる要求。すべてが想像の範囲とはいえ、男の心にはもはや絶望しか残されていない。拮抗していたはずの感覚が、破壊衝動へと傾いていく。
「そんな程度でいいのか?」
 ちょうど一本分のタバコを煙に変えた後、次へと手を伸ばす合間に、その声は発された。
「え……」
 顔を合わせないように作業を進めていた悟空の頭が、勢いよく跳ね上げられた。額を締める金鈷が、キラリと光る。それより鮮やかに輝く見開かれた瞳に、一気に染まった頬。ほんの薄く肉付けさせただけで停滞していたことを、からかわれたと思ったのだろう。真冬だというのに、薄く額に汗を浮かべているのは、ただの緊張のためなのか。
「お前の締めつけじゃ、そのくらい壊しちまうぞ」
 問うように揺らめく瞳を認めた男は、指先でもてあそんでいたタバコにようやく火をつけた。壊れたら爆発だな……と、作り調子な皮肉さが、吐かれる煙とともに事実をあっさりと示していく。そして煙と同じくらいの速度で、関心すらもすぐさまかき消されていくようだった。
(本当に、地雷なんだ)
 地面に埋めてしまえば殺傷力はほとんどない。とはいえ、その爆風を直接受けるとなれば、悟空とて生死に関わるレベルではあるだろう。事によると、間近の三蔵にすら類が及ぶかもしれない。
 急速に認識させられた現実が、チューブを再びしぼる手に震えを走らせた。そして一度白く固まった上に、もう一度重ねるように粘土をつけていく。
「あさましいな……」
 喉を鳴らしながら紫煙を吹き上げられれば、顔どころか全身が火照る。とはいえ羞恥など、必然性の前では引き下がるしかない。安全性を考えれば、太くせざるを得ないからだ。
「それが理想か?」
 二本めすらも吸い終え、次を欲して箱を手にした三蔵は、空になっていたそれを目の前の危険物に向かって投げ捨てた。そしてあわてることなく、確認するようにその作品の出来映えを観察していく。
 あまりに大きくすれば、受け止められない。そのことを知らない悟空ではあるまい。
 それでもより大きな恐怖の前では、わずかばかりの恐怖は受け止めなければならない。そのことは悟っているらしい。スイッチ部をより強固に固めようと造り上げた姿は、リアルを追求した男性器のほかならなかった。
 当然といえばそれまでのことだ。しかし、それでも赤裸々な欲望を示すかのようなものに、恥ずかしさでその創造者は顔をあげることすら出来ないようだった。
 口を噤んで、ただうつむくだけの姿。
(どこまで耐えきれるものかな……)
 白い寝間着の隙間から覗く、かすかに震わされている肩に、衝動と欲望が、綯い交ぜになっていく。自分の望みすら、とうにわからない。
 けれど、選択を放棄した身に、何もあるわけない。目的など、もはや今さらなものだ。傷ついて逃げるなら、それもいい。壊されるのを待つなら、それまでだ。
「馴らさなきゃ、入るわけないだろう」
 ためらいは、一瞬でかき消された。小道具を持たなくなった男は、やはり無表情の砦を崩さなかった。せいぜいが、ギシッと安物の寝台を軋ませて、ほんの少しばかり距離を縮めただけだ。
「ゆっくりその指で、開け」
 粘土に汚れた手を、顎先で軽くしゃくるように示す。
ただそれだけの動きで、次なる行為を命じる。仮面の男には、動きにも言葉にも多弁さはない。欠片の執着をも感じさせないほどにだ。そんな相手をより近くに置き、素直に言われるままの行為ができるものだろうか。
「いつもしてることだろう? 今日もな」
 その声音の低さに驚いたのは、それを発した当人だった。彼自身が思いがけないほど、ゾワリとする声が出ていたからだ。ウソくさいほど性悪な笑みも、繕うまでもなく顔に浮かぶ。
 そう。すべてを知っていてなお、一切手を出さなかったのだ、この男は。
「そっちだけで感じられるんだろ?」
 弾みがつけば揶揄の調子はいっそう鋭くなる。そうでもしなければ、せっかくの仮面が剥がれ落ちてしまうと言わんばかりにだ。
 けれどむしろ、口調にそぐわない無表情さが、無意識のうちに苦悩を露呈する。相手にそう感じさせていることに、気づけていないのだろうか。
「早くしろよ」
 微妙な苛立ちの雰囲気を感じ、悟空は正座をした状態で寝間着の裾を膝から割った。
「……あっ」
 まず指先が触れたのは、きついくらいに下履きに押さえ込まれた、堅いほど張りつめた男性器だった。その周囲は、もはやしとどに濡れていた。
 どれほどの恐怖に脅かされても、三蔵からの働きかけには、感じずにいられない。それが感情を示すものであるならば、なおさらだ。悟空の身体はもはや、あの日々でそう作り替えられてしまっているのだ。
「開くだけ、だぞ」
 ようやく解放され反り返ることのできた象徴には、一切触れることを許さない。鋭くもない恫喝は、それでも充分な強制力を持っていた。
 もし下手な動きをすれば、たった一枚の衣服さえ奪われてしまうだろう。そうすれば隠す手段は何一つない。まだしも着物の中に隠れた今の状態でさせられているほうがマシだ。
 何より無駄に逆らうことで、逆撫でなどしたくない。
 閉じていた膝を緩め、悟空は自らの手を引き下げた下履きの中へ潜らせていった。腰を少し浮かせた、不安定な体勢だ。
「……うぅ」
 周囲に触れただけで、手についた粘土の、普段とは異なるチクチクした触感が、嫌悪感を煽る。秘められた蕾をかすめれば、吐き気すらもよおしそうだ。救いは、腕を前からまわしているため、手首が堅く張りつめた場所に、直接的刺激を与えてくれていることくらいだろうか。
 派手に動かす必要はない。ゆっくりとでも拡張させていけば、目的は達せられるのだ。とりあえずの命令でしかないだろう内容だけは。
(これと同じ感触が、このあと……)
 すぐ隣にはその手が生み出した、同材質の、張り型というにも巨大な男根がそびえている。入れまいとしても視界から離れないそれに怯えながらも、悟空は一関節ずつ着実に、奥へと指を進めていく。
 そしていつもの数倍の時間を費やして指を三本に増やした頃には、被虐感を増幅させていた粘土の毛羽立った感触も、ただ微妙な快感要因でしかなくなっていた。
「……っふ、ぁん」
 ただ煽られる羞恥に染まっていたはずの首すじが、より鮮やかに色づいてきた。抑えているであろう吐息も、ひどく甘ったるいこぼれ方をしている。
(もう充分だな)
 それまでただ黙りこくっていた男の口の端が、ゆらりと歪む。そしてゆっくりと開かれた。
「踊れ」
 その声はわずかにかすれていた。わずかに喉にからむものがあったのだろう。むろんそれはためらいではない。
「その上でだ」
 返らない反応に焦れることなく、指し示す腕と言葉はつけ加えられた。見つめている瞳が、色味だけを深めていく。よりいっそう相手を粉々にする、予感。欲望。衝動。それとも不安だろうか。どれともつかない感覚が、三蔵の中を渦巻いている。
「嫌なら、いいんだぞ?」
 手首を巧みに操るルール違反に、気づかない男ではない。そしてそれをたやすく許す者でもない。虜になっているところを叩き落とす、そのために待っていたのだ。
「したがったのは、お前だ」
「三蔵……」
 体勢を変えないままに、ようやく首をもたげた頭には、やはり金鈷の輝きが目についた。どれほど情欲にまみれても汚れがつかない硬質なきらめきは、悟空という存在をも同じであるという証のようにも見える。
(壊して、やる)
 自らと同じ界位に、引き下ろす。
 それで満たされる想いがあるなら、壊してしまえ。何を今さらためらう必要がある。自制などすでに無意味だ。そして失ってから嘆け。狂ってなお求めつづければ、俺は満足なんだろう?
「……つまらなくした責任は、とってもらうがな」
 嗤いながら男が持ち出したのは、いつも寝台脇にタバコとともに置いてある銃だ。半年以上前に、散々悟空に血を流させたあの金属塊である。構えた先は、悟空の真隣にある半球だ。
「踊れよ」
 言葉を告げることが、自分に命じる。
── 何も考えるな。
 逃げるならば、逃げ出させればいい。
 どちらにせよこの手から悟空という存在を失えば、矛盾は崩壊する。そしてこの自分も。
 選択権は、すでに相手のものだ。
「まだわからないのか」
「さん、ぞ……」
 ガチャッと、撃鉄のあがる音がした。わずかなズレもなく銃口は、その火薬の詰まった本体を向いている。
(本気だ……)
 発砲すれば、破裂する。薄笑いが口にはりついた、その分無表情さがいや増した男の姿は、どこか狂気めいているが真剣さだけは少しも失っていない。それは、挑むようにまっすぐなまなざしからも明らかだ。
 悟空の細い喉が、ゴクリと音を立てる。
 それから彼はゆっくりと手を抜き、まずは汚れた下履きを完全に脱ぎ取った。そして裾をいったん直してから、自らが造ったおぞましい凶器へと跨る。ぐっしょりと濡れた手で固まり具合を確認すれば、速乾性だけあって、ざらつく表面からしても、もう充分な強度を誇っているようだった。
 恐怖と躊躇が、視線を相手へと注がせる。けれどぶつかった瞳には許しの色はない。
「ヒィ……っ!」
 まなざしに命ぜられるまま一気に腰を貫かせた悟空は、ただ一音だけ悲鳴を発した。がくりと首をのけぞらせたままで、身体は完全に動きを止めている。大きく開かれた瞳からあふれ出す涙、光を弾くただそれだけが時の流れを感じさせていた。
「いい眺めだ」
 喉の奥が震えるのを、男は抑えることができなかった。
 低い笑いには、からかいなどない。大きく膝を開いてしゃがみ込まなければ、取れる体勢ではないのだ。裾は完全に割れて、すべてをさらすことになる。恐怖に身を強張らせながらも、自慰行為に耽らされる目の前の肢体は、観賞にあまりあるものだった。
「欲しかったんだろ。どんな感じだ?」
「……たぃ」
 火のついた嗜虐心が問いかけてくる。しかしまともに答える余裕など、悟空にはなかった。
「っ! いた、い……」
 留まっていても苦痛からは逃げられない。少しでも早く奥まで濡らし、許容を越えたサイズのものに擦られる激痛を緩和したい。その一心だけで、かぼそい腰を必死に揺すり立てだしたのだから。
「お前の希みは……何処にある?」
 痴態ともいうべき姿を見つめながら、けれど性的昂揚の訪れていない男は、自然、そう語りかけていた。
 自らの歪んだ欲望が引き起こす暴力じみた行為。それは前回の監禁も、今回のこれも変わりはない。望みはただ純粋に、ともにありつづけること。それだけだったのに。どうしてこんな悲劇になってしまうのか。
(キレイゴトじゃ許せねぇ)
 せめて相手だけでも救いたい。そう思わなくもないが、ともに滅ぶのもまた、一興。どうせ止まらない想いならば、暴走させておくだけだ。身の内を這い昇る感覚に、全部委ねてしまえ。
『喰われてもいい』
 そう、たやすく答えたことを後悔させてやる。
「希みは何処なんだ!」
「ここっ! ここにあるっ」
 自身を鼓舞するための怒声は、思いがけず高い嬌声で返された。
「三蔵が、いる……っ!」
 切れ切れに言葉をつないだのは、意識も朦朧と苦痛に喘いでいたはずの悟空だった。あまりの驚愕に、男の両足が彼を立ち上がらせる。凝視する二つの瞳も、ただその感情だけを色濃く宿している。
 そして視線を据えたままで、彼は凍りついた。
『三蔵が、こんな近くで見ていてくれる』
 それだけのことで、悟空の意識は急速に浮上し、身体ごと巧みに快楽へと囚われていった。
 一挙手一投足も見逃すまいとする、視線。いくら苦痛に苛まれていようが、翳りをかなぐり捨てた瞳に見つめられて、どうして煽られずにいられようか。
 もはや彼という存在が、そう作り替えられているのだ。改変者の望みのままに。
(あのときと、同じだ)
 けれどあの囚われの日々に、自ら動くことは求められなかった。ただ三蔵の独占欲に等しい執着を受け止めること、それだけが望まれていたから。
 それなのに、今は ── 。
(オレからの行動に、反応してくれてる……)
 薄ぼけた光の中でもわかる感情を含んだ瞳は、紛れもなくオレだけを見ている。
「三蔵と、いるっ、だから」
 身体の動きを止めることなく、喘ぎにまぎれながら一言ずつ紡ぐけなげさは、見つめる者に変化を及ぼした。
 強制されてとはいえあられもない姿で、己の意志で欲望をもさらけ出している。普通ならば、目を覆いたくなるエゴで、明らかにグロテスクなものだ。
『そうであるべき ── なのに』
 眇めるように細められた瞳。そしてぴくりと震えた腕と足。
「ここ! ここが、オレのっ」
 希みっ……という言葉は、続けることが叶わなかった。悟空の意識は、巻き起こった風に消えた、ただひとつ灯りつづけていた炎とともに、意識も宙空へと舞い散っていたからだ。
 そしてその身体は、男の腕の中に崩れ落ちていた。





 再び室内は濃密な闇に包まれていた。
「俺なんかといることが、希求なのか?」
 しばしの後、薄く瞼を開いた相手を認識した男の、第一声はそれだった。
 もう灯火をともす気はないらしい。自分の寝台の片隅に座り込んでいる三蔵は、同じ寝台に乱れた着衣のまま横たわっていた悟空に、半分ほど背を向ける形を取っている。あの怖ろしい凶器は、すでに部屋の隅へと無造作に放り出されていた。
「え……?」
 意識を取り戻したばかりの者は、まだ言語的認識が及ばないらしい。どことなく呆然とした様子で、ほとんど影となった相手の顔を覗き込もうとしている。
 くたりと倒れ込んだまま姿は、再度の問いかけを阻む。三蔵は視線を避けることなく、ただ小さく微笑んだ。
「いてほしいって!」
 その柔らかな表情に、悟空の意識レベルは何故だか一気に引き上げられた。
 跳ね起きることこそ叶わなかったが、感情は言葉となってほとばしる。
「いてほしいって、そう思ってもらえればもっとイイ」
「どんな目に遭わされてもか」
「そりゃ、なるべく嫌なことじゃなきゃ、嬉しいけど」
 言葉をつなぐことに焦りながらも、彼の頭は急速回転をはじめる。今さっきのやり取りなど、一から状況を追ったところでたかが知れている。
(わかった!)
 どうして急激に意識を取り戻さざるを得なかったか。それはいきなり、不安の琴線をかき鳴らされたからだ。桜花のようなあのほのかな微笑みは、はかなさより強い
絶望を示している ── 。
「相手の望みを叶えたいって思うのに、ワケがいる?」
「人次第だろ」
 理由を悟り、懸命に悟空は追いすがろうとした。けれどその必死さこそを厭う相手は、ただ一言で会話を叩き切る。視線はそれでもきつく絡めたまま、互いに離すことはなかった。
(ワケなんか、ないってことか)
 泣きそうなくせに、少し拗ねた表情。そこからわずかにも瞳を背けることのできない男は、ますますその口元に刻まれた笑みを深めていく。
(まっすぐな想いだな)
 少し突きだした唇が示す疑問文よりも、無垢な瞳のほうが、どれほど雄弁に語っていることだろう。悲嘆に暮れた、絶望の淵にあるかと思われたときでさえ、その透明な輝きは変わらない。すべてを包み込むような、あたたかな色合いだけを宿している。
 何もかもを内在して、かつ透明になる光のような存在。それが悟空だというならば。まじればまじるほど徐々に濁りよどみ、闇に近づくしかない存在が俺だ。
 光とは決して相容れない……。

『お前がただここにいてくれればいい』
 そう思っていたのに。いまはもう、疲れてしまった。
 何もかもを許されてしまう限り、何をしてもきっと意味はない。なのに何故繰り返すのか。
 殺したくも、壊したくもないのに。このままでは、なくしてしまう。なくなってしまう。

 そして渇きは永劫、癒されることない ── 。

 それを選んだのは、自分。辛い選択を放棄して、この手が救われる道を断ち切ったのだ。壊す予感より、壊れる予感に心酔していたから。
 今でも間に合うのは、せめて……。
(喰いたい ──)
 崩壊を許されなかった矛盾が、再び呼び覚まされる。自らに引いていた、二度とこの手を触れさせないというデッドラインを、越えてしまった。抱いてしまった。
 相手に頼らない最終手段は、これしかないのか。
 堂々めぐりの予感に、ほほえみを消せない男は、抱え込んだ頭を立てた膝の間へと埋めていく。
「三蔵?」
 どうかしたのかと、名を呼ぶことで問いかけてくる。
 その優しいはずの声音は、あまりにも男の耳には痛切に響いた。あのリフレインを再び予兆させていく、甘美なまでの痛みをともなって。
『取り繕ったところで、もい遅い』
 もうすべてを解放してしまえ。そんな心境が、突き放すことすらできなかった男の口を、素直に開かせた。
「自由に逃げられるってのに、今もまだ……ここにいるんだな、お前は」
「……どっかに消えてほしかったのかよ」
 その問いに、答えは返らない。
 悟空に与えられたのは、ゆっくりと頭を持ち上げた三
蔵の、いまだほほえみを浮かべたままの顔と ── 肯定も 否定も含まない、ただひたと見すえてくる瞳だけだ。
(抱きしめてくれたのに)
 あれ以来、初めて彼から触れてくれた。熱い腕で抱きとめてくれた。
 寺院にいることを批判こそしなかったものの、喜ばれてもいないことくらいは、悟空とて気づいていた。何もしない自分がいることなど、対等ではない。認められないのは当然だろう。
(久しぶりのアレ……)
 ようやくここにいる手段を、見いだしてくれたと思ったのに。わかってくれたと、そうあの腕に感じたのに。
「いちゃ、いけない?」
 おびえながら口を開けば、どうしても小さくなる声。それへの答えは、やはり見つめ返すまなざしだけだった。
 疑問形など、決して許さない。そんな紫のきらめき。執着のない、どこまでも深い純色の闇の中には、絶望のはかなさすらも、入る余地はない。
『ここにいたいから、いるんだ』
 チリチリとした痛みを抱えた胸は、そんなエゴにほど近い想いで、はちきれそうにされる。
 その言葉の代わりに、小さな口を突いたものは。
「喰われてもいいって、言ってんじゃんかよ」
「バカか、お前は」
 唐突なまでのセリフは、それまでの口調とはうって変わって、あまりにも強気に彩られていた。自分を奮い立たせるために吐かれたのであろうその言葉は、男の絶望に火をつけるほど、挑発めいている。闇にきらめく瞳は、何もかもを鮮やかに晒させる太陽のフレアを具現しているかのようだ。
「喰われたら、死ぬかもしれないんだぞ」
「知ってるよ、それくらい」
 達観しているのか、単に深く考えていないだけなのか。自分に対しての欲求と認識していないかのような振る舞いは、なおさら男の感情を逆なでしていく。
「今日の俺は……本当に、喰いちぎりかねないぞ」
 緩やかに目を細めながら三蔵は身体の向きを変え、寝台の上で愛しい敵対者と対峙した。そしてしばしの後、静かにむき出しの腕を伸ばした。
 脅しともつかない淡々とした調子は、不気味さを漂わせもしない。ゆったりと這っていた手は、夜着のはだけた首元へと絡んでいく。幾度か撫でさすり、行為に張りつめた筋肉をほぐすように、ソフトに揉んでいく。
 先に一度抱きしめたといっても、久しく味わっていなかった肌の感触だ。
『駄目だ……』
 死線を越えてしまった欲望は、捨てたはずのあのときの衝動を、感覚にたどらせようとする。変わりのない柔らかな手触り。ほのかな体温。薄く張りつめた皮膚は、わずかな脈動すらも明瞭に伝えてくる。
 思わずその掌に力を込めて、かつ自身の白い歯を立てたくなるほどに……。
「……いいよ」
「何がだ」
 誘いであるはずの柔らかな口調が、三蔵の理性を呼び覚ました。それは、思わず開きかけていた唇を噛みしめさせ、視線をも鋭く眇めさせた。それでも離せない掌が、解けない欲望の催眠的暗示を、彼に思い知らさせる。
 そして逃げようともしない、相手は再び口を開く。
「だから、喰っても」
 どこか優しげな声音は、あまりにも耳に心地よすぎて、そのまま身をゆだねてしまいたい感覚をもたらす。男の腕はその命令に従い、徐々に力を持ち得ていく。
「聞いてねーのは、三蔵のほうじゃん」
 息苦しげな中、悟空はそれでも強気に軽口を叩く。どこにも焦燥はないようだ。

『ちがう!』

 あまりにも冷静な相手の様子に、わずかに男の暗示が醒めた。すべてを圧倒していた感情の脇から、理性が微量に働きかける。
 非難の内容に、誤りはない。
 だからといって、どうしてあっさりとそれを受けとめられようか。相手が喰われることを容認している。その事実を理解しても、認めることなど、三蔵にはできない。
(どうして俺はこいつを喰いたい?)
 自問自答をすることで、男は身体の動きを抑制する。薄らぐ触感が、狂気的感情を徐々に沈めていく。そして隙を突くように、過去へと意識を戻す。
 追い求めて、迷い込んだ。その一瞬を捜し求めて。
 そして辿りついた男の瞳は、大きく見開かれた。
(こいつが寺院を去ろうとしたからだ……)
 俺の元を去ると告げられた一瞬に、この目は眩んだ。ただ一言が問えないほど、何もかも見えなくなったのだ。
 けれど、どこまでも許される ── 喰らうことまでも。
 死線を越えたことを認め、再び触れて落ち着いた今ならば、悟空の行動のワケなどたやすく読みとれる。ただ離れようとしていたと、なにゆえに思いこめたのだろう。
(俺は、バカか) 
 気がつけば、なんと大きな矛盾がここに存在していたことだろうか。ともにいたいという想いが、相手を手放すことを結果的に命じてしまったのだから。
 絶望が、奇妙な幻影を見せていた。普通なら決して視ることの叶わなかっただろう、狂気の底を。 決して離れることのない手だてとして。

── だから、喰いつくすことに憧れた。

 一体化することにも、ともに滅ぶことにも。それでも壊すことを恐れたから、逃がしたかった。
 すべては、それだけのことだ。理解すれば、なんと愚かしいことだろう。
 導きだされた結論に、男は思わず笑い出しそうになってしまった。
「だから、喰ってよ」
「もうそんな必要は……」
 ない、という陽気に続くはずだった言葉は、固唾とともに喉の奥へと飲み込まれた。
 まつげを揺らしながら、首筋を差し出し訴える、目の前の姿。白く浮かんだ肌のわずかな震えが、歯を待ち望んでいるかのようだ。
「喰ってくれよ……」
 最後の願いとばかりに呟かれたそれは、単なるのデコレーション。本命は、熱すぎる視線を絡めてくる、上目遣いの金晴眼だ。
(こいつ……)
 深く陶酔したような表情に、三蔵はようやく気がついた。緩やかに瞼の内側に秘められていく瞳に、自己犠牲の昏い輝きを見いだしたからだ。
 金鈷と同じくらいに鮮やかな光を放ちながらも、どこかが変質してしまった、そのくせ歪みなく澄み切ったまなざし。それは比類のないほどに美しいものだ。
 あたかも人形の持つ、ふたつの硝子玉のような……。
(何もかも許されるのは、当然だ)
 唇を噛みしめながら、男はすぐ触れられるはずの存在を、あまりにも遠くに視た。薄く頬を染めながら自らを捧げようとする犠牲の清らかさ。隠しきれない驚愕が、口の中にやたらと渇きを覚えさせてしまう。
「お前は ──」
 既に、すべての選択を俺に預けていたのか。
 もはや声すらも失って、三蔵はただその尊い犠牲に抱きつくのだった。

『お前は、ただここにいればいいんだ……』

 俺を苛立たせつづけた、自己犠牲の精神に基づくような振る舞いは、あの言葉が生ませた物だった。すべてが、あの旅立ちを妨害したときから、始まっていたのだ。
 悟空が選んだ、はじめてともいえる行為であった、独り立ち。
 その意図が今ならわかる。
 対等になりたいから、独立をしようとしていた。独りで働き、暮らすことを選び取った。その何もかもが、ふたりでともにありつづける道を求めてのものだったというのに。
 それに対する俺の行動は ── 。
 ほんの少し、あの衝撃を思い知らせたかった。出ていくと聞かされたときの痛みと、同じだけの辛さを味わわせたかった。ただそれだけだったのに。
『喰ってよ……』
 どこまでも要求に応えようとする、悟空。側にいるためには、手段を選ばない。俺が望んでいることならば、なおさらその身を差し出し、叶えようとするだろう。
 どこまでも汚れのない純粋な魂 ── そして存在。
(だからこそ、歪めてしまった)
 いや、これはそんな単語が当てはまるものだろうか。ならばそうさせた俺も、ひずんでいるのか。
 ただ、もっとも強く求めあっただけだというのに。
 八戒たちは、ここまでも見抜いた。だから悟空をここへと残していったのだ。俺が自分しかみることができなかった間に、壊れてしまったこの存在を。
「……三蔵?」
 後悔など、既に追いつかない。腕の中から問いかける悟空を、男はますます強くかきいだく。とうに喪失してしまっていた、そしてもう二度と失わない者を。
(もうこいつはここにいる)
 それはもはや確信に変わった。こいつの目は俺だけを見ている。自己崩壊を誘うまでに。
 自分の望みは、叶っているじゃないか。
「でも、喰いつくされたくはない……かな」
 抱きしめたまま、一向に次の行動に移らない男に、おとなしく胸におさまっていた悟空は、ゆっくりとその瞼を持ち上げながら呟いた。どこか諦めたかのような覇気のない瞳は、それでもなお清らかな印象を強くにじませている。その輝きに晒される者に、影を落とすほどに。
「だって、喰ったらなくなっちまうんだぜ?」
 視線を ── 金の光をぶつけて、訴えかける。

 それが、お前の唯一の希求なのか?
 俺の隣に在りつづけること。それだけが。

「三蔵は、哀しくないのか?」
 切なさなのか、愛しさなのか。込みあげる想いは、もはや男にはうまく形にすることはできなかった。全力で相手を胸に押しつける以外には。
「そうだな……」
 喰らいつくす幻想は、もういらない。この仮想の宮殿
も、もはや必要ない ── 少なくとも、今一瞬は。
 求めていた、切なる真実。それはいわゆる事実などではなかった。誰にとってもの真理など必要ない。ふたりの間にだけ存在すればいいものだから。
 だからこそ生まれた、この監禁空間だった。
 しかし、この小さな世界に固執しなくとも、俺はそれを手にしている。悟空の希求も、この俺が満たされている限り、叶っているのだ。
 ただ代償を要求されていると、そう考えられているこ
と。それだけは、虚しく、そして哀しい ── 。
 これが翼をもぎ取ってしまった罪なのか。
 自然に愛された者の、天高く舞うための羽根を奪ったが故の。
「三蔵……?」
 もし仮に、ともに滅ぶしかない限界が来たとすれば。
 いや……どちらかが、その瞬間を迎えたとしたら。
(この想いのままに、選べばいい)
 そう、咎を受け入れて、決断するだけだ。
「もしもお前が、俺より先に死んだら……その時は、全部、喰ってやる」
 沈黙ののち、ようやく発された低い声音には、冗談めいた色はなかった。けれど奇妙な重さや衒いもない。ただ事実を告げるだけの、真剣な調子のみがそこにはある。
 それは濡れながら見つめている、紫の瞳にも現れていた。
「じゃあオレが後だったら、ちゃんと喰ってあげるね」
 それに答えたのは、否定の仕種と頬から飛んだ雫だ。
「先に死にそうだったら、きっちり殺してやるからな」
「……うん、わかった」
 セリフに似合わない暖かな口調へこくりと頷く感触は、ぴったりと密着した胸から、男の心へと溶けこんでいく。
「だから、お前は俺の側にいろ」
 いてほしい。いや、いなければならない、お前だけは。
 互いに片翼だけの、飛べないものなのだから。
 人は哀れというかもしれない姿が、真実である俺たちは。

(もう二度と同じ過ちは繰り返さない)

「……あっ!」
 そして情熱的な、嵐の抱擁。
 あの蒸し暑い長雨の夜以来の、喰らいつくような口づけは、誓いのように深く長く、熱かった。

 今この刹那。紫闇の幻宮は、永遠に封印された──。

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『Civilize〜紫闇の幻宮〜』




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