それはすべて、蓮池を覗き込む一人の者から、引き起こされたのだった。


◆   ◆

「三蔵様、なんとかお考えを改めて……」
「くどいっ! もう決めたんだよ」
 追いすがる僧侶たちに、下された鋭い一喝。
 それは、純白の法衣がこの世でもっとも似合う、けれどもっともその服装からかけ離れた損差しである、金糸の持ち主から発されたものだった。
 ただ一言で周囲を圧倒した彼は、その輝く髪を荒っぽく掻きあげる。そして視線をちらりと落とす。
「いいな、これは決定事項だ」
 紫水晶の瞳できつく念を押し、彼は周りの者へと背を向けた。
 くるりと法衣の裾をひるがえして立ち去る、その男の背中を追うことの出来る者は、もはや誰一人居なかった。
「いくらこの寺では、すべての者の恋愛が認められているとはいえ……」
 その神々しい姿が、残された者たちの視界から消えた頃。金縛りからようやく解かれたかのごとく、一介の僧侶たちはため息をもらしたのだった。

 ここは金山寺と呼ばれる寺院だ。廃寺と化していたこの場所を再建したのは、誰であろう、あの玄奘三蔵法師、その人なのである。
 彼が自らの力で探り出し、称えた無一物。
 それだけで、彼は新たな宗教にも等しい、宗派をここに興したのであった。
 時流にも乗ったその新派は、徐々に大きな流れとなった。
 そしてその本山は、いつしか男女の別なく、自力での救いを求める者のみを受け入れる、駆け込み寺のようなものとなっていたのである。

「確かに三蔵様が、誰とご結婚なされようが、自由ではあるのだが……」
 つい先ほどまで三蔵に飲まれていた僧侶たちは、深々としたため息もこぼしつきたのか。ようやく今後のことについて議論をしはじめた。
 何にも囚われない【無一物】を称えたこの新派では、すべての物事は、したいようにすればよいこととなっている。僧侶ということで、阻まれるものは何もないのである。
 すなわち、結婚も、両者の合意で可能ということになるのだが ── 。
「相手が、問題なのだ」
「そうだ。あんなサル…もとい、悟空では、あのお方に釣り合わないではないか」
 噛みつくような発言も、三蔵のことを案じればであろう。
 それがゆえに、先ほどまでも祖である玄奘三蔵に、進言をしていた彼らなのだ。
「といっても、三蔵様が……」
 言葉尻のかき消えたその言葉に、居合わせた全員が深々とため息をついた。
 そう。頂上にある三蔵が、まったくもって悟空以外OUT OF 眼中では、彼らにはどうしようもない。両者の合意があれば、他者の意見など、力を持たないのである。
 だからといって、悟空を説得して諦めさせたところで。
(そんなことに怯むようなお方でもないし……)
 脳裏をかすめた瞬間に、彼らが肩を落とすくらいには、無駄足であることは明白だ。
「これは……仕方ないな」
 一人の低い呟きに、他の者が力強くうなずいた。
「ああ。それ以外、ない」
 ゆっくりと皆が顔を見合わせた。
「あのサルを、変えてみせるっ」
 三蔵様に、ふさわしく!
 天を見上げて、突き上げた拳。揃いもそろって、悲壮なまでの覚悟である。
 しかし、いったい何をする気なのだろう……。
 そう思う間もなく、彼らはいきなり床へと跪いた。
「とにかく、仏に」
 祈るのだ ── 。
 もはや救いをそこにしか見いだせないほど、彼らに為すすべはなかったのである。



 そして毎夜のごとく祈りが続いて、迎えた挙式当日。
「なあ、ちょっと……」
 控え室として割り当てられた場所から、隣の部屋に待つ三蔵へ、控えめな呼び声がかけられた。むろん、今日花嫁となるべき存在、悟空からのものだ。
「あぁ? なんだ」
「オレ、なんかヘンなんだ……」
 ごにょごにょという、あまりにらしくない声に、三蔵も思わず重い腰を上げる。

 そしてひょいと覗き込んでみたものは ── 。

「バカ猿が……。なに、拾い食いしやがった」
 いつもの軽口が、その形のよい唇から飛び出した。
 けれどその表情は、らしくないほどに驚きを呈している。丸く見開かれた彼の目など、拝んだことのある者は、そうそういないであろう。
 それを運良く目にすることの出来たはずの幸運な悟空は、けれど今その身を襲っている出来事に、新たなる三蔵の顔に喜ぶことはできなかったのである。
「おい、悟空っ!」
「さっき、寺のヤツらが持ってきた薬、飲んだだけだよぉ……」
 きつい言葉にも、もはや泣き声じみた言葉で返すのが、精一杯のようだ。
「あ、あのバカども……っ!」
 ぽろりと悟空の頬を涙の雫が転がった瞬間、一気に頭の回線がつながったようである。
 ばっと大事な花嫁を担ぎ上げると、彼は脱兎のごとく駆けだしたのだった。
 そして一分と経たないうちに、その脚は急ブレーキをかけていた。
「お前らなーっ!」
 息を切らして現れた三蔵の叫びに、式場の最終確認を涙ながらにしていた僧侶たちは、一気にその尊師へと視線の集中線を描いた。
「なんだ、コレは! 何をいったい ……っ」
「どうなさいました、三蔵様? ── こ、これはっ!」
 焦りをあらわにした信じられない姿に、皆がざわざわ集まってくる。
 そして、その腕の中にあった存在を、眺めて。
「天は、我らを見捨てなかったぞっ!」
 おおーっというどよめきを起こして、その場に居合わせた全員が、快哉をあげた。思わずおいおい泣き出している者さえいるのである。
「な、なんだ、お前らっ」
 あまりの不気味さに、三蔵は思わず後ずさる。もちろん悟空をしっかりと抱きかかえたままでだ。
「これぞ、観音様のお慈悲です!」
「観音サマぁ?」
 思いがけない単語に、聞きかえす男の眉がしかめられる。その様子を意に介さず、周囲の僧侶はみな嬉々として言葉を紡ぎだした。
「昨夜、皆の夢枕に立たれたのです」
「夢ぇ?」
「そう。我ら全員、同じ夢を見たのです」
 ますますその端正な顔を怪訝さに歪めていく三蔵をよそに、彼らの説明はつづく。
「そこで、妙薬の作り方を教えていただきまして」
「我らみな、朝よりその薬を煎じて。つい、さきほど」
 そして一同の視線は、男の腕の中にいる、悟空へと注がれた。
「ンな、不気味なものを飲ませたのか?」
「不気味とは、何です。あの威厳は、まさしく観音菩薩様です!」
 激昂する尊師にも、観音の慈悲を得たと信じる僧侶たちは、ひるむこともない。
(どうして菩薩に威厳があるってんだ!)
 そう。ふつうあるのは“慈愛”である。
 けれどそんなふうに三蔵が歯がみをしたところで、現状は変わり様もない。
「ええ、絶対にあのお方は観世音菩薩様です。あの、三蔵様に一歩通ずる威厳!」
「……どういう意味だ、それは」
 その低い声音には、さすがに僧侶たちも言葉が過ぎたと思ったようである。
「そ、そんなことは、ともかく」
「その方が観世音菩薩様であることは、その悟空の姿を見れば明白ではないですか!」
 あわてふためきながらも、彼らは一斉に、いまだとまどいつづけている悟空を指さしたのである。
「その豊かに飛び出した、窮屈そうな胸」
「衣服のラインから張り出した、腰つき」
「その曲線に満ちた、からだつき」
 口々に述べていく特徴は、どう考えても悟空に対してのものとは思えない。
 けれどそれが事実であることは、三蔵も、また悟空自身も認めざるを得ないのである。
 ──そして。
「どこをとっても、女性そのものではありませぬか!」
 二人を驚愕させた事実が、まっすぐな言葉として発言されたのである。
「これで悟空も、いえ悟空様も、三蔵様とのお世継ぎを産まれるにふさわしい御身」
「我らも、結婚に反対する必要はございませぬ」
 感極まったのか、取り囲む者たちはみな、その頬を涙でぬらしている。
(こいつら、信じられねぇ……)
 もはや自らの手には負えないと悟ったのだろう。
 三蔵は、その腕の中にあった“女性”を、ゆっくりと床へと下ろした。
「な、なに? 三蔵っ」
「……時間なんだよ」
 準備はすでに出来ている。あとは泣き崩れている輩が所定の位置に移動するだけだ。
 そして本日の主役たちが定位置に立てば、彼らとてすぐさま自らに割り当てられた職務へと戻っていく。
「こ、このまま?」
「仕方ねぇだろ。神のイタズラなんだ」
 あわてふためく悟空に、吐き捨てるように言い放つと、男はその腕を取る。

 そしてウエディングベル代わりの鐘楼が、一声。
 二人の結婚式は、はじめられたのである──。


◆   ◆

「初夜くらい、そういうのもイイもんだろ?」
 そんなふうに笑いながら蓮池を覗き込む者の隣に、いつしかもう一つの影が増えていた。
「また趣味の悪いイタズラを……妊娠でもしたら、どうなさるんです」
「そしたら、両性具有にでもしてやるか?」
 まさか、タネのまま殺しちまうわけにもいかねぇしな。
 非難がましい男の意見に、最初からその場にいた者は、なおさら愉しげな笑みを浮かべる。
「それは……」
「だいたいガキの一人や二人産まれなきゃ、あいつらも納得しないだろうが」
「……!」
 もはや絶句するしかない善良な男は、そのまま諦めたようにその場を後にする。その名残にと池の底を一瞥する視線は、どこか同情の色を浮かべている。いや、同族憐憫の情というべきだろうか。
 そんな相手の姿を目の端にすら入れず、いまだ池の底に映る下界を眺めている者は、一際その口元に浮かべる笑みを深くした。
(授乳する悟空に嫉妬する金蝉……)
 それもいいかもな。
 ひとりニヤニヤと嗤いながら、蓮池の底を覗きつづける、その人。

 それこそが、坊主たちが祈りつづけた観世音菩薩、そのものなのであった ── 。


おわり






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