『幻想トライアングル』 第一章より抜粋

 春の陽射しが射し込むビルの一階には、この季節にふさわしい清々しい声が響いていた。
「清水リョータっ、本日よりここ駅前支店融資課に配属になりました! どうぞよろしくお願いしますっ」
 ばっと小気味よく下げられた頭には、パチパチという軽やかな拍手が一斉に与えられた。
 いかにも新人というシングル2つボタンスタイルのスーツ姿が、初々しさを窺わせる。整いすぎた顔立ちが普通ならば醸すだろう怜悧な雰囲気も、少し低めの身長とにこやかな笑顔が融和させるのか、むしろ感じるのは親しみやすさばかりだ。
 人は第一印象に弱い。愛らしさを見せつけた彼は一人前の銀行員となるまで、ここできっと大切に育てられるのだろう。
 だが誰もが喜び迎えるだろうそんな相手を前に、げんなりと通路の壁にもたれかかる男がひとりだけいた。
「来やがったよ、本当に……」
 ため息をつく首から下げられたIDカードには、オレンジのラインと矢野孝臣の文字がある。
「これでまた、三人か」
 悠然と逆サイドの壁にもたれる相手の胸元にも、同じくIDが翻る。こちらも同色のラインがあることからして部署が同じなのだと推察される。名前は久我陸斗。どうやら彼らは室内スペースが狭かったために、着任の挨拶を通路から覗き込んで聞いていたらしい。
 孝臣はイタリアンシェイプを思わせる濃グレーのスーツ、もう一方の久我はネイビーにうっすらストライプの織りが浮かぶスリーボタンタイプを着込んでいる。どちらも背は高く、それぞれに異なるがいい男である。
「なにを追っかけてきてんだか」
「何をじゃなくて、誰をじゃないの?」
「なにをわざわざ、もしくは何を考えて、だろうが」
 元々うなだれていた孝臣が、訂正を加えつつがっくりと肩を落とす。
「追いかけてる相手は決まってるしね?」
「……そうだな」
 そんな男を目の前に、対照的なほど上機嫌なのか、久我はわずかながらからかいの色を浮かべている。銀行内で聞くにはめずらしいものだが、突っかかる気にもなれない。ため息ひとつで、孝臣は滑り落ちた壁へもたれ直した。
「しかしまだ三年目に過ぎない俺たちがふたりもいるところに、普通また新人を入れてくるか?」
「それだけ彼か、俺たちが普通じゃないってことだろ。外交ナンバーワン?」
「なんだよ、内勤一番のり」
 室内はまだ着任の挨拶を交わす喧噪が続いている。だからこそ口に出せる互いの自負である。むろんそれだけの実績を彼らは既に叩き出してもいる。
「でも、きっと彼自信の力量が大きいよね」
 すっと流された久我の視線は、最前の涼太へと向けられていた。彼の明晰な頭脳が学歴以上のものであることは、同じ高校、そして大学の出身であるふたりには周知のものだ。
「さすがのもんだよ、ホント」
「……そんだけかねぇ」
 しきりに感嘆をあげる相手と裏腹に、ぼそりとこぼした矢野の呟きは、激しく駆け寄る靴音にかき消された。下げたままの目線をあげるまでもなく、相手はわかる。
「さて、先輩方? お待たせしました」
「……その口調、ウソくせぇ」
 ペコリと下げられた涼太の頭に、こつんと拳を下ろしたのは意外にも孝臣の側だった。舌打ちしながら戻された顔は、だがそんな行動に臆す素振りはない。
「ま、とりあえずおめでとう。まさか支店まで一緒になるとは思わなかったけど」
「オレだってびっくりしましたよ」
「だろうね。あとはお昼に」
 涼太に笑みを向けたまま発された久我のセリフに時計を見上げれば、始業時刻はとうに過ぎている。露骨に流されてくる上司の視線に、彼ら三人の再会は終わらされたのだった。

「しかしなにが悲しくて、また三人そろってメシ食ってなきゃなんないんだよ」
「仕方ないだろ、ここは支店で昼を摂ることになってんだから」
 約束の昼休み。食堂というには粗末な、支店の奥まった一区画。会議用の長机を食卓テーブル替わりに並べただけの部屋で、彼らは出来合の弁当をつついていた。
「先輩たちのお薦めって、やっぱりおいしいね」
「ここのは結構イケるよ。でも外れもあるから……リストにはマークつけておいてあげたよ」
「ありがとうございますー。えっと……、あ」
 ほんの少しだけ涼太の眉がしかめられる。見逃してしまいそうな動きも、綺麗すぎる顔立ちであれば不快な意味でなく目を引くものがある。
「なに?」
「おーい、矢野! 電話だぞっ」
「やべっ! そういや、かかってくるんだった」
 食堂の入り口から呼んでいるのは課長である。久我の問いかけにかぶさるようにかかったその声に、あわてて卵焼きを飲み込んだ孝臣が立ち上がる。
「矢野。おまえの顧客、なんで女性ばかりなんだ?」
「やだなぁ、課長。世の中、財布のヒモにぎってるのは、奥様がたなんですよ」
「……わたしは、お前を信じているからな」
「んな、妙な念を押さなくても……」
 ぶつぶつと不平を述べつつも、顧客を待たせる気はないのだろう。扉近くでの不毛なやりとりもそこそこに、バタバタと彼は電話口へと駆けだしていく。後ろ姿を見送った相手は、そうして空いた椅子に腰をかけた。
「清水くんも研修では優秀だったらしいね。まずはFA取得を目指してほしいね」
「はい。試験なら得意ですから」
 頑張ります。にっこりと笑う顔は、凶悪なほどに愛らしい。しかも試験ならばと言い切る、過剰に映る自信を裏づけるだけの学歴も、そして頭脳もある。
「彼ならきっと新人トップで資格を取ってくれますよ」
「そうかそうか。おまえらもいるし、これなら今年は業績表彰だって夢じゃないな」
「ってことは、久我先輩?」
「いや。最近はもう外交あんま行ってないから」
 窺うような目線に照れたそぶりもなく、彼は優雅に白身フライを食べ進める。
「だが内勤だけとしてはいい数字だな。過去の顧客なんかも、わざわざ来てくださってるし」
「それって、実はすごくない?」
「すげえに決まってるだろうが。ところで課長?」
「ああ、戻ったか。じゃあわたしはこれで」
 決して長くもない昼休みだ。弁当の前を占領されているのは困る。早々に明け渡された場所に座り直すと、孝臣は即座に箸を取り上げた。
「安定感っつーか、安心感か? 久我にはそれがあるからなぁ」
「やっぱり、そういうのって大事なんだ」
「信用商売だからな、行員なんてのは」
 食べることと話すことの両方に、口を使い分ける。なかなかに器用なものだが、作法としてはどうだろうか。
「よくそんなところで先輩が働けてるね。久我先輩はともかくだけど」
 だがもぐもぐと咀嚼しきってから出された言葉は、失礼さだけなら同等だ。さすがの孝臣にも聞き逃すことはできなかったようだ。
「どういう意味だよ」
「そのままー。あ、オレごちそうさまっ」
 ぽんっと立ち上がると、反動をつけて涼太は弁当の蓋を閉じる。そのままぱたぱたと走り去られれば、残された片割れは呆気に取られるしかない。
「なんだってんだ……?」
「さあね」
 そのやり取りを見守っていた久我は、さりげなくお茶をすする。後輩らしからぬ態度で逃げ出した涼太は、二年間の空白を感じないと感じていた。


……以下つづく




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