クレヨン。



 机の引き出しを抜きだした瞬間、【それ】がポロリと落ちてきたらしい。

「なっつかしー!」
 引越しの手伝いに呼んだはずの助っ人は、来て早々、なぜだか机の下にかがみこんでいた。
「……なにやってんだよ、お前は」
「え? これ出てきたから、つい。なつかしくない?」
 ほらほら、これ!
「お、おい」
 低くすごんで見せたはずの声は、あっさり無視されたらしい。
 本日までという期間限定付きではあるこの部屋の主は、眼前に突きつけられた物体を、仕方なく手にとった。
「なんだ、これは……。クレヨン、か?」
「正解! やっぱりみんな、使ってたんだね」
 ずいぶんと汚れて、瞬間ゴミとしか思えないほどチビたものだ。しかしどうやら、発見した相手にとっては、よほど気に入っていたものらしい。
 とはいえ、このまま思い出に浸られては、時間ばかりが無為に過ぎかねない。
「俺としてはな、中身を適当に分別してこいつに入れて、そのラストの机をさっさと運び出したいんだがなぁ」
 引越し日和でもある今日。まだ陽は高いが、掃除まで済ませてここを引き払う予定なのだ。
 そんな男は、もう一度口調もきつく作業をうながした。
「え、ラストって? もうほとんど終わってるの?」
「お前の来るのが、遅いからだろうがっ」
 あまりのとぼけた答えに、怒鳴り声が落ちる。
 そのいきおいに肩をすくめつつ、いまだクレヨン片手の相手は申し訳ばかりに周りを見まわした。部屋に残っているのは、確かにもはやいくつかのダンボールくらいだ。
「じゃ、今さら手伝いにこなくてもよかったんじゃ……」
 その意見に、ようやく助っ人を得たはずの男の方が、がくっと落ちた。
 いっしょにここを片づけ過去を整理し、ふたりで新天地に向かいたいという想いは、どうやら彼ひとりの淡い夢だったらしい。
(まあ、別に予想はしてたけどよ……)
「これ、一本だけしかないの?」
 彼の失意をよそに、もはや助っ人とも呼べない訪問者は、残りのクレヨンにすべての関心を奪われていた。
「ちょっと待て」
 一言だけ告げ、机の持ち主も諦めたように奥まで覗き込む。
 いろいろなもので埋まった引出し。その片隅に、古ぼけたような箱が転がっていた。
「ケースが壊れてたみたいだな」
 出てくるのは、色とりどりのクレヨン。幼稚園児が使う、あれだ。
「ねえ、……」
「ああ。悪い」
 手に取れば、ノスタルジーを刺激されるのは同じなのだろうか。うながされ、瞬間だが渡すのをためらってしまっていた自分に、男は気づかされた。謝罪しながら、つぶれた箱をそっと押し開けてみせる。
「あれ、ほかのは長い。なんでこれだけ短いの?」
 覗きこんできた相手が、疑問の声をあげる。
 確かに、一本というより、かけらというほうが近い状態になっていたのは、最初に拾ったものだけだった。ケースに残っていたものは、まだほとんど使われていないくらいだ。
 普通に使っていたならば、そんなことはまずない。好みやなんやで使用頻度でムラがあろうとも、ほぼ均等に減っているものが数本はあるはずだ。
「なんでだったかな……」
 問われても、はるか過去のこと。しばらく考えてはみたものの、そうたやすくは記憶は引き出せない。
(ま、わからねぇものは、わからんわな)
 いつまでも悩んでいたところで、思い出せるとも限らない。しかもタイムリミットが今の彼にはある。
 仕方なく、男はいまだにそこから目を離さない相手へとクレヨンを押し渡し、机の中身の整理へと取りかかっていった。どうやらもう、ひとりで片づける気になったようだ。そしてゴソゴソと、古いレポート用紙やよくわからないメモなどを、箱へと押し込んでいく。
 クレヨンを受け取ってしまったほうは、どうしたって手持ち無沙汰である。
「えーっと。あ、年長さんのときのだ」
 とりあえず床へと座り、その物体の観察をはじめたらしい。
 11本と、かけらがひとつ。
「あれ? なんだ、これ折れてるじゃん」
 一見したところではわからなかったが、巻紙に包まれた中は、意外なことにどれも割れていた。ケースがへしゃげた拍子に、同じく圧力がかかっていたのだろう。
「折れてる? ああ。粉々まではいかなかったんだな」
 さっき気づかなかったためか。片づけ途中の男も、ふたたび壊れた箱を覗きこんだ。そして手を伸ばして、状態を確認してみる。
「……あ、そうか」
「なに?」
 指で押さえてみた瞬間、彼はふとつぶやいていた。
 その、どこか納得したような声色に、自然、問いかけの言葉がかけられる。
「そのクレヨンな」
 返事は片づけへとその手を戻しながらだった。
「俺が、折ったんだよ」
「折った?」
 予想外の言葉に、預けられたクレヨンを見返せば、片側にだけ自然に砕けたにしては奇妙な跡がそのまま残っている。
「なんで、このみずいろだけ?」
「ちがう。そらいろ」
「は? いっしょでしょ」
 いわゆる薄いブルーのクレヨンだ。どちらでもよさそうな呼称である。
「そらいろ、なんだ。その色は」
 分別したものを適当にまとめあげた男は、相手の横へとしゃがみこみ、その青いかけらを手に取った。
「書いてないな。でも、そうだったんだよ」
 どうやら巻紙を見せたかったらしい。
 しかし色名の書いてある部分は、今はなき片割れのほうだったようだ。
「むかし、その色ばっかで描くヤツがいてさ」
 名前は、なんて言ったかな……。
 すっかり思い出したのだろう。ゆっくりと記憶をたどりながら、昔語りははじめられた。
「なんにせよ、自由時間だと、いつも絵ぇ描いてるヤツだったんだ」
 かけらをもてあそびながらの言葉は、苦笑に彩られながらも柔らかい。
 そのやさしい調子に、聞き入るものは、穏やかな表情になっていく。
「それで、自分の使い切ってなくなっちまったら、ギャアギャア泣き出して」
「だから折って、半分あげたの?」
「うるさかったからな」
 ほんの少しだけ驚きをにじませた問いにも、彼はさらりとそう答えた。
「しかし、一本まるまるやりゃあよかったのにな」
 折ってまで人にあげるなど、それだけで十分に優しい行為だと思う。けれどそれを当たり前と思っているのか、なお男の反省もどきの言葉はつづく。
「どうせその色にも、クレヨンにも、たいして愛着なかったんだろうし」
 わざわざ半分にした理由は、さすがに思い出せないのだろう。
 首をひねりつつ少し苦笑を深めて、彼は手の中のそらいろをケースへと戻した。
「そうだったんだ」
 会話の終わりを感じ取り、めずらしく過去を話してもらった相手は、ふんわりと微笑んだ。優しいね、という言葉を、心へ飲み込みながら。
 賛辞のたぐいを嫌うシャイな男なのだと、彼のことを理解しているからだ。
 そして、重苦しい雰囲気を苦手とすることも、知っていた。
「そらいろかぁ。そういえば、童話みたいなの、なかったっけ」
「……知らねぇ。忘れただけかも知れないが」
 日だまりのなか、新しい話題がさりげなく提示された。わずかにまだ過去に囚われている男は、どんな話だと、まなざしだけで問いかける。
 その瞳を受けとめた相手は、たしかね、と箱の中に完成した12色のグラデーションを眺める。
「空に描けてさ、それで、描くと夢がかなうクレヨンの話。だと思う」
 意外な内容だったのか。男はその切れ長な目を、かすかに丸くさせていた。
「……それが、そらいろなワケね」
「たぶん」
 あまり自信のある話ではないのだろう。ちょいちょいとクレヨンをつつく手つきも、弱々しいものだ。
「じゃあ、そのせいかもだったのかもな」
 つつかれているグラデーションのなかから、男は再度そらいろを取り出した。そのままごろりと転がり、窓の外へと視線を流す。
「そいつが描いてたの、家族の絵だった気がするしな」
 いまは、幸せに暮らしているのだろうか。
 顔もロクに思い出せない相手だ、ただとても小さかったことだけ、覚えている。

 こどもは、自分の家族を選べない。
 けれどいまならば、愛する人とともに、新しい家族を創っていけるから。

「俺も描いてみたくて、半分にしたのかもな。でも、さすがに……もう描けないか」
 レポート用紙に試してみるが、鑞成分の変質のせいだろう。その空色のかけらは、線ひとつ引けなかった。
「新しいの、買いに行く?」
「いまさら使うものでもないだろ」
 ケースに戻しはしたが、持っていく気はさらさらなかったのだろう。男はそれを、手近にあったゴミ袋へとまとめて放りなげた。そして机を運び出すべく、その体を起こす。
「そう? いいじゃん、使えば」
 楽しげな声とともに、隣も立ちあがる。
「あたらしい部屋で、なにかいっしょに描こうよ」
「……じゃあ、ここが片づいたら。買いに行くか」
 どうせあとは机と段ボール箱を積みこむだけだ。時間は十分あるだろう。
(思いがけないきっかけで、夢が叶ったしな)
 いっしょに一人の思い出をしまい込み、ふたりで新しい思い出づくりに向かうこと。
 過去より、未来。未来よりも、現実。
 夢はいま見るもの、想い出はもっと先で振り返ればいい。
「そうしようって。じゃあ、手伝うね!」
 引っ越しは、その第一歩。
「さて、どんな絵をまず描こうか」
 一面をただ塗りつぶしてみるのも、空色なら、いいかもしれない。

「太陽が、まぶしいな……」

 見上げた空は、どこまでも高かった。



 夢色クレヨン。
 きっとふたりでなら、なんでも描けるから。






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