006:ポラロイドカメラ


 文芸の部屋から隣につながる、公然の秘密として存在する抜け穴。
 普段はついたてに隠されているそこを、和真はひさしぶりにくぐり抜けていた。
「あれ? めずらしいの使ってますね」
「そうかな。けっこう便利なんだけどなぁ」
 抜けた先は、写真部の部室。その場所に主のごとく存在しているのは、もちろん結城である。
「そのインスタントカメラがですか?」
 挨拶より先に話題にあがったのは、その手の中にあったカメラのことだった。
 普段は、いわゆる一眼レフを使っていたはずの相手だ。
 写真で食べていこうと思うほどの彼だから、カメラにはこだわりもあるだろう。
 なのになぜなのか。簡易的と思われるそれに対して、和真は懐疑的なまなざしを向ける。
「撮ってみないとわかんない具合ってのが、けっこうあるから」
 ファインダーを覗きこみながら、彼はいきなりシャッターを切った。
 室内だからか、当たり前のように焚かれたフラッシュ。
 レンズの先にいた和真は、その光線をまともに受けた。
「えーっと、光の加減とか、そういうコトですか?」
 チカチカとする視界のなか、ひらめいた思いつきを訊ねてみる。
「あと、おおざっぱになら構図とかもね」
「それって、デジカメじゃダメなんですか?」
 オートフォーカスはもちろん、露光やホワイトバランス。
 フレーミングまで含め、最新機種ならば、自動調整でいくつも撮るらしいというのに。
 写真をただの記録と考えるなら、確かに当然の疑問だろう。
 けれど結城は、密やかな笑みをみせてくる。
「俺がほしいのは、銀映……ふつうの写真だからさ」
 カメラをおろしたその手には、吐き出されたばかりのフィルムがあった。
「コレで撮るのは、あくまでそれの試し撮り。現場で即、確認できるからね」
「はあ……」
「デジカメの液晶なんて、角度次第だし。だいたいちいさすぎ?」
 試し撮りゆえに、小さなモニタでの確認では不満ということだろう。
 写真への思い入れの違いというのか、カメラマンのもつ微妙な感性に、和真は曖昧な笑いを返す。
「それにさ。こういうのが残るってのも、嬉しいじゃん」
 言葉と同時に、フィルムがベリッと剥がされる。
 すると、いまさっき撮影された和真が、驚きもあらわな表情としてふたたび現れた。
「でもまあ、事象は一瞬のものだから。こんなのは、幻想みたいなものだね」
 ひらりと舞い、その一葉は机上へと落とされる。
「幻想?」
「だから ―― 誰かのこと、こういう人って思ったとするじゃん」
 手近な椅子に座りながら、和真はうなずきで続きを促した。
 向かい合った相手はその手の中に、再びカメラを包み込む。少し考えるようにしたのは、言葉を選んでいるからだろう。
「でも、それって相手の一面でしょ? しかもその瞬間の」
「あ、なるほど」
 映した写真は、撮影者の主観が捉えた対象の姿。
 だから人の数だけ存在する、一側面でしかない。それは時間軸的にも一瞬のことで。
 与えられた説明は、意外なほどにわかりやすかった。
「それをしかも永遠のものだと思うんだから、幻想としかいえないじゃない」
 浮かべられた笑いは、皮肉げにも映る。
 写真はあくまでも瞬間の記録だと考えることがたやすい。
 けれど思いこみは、なかなかに解消しがたいものだから。
「幻想ねぇ……」
 机にある写真を、被写体となった本人が拾い上げた。
 じっと見入る彼と、その切り取られた『幻想』は、似て非なる印象を確かに持っている。
 いや、『和真』という存在自体が、幻影でしかないのかもしれない。
(所詮みんな、本当のオレを知らない)
 見せてこなかったのも、自分だけれども。嫌われたくはないから、だれにだって。
「タツだって、見てなかった。なのに」
 求められることはうれしくとも ―― 幻影だから。求められても、応えられない。
 そして飽きられて、捨てられる。
 思わず和真は、手にしていた写真を握りつぶしかけ、あわてて放り出した。
 汚した謝罪の声も出せないままに、けれど思考はとまらない。
(そう。あのひとだって、きっと……)
 オレに幻想をみてる。追いかけつづけるだろう、自分を。
 なのに、あのひとだと。
 幻想をいだかれてる。それが、イヤじゃない。
 むしろ、それに合わせたい ―― 。
「でもそれって、悪いことじゃないよ、たぶん」
 いつの間に構えていたのか。カメラをその瞳に押し当てた状態で、結城の声は発されていた。
 内心を見抜かれたのだろうか。焦りから、和真の表情がなくなっていく。
 とはいえ話の流れからすると、写真の幻想性についてのはず。
 落ち着きを取り戻そうと、彼は一息ついた。
「そういえば、あいつってさ、あの顔の割にはよくしゃべるんだ」
「……そうですね」
 しかし振られたのは、突然の話題転換。ドクンと心臓が鳴った。
 やはり内心は見抜かれていたのかもしれない。
「でもさ、肝心なことなんて、何も言いやしない」
 ただ、追及はそこにはこない。
 つづけられた一言に、和真はぐっと押し黙った。静かな空気が、胸に痛い。
「あんな奴と一緒にいたから、俺はカメラを手にしたんだろうな」
 言葉足らずのセリフ廻しが、会話から意識を逸らさせない。
 視線を向けても、カメラをしっかり構えた相手の顔はほとんど見えない。
 いや、わずかに浮かべられているのは、笑いなのか。
 苦笑にも見えるその表情は、けれどずいぶんと優しい。
「気になるでしょ。内部まで覗き込んでやりたくならない?」
 レンズが光をはじいた。
「医者になって解剖ってのもよさそうだけれど」
「それは……ちょっと」
 冗談だよ。引き気味な和真に、相手は余裕そうに、そう軽く告げる。
「切り取った写真は、俺のものだし。解釈は俺にゆだねられる」
 彼はそのまま、カメラを触りつづけた。そして被写体の挙動を一心に追う。
 狭いファインダーが、和真で埋め尽くされている。
 撮影のためにおこなう諸々の判断のおかげだろうか。
 いつのまにかカメラを通して覗くことで、彼は対象を冷静に分析できるようになっていた。
「デジカメで、いろいろなパターンを一気に記録してもらうのもいいけど」
 ゆっくりと語りかけながら、カメラを撫でる。
 その手つきは、恋人に対するほどにいとおしげだ。
「自分で選び取りたいじゃん、失敗するにしたってさ」
 彼はそのまま構えを解き、カメラをそっと膝の上に戻した。
「そう、かもしれません……」
「だから、まあ。切り取るターゲットには、独占欲も多少働くけどね」
 ほんの少しだけ照れたような微笑みは、たぶん本音なのだろう。
 けれど決してそれを偽らない。
 写真は自分のものだから。言い切るだけの強さが、彼にはあった。
 ただその姿を見つめていた和真の表情に、薄く翳りがよぎる。
(これが言えたら、あいつもラクになれたのかもしれない)
 言わせなかったのは、自分なのか。それとも。
 そうして沈黙がふたりの間に落ちた。
「あとさぁ」
「……はい?」
「あいつって絵になるじゃん、悔しいことに」
 過去をなつかしむ独特の雰囲気は、どことなく湿り気を帯びて重い。
 そんな空気を緩やかに動かしたのは、冗談めかした悔しげな声だった。
「しゃべらないほうがいいかもって、たまに思います」
 そして、ふたりはちょっといたずらめいた笑いを起こす。カメラはそっと脇へと片づけられた。
 世界は動き出しているのだ、感傷はもはや必要ない。
「だからきっと、撮りつづけてきたんだ」
 あいつに限らず、写真を。
 いまや、ターゲットは彼ひとりではないのだろう。
 その想いは言葉にせずとも、あきらかに彼から伝わってきていた。
「そうそう。あれ、あげるよ」
「え? なんです」
 答えは返されない。アルバムらしきものを、相手はがさがさと漁りはじめた。
 少し待てということだろう。
 このあたりだったはずと探る様子が、どことなく楽しげなのは、気のせいだろうか。
「はい、あげるよ」
「これって……」
 鼻先に差し出されたのは、一枚のポラだった。薄暗い世界に、ひとりの影。
「いつのです、これっ?」
「いつだったかな。でも、一番最近の雨の日だったよ」
「それって……」
 あの日だ。はじめて本心から言い合い、彼の叫びを聞いた ―― 。
「俺のなかでも、秀逸よ?」
「……ありがとうございます」
 軽いウインクに、和真はそっと瞼を伏せた。

『一枚しかないって、特別な気がしないかい?』

 手の中に包み込んだ写真。
 そこにいるのは、ひとり泣くように濡れる、あの彼だった。




単に泣いている翔の写真について、書きたかっただけ。




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