016:シャム双生児



 緑あふれるグリーンロードにある、中央図書館。
 場所柄だろうか、人の気配はあれども中は水を打ったかのごとく静まりかえっている。そのなかでも梅雨時の薄暗い窓辺など、なおさら濃い静寂に満ちている。
 照明のないそんな一隅で、結城はひとりページを繰っていた。
 そのあたりだけは、時間がとまってしまったかのようだ。紙をめくるわずかな音だけが、あたりに響く。
「おい。なに見てるんだ?」
 けれど熱心に見入るそんな背中への声が、その時を動かしはじめた。
「おまえこそ。なんでここに?」
 ゆっくりと振り返った彼は、潜めながらも親しげに言葉を返す。まだ入学して間もない時期だ、知り合いなどほとんどいるわけでもない。それでもこの声だけは聞き間違えるはずがない。
 なにせ十年来の昔なじみだ。そうでなければ、相手も背中だけで声をかけてはこないだろう。
 案の定、視線の先には抜きんでて高い上背を誇る男が立ちはだかっていた。
「……ああ、なるほど」
「そうだよ、これ欲しくてさ」
 理由は問うまでもなかったようだ。苦々しく笑いながら、相手は手にした本を振っている。それは同じ共通講科目義を受けている彼にも見覚えのある指定図書だった。
「で、おまえは?」
 けれど相手の好奇心はまだ満たされていない。肩越しに覗きこんでくる、体格に似合わぬ子供じみた仕草に、結城もまた苦笑を浮かべた。確かにこの暗がりで見入っているほどのものならば、気になるのも当然だろう。彼は机上の本を手に取った。
「写真集。こういう仕事もあるんだよなぁって」
 紙質のよさから重すぎるそれをかざした瞬間、相手の顔から一切の表情が剥げ落ちた。
「俺は……、見るのもイヤだがな」
「避けてたって、現実だろ。人の生み出した、罪悪」
 ほら。突きつけた本には、元気に笑顔をうかべる双子がいた ―― 腰がつながりあっていること以外、まったく普通とは変わらない。
 その写真集は、接着双生児……いわゆる、シャム双生児の特集だった。
 シャム双生児とは、様々な箇所を結合したまま生まれてきた、一卵性双生児の奇形だ。その発現理由には自然発生的なものもあるが、環境ホルモンの影響で出生率が非常に高まることが知られている。その環境ホルモンの原因となった最たるものは、ベトナム戦争の枯葉剤であろう。
「知っているから、見たくないんだ」
 無邪気すぎる微笑みが、痛かったのだろう。絞り出す声は硬い。逸らした目はぐっと閉じられていた。
「まあ……必要なものだとは、思うがな」
「撮りたいとは思えないんだけどね。俺も」
 場所ゆえではなく押し殺した声に、結城もまたわずかな同調を示す。ただカメラとともに生きる将来を考えて、一応の視野には入れてみただけなのだ。
 図書自体の貸し出し処理は終わっている。鞄へとしまいこめば、相手はようやく瞼をあげたらしい。帰途の準備が整ったことはわかっているはずだ。それでも背後から立ち去る様子は窺えない。
「何を撮るか。撮りたいか ―― か」
 避けていたはずの視線は、本を封じた鞄へと落とされていた。
「おまえは、どうするワケ?」
「……なにが?」
 将来への展望、そして。
 振り向きながらの問いに含めた意図を、男は鋭敏に察知したのだろう。斜め上、その相貌にふたたび硬さが宿る。ぐっと絡み合った視線は、既に睨み合いの様相を呈していた。
「どこへ消えたんだろうね、あの情熱は」
「さあね」
 口調だけは、互いに奇妙なほど軽い。結城の【撮る】に対応する【書く】ということばは、あえてどちらからも発されることはなかった。無論、あえてのことであろう。
 そのまま短い沈黙が走り抜ける。
 ガラスの向こうでは小雨が散りだしたようだ。急速に崩れはじめた空は、すぐにパタパタという雨音を伝えてくる。いくら地下鉄駅が目の前とはいえ、帰途を急ぐに越したことはない。
「まだ帰らないのか?」
「そういえばさ、さっきの本に載ってたんだけど」
 停戦の申し入れは、外を眺めやすい男からのものだった。それに対して返されたのは、そんな相手の感情を逆撫でするような内容だ。瞬時に顰められる眉。しかしつづく言葉は遮られない。
「バニッシング・ツインって知ってたか?」
「……知らないな。双子の一種か?」
 どうやら告げられた内容は、怒りを誘うことなく済んだようだ。一応、話題も転換されたことだ。首をひねりながらも新たな会話ははじめられる。言葉尻をあげた疑問は、ツインという単語だけから連想されたものだろう。もともと好奇心だけは人一倍な男である。いぶかしげな表情で、無言のうちに答えは強要された。
「母親の胎内では双子だったのに、出産したら一人しかいなかったってやつ」
 わざわざ焦らすほどのことではないのだろう。即座に説明ははじめられる。早口に語れば、相手の表情からきつさが消えていく。
「もうひとりに吸収されるらしいんだけど、原因不明だとさ」
「へえ……」
 めずらしい現象は、どうやら相手の関心を純粋にひいたらしい。わずかに見開かれた目は、如実にそれを伝えてくる。
 しかしそここそが、この会話の狙いだった。
「おまえ、あのときに亡くしたのかもな」
 開かれた目は、心をも緩めさせる。その間隙を突き、結城は食い入るようにまなざしを向けた。
「情熱のないおまえなんて、まるで別人だよ」
「そんなヤツ、知らないな」
 ギラギラとした瞳に、まんまと乗せられたことを悟ったのだろう。けれどそれ以上の隙を一切を見せることなく、相手は手にしていた本を持ちなおした。ともに出ていく気すら失せたようだ。さらりと踵をかえして、彼はその足を運びはじめる。もはやこれ以上の追求は無意味だろう。
「そうだ。シャム……接着双生児の生存率は低いらしいぜ」
「らしいな。書いてあったよ、さっきのに」
 あきらめて見送る彼の前。ふと肩越しに振り返った相手は、避けていたであろう内容を口にしてきた。
 ひとつの器官でふたりが生きるのが、シャム双生児だ。無理があるに決まっている。あげく片方が死ねば、自然、もう一方にも死がおとずれる。短い人生を生涯に渡って完全に共有する。それが接着児の宿命なのだ。
「ちゃんと知ってるんだな」
「ああ、それで?」
 感心したようなセリフに皮肉は感じられない。ならばあえて言葉を言い換えてまで、何を語るつもりか。
 わずかに眉を寄せて動向を窺えば、クッとその口元が歪められた。
「だからさ」
 思わせぶりに視線を流し、言葉が切られる。そして息を飲んだ瞬間。
「片方を生かすために、片方を殺しても罪にならないんだと」
 かいま見えた薄い笑みは、幻想だったろうか。
 疑問を抱く間もなく、その原因は元どおり前だけを見てそのまま足早に立ち去っていった。
「なんだってんだよ……」
 断ち切られた視線とともに、急速に緊張の糸は解かれた。ただ一点へと消失していった背は、なにも語らない。教えない。
 残されたのは響きわたる雨音だけだ。それはいつしかいっそう激しさを増していた。ため息をつきつつ窓へと目をやれば、その脳裏にはつい先ほど見た表情だけがよみがえってくる。
「ひとり、泣いてんじゃねぇよ」
 つぶやく声は苦い。カメラがなくとも、彼の目はきちんと相手の心情を切り取っていた。生きるために【自分】をひとつ殺した。そう無意識に自責する、清冽すぎる魂を。
『いや、まだきっと消えてなんかいない……』
 消えた双子の片割れが、心に棲む。それもまたシャム双生児だ。
 失ったことを嘆ける彼の中には、まだ欠片ほどになろうともでも生きている【彼】がいる。
「待ってやがれ」
 探り当てて、撮ってやる。俺がいま撮りたいのは、おまえなんだ。
 写真集をいれた鞄の持ち手を、結城はぐっと握りしめた。そしてぐるりと身体を返し、影すらない通路に強いまなざしをむける。きっとその瞳には、被写体の真実がそこに視えているのだろう。
 しかし彼の欲している存在は、いったい何なのか。きっとそれは、その生き残った片割れですら知らない。すべてはまだ動き出してはいないのだ。

 はじまりはこの2年後。
 いまはまだ彼らが19になる直前。ひどくぬるい夏である ―― 。




006:ポラロイドカメラの、補足。過去話。




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