017:√
「あれ……?」
土曜のねぐらとしても慣れてきたアパートの扉。
それを押し開けて入ってきた相手に、和真は寝ぼけ眼をこすりたてていた。
「どうしたんですか?」
眺めた時計は、まだ彼が帰ってくるには、早すぎる時刻を示している。
問いかけは自然なものだったはずだ。しかし、向かい合った男の表情は、わずかにゆがめられた。
「俺にだってな、ヤリたくねぇときがあるさ」
返された言葉は、それだけだった。そうしてそのまま上掛けをひっかぶると、彼はすぐに寝てしまった。
「よくあることだよ」
物音に、やはり起きてしまったのだろう。けれど部屋の持ち主は、そう苦笑いしているだけだ。
「はあ……」
和真も、意味のない愛想笑いを浮かべてみる。
就寝のあいさつは、互いにそのまま視線でかわされた。そしてふたりは、寝台へと戻っていった。
(なんだったんだろう、いったい ―― )
けれどその日、和真の上に眠りはなかなか訪れなかった。
そして、しばらくのち。
「ねえ、どんなときに女の人って抱きたくなる?」
彼は軽音のコンテナボックスで、そんな爆弾発言を発していた。
「か、和真? なにを、訊いてるんだ?」
「いや、ちょっと気になることがあって」
「だからって。そんな、その……」
ずるりと滑ったままの達彦からは、それ以上の言葉は発されてこない。青ざめた顔はぶつぶつと呟くだけだ。
追及したところで無駄だろう、和真はくるりと残りのメンバーに振り返った。
「そんなの、いつだってOKじゃんか。なあ、政人?」
「まあな」
あっさりと同調したのは、やはりおもしろ好きな実だった。
もうひとりの男は、そんな親友の促しにうなずきはするものの、それだけの反応しか示さない。普段から素っ気ないタイプの政人ではあるが、今日はなおさらに愛想がないようだ。
けれどそんな様子を気にしないのが、実である。
「だいたいさ、和真ぁ。お前、アイって、どこにあるか知ってる?」
「は? なに、それ」
「知りたい?」
ドラムから離れて近づく彼は、ひどくニヤついている。そして和真の答えを待たずに、その唇を開いた。
「エッチの後なんだぜ、アイは」
「……は?」
「アルファベットだろ、要するに」
我、関せず。そんな雰囲気をありありと漂わせていた政人が、ため息まじりに解説を投げた。ベースを弾きながらだからだろうか。しかしそれで済ませるには、さすがに印象が悪すぎる。
「それ言ったら、終わりだろー」
「おい、和真」
どうやらあっさりと切り返されたことが、気に入らないのだろう。さすがの実も不平をもらす。
けれど対するクールガイは、やりとりすべてに頓着がないようだ。
「まだちょっとあいつ準備できそうにないから、あっち行くなら先行ってきな」
「あいつ?」
顎先で示された方向には、すっかり忘れかけていた達彦が、いまだにショックから抜けきれないでいた。
コンテナからクラブ棟までは、目と鼻の先の距離である。荷物を置き去りにしたまま歩き出した和真は、すぐに目的の部室へとついていた。
「こんにちはぁ……あ、先輩」
あいかわらず立て付けの悪い扉を押し開ければ、なぜか悩みの元凶が座っていた。他にいるのは、彼の表裏を知りつくした結城だけだ。
(いまなら、いっか……)
めずらしくも存在したその状況に、ちょっといたずら心が疼いたのだろう。
「ねえ、先輩。アイってどこにあるか知ってます?」
「Hの後」
「なんだ、知ってるんだ」
さきほど覚えてきた謎かけは、まったく意味を成さなかったようだ。つまらない。唇を尖らせながら、彼は相手の背面にある定位置へと座り込む。
そんな彼に、背後から追い打ちがかかる。
「もしくは恋の前だな」
「え? どうしてです」
「愛と恋。五十音で先なのはどっちかな?」
ひょいと差し挟まれた口に、思考をめぐらせる。
「ああ、なるほど……」
すばやい発想は、能力の差なのか。それともただの知識ゆえか。
なにもかも、考え込んでいるのは自分だけのようだ。
吐息がてらにふたりへ顔をまじまじ向ければ、険しい視線がメガネ越しに返された。
「なんだよ、文句あるのか?」
「いいえ、別に」
どこに文句の付けようがあろうか。
ただ、あっさり答えられて、余分につっこまれて。それが彼とて、淋しかっただけだ。
「つか、お前もつまらんことを……。せめてもう少し、ひねりがほしいよな」
「じゃあたとえば、なんです?」
「そんなの、すぐに思いつくかよ……」
むっとして言い返した口調に、どうやら相手もムカついたようだ。
けれど傍観者気取りの結城は、ひとり楽しげだ。
『バカにされると、怨念高速増幅回路で、思考力倍増するから』
こそっと耳打ちされた内容は、和真にとってそれなりに心躍るものであった。
出てくる結果にも期待はあるが、それなりに思考させたということが、ひとり悩まされつづけたという感覚を解消したからだろう。
「ああ。じゃあな、これでどうだ」
そしてたいして待つこともなく、男は伏せていた瞳をあげた。
「アイとは、虚しいもので、互いに持っていなければ虚しいままのものだ」
「はあ?」
突拍子もないコメントに、間の抜けた声があがる。けれど相手の口はとまらない。
「そして、互いに持っていても、マイナスにしかならない」
「……なんです、それ。救いないし」
「アイの定義だろ、アイの」
どうやら和真の反応は、相手の気に入るものだったらしい。してやったりと嗤った表情はタチも悪く、からかいの色がありありとにじんでいる。
「ヒントは?」
飄々とした結城の口調が、そうだな、と出題者の首を少々ひねらせる。
「その方向性が違ったら、打ち消して、実在になる」
「ああ、なるほど。暗いね、お前」
「暗いって、なんだよ」
ツーカーというのは、思考パターンも似てくるものなのか。どうやらそのヒントだけで、結城は答えがわかったらしい。
「いや……。でもそれ、理系じゃなきゃ無理だよ」
「中学あたりで習っただろ? 高校だっけか?」
取り残されたのは、和真だ。なにが暗いのかもわからない。
その様子に、常の微笑みを深めた相手から、第二ヒントという言葉が発された。
「互いの強さも同じなら、一番すっきりするよ」
そしてしばらく残された回答者は、ふたつのヒントを元に試行錯誤しはじめた。
「まだまだ、むずかしそうだね」
「……悔しいなぁ」
やわらかい微笑みはとなりにあれど、もはや出題者は机に向かうばかりで、背後に関心はないようだ。
「誰かに聞いてみたら? 分かる人、いるかもよ」
「そうですね! ええと、メモ、メモ」
自力での回答をあきらめても、答えを聞くのはしゃくに障る。ミスコピーらしい用紙を探しだし、和真は問題を書きなぐりはじめた。
けれどいざ文字にするとなると、不明瞭なところがあるものだ。
「先輩、もう一回!」
噛みつくように叫べば、うんざり顔が振り返る。しかし次の瞬間、その表情はあっさりと崩れた。
「……読めるんかよ、そんな字」
「読めますよ、おいらは」
「お前が読めても、他人は読めねぇ。貸せ」
その紙を奪うやいなや、速度のわりには整った文字がつづられていく。多少クセ字ではあるが、読めない者はいなさそうだ。
つくづく悔しい。返されたメモを手に、彼はちいさく頭をさげた。
「アイで想像できるもの、考えたほうが早いよ」
そんな最終ヒントらしき言葉に送られつつ、和真は来たときの数倍の速度でコンテナへ戻っていった。
「これ、わかる?」
「お前なぁ……。練習、はじめるぞ」
飛び込んできた彼に向けられたのは、呆れた口調以外なにものでもない声だった。
「いいじゃん、さっきまだだって言ったのそっちだし」
「いいよ、いいよ。で、何?」
達彦は甘すぎるぞ。そんな意見がさきほどと同じく政人から発された。
しかし無駄ということはわかっているのだろう。結局三人は、例のメモをかこむようにして集まっていた。
「わかる?」
「いや、読んだけど……なに?」
「だから、さっきのと同じ謎かけなんだけど」
その言葉に、どよめきが起こる。
「誰が考えるんだ、こんな難しいの」
「え? あの先輩。で、メモってたら、おいらの字じゃ読めないからってコレくれた」
「なんかヒントとかってないワケ?」
割に実はこういうことにムキになる気質らしい。解けないことが気になるのか、和真に食い下がっていく。
「理系で、中学か高校くらいで習うって」
「中高の理数?」
「そんなん覚えてないって」
お手上げだと、即座に匙を投げたのは達彦だ。
「で、アイって言葉から想像できるらしいけど」
「理系、科学か数学か……」
ぼそりと呟いたのは、このなかで唯一理系学部にいる政人だ。
「それで、アイってことは」
その場を一瞬、沈黙が走った。
「虚数のiだ!」
ハモった声は、政人と和真のものだった。
ええと、だから。つぶやきながら、試してみようと書いてもらったメモを見る。
『愛とは、虚しき物にして、互いに持たずば虚しきままで、
また互いに持てども、マイナスにしかならないものである。
ただ方向性が違う場合は、打ち消し、実在となり。
その強さが同じの場合は、もっともすっきりとした形になる』
記された文字は綺麗だが、見ているだけではうまく置き換えられない。
そんな彼にじれったくなったのだろう。無関心さを装った顔ながら、政人は用紙の向きを変えた。
「書き換えるぞ」
そして行間にこまかく、ペンが入れはじめられた。
『iとは虚数で、片方にしかなければ、かけあわせても虚数のまま。
また互いにあったところで、マイナス1。
ただし−iとiであれば、−(−1)で1となり、
√内の数が同じ(絶対値が等しい)場合は、正の整実数と成る』
神経質なほど几帳面な文字は、どこにも矛盾を生じなかった。
「これだな、答えは」
読み返した彼は、興味津々と覗き込んでいたふたりにその用紙を回した。
「ひ、ひねりすぎ。わかんないよ、こんなの!」
「何の話かも、わからないな。俺には」
「達彦は、むかしから数学苦手だからな。経済学部のくせに」
わずかにだが、ようやく政人の口元が緩められた。
「でも、ちょっと……暗いね、これって」
「いや、でも恋より愛が先ってのも、Hのあとの愛だってイヤだろ」
ようやく手元に戻ってきたメモへの独り言に、達彦だけが敏感に反応を示した。
「 ―― っていうか、なんか」
困惑する相手を前に、和真は首をひねる。言葉がでてこないのだろう。
そんな彼をこそっとみやりつつ、クール・ガイ気取りは鼻先でこう嗤っていた。
『表に出ないマイナスだって、あるんだよ』――
と。
そのとき文芸部でも、それとまったく同じ言葉をつぶやく男がいた。
「しかし……本当に暗いね、おまえ」
彼のことばを聞き咎めたのだろう。その親友はめずらしく笑顔をしまいこんでいた。
「わかったお前も、なら根暗だろ」
「いや、俺はお前の発想しそうなことから連想してったから」
「そりゃ、ま。ご立派なことで」
軽く目を見開いたのは、彼なりの驚きの表現なのか。嫌がらせにもみえるその表情に、けれど感情はみえない。
「そうじゃなきゃ、わからんて。虚数なんか」
相手の様子をどう認識したのか、結城はただ苦笑だけをかえす。
その視界には、男の横顔だけが映っているのだろう。
「そこまでわかってて、どうして気づかないんだろうね、お前」
「なにがだよ」
「別に。教えてやんないよ」
誰も来ない部室。やりとりは、ほんのわずか駆け引きめいている。
けれど言葉はそれ以上つづけられなかった。
「マイナスのiと、ただのi。めぐり逢えたら、救われるのにな」
そっとため息を落とし、結城はぽつりと呟いた。
「……そうだな」
意外にも返されたことばは、静かにだが会話を終わらせる。
そして、彼の指に操られたキーの音だけが、その場所に響きはじめた。
虚しさを抱えてるから、暗くなる。マイナスを主張する、i。=翔
虚しさを抱えたから、明るくあろうとする。プラスを示す、i。=和真
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