042: メモリーカード。




 なにもかも、記録して。
 どんなささいなことも、一つ残らず。
 それで、僕の頭からは消してしまえたらいいのに。

「ウソ、だろ……」

 僕はそのとき、自分の見たものを認識できなかった。



「明日、逢えないか?」
 その夜。僕は受話器をきつく握り締めていた。
『どうして?』
「今日、キミをみかけた。夕方、……駅、で」
『そうなの。わかったわ』
 あっさりとした返事。それよりなお軽く、電話は切れた。
 汗をかいた掌だけが、冷たく取り残された。

 そして、翌日。
「別れましょ」
 冷たくそう言い放ったのは、見たことのない女性だった。
 ルージュに彩られた唇が、奇妙にうごめいている。
「っていうのも、いまさらね」
 図書館には、あまりにも不釣合いな甲高い笑い声。
「いまさら……?」
「あなたなんて、ちっとも私のこと見てなかったじゃない」
 長い爪が弾かれ、僕を指差す。血のように赤い、爪。
 見とれているうちに、同色の唇は、その端をくいっとあげた。
「本気になれない人なんて、まっぴらよ」
 強い色彩が、僕の思考力を奪っていった。
「私はね、私のことをひとりの女性として見てくれる人と一緒にいたいの」
 呆然としている僕の顔は、どう映っているのだろう。
 鼻先でせせら笑われた。鋭角にあがった眉には、あまりにも似合っていた。
「とんだ子供だったわ、あなたなんて。キスひとつできないなんて」
 文章書いてて、すごく大人に見えたのにね。
 見下したような、目線。青いアイシャドウが、べったりこびりついている。
 彼女はこんな女だったか? 僕は、知らない、こんな【女性】を。
 声も、出ない。
「これでも抱いてればいいのよ、アンタなんて」
 そして、立ちあがった彼女は、大きな包みを押しつけていった。
 中身は、大きなイルカの抱き枕だった。
 つぶらな瞳。それはまるで、彼女のまなざしのようだった。
「あはははは……」
 涙も、出なかった。あふれそうになるのは、嘲いばかり。

『書いているあなたの横顔を、そっと見つめているのが ―― 好き』
 そう言ったのは、誰だ?

 書くことを、書いている自分を、認められた気がしたのに。
 つくづく、情けなかった。
(忘れてしまえ、あんな女)
 ―― 凍らせてしまえ、こんな感情。
 いまこの瞬間を切りとって。記憶を閉じ込めて。
 そう、メモリーカードのように一瞬で、封印してしまえ。

 伝えられなかった。
  ……伝えたかった、心は通じていると信じていた。

 どれほど愛していようが、伝わらない、心。表現できないのなら、意味もない。
 お前のコトなんか、忘れてやる。
「大人にしてくれると思ったのに?」
 つぶやいてみても、彼女の声にはほど遠い。
「それじゃあ、あの男が何をしてくれたって?」
 抱擁と、接吻 ―― あの夕暮れの、悪夢。
 思い出そうとするだけで、頭がひどく脈打つ。呼吸が荒くなる。
 他力本願とあざ笑えば、それですむじゃないか。
 それでも。
「でも、僕は。一歩ずつ、キミと、進んで行きたかったんだ……」
 深い嘆きは、ようやく一粒の雫になり、転がり落ちていった。



「ねぇ、あなたひとり?」
 夜の街。ゆらりと歩けば、どこからともなく、声がかかる。
 俺は慣れた顔で、笑い返す。さらりと、あくまで軽く。
「キミこそ。どうなんだい」
「ひとりだって言ったら?」
「じゃあ、しばらくつきあってもらいたいね」
 気軽にうなずくのは、僕と変わらないくらいの、女たち。
 そして周りには、僕と同じ言葉をかけて歩く、男たち。
 寂しい人たちの生きる、この世界。
 遊んでいても、誰かといても、みんな寂しい。
『女性として見てくれる人と一緒にいたいの』
 ならば、俺はただのオスとして、生きてやる。
 それでいいんだろう?
 お前のことは忘れても、それくらい守ってやるさ。
(僕は、キミの望みどおりになっているかい?)

【メモリーカード】
 なにもかも、記録して。
 どんなささいなことも、一つ残らず。
 そうして、僕の頭からは消してしまおう。
 いつかこの想い出を、振り返ることができるように。
 今は、痛すぎるよ。何もかもが。

 たぶん俺も、お前なんて愛してない。
   僕が、あのキミを。いつまでも愛しているとしても。

 いつか振り向くことのできるときまで、すべてをフリーズしたいんだ。
 書くことさえも ―― だから。

「ねえ。キミって、すごく優しそうだね」



 今宵も甘い言葉をささやいて、僕は街をひとり行く。




高校生、翔の失恋(!?)




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