043:遠浅。



「先輩って、ちっともこっち見ないよね」
 そんなふうになじられたのは、いつのことだっただろう。
「おいらばっか見てて、なんか悔しい」
「そんなことないぞ?」
「でも」
 きっと甘えだったのだろう。ちょっと拗ねた表情が、いまもありありと思い出せる。
(ずっと一緒に歩いていきたいから前を向いていたいんだ、お前がこっちを見てるぶんも)
 そんなふうに思ったのは、ウソじゃない。だからそのとき、つい笑ってしまったのだ。
 ―― いじけられてしまったけれど。


 なつかしい記憶を刺激されたのは、何が理由だったのだろう。
 あのときとは逆だ。必死にその瞳を望むのは ―― 。
「おい……! こっち向けよっ」
 のけぞった顎と首のライン。しっかりと伏せられた瞳。
 シーツの上、どれほど翔が声をかけたとて与えられるのはそんな姿だけだった。
 何もかもをさらしあって抱き合っているはずの一瞬。互いだけを見ていても許される時間。
(お前だって、見てねぇじゃんか)
 いまこそ、そのすべてを見ていたいのに ―― 見て、ほしいのに。
 無性に腹が立った。気づけば抑えられないほどに、感情は膨れあがっている。
「え、なにっ?」
 シャツの首をゆるめてもまだひっかけたままだったネクタイ。うざったい感触に思わず襟から一気に引き抜いてみる。その瞬間、それをどうするつもりでもなかった。だが手のなかに収めれば、その布に重なって見えた和真の顔。
 理性は衝動にたやすく屈した。
「なに……どうして?」
「さあな」
 答えてやる気はあいにくとなかった。もともと伏せられていた瞳だ、どちらにとってもたいした意味はないだろう。するりと廻したシルクは、あっさりと相手の後頭部で締められた。
「さあなって……、ちょっと!」
 非難も疑問も、いまの翔には聞こえない。そのまま彼は再開した行為へと堕ちていく。
 隙間から這わせる指や掌だけで満足できるわけがない。即座に残っていた互いの服を引き剥がし、純粋な素肌だけで触れあう。あたたかさに充足を感じる。ぐっと抱き合ったなめらかな皮膚の感触に、すっと濡らした唇を寄せた。
「っ、きゃ……ぅ」
 途端にあがるのは嬌声。思いがけない烈しい反応は、男の腰をいきなり痺れさせるに十分だった。だからこそ手を緩めることはできなかった。外そうという素振りもない。この行為をただ赦し、いったいどこまで堕ちてくれるのか。想像するだけで全身に震えが走る。
(おまえが見られない分、見ていてやるさ……)
 逃がせないほど強い快感を与えれば、だが快楽に昇華しきれず絶叫がほとばしった。それでも押さえ込んでつづける。絶え絶えの和真にもはや疑問を抱く余裕はない。
 いつも以上にしがみつく腕、からめられる脚。すべてが与える男に向けられている。
「ね、外してっ! これ、とってよぉ」
 必死の呼びかけが尾をひくように残る。だがそれを発する和真はどっぷりと快楽の海に沈み、もはや全身が鋭敏な感覚器だ。どこに触れても掴んでも、上がる声はただひたすらに甘い。ひたすら陶酔の領域だ。
 だからもう言葉はいらない、せいぜい呼んでほしいのは名前だけだ。悲鳴の中で呼ばれる名前など気が遠くなりそうにイイだろう。
「和真……、俺は誰だ?」
 格好なんてつけていられない。『自分』というものを受容するだけの存在に、欲求はただ押しつけられるべきものだ。耳元で囁きながら、翔は形の良いその輪郭線に噛みつく。
「ひっ! あ、あ……」
「どう、した?」
「あ……あ、あぁっ!」
 甲高く上がったのは、確かな快楽の証。だがその後くり返される訴えるような悲鳴に、急速な焦燥感が湧き起こる。見下ろせばシンプルな柄のネクタイに不思議な模様ができていた。
 ぞくりと背筋をのぼったのは、もはや欲求とはかけ離れた冷えた感覚だった。
「かずまさ……」
 ゆっくりと伸ばした手はするりと戒めを解いていく。
 これで見限られるかもしれない。不安を抱いたまま、潤んだ瞳を覗き込んだ瞬間。
「見て! ねぇ、こっち見ててよっ」
 鼓膜を振るわせた声は、見開いた男の視界を真っ赤に染めた。
(なん、だって……?)
 硬直したまま凝視をつづければ、よりいっそうあがる嬌声。くねらせる姿態も鮮やかで、目を離すどころか息を吐くことさえも許されない。抱きつく腕も力強く、誘われるがままに身を寄せさせられる。
 完全に一体となれば、荒れ狂う波は男にもうち寄せる。棘のように刺さっていた不安すら、そこには飲み込まれていく。翻弄しているのはこちらのはずなのに揺られている。揺さぶられている。波の隙間に、なにもかもが消えていく。
 そして残るのは、互いの身体か ―― 。


 怠惰ともいえる、この時間が好きだ。
 無意識に胸へとすり寄る身体を片腕で抱きとめれば、その重みが妙に心地よい。汗の引きかけた肌を撫でながら、逆の手でタバコを引き寄せる。ライターを鳴らせば、ほのかな光が互いの視界を揺らがせた。その体勢のまま吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出し、しばらくは余韻に漂う。
「なんだったの、あれ……」
「あれ? ああ」
 やわらかな空気を壊さない話し方も、このときならではのものだ。苦笑を浮かべて、もう一度名残のようにタバコへ口づける。問いかけの相手は、その合間も身を委ねたままだ。
「おまえが、あんまりにも俺のほう見ないから」
「せんぱ……翔でも、そんなこと思うんだ」
 拗ねてみせたところで泣かせた後では今さらだろう。それでも視線は合わせづらく宙をさまよう。
 だが呆れるかと思った和真は、意外にもぎゅっとしがみついてきていた。髪の合間から窺えるうなじがひどく赤い。
「おいら、みっともなかった……よね」
「そんなことないさ」
 煽られた側は恥ずかしく思うのかも知れない。密着したこの体勢でなければ聞き逃しそうなほどかすかな呟きだった。だが手を下す立場になれば、どれほどその姿こそ安心させられ、また嬉しく感じられるものであろうか。抱き寄せる腕にも自然と力が入る。ぴたりと肌と心音を重ねたまま、ふたりはしばらく互いだけを感じていた。
「もう一回、しよ?」
「え?」
「今度はちゃんと、ずっと見てるから」
 身を寄せたまま無理に仰向いた顔。伏せがちになった瞳は、けれど潤んだままこちらを見つめていた。
「なんだよ、見るんじゃなかったのか?」
「だ、だからって、そんな……」
 再び落ちたシーツの海は既に濁流だ。自らの欲望に舌を絡められ、煽られる光景。ふたりきりであれ、慣れきらない和真がそんな男の顔を見ていられようはずもない。彷徨うその視線は、だがそれでも翔の身体を芯まで射抜いている。
 煽り煽られる感覚は、愛ゆえに一対のものだ。

 快楽は、おそろしいほどに深い海溝。
 けれど愛情は、遠浅で。やさしく、どこまでも漂っていきたい。

「ま、お前が見られないぶんは、俺が見ておいてやるよ」
 この瞬間だけは、譲れない。誰にも。



なんとなく、エロっぽいものを目指して。
翔だってちゃんと、性欲があるのです。




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