048:熱帯魚




 今日が、昨日へとすり替わろうとする瞬間。
 週末の街は、すべてがピークに達する。人出も酔いも、周囲のテンションまでも激しく高い。
 終電も尽きたであろう時刻だが、夜はまだこれからということだろうか。
 それはもちろん、このチープなクラブも例外ではない。
 フロアで踊り狂う人々はいまだ疲れを知らず、片隅で睦言めいた言葉を交わす者たちも、まだまだ駆け引きを楽しんでいる。外界の熱気など、夏の盛りとはいえ、この室内に遠く及ばない。
「ねえ、となり座ってもいい?」
 誰もが気軽に話しかけられるほど、他人に関心を払わない空間。
「どうぞ」
「ありがと。あなた、名前は?」
 きっかけなどその程度。見知らぬ相手がそばにはべり、いつしか気安く馴れあう。
 ガヤガヤとうるさい場所柄もあるのだろう。瞳を交わしあえば、ささやきは耳元に。唇すら、触れんほどに。
 そして、いまこの場限りの“友人”があふれかえるのだ。
「ねえ、ショウ。今日はどうなの?」
「……別に?」
 煙を吐き出して、呼ばれた男ははぐらかすように流し目を送る。
 視線の先にあったのは、露出のすぎる派手な服装。実のない華やかさは、もはや水槽でしか生きられない熱帯魚のようだ。
「じゃあ私なんて、どう?」
 この人工の熱さしかもたないクラブを、ひとりさすらい泳ぐ魚。
 けれど、暗い照明の元でもわかるはっきりした顔立ちは、自信に満ちた表情で笑んでいる。
 グラスに残されたルージュは、ローズカラー。何を飲んでいたのか、もちろん中身はない。
「いきなりだな」
「だって、せっかく一緒にこうして飲んでたんじゃない」
 まだ濃いローズの唇は、そうしてなおさら口角を引き上げる。
 ただ隣にいたのか、一緒にいたのか。
(そんなのは主観の相違さ)
 けれど、いまはそれを語りあう必要もない。
 そのままギリっと灰皿に押しつけたのは、ただくゆらせていただけのタバコ。
 グラスもとうに空いていれば、席を立つ準備は万端だ。
「……積極的な女も、嫌いじゃないな」
「じゃあ ―― ねぇ?」
 互いにゆっくりと、顔を寄せていく。もともと触れそうだった頬が重なる。
 そして今宵限りの約束を交わそうとした、そのとき。
 無粋な声が、その背にかかった。
「おーい、ショウっ!」
「……なんだってんだ」
 ちいさな舌打ちに、雰囲気はわずかに崩れる。
「ちょっと、どうしたの?」
「くだらない用事。だけど、行かないとな」
 誰が呼ぼうが、この日常を変える気はない。
 けれど放っておいて騒がれるほうが、性に合わないといったところか。
 彼は惜しげもなくその身を離し、床へと足をおろしていく。
「じゃあ、私はぁ?」
 自分の魅力を知っているのだろう。甘えた口調がしなだれかかる。男の腕へ重ねられた手は、力を使うことなく引き留めた。
 その白い指の先には、あざやかなネイルアートがされている。
「ちょっと離れるけど、ここの別店。わかる?」
「そんなトコまで、ほっとく気?」
 ちらりと覗いた舌先も、熱帯の国にしか似合わないだろう原色。
「ほかの男についてく気か? いいぜ」
 静かに腕を解き、彼は今度こそ立ち上がった。スツールから降りてなお誇る上背をかがめ、口元をちいさくゆがめる。
 そしてその形のままで、唇はピアスの輝く耳へと近づいた。
「俺よりイイ男に逢ったらな」
 息での囁きに驚く間もなく、女性の正面にはその顔が戻されていた。
 こぼれた前髪の隙間から覗く、切れ長の冴えた瞳。そこから落ちる微笑みは冷たい月光のようだ。
 熱すぎるこの空間。唯一の清涼であろうその表情は、たぶん誰から見ても魅惑的だった。
「……自信家」
「試したいだろ?」
 悔しげに陶酔した声は、もはや信奉者の賛辞でしかない。
 マスカラに縁取られた瞳は、涼やかに立ち去る背中をなお熱くみつめていた。



 さあ、熱帯魚。さまようなら、好きにしろ。
 淋しいんだろう?
 だったら、なまぬるいミルクのなかに、溺れてしまえ。

 日持ちのしない夢なら、いくらでも魅せてやるから。



日常の遊び方、その1。
一度くらい、こういうコトしたいよな…。




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