052:真昼の月。




 深夜ともなれば、物音もひどく少なくなる。
 目覚めた和真の耳を打つのは、遠くから響いてくる水音だった。
「いつも、こうなんだから」
 こぼれたため息は、甘くとも重い。薄闇のなかで、力ない手がよれたシーツを引き寄せた。汗ばんだ素肌に、クーラーの冷風は寒すぎたらしい。覚醒した原因は、だから明白だった。
 静かに滑らせた視線の先、あるべき相手の姿はない。
「ようやく、本当の恋人同士になれたのになあ」
 そこには名残のように置き去りにされたシャツ。ふわりと漂う匂いは、すでに嗅ぎなれたものだ。そっと鼻面を寄せれば、ぬくもりがほんのりと肌に伝わってきた。
 抱き合って眠りたいと思うことは、おこがましい願いなのだろうか。
 激しい情熱に遠くなった意識が戻りきらないうちに、熱源である彼はベッドから抜け出してしまっている。シャワーだけ浴びれば戻ってきているらしいが、そのころには疲れ切った和真の身体は睡魔に委ねられている。
 とはいえ朝は、それでも彼の腕の中。意外に朝が早い彼が、何をするわけでもなくこちらが起きるまでただ抱きしめている。やさしくあたたかな感触は、確かに愛されている実感をくれる。
 そしてはじめて他者から与えられた、あの感覚。
 内部を突き上げられ、敏感な場所をこすりたてられ。何一つ隠すことも叶わず、ただ喘がされる。したたる汗やぬめった舌の感触に、抑えきれずこぼれおちる涙。
 歪んだ視界は、五感のひとつを失わせる。その分よりいっそう全身に感じる重み。荒い息。激情の果ての行為は、どこまでも生々しい。
 それはまだ初心者である彼にとって、快感というにはあまりに濃厚すぎた。
「シャワー、浴びたいかも……」
 思い出しただけで、じっとりとにじんでいた汗がねばつく。ベッドとひとり仲良くしていた彼だが、このまま悶々としている趣味はないようだ。普段ならば眠ってしまったところを拭われているらしいが、すっきりと流せば冷静さもはやく戻ることだろう。少なくとも冷えきったまま放置していれば、身体もだるくなるばかりだ。
 立ち上がることはまだ少々つらいかもしれないが、このままよりは楽になるはずだ。
「よっと。あ、けっこう大丈夫そうだし」
 気合いを入れて起きあがると、彼が着るにはおおきすぎるシャツをまず羽織った。ふたたび漂った残り香に小さく微笑みながら、そっと両足を床へとおろす。そうして足の裏にひんやりとした感触を感じながら、バスルームの前までおそるおそる進んでいく。
「あ。一緒だとイヤがられるかな」
 ふと過ぎった想いが、シャツを脱ぎかけた手を押しとどめる。声でもかけてみようか。だがベッドでも聞こえた水音は、扉越しの呼びかけなどかき消してしまうだろう。そっと様子を窺うように、とりあえず和真は重いガラスの扉をほんのすこし押した。
(うわ……っ)
 隙間から一気に押し寄せてくる湯気。覗き込んだ世界は真っ白に煙っている。扉越しにもうるさいシャワーは、やはりかなりのいきおいで流されていた。
 その水流を肩から立ったまま受ける背中が、ようやく見えた視界の大半を占める。爪痕がうっすらと浮かぶ肌に呆然と魅入れば、つい声をかけることを失念した。
「……くっ」
 漏れ聞こえたうめきに、だが和真の意識は引き戻された。
 ぐっと耳を澄ませば、シャワーの立てる激しい水音のなかに荒く継がれる息を捕らえる。苦しげにも取れるその吐息は、どことなく甘くも響いてくる。おおきく見開いた瞳の先、背中から連なる肩がぴくりと奇妙に揺れるのは、きっとその先にある腕が動かされているからだ。
「は、ぁ……っ」
 湯けむりで大半が覆い隠された状況。けれどもはや相手の行為が何を示すかは明白だ。
 見てはならない姿を見てしまった。申し訳なさと恥ずかしさで、こっそり扉を閉める手が揺らぐ。
(いったいなんで……って、もしかして!)
 ふいに脳裏をかすめた考えに、和真はまだ重い身体を引きずり元の場所へと戻る。すこしばかり血の気の退いた顔で、彼は乱れたシーツの脇にあるごみ箱へと手を突っ込んだ。恥ずかしがっている暇はない。探すのは翔が無造作に捨てたはずの、薄いピンク色をしたゴム製品だ。
「ない……」
 溜まっているはずのものが、見つけたそれには入っていなかった。
「……どうして」
「なんだ。寝てなかったのか?」
 放心しているうちに時間が過ぎていたのだろうか。背後からかけられた声に、和真はあわてて振り返った。浴室から出てきたばかりなのだろう。フェイスタオルを頭からひっかけた状態で、翔は洗面台の前に立っていた。
「あ、うん……」
「めずらしいな、起きたなんて。どうかしたのか?」
 相当に離れていたことで、和真はほっと安堵することができた。にこやかに問いかけてくる調子は普段どおりだ。メガネを外しているいまの彼には、この距離では視力的に何をしていたかはわからないのだろう。
「おいらも、汗ながしたくて……」
 後ろめたさをひた隠しにし、後ろ手でゴミを捨て直した和真は素知らぬ顔で相手のほうへと近づいていく。納得という顔つきを見せた男は、タオルを投げ捨て室内着を素肌に羽織ると、出てきたばかりだろう扉へ手をかけた。
「じゃあ、湯を張るか」
「あ、いい! シャワーだけでいいから」
 わたわたと駆けつければ、まだおぼつかなかった足はぐらりと揺らぐ。
「おっと。そんなんなのに、ひとりで平気か?」
「……たぶん」
 床に倒れ込むかと痛みに身を固くした瞬間、ぐっと一歩を踏み出した相手に正面からぶつかっていた。受けとめたとはいえ、それなりの衝撃があっただろう。だが彼はただ心配だけを向けてくる。
「そうか。無理すんなよ」
 気恥ずかしいが一緒も絶対にうれしい。だがなによりいまは気が重い。ため息で返した答えは、だがさらりと流される。そうして向けられたからかいの笑みすら、やさしさと知れば反発しがたい。
(どうしてこんなに気を遣わせてばかりなんだろう……)
 すれ違い様にかるく頭をはたいていった彼は、室内着の前を締めなおすとテーブルにあったリモコンに触れた。途端に周囲を明るくしたのは、普通の家にはないだろう大画面テレビだ。
「……眠れないの?」
「いや、出るまで待ってるだけさ」
 次々と変えられていく画面は、興味を引く番組がないことを如実に示す。
「一緒に、入る?」
「誘いはうれしいんだけどな」
「けど?」
「また風呂入り直すハメに陥らせそうだ」
 くすくすと笑ってみせる男の顔は、まっすぐに和真向けられている。少しだけ本音を匂わせた、あくまでも冗談交じりの表情を浮かべてだ。
「それでも ―― かまわないよ」
 脱ぎかけたシャツの前を握りしめたのは、胸の苦しさを抑えるための無意識の行動だった。その仕種がきっかけだったのか。ソファに座ったばかりの男は、どこか見慣れた苦笑で再びさきほどの洗面台前へと戻った。
「……焦るなって」
 そっと抱きしめた彼は、そのまま耳元で深く囁いた。
「俺たちは、まだはじめたばかりだろ?」
 やはりさきほどの行動は見抜かれてしまったのだろうか。それともガラス扉を開けたときから、もう気づかれていたのか。
「ん……っ!」
 そっと抱き寄せてくる腕はどこかしら熱い。そうして重ねられた唇も、吐息さえも熱いのに。それでも彼は自分の情動を抑えてくれている。息を詰まらせるほど激しくうごめき身体を緩ませるキスもできる彼は、いま心だけを開かせる口づけをしてくれていた。
 でもそれはただのやせ我慢などではない。
(ステップだから、なんだよね)
 また失敗するところだった。あせって言葉の刃を向けるところだった。
 けれど彼はもう、ちゃんとそんな和真の考えも受け入れてくれている。早く先に進もうと願うのが、ただの好奇心などではないことを。ましてや過去の記憶を消そうとするためのものでもないことを。
 そのうえで ―― なおさわやかに笑ってみせるのだ、この男は。
「ほら。汗、流してこい」
 軽くついばむキスで終わりを示した彼は、備えつけのフェイスタオルを手渡してきた。それに和真はこくりとうなずき返した。
 進むばかりが、愛じゃない。
 見えにくいけれど、確かに感じる愛情。包み込んでくるそれは、光のようにさりげなく、そしてやわらかい。このシャワーのように降り注いでくることを、いつだって感じさせてくれる。
(あったかいんだよね、本当に)
 ザーザーと降らせたなかで冷えた身体をあたため、汚れを流せば気分はすっきりとしてきた。確信を得れば焦らずにいられる。大判のタオルで水気を拭うころには、その顔はふんわりとした笑みに飾られていた。
「ありがとう、……待っててくれて」
「いや。割におもしろい番組だったからな」
 早足にはなれない和真がそばに寄るまで、彼は黙ってテレビを眺めていた。
「うん。でも待っていてくれて、ありがとう」
 いま起きていてくれることも、そして緩慢な成長をも。
 託した想いは、やはり裏切られることなく受けとめられた。あっさりと画面を消した右の掌が、ゆっくりと差し伸べられてくる。そっと左手を添えれば、道を歩くときもこっそりつないでくれるそれは、いまもなお暖かい。
「おまえの寝顔、かわいいぞ」
 たどり着いた一台きりのベッドの内。当たり前のように腕を貸す翔が、薄闇にも鮮やかな笑みをこぼす。口にするよりも行動を。そんな彼が、ただ眠ることにすら幸せを見いだしているのだと、ことばで教えてくれる。そこに見返りは要求されない。ただの言葉でさえもだ。
(だからまだいまは甘えさせてもらおう)
 まだ照れて何も返せない自分だけれど、せめてすがりつくように廻す腕が、彼の身体をあたためますように。
 そう祈る和真も、人肌のぬくもりに包まれ、今度こそ深い眠りに落ちていく。
「……おやすみ」
 寝息が完全に整う直前、しずかな声はその鼓膜をやさしく震わせた。


 でもいつかは、ちゃんと感じさせたい。
 好きな人に感じてほしいのは、当然の欲求だから。




あまり中でイッたコトのない翔(笑)
遊びすぎで、遅漏らしい……。




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