053: 壊れた時計




 あれは、たしか高三の夏。
 南向きなA組は、ガラス越しの太陽がやたら熱かった。

 たぶん最初はくだらない話だった。どんなアイドルが好きだとか、あんな相手とヤリたいだとか。高校男子ならば、教室で語るのはその程度がせいぜいだ。もう少し身近な方向性に発展しても、実際の彼女がいなければ、これまたかわいいと噂される後輩について話すくらい。
 だがその間隙に、あのきっかけは潜んでいた。
「タツってさー、和真のコト好きだろぉ」
 実の発したことばは、所詮からかいの領域だったろう。だがそうして名をあげられた男は、はっと息を飲んでいた。ドクン、ドクン。痛いほどに打つ鼓動が彼の耳を苦しめる。救いを求めて流した視線は、背けられた和真と冷たく見据える政人の目に断ち切られた。
「……そ、んなわけないだろっ!」
 そうして否定はその口を突いて出ていた。周囲が退くほどの勢いは、紛れもなく後ろめたさの顕れだった。
「だよねぇ、あはは」
 場をつなぐ和真の笑い声が、いやに醒めて感じられる。その表情にどこか淋しい色合いを見いだしたのは、達彦の思いこみだったのか。
(―― 魅かれてやまないんだ、おまえに)
 自覚してしまえば、なお感情はエスカレートしていく。だがそれを認めることはできなかった。
 あれ以後、なんとなく避けていたのか、それとも避けられていたのか。クラスの微妙な雰囲気もあれば、いつしか自然と彼らは話すらしなくなっていたのだった。


 だがそれでも時は流れ、彼らは四人そろって同じ大学に進学していた。
「んじゃ、また昼にな」
「おう」
 学部は皆バラバラだ。ただ一、二年のうちは共通科目があるため、とりあえず全員がメインキャンパスに通学している。けれどその先、和真だけが別のキャンパスへ通うことになる。
 もしやり直すならば、あと二年の猶予。そして皆で持ってきた、いつかはライブをやるという夢。叶えるには、この学生時代にしかきっとチャンスはない。
「なあ。バンド、再開しないか?」
 焦りはあらゆる状況で生まれ、達彦は必死に誘いをかけた。断ること必然の和真にも、それは執拗に及んだ。真剣に頼めばこそ、断り切れる相手でないことも気づいていた。
「歌詞だけなら……」
 緩やかな許容は、だが壁に空いた小さな穴だ。徐々に広げれば壊していける。
 そうして作曲と作詞という事象で、彼らは再び通じ合った。他のメンバーにも縁はつながるだろう。
「みんな、そろってるかぁ?」
「うん!」
 駆け込むコンテナで迎えてくれる三人の姿は、まるっきり昔に戻ったようだった。
 だが達彦は忘れていた、時は決して可逆性のものでないことを。そしてあの夏の、奇妙なほど愉しげだった実の笑い顔と、どことなく険しかった政人の顔を ―― 。
「相変わらずおまえら、仲イイよな」
「え? なんだよ」
「和真だよ」
 つい先ほどまでかき鳴らすベースの音は響いていたはずだ。けれど気づけば達彦は、その演奏者である相手に背後を取られていた。
「なんだ。そんなの、おまえもだろ?」
 あのパワーあふれる声、響き。ロックをやりたいと思っていたならば、欲して当然のものだろう。だからこそ気に留めることなく、笑いながらそう返した。欠片も笑わない政人の無表情さは、所詮いつものものだ。
「ホント、変わらないな」
「……なにがだよ」
 呆れたようなため息は、だがやはり冷めた雰囲気が上回ってうち消していく。話題の主は、この場にいない。実はニヤニヤと、スティックを玩んでいるだけだった。
(いったい何だってんだ……!)
 からかわれたことに、だが昔ほどの苛立ちを達彦は感じていなかった。ようやく四人そろったという感覚が、目隠ししていたのかもしれない。もはや以前とはちがうと思ってしまったからかもしれない。
 いいや。それ以上に過去とは違う要因が確かに存在していたからだろう。和真のまわりにちらつく、『先輩』という影。眩まされた彼の目は、もはやその姿にばかり不安を見いだしていた。
 そしてその隙は、完全に見透かされていた。嵐が過ぎ去ったはずの、翌日。事件は起きた。
「あいつらも、消えたんだっ」
 影につられて飛び込んだ部室でその姿を見た瞬間に、すべての記憶はフラッシュバックした。
 本来ならば達彦は、唯一といっていいほど危険性を知り尽くしているはずだ。なにより彼もそう自負していた。それなのにすっかりと見落としていた事実は、なぜか。
「あんたのせいだ……っ!」
 叫びながらもわかっていた。昔の居心地のよさを求めて、自らがその目と耳を塞いでいただけだ。
 ようやくクリアになった世界でみつけたのは、取り返しのつかない失態と ―― あと、もうひとつ。
「学校じゅう探し回ってでも、見つけだしてやるっ」
 そうして駆けだしていった男の、何もかも見通しそうなほど鋭い瞳の輝きだった。


「かずまさぁ! 政人、実っ。お前ら……っ!」
 遅れながらも達彦が現場にたどり着いたとき、すべてはもう終わっていた。
 そう、すべてが。
「こいつがそう言うなら、そうなんだろ」
 和真の言葉を受けた男は、なにがあったか明快な状況を背に言い切った。ふざけたそぶりを窺わせながら、決してそれ以上の追及を許さない。厳しさがそこにはあった。
(なにが言えるんだろう、俺に)
 この相手に、そして政人たちに。
 政人はただ自分の感情に素直すぎただけだ。ゆがんだ想いだと、動けなかっただけの自分とは違う。
 けっして実も、悪いヤツではなかった。魔が差した。その言葉が、一番正確だったろう。もしかしたら、もっとも純粋に和真を欲していたのは、彼だったのかもしれない。
 もちろん手段はまちがっていただろう。だが謝罪も糾弾も、もはや達彦の手には余った。あの夏から歪んだままの現状は、そうして他者の手によって崩された。
「血が、ついてる」
 ただそれでも、政人が親友であることは揺らぎようがなかった。
「平気だ。俺のじゃない」
「ああ、そうらしいな。でも無茶は……するな」
 涙の痕にはあえて触れずにおいたのだろう。けれど結局は和真とふたり、その頬を彼は拭うことになっていた。そんなひとしきりの涙は、三人の心を溶かし合わせる。
 だがやはり時は止まりつづけてはいなかった。
「追いかけろ、今すぐにっ!」
 思いがけない人物から、絶叫は紡がれている。
(ああ、終わったな……)
 弾かれたように駆けだした和真の背中は、あの部室で見せられたものとひどく似かよっていた。
 あのまっすぐな背中だけが真実。それ以外は、すべてこのコンテナの熱さが見せた幻想だ。
「達彦……」
 呼びかけに振り返った彼の目に映ったのは、どことなく情けない、こどものような顔つきだった。申し訳ないとでも、思っているのだろうか。
 けれどそんな必要はない。時は流れてこそ成長も、そして発展もあるのだ。
 今度こそ、本当に壁は崩れたのだろう。
「これで、いいんだよな?」
 ゆっくりと問いかければ、視界の端、驚きを浮かべた政人はゆっくり頷いてくれていた。
 そうして互いに微笑み合う。
「間に合うと、いいよな」
「ああ。きっと間に合うさ」


 何かが終わった ―― そしてきっと、何かがはじまっただろう。
 ようやく時間は、動き出したのかもしれなかった。




019:ナンバリング・別ver.
実と政人、そして達彦の事情




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