砂礫王国。



 そこは、砂礫の王国だった。

 水も緑も、ほとんどない。あるのは、砂と乾いた熱気くらいなものだ。
 それだというのに、どうして人間が生きているのだろう。
 そう。この街では、人々はその熱い大地に、みな平然と暮らしていた。
「喉、渇いたかもな」
 彼は旅人なのだろうか。日干しレンガの家に囲まれた路地を、ひとりひたすらに歩いていた。
 どれだけここにいたのだろう。感性さえ、すでに鈍っているようだ。
 呟きは、途方もなく虚ろ。目線も焦点がずれている。
「水……」
 呆然としたままため息をつけば、その隙間から熱気が入り込んだ。肺が灼けつくように痛む。
 いや。それさえももう、あやふやになっているらしい。
(らしい……?)
 不思議な感覚が、彼を襲っている。
 たぶんこのまま渇いて……そのまま、死んでいくのだろう。

―― それとも、死ぬこともないのか?

 この街の住人たちは、渇くことを知らないようだ。誰もが、当たり前のように生きている。ただ、すでにもう、満たされているだけか。どこで手に入れるのだろうか、彼らの多くは水筒を持っていた。そこからはいつも、無尽蔵に水があふれていた。あたかも尽きない泉のようだ。
「あいつも、かよ……」
 その豊かな光景は、今また目の前に存在していた。
 熱気と変わらぬ温度の息を吐き、彼はその水筒を掲げた相手をみやった。どこかで逢ったのだろうか。その小柄な青年には、見覚えのあるような、そんな気がした。
(奪い取って、やろうか……)
 満たされているからできるであろう、太陽のような笑顔を、壊してやりたい。
 ふいに襲いかかりたい衝動が湧き起こる。
「無駄なことだな」
 瞬時にその牙は奪われていた。取り上げて、どうしようというのだろうか。感情を満たすだけのために、要るかどうかもわからない水に、労力を費やすのは愚でしかない。
 そう。多くの民が水筒を携えているとはいえ、そうでない者も当然のようにいる。それでも彼らは平然とこの土地にありつづけているのだ。
(だが ―― )
 その水を与えたならば、この砂漠も少しは潤うのだろうか。何かをはぐくむだろうか。
 些細な疑問が、琴線をかすめた。
『試してみろよ、奪い取ってさ』
 呼応するように、彼の心のうちに囁きが響く。身体は、がくりと地面へと崩れ落ちた。
 いや、ならば水だけでなくとも、植物は育つだろう。彼の精神は、自らの内面へ答えを返す。
 その命尽きるまで、血液を流してくれればいい。淫水をあふれさせてくれてもいい。精液でも、髄液でもかまわないはずだ。
 ばしゃばしゃと弾ける水の雫が、あまりにも似合いすぎていた。だからこその、連想だろう。
『精魂尽き果てるまで、奪い取ってやりたい……』
 それで、このひび割れた大地が潤うのならば。
 希望さえ吸い尽くす乾いた地表が、何かをはぐくむというのならば。

 この俺ですら、いくらでも、俺の【なにか】差し出してやる ―― 。

「なにかって、なんだ……」
 意識が朦朧としてきているようだ。自己の思考すら、とうにまとまらない。
 彼は今度こそ自らの意志で、乾ききった大地に転がった。
 空にみえるのは、純粋なブルー。セレスティアルカラーだ。
 このまま溶けたら、天空に生まれ変われるだろうか。そんな途方もない方向性に、思考が飛ぶ。
( ―― 手放してしまえ)
 大地で生きようとなどと、あがくことを。
 薄れる感覚のなか、彼は地面にそれでも爪を立てる。肉と爪の間に、熱い砂が入り込んだ。
 けれど自我の失われた意識は、すでに渇いた砂漠と一体化しているようだった。爪を立てていたはずの手からも、完全に力が抜け落ちた。そして肉体もまた、いくらもしないうちに砂粒となるだろう。
 あとは時間が過ぎるのを待つ……その、はずだったのに。
「大丈夫ですか?」
 失いかけていた意識を呼び戻したのは、冷感だった。どうやら頭から、冷たい水をかけられたようだ。
 びっしょりと濡れる感覚など、いつ味わったことがあるものだろう。記憶を探ったところで、遠すぎる。
 濡れただけ重くなった頭をゆっくりとあげれば、さきほどの微笑みの主が見下ろしていた。ただ心配そうな表情だけがそこにはある。あふれる命の象徴のごとき水は、いまなお彼の上にふりそそいでいた。
(どうして、そんな大事なはずの水を、俺になんかよこすんだよ)
 触れなければ、気づかなかったかもしれないのに。彼のまなざしは、思わず相手をにらんでいた。不条理な行為だ。助けてくれた相手を、視線だけでとはいえ、脅かそうとするとは。
 びくりとひるんでなお、それでも水あびせかけられる水はとめどなかった。
「やめてくれ……」
 制止の声は、音になっただろうか。なお重くなる身体は、決して水を吸い込まない。
 だから、なにかに渇いているなんて、絶対に気づかない。
 気づかせないでくれ、戯れに与えただけならば……。

 こぼれた雫は、地面へ点々と吸い込まれていっていた。



「 ―― 夢、かよ」
 べったりと汗にまみれ、シーツの上に男はいま張りついていた。寝苦しい、暑い夜だったのだろう。喉も渇いているような気がした。
(そんな気がする、だけか)
 いまだ夢うつつなのだろうか。夢の旅人と同じ感覚に、思わず自嘲の笑みが浮かぶ。
「俺の意識世界なんて、この程度のものってな」
 あの旅人は、擬人化された砂漠なのだろう。そして砂漠は、この彼自身。
 どこまで砂礫でつくった城は耐えきれるだろう。笑みは深まるばかりだ。
(なんでそこに、あいつが出てくるかな……)
 とうとうと注がれた水は、何の象徴だったのか。そして水を生み出す、相手は ―― 。
 首をひねっても、答えはどこからも返らない。
「なにに渇いてるかなんて、知らねぇよ」
 枯れかけた声は、かすかな音にすらならなかった。けれど喉を潤すことをせず、男はふたたび眠りについた。



『カラカラに渇いたら、わかるかもしれない』




『荒野』の対偶。別パラワールド



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