057: 熱海。



 最も熱く激しいであろう一瞬を目前に、背にまわされていた腕が力なくシーツへと落ちる。
 スローモーションに映る、その動き。見るともなく見た落下地点は、すでに激しくよれていた。
「シーツの海、ねぇ」
 切れかけた吐息の中、そんな思いつきが口を突いてでる。
「……な、に?」
「ってことは、おまえは魚か」
 突然すぎたセリフに問う唇は、空気を求めて喘ぐかのようだ。触れあう肌から伝わる濡れた質感もまた、あの硬くもなめらかな鱗のぬめりを彷彿とさせる。そしてなにより、動きを止めたせいか、ねだるように蠢いてくる肢体のしなやかさ。
「やっぱ見てくれの熱帯魚より、喰い甲斐のある魚のほうがいいよな」
 人工空間でしか生きられない熱帯魚は、閉じこめられた淋しい生き物だ。そんな女性たちの間を泳いでいたのは、いつのことだったのか。すでに記憶から遠い。いまは肉を穿つ感覚だけが、リアリティをもって迫ってくる。
 重なった胸から流れ込む、激しく打ち鳴らされる鼓動。合わせるように脈打つのは、目の下、紅く染まった頬の延長にある首筋だ。細くもしっかりとした首に浮かぶ血管は、強く生きる証を示している。
「痛っ」
 操られるようにその首筋に喰らいつけば、鮮やかな悲鳴があげられた。そしてわずかに滲んでくる赤い色。魅きつけられたように、視線が縫いとめられていく。
「あんたねぇ……!」
 向けられる非難のまなざしに、けれどなお昂揚する感情を自覚する。捕食にも似た衝動は、狩人の本能か。くり返しつけつづけたあの痕も、きっとそのひとつだ。
 眺め下ろせば、ビクリと震える身体。ゆっくりと舌を這わせて、浮かびあがった血の滴を舐めとっていく。何の味も感じられない。けれど甘すぎる充足感に笑みが止まらない。
「しょ、う……?」
「必要なのは、活きってか」
 狙い定められた獲物を、ただの一突きでさばいた。鋭さに悲鳴がふたたびあがる。そうして怯えながらも、跳ねる腰。ねだる瞳。転がる涙。もはや笑いは喉元を突き上げる寸前だ。
 けれどむさぼるように喰らいつけば、囚われて喰いつくされるのは、己自身でしかない。
『アツスギル……』
 あがる嬌声に操られ、全身の筋力がただ一点へと集約されていく。激しくくり返す律動。浮かされたように、快楽へすべてを捧げ、溶ける。握られた手の内、海もまた荒波を上げはじめる。あとはもう、もまれる魚も人も翻弄されるだけだ。
 そして解放は急速に訪れた。
 断続的に飛ばされた精の飛沫は、濃厚な生。溢れさせた肉体は動力が尽き果て、やがてひとときの死がおとずれる。捕らえ囚われた者にもまた、その闇は堕ちる。
 残された、激しい呼吸音の嵐。

 そして白い海は凪へと向かうばかり ―― 。

「でも、熱帯魚もいいよね」
 おだやかなさざなみを浮かべた海で、息を取り戻した魚は人へと戻る。
 ふわりとみせられた微笑みはあどけない。けれどその肌は濡れそぼったままだ。
「喰えねぇぞ」
「そうだけど、キレイじゃん」
 美しさに焦がれるのは、人ゆえか。
 一瞬前の妖艶な姿をわずかに思い描き、嘘のない熱さに別れを惜しむ。
「飼いたくない?」
「……みやびが狙うから、ダメだ」
 戯れ言をつぶやいてから、そっと身体を抱き寄せる。しめった肌は、人魚の質感。穏やかな心音は、これまた意外に心地がよかった。
 傍らにあるぬくもりに、互い、包まれる。ゆったりと漂えば、海はどこまでも深くて優しかった。
 静かな呼吸は、眠りを誘う。

 自分が淋しかったことにも、気づけなかったあの頃。
 一緒に身を寄せ合って泳ぐ。これならば、熱い夢も見つづけられるかもしれない。




熱海は、『ねっかい』と読みます。熱すぎる、シーツの海。
素直に『あたみ』で、新婚旅行ネタもよかったか…?
久々にポエムちっくな、超短編でした。




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