062:オレンジ色の猫



『送信完了』
 モニタに浮かぶその文字を見つめる目は、その下にくまを浮かべながらもひどく満足げだった。
 急遽とびこんできた仕事だったが、どうやらいまのメール送信で片がついたのだろう。つなぎっぱなしにしていた回線を切り、男はモニタだけが照らす暗闇の中で大きく伸びをする。
 そしてつづけてその首がぐるりとまわる間に、HDの回転が止まった。完全に室内が闇につつまれる。
(ちょっとばかり、今回はキツかったな……)
 雨戸まで閉め切った、時間感覚のないPCルーム。電磁波からの解放感とともに、彼は肩を鳴らしながらその部屋を出ていった。

「あ ―― いたのか」
 どうやらメガネをラック脇に忘れてきたようだ。ぼやけた視界のなかに苦笑する同居人の姿をみつけて、彼はようやくそのことに気がついた。
「さすがに、眠そうだね」
「まあ、な。いま、何時だ?」
 喉が嗄れているのだろう、質問はかすれている。けれど答えはコップの水とともに、明瞭に返された。
「もうちょっとで、お昼ってとこかな」
 その言葉のとおり、けれどリビングはあかるい陽射しに満ちていた。どうやらかなり良い天気であるらしい。けれどいまの彼には、その光すら少々まぶしすぎた。
「わるい……。昼、勝手に喰ってくれ」
 いつもならば食事の支度は、彼の趣味的作業だ。手を抜くことなどあり得ない。それも同居人がこうして休日であるなら、なおさらその腕をふるいたいところである。
 けれど、さすがに連日の徹夜は、気力と体力を奪い取っていたらしい。
「はいはい、わかったから」
「マジ、ごめん……」
 相手にどうにか意思がつたわったと認識したところで、彼の身体はソファへと倒れ込んだ。日光を避けたつもりなのか、その顔はほとんどソファ生地へと埋められている。こどものようなその姿は、眺める者の頬へと微笑みをのぼらせた。
「起きたら、お茶にしようね」
 そんなことばが囁かれたことには、気づいているのだろうか。
 あたたかな陽光のなか、安らぎは静かに守られていくのだった。



( ―― あったかいよなぁ)
 ひどく心地の良い、そんなひととき。
 すこやかな眠りをむさぼっていた彼を、ふわふわとくすぐったい感触が、ゆるやかに覚醒へと導きはじめていた。
「なんだ、みやび……?」
 目は閉じられたまま口にされたのは、飼い猫の名前だ。そのやさしい声に呼応するように、チリンという音が奏でられた。鳴き声は聞こえない。高い鈴の音が数回耳を打ったと感じたあと、つづいて、なにかが身体のうえに飛び乗る感覚を、彼は認識した。鍛えられた腹筋だからこそ、さほど苦にならないのだろう。てのひらはその場所へと、そっと伸ばされていく。そしてゆるゆると重いまぶたを持ち上げかけた。
(なんだ、このオレンジは !?)
 まだ半開きにも満たなかった瞳は、弾かれたように一気に丸くなった。予測もしなかった色彩に、意識までも強制的に引き起こされる。
「見間違い、じゃねぇみたいだな……」
 長く下りた前髪を除けてなお、そこにはオレンジ色のかたまりが存在していた。どこの迷い猫だろうか、そのカラー以外はひどく見覚えのある姿をしている。その大きさはおろか、透きとおった青い瞳に、細めの赤い首輪。そこにつけられた金色の鈴など、音までそっくりだ。
「もしかして、お前」
 その名までは口にすることなく、彼は腹の上をまじまじと見直した。さほど広くないスペースでの丸まりかた、ゆらゆらと揺らめくしっぽの動き。なにより声をださずに口だけを開く鳴き惜しみ方は、確かにみやびならではの仕種だ。飼い主であればこそ、その姿に疑いの余地は残らない。
「どうしたんだ、その毛は!」
 鮮やかなオレンジと化した毛並みは、常ならばやわらかな綿毛色をしているはずだ。なにかに汚れているのかとあわてて引き寄れば、毛足はながくふわふわなままだ。質感がまったく損なわれていないことに嘆息して、いったんもとの位置へと戻してやる。しかし一安心はすれども、原因がわからないことに変わりはない。
「どうもしないよ」
「なに? 誰だよっ」
 困惑の渦中にありながらも、彼の身体は即座に跳ね起こされた。猫はしっかり腕に抱きかかえられている。
「どうしたの? そんなに焦って」
 突然の響きだした高い声に、聞き覚えはない。そもそもこの部屋に女性は存在しないはずだ。鋭い視線が辺りへと投げかけられる。その姿にか、かすかな笑い声までが起きだした。どこか愉しげなそれは、すぐそばから響いているようだ。
 いや、そばというよりも、腕のなかからというべきか。
「もうすぐお茶がはいるんだって」
「……やっぱ、お前がしゃべってるのか?」
 あっけに取られながらもじっと見下ろせば、うふふという笑いにあわせ、確かに猫の口が動いている。
「知らないの? 猫はね、オレンジ色になるとしゃべるんだよ?」
 鈴の音と同じくらい軽やかな声は、コロコロと愉しげに弾んでいく。そのリズムに合わせるかのように、オレンジ色の猫は、腹の上に乗ったままくり返し跳ねた。チリン、チリンと鈴も鳴る。
 けれどそ腹にくるべき衝撃は、なぜか彼には感じ取れない。

『そんなこと ―― 』
 知らねえよ。つづけるはずの声は、どこか遠くに閉じこめられていった。

 なぜか出せなかった言葉。
 その理由を考える前に、腹の上で跳ねている実感が急速に彼の中に生まれてきた。
「重いぞ、みやびっ」
 はげしい振動を受けたせいか、今度は息も大きく吐き出せた。それでもめずらしいことに、みやびは暴れつづけてくる。強引にどかそうと伸ばした手は、飛び跳ねるオレンジ色をつかまえた。その瞬間、ぬるっとした感触が掌を襲った。
「おい、なにやったんだ!」
 唖然とするのもつかの間。声を荒げながら彼が駆け込んだのは、カウンターの向こう側のキッチンだった。
「へ、なにがー?」
「なにがじゃないっ」
「え、みやび ―― どうしたのっ?」
 のんきにふり返ってきた同居人も、さすがに突きつけられたオレンジ色に目を見開いた。その驚きぶりからするに、どうやら心当たりはないらしい。
「知るか! 起きたら、こいつが腹の上で跳ねてたんだっ」
「なんで、そんな真っ黄色……」
 首ねっこをつまみあげられる感触が気に入らないのだろう。みやびは鳴き声をあげることなく、じたばたと激しくもがいている。身体をふるわせ反発するたびに、黄色いしずくはあちこちに飛び散っていく。
「ああ、うるさい! 洗ってやるって」
「これって……」
 吊るし上げたままの猫にわめきだした男をよそに、同居人は頬についた液体に何事かを考え出した。まず指先にすくいとって眺めてから、鼻先に近づけてみる。そしてほんのすこし舐めてみるやいなや、その身体はいきおいよくシンクへと向き直った。
「あぁ、やっぱり! 黄身がないっ」
 黄身と白身を分け入れていたボールのひとつが、床へとすっかり落下していた。
 オレンジ色の理由は、わかってみれば簡単だ。けれど片づけは大変である。見事にこぼされた中身には、ため息しかでない。
「あーあ、どうしよ……」
「まずは、洗濯だろっ!」
 その声に背後をむいた視線の先では、ちょうど男が黄色く濡れたシャツをばさっと脱ぎ捨てていた。いまだ格闘をつづけていたのか、シミはますます濃くなっている。その布でくるみこめば、さすがのみやびも急速におとなしくなったようだ。
「え? いまから、洗濯物になるの?」
「洗濯物はこいつだろうが!」
 噛みつくように叫んで、彼はバスルームへと飛び込んでいった。腕のなかには、シャツにしかみえないかたまりが、じたじたと存在していた。



 そして数十分後、シャワーの音はやんでいた。
「逃げんじゃねえっ!」
 けれど格闘の時間は、まだつづいていたようだ。ドライヤーの轟音を越えてなお、鈴の音と怒声は激しくダイニングまで響いてくる。ドタバタという効果音も、あまりに気合いが入りすぎていた。
 そんなうるさいやりとりも、どれくらいつづいた頃だろうか。
「こら、みやびっ」
 男の手をかいくぐったとおぼしき勝者みやびは、一目散に窓辺へと逃げ出してきていた。ほぼ乾いているとわかっているのだろう。テリトリーにはいってからは、綿毛色を取り戻した毛をただ一心不乱に舐めている。
「あそこなら、あったかいし。自然乾燥でいいんじゃない?」
「 ―― 疲れたぞ、おい」
 タオル片手に追いかけてきた男も、その姿に作業放棄を決め込んだようだ。
 徹夜明けの睡眠を妨害されて、派手な追いかけっこ。最後にはシャンプーまでさせられれば、疲れないはずがない。奇妙な夢を見たことなど、今ではもう些細なことだ。
 思いがけない労働に脱力しきり、彼はびしょ濡れのタオルを肩に掛けて床へとしゃがみ込んだ。そこへ、完全に忘れていたメガネが差し出された。
「とりあえず ―― お茶にしようよ」
「そうだな」
 苦笑をみせる相手に食卓へとうながされ、彼はゆっくりと立ち上がった。

 シャツを回しかけていた洗濯機に、ついでにタオルも放り込んできたのだろう。バスルーム脇の洗面室から出てきた男は、濡れた身体をぬぐったのか、あたらしく引っ張りだした綿シャツに着替えてきていた。
「待たせたな」
「ううん、別に。はい」
 そんな返事とともに差し出されたのは、ずいぶんとおおきく切り分けられた物体の載った皿だった。脇には生クリームと、缶詰から出したと思われるフルーツが飾られている。
「白身だけだから、エンゼルシフォンになっちゃったけどね」
「いいんじゃねぇの? こういうのもさ」
 すこしだけ申し訳なさげな相手にあっさりと言い放ち、彼は手づかみでそれを口へと運んだ。礼を失した行為とは思えども、どうにもフォークを持つのが億劫だったためだろう。
「あ、うまいかも」
「よかったぁ」
 意外なほど中の白いスポンジは、外だけうっすらキツネ色をしている。名前の由来どおりふわふわの食感は、そんなはかない印象どおりのものだった。クリームなしに口に放り込めば、すぐさま溶けてなくなっていくようだ。極端に甘くもない味わいにつられていたのだろう。はぐはぐとくり返すうちに、かなりの大きさのケーキはあっという間に消えていった。
「もっと食べる?」
「いや、いまはいい。ごちそうさま」
 食べ応えがないともいえようが、胃にはずいぶんと優しそうなものだった。十数時間ぶりの食事としては、それなりに適当だったのだろう。クリームだけは残しながらも、満足げにカップへと手を伸ばしていく。
(いい天気だなぁ……)
 ゆったりと紅茶までも飲み干せば、ようやく彼も人心地がついたらしい。
 仕事も片づいた昼下がりに、目の前にはゆっくりとケーキをつつく恋人。そしてその先の窓辺には、穏やかに丸まっている愛猫。日光浴までしていれば、なおさら気持ちもなごんでいくというものだ。
「オレンジの猫、ねぇ」
「なに?」
「いや、なんでもない」
 落ち着いてしまえば、夢の内容もおもしろく感じられるゆとりができたのだろう。思わず呟いていたらしい言葉に透明な声を思い出せば、微笑みはもはや隠しようがない。きっとあれもあれで愉しく暮らせるだろう。不審の目を受けたところで、そんな埒もない想いが湯気のように浮かんでは消えていくだけだ。
(しゃべってくれても、いいんだぞ?)
 心の内で送った声は、つうじているのだろうか。じっと視線をむければ、しっぽがふわふわと揺れている。
「……また?」
「ちょっとだけだろ」
 エサ皿なのだろうか。ちいさな非難をうけながらも、男の指先は小皿へと生クリームを取り分ける。
 与えられたごちそうに、まだ気づいていないみやびは、日だまりでオレンジ色にうっすら染まっていた。




ひそかに洗濯物日和とリンク(笑)
やっぱりほのぼのはいいなぁ…。



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