093:Stand by me
トレーを携えて扉を開ければ、いまだ彼の恋人は夢の住人のようだった。
「……無理もない、か」
つぶやかれた吐息は、とろけるように甘かった。
仕事明けに、あの激しすぎる行為は、さすがに堪えたのだろう。
揺れるカーテンの下、朝陽というにはあまりに強い光を全身に浴びてなお、その瞳はわずかにも開かれなかった。
けれどその姿は、疲れなどということばとは無縁のものだ。
ベッドサイドまで近づき、視線をゆっくりとすべらせる。
まばゆい日光と、白いシーツ。そこに存在する身体とのバランスは、あまりに完璧すぎた。
そして、いつまでも見飽きそうにない寝顔は、あまりにも安らぎに満ちている。
「海か ―― ……」
シーツの波にたゆたうなどという陳腐なセリフすら、朝の大気にするりと溶けていく。
眺めているだけで幸せになる光景、そんなものがいま、確かにここにあった。
「あ、……」
ふいによぎった香ばしい匂いに、ただ見つめることに囚われきっていた彼が、ちいさくつぶやきをこぼす。
その元は、いまだ眠りこんでいる恋人のために淹れたコーヒーだ。隣には、焼き直してきたクロワッサンにミルクロール。
キッチンからわざわざ運んできたというのに、すっかり存在を忘れていたのだ。
冷めてしまっては、どれもたやすく風味が失せてしまう。
「おはよう」
仕方なくかけた控えめなあいさつは、どうやら雑音と認識されたらしい。
シーツへとつよく顔は伏せられ、身体もぐっとまるめられた。髪に軽くふれれば、するりと指先から逃げていく。
それでもかすかにあげられた、うめきのような声。
覚醒の時間は近そうだ。
そんな判断が、彼の唇を相手の頬へと寄せさせていく。ふわりと触れさせたのは、形のよい右耳。
ぴくりとみじろいだその反応に、いたずら心がふとうずいた。
『 ―― 昨日のキミは、素敵だったよ』
低くあまい声をゆるく響かせれば、相手の瞳がおおきく見開かれた。
ゆっくりとしたまばたきがひとつ。そして、そのきっかり三秒後。
寝室は爆笑の波に襲われていた。
「で、いつまで笑ってるワケ?」
尖った唇は、ふてくされ具合を如実に示している。
むくれた状態でベッドにあぐらをかいているのは、優しく起こしたはずの彼、和真だった。
「だってさぁ。おまえ、キザすぎ!」
ようやく目覚めた男は、ひとしきりの笑いに呼吸を乱している。
どうやらまったく隣の様子には頓着していないようだ。上体だけを起こして、なお喉をひきつらせている。
そんな姿を見せつけられれば、相手にされない彼の機嫌は降下する一方だろう。
「うわ、腹いてぇ……」
「ウケすぎ。つか、筋肉痛だったりして」
「そんなヤワかよ、この俺が」
事実と納得させられれば、それ以上の追及などできようがない。嫌みまじりのコメントはあっさりと流された。
避けるのは、まぶしい陽射しだけということだろうか。
カーテン越しの光にすがめた目つきを、和真は苛立ちから睨みつけた。
その行為があまり効き目がないことは、彼とてむろん知らないことではない。
「なあなあ、もう一回やってみてくれよ」
しかし黙り込むことのない口は、その認識ですら不適切であったことを改めて思い知らしめた。
単純にいえば、逆効果というものだ。
「なあって。おい」
「一回きりだから、効果的なの!」
妙なこだわりをみせはじめた男にたいして、ついに相手は叫び返した。それはとてつもない音量だった。
「うげ! 耳にきた……」
「ふんっ」
思いっきり鼻を鳴らした彼の声は、声量も含め、確かに七色ボイスと異名を取るほど変幻自在のものであった。
その中には、キャラクターではないと、彼自身が認識しているものも含まれている。
中でもひときわギャップの激しいであろう、低音セクシーボイス。
わざわざそれを使って起こそうとしたのだ、ほんの少し笑いを取ろうとする思いがあったことは彼も否定しないだろう。
しかし人間、あまりに狙いにはまりすぎても腹の立つことがある。
「もうできない! わすれたっ」
どうにもおさまらないむかつきに、彼は耳を押さえている相手に、くるりと背を向けた。
こぼれたのは、かすかなため息。そして ――
。
『昨日のおまえ、最高だったぜ』
室内の空気は、ふわりとやわらかく振動した。
ぱちくり、と目を見開いたのは、もちろん和真の方だ。
「……決まんねぇな、おまえほど」
相手の表情が見えない体勢だからか、男は長く落ちる前髪をかき揚げた。
ばっと振り返った相手にみせたのは、ひどくばつの悪そうな苦笑だ。
「べつに?」
すっと元通りに首を戻した和真は、ひどく素っ気なかった。
けれどその手は、しっかりとトレーを相手へと押しつけていた。もちろんその上には、コーヒーとパンが置かれている。
「冷めるよ? おいらが代わりにわざわざ持ってきたのに」
「あ、わりぃ。つか、Thanks a lot」
いつもならば、彼自身が運んできているモーニングセット。照れもあるのだろう。珍しくも英語まじりで、男はちいさく返してきた。
そして、少し冷め気味な、けれどまだ香気を失していないカップを唇に当てていく。
「いい匂いだよなぁ」
「そう」
答える言葉は短く、相変わらず背を向けたままだ。
けれどそんな冷たい態度を示しつつ、彼は内心でほっと胸をなでおろしていた。
(あんたの真似こそ、できないよ)
コーヒーを持ってくることではない。
寝ている和真にいつも与えられる、甘すぎる蜜のようなささやき。
実のところそのセリフを、今日は奪ってみたのだった。
けれど気恥ずかしさで声をつくらずにはいられなかった。臆面なく告げるには、まだまだ鍛錬が必要らしい。
「まあ、わかってなきゃいいや」
「あ? なにがだ?」
「なんでもない。ってか、内緒」
素っ気なさを装ったことばには、くすくす笑いがにじんでいた。
眠っているときにしか聞くことのない声。それを知っているのは、そのささやきを期待して、密かに狸寝入りをしているということだ。
けれどそれは、たぶんずっと秘密にされるのだろう。
「しかし、昨日のなにがそんなによかったんだ?」
普段は決して食べることのないクロワッサンをくわえた男は、いまだ寝惚けているようだった。
互いに、ともにあることを、当たり前に感じる関係。 ふわりと香る、こんなモーニングのハーモニーのように。 |
* Stand by me = 私を擁護します。
前半を読んだとき、キャラを逆に認識しませんでした?
だったら、ひっかけ的には成功した作品なのですが。
何にせよほのぼの…昼寝に朝寝、睡眠好きカップル。
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