溺れる魚。



「サルも木から落ちる?」
「弘法も筆の誤り、とか」
「そういうニュアンスのことなんですけど……」
 なんとなく重い気分をひきずって開いた扉の先では、そんなやりとりが繰り広げられていた。
「いったい、何の話だ」
 まさかことわざや格言の言い合い対決でもないだろう。
 俺はあえて冷たい視線を向けて、その中心にいたであろう相手へと問いかけた。
「えっと、こういう状況で使う言葉。……について、デス」
 トントンと示されたのは、校正中の原稿。
 まともに部活動してくれていて、うれしいよ…内容的には情けないが。語尾が小さくなったところを見ると、一応その自覚はあるらしいな。
 まったく。小説でのそんな言葉選びは、書き手個人の作業だろう。
「なんか、らしいのがないかなーって。ねえ」
 ため息をついた俺に、周囲の輩が同意を求めてくる。
 かばって甘やかせば、相手が感謝するとでも思ってるのか。ナメたやつらだぜ。
「本当に、なんかないですか? オリジナリティのあるようなので」
「……他人にオリジナリティを求めるな」
 こいつも、バカにしてるのか。
(だったら二度と書こうなんて、思うんじゃねぇ)
 思わず知らず、爪先がちいさく掌を傷つけていく。
「いい加減、手詰まりデス」
 そんなギラギラ殺気立ってるだろう俺の前に、両手がひょいとかかげられた。
「もう締め切りすぎてるし、早くほしくないですか?」
 きょろりとした瞳は、それでも悪びれやしない。
 逆手にとりやがって。
 一応、俺はここでの編集員だし、作品が形となることを待っている人間がいることも知っている。
「なんでもいいんです」
「……溺れる魚」
 信念など、いまさらか。
 ひっかけられたという今の心情に適切な言葉を吐けば、それだけで回答としてふさわしい。
「なんだ、不満なのか?」
 向けられた視線は、少なくとも感謝のものじゃない。驚きが主体か。
「先輩って、なんかエロティシズムにあふれてますね」
「どこがだよ」
「だって、溺れる魚って……どことなく、エロくないです?」
「うんうん。ちょっとソレっぽいですー」
 ふざけんな。勝手なこと言いやがって。
「そう考えるお前らが、エロなんだよ」
 一言で切って捨ててやる。
 解釈はもちろん自由だが、その意見すら、てめえの心の鏡なんだよ。
(―― にしても)

 『溺れる魚』か。我ながら、適確だったな。

「そうさ。魚だって、おぼれるんだ」
 お前は気づいてないんだな。
 居心地がいいと思っているうちに、堕ちるんだ。
 そう、囚われる。
 あとは底まで沈んでいくだけだ。
 吐き出す泡は、天を目指していけるというのに。
「傍目には、泳いでいるようでもな」
 つぶやきは、たぶん音にもならなかった。
「それでも、きっと泳いでるんですよ。魚は」
「え?」
「とりあえず、終わりましたから」
 はい、どうぞ。
 不覚にも呆然としてしまったらしい。
 押しつけられるように渡されたのは、1枚のディスクだった。
「……まさか、そのまま使ってねぇだろうな」
「もちろん。物書きとしてのプライドは、あります」
 自分の言葉を生み出す、そのきっかけがほしかったわけか。
 ピースサインを向けてくる相手は、まぎれもない自信に満ちていた。

 さすがだよ。
 書くことを知っている人間は、これだから、いい。
 だから俺は……。

「手、消毒したほうがいいですよ」

―― ますますお前にムカつくんだ。



 早く、沈んでしまいたい。
 言葉の世界から、消えられるように。





意味不明自己中世界



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