098:墓碑銘



 あの騒ぎの後、翔はときおり軽音へと顔を出すようになっていた。
 きっかけはある種の謝罪。原因はともかく、結果として少なくとも彼らのドラマーを奪うことになったからだ。これ以上、メンバーを奪うことはできない。
 今日もまた、彼の姿は和真の傍らにある。
「……ラブソングって、難しいよねぇ」
「おまえの歌詞なんて、全部ラブソングじゃん」
 独り言を淡々と突き放したのは、ここのベーシスト。
「でも、根底には愛がなきゃ、意味ないだろ?」
「まあそうかもね」
「重要なんだって、そこがっ!」
 そんな会話が、ひとり部外者である彼の耳を通り抜けていく。
(熱いねぇ……)
 作詞者へのフォローだったのかと思いきや、すっと視線を滑らせた先では、いたって真顔のギタリストが愛について語っている。
「愛か ―― 」
 平方根iに絡めた会話がわずかに頭をかすめて、彼の頬に苦笑をのぼらせる。
 バックには、アコースティックな旋律。くだんのラブソングの歌詞を乗せる曲なのだろう。
 しかし過去に想いを馳せるには、あまりに似合いの音楽だ。
(そろそろ、断ち切るべきなのかもしれない……)
 視界に揺れる、和真の髪。伏せたその表情は、窺うことも出来ない。
 その姿から目をそらし、翔は持ち歩いているモバイルを、そっと開いた。

   記憶の封印は、すでに解いている。
    あとは……ふたたび眠らせるだけだ、永遠に。

 小さめとはいえフルキーボード。特に打つのに支障はない。
 想いをこめて、一文字ずつをつづっていく。
(俺には、言葉しかないから)
 名をつけて、終わらせよう。忘却とは異なる、確かな終焉に。
 意識を一点に集中して、彼はキーを打つ。
『若すぎた恋に嘆く、愛しかったあのころのキミへ。
 忘れ得ぬ想いを、言葉というかたちに変えて』
 そのときBGMは、彼の意識から消え失せていた。

 どれだけの時間が過ぎたのだろう。
 ちいさなモニタに釘付けとなっていた彼は、静かにその手をおろした。
 ゆっくりと呼吸をひとつ、そして視線をあげた。その表情が、苦笑にも似た笑みに彩られる。
 彼の前に広がる世界は、変わっていなかった。
 いまだにうなり続けている和真も、弦をはじくふたりも、ただそのままに存在している。
「さて……と」
 保存という最後の仕上げをするために、彼は画面を先頭まで戻した。そして瞳をふたたび落とす。
 過去をたどり直すスクロールは、すぐにはじまった。
「これじゃ、まるで……」
 ラブ・ソングじゃないか。
 さらりと読み返した彼は、思わずそう呟いていた。
「え、なに? ラブソング?」
 耳ざとく捕らえたのは、同じく言葉を生み出していた者だ。
「ちょっとでいいから、見せて?」
「ああ、うん。もうすこし」
 指先が、自然にキーを鳴らす。
 折しも流れつづけるテープは、注いだ想いにふさわしい。
 ほんの少し旋律にあわせて直せば、なおさらに心にはまるだろう。
「見せてってば!」
「ちょっと、待っててくれ」
 焦れたような和真に、彼ははっきりと告げる。そして言葉を秘めた機械とともに立ち上がった。
 モニタを覗かせる気は、誰に対しても起きない。それが和真であれ同じだ。
 そこは彼の心そのものを表す場所だからだろう。
「ほら」
 いったんその席を離れた彼は、一枚のOA用紙とともに戻ってきた。
 白地に並ぶ、黒い羅列。待ち受けていた相手とともに、残りのふたりも覗き込む。
「これって、ラブソングか?」
「聴いてみないと、なんとも言えないな」
 的確といえなくもない感想が漏らされる。たしかに聴いてこそ浮かぶイメージもある。
「まあ ―― 歌ってみてくれ」
「おいら、一度くらい聴いてみないと、どうメロディーに乗せるかわかんないよ」
「あ、そうか……」
 譜面に書き込み直したところで、雰囲気までは記すことが出来ないだろう。
 いま現在、完璧な理想像は書いた彼のなかにあるだけだ。
 それをどう伝えるか。しばしの困惑が彼らを包んだ。
「……あんた、歌えば?」
 沈黙を破ったのは、楽曲作りにもっとも関わらない者の意見だった。
 素っ気ない口調。けれど黙り込むことなく促すのは、親切心ゆえか。それとも好奇心か。
 しかし外されないまなざしは、紛れもなく挑発している。
 ラブソングならばこそ、自ら歌え ―― と。
「―― だな」
 短い了承の意に、相手の視線が奥へと流された。軽いうなずきとともに、ギターが掛け替えられる。
 はじめて耳にする、生の音源。もどってきた用紙に、彼も瞳をぴたりと据えた。
(決着は、自らの手でつけなきゃな)
 静かに鳴り響く、ギターのメロディー。カウントは頭に入っている。
 男の声は、どこまでも緩くせつなく重なった。
 そして共鳴するふたつは、はじまりと同じくらい静かに終わりを告げた。
「なあ、わるいけど……俺は、この歌詞でいきたい」
 余韻が消えたギターをおろしながら、曲をつくった男は宣告した。
「ううん、いい。おいらもこれがいいと思うから」
 作曲者の最大の賛辞。その相手の意志に、常のパートナーも異存はなかった。
 もうひとりのメンバーも、瞳で同意を伝えてきた。
 そしてここにいま、ひとつの楽曲は完成した。
 けれど今回の作詞者は、いまだそのことに気づいていなかった。
(これで、さよならだな)
 ひきずりつづけた結末は、意外なほどにあっけない。
 セーブデータは、ボタンひとつで抹消された。
「悪いが、もう一度うたってくれ。和真が覚えるために」
「……ああ、わかった」
 メロディーは途切れない。合わせる声も、とまらない。
 緩やかにつづくラブ・ソング。



 この歌すべてが、“僕”からあなた捧げる、墓碑銘だから ―― 。

過去を断ち切らずに、未来は視えないから。



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