02: そんなの駄目だよ


 東の窓から差す薄日が瞼を刺したのか。明け方、覚めた目を巡らせれば、玄関先におおきな影があった。
 ゆっくりと近づけば、正体はすぐにわかる。
「本当に、あんたこれでいいの?」
 昨夜、浴びるようにアルコールを煽っていた、麻シャツを着こなす男。その彼はいま、その衣類をゆるめただけで部屋の床にいた。壁にもたれて、夜じゅうその場所で寝込んでいたのだろう。シャツにつよく寄った皺が、その時間の長さをあきらかに物語っていた。
「そんなの、ダメだよ……」
「うるせぇなあ」
 アルコール臭が鼻を突く。思わずついたため息は、浅い眠りから相手を引き起こしたらしい。ひどくしかめた眉。二日酔いの頭には、男のものとはいえ高めである自分の声は相当に響いたのだろう。
 だが彼が酔うことなど、滅多にない。いったいどれほどの量を飲んだのか。
 女性と消えていくクラブ。夜中には帰らないことが、当たり前になってきている。傷も、ささやかなものばかりだが増えた。きょうも肩口にひとつ、痣がある。
「っていうか、ダメってなんだよ。ダメって」
 黙って見下ろしていたこちらの表情は、たぶん影になって見えていない。だがはかなくも光を受ける相手の顔は。
「……っ!」
 浮かべられた嘲笑は、明らかに狙いすましたものだった。
 答えが存在し得ないことなど、自分でもわかっている。彼に書かせたいと思った。あの目が見たいと思った。すべては自分の独りよがり。
 返せないことばは、握りしめた掌のなかで爪となって傷をつけていた。
「寝る」
 重苦しい雰囲気をどう解釈したのだろう。意外にもそれ以上追及することなく、相手はふいっと顔を背けた。どうやら本当にそのまま眠りにおちるつもりらしい。
 硬い床だ、寝心地がよいはずもない。だがいつからだろう、彼は決して同じマットには眠らなくなった。
「先輩、マット……」
「ほっといてやりなよ、気にしないで」
 突然の声は、背後から聞こえてきた。むろんこの部屋の本来の主のものだ。
 だがまだ起きだすには早すぎる。振り返れば、当然のことだろう。彼は仕切りの向こう側で目元を擦っていた。
「すみません、うるさくして」
「いや、気にしなくていいよ。そいつが帰ってきたせいだから」
 弱った心の隙を突くかのように、やさしげな苦笑が与えられる。
 だがいつから見ていたのだろう。相変わらず油断の出来ない相手に、一瞬だけ身が固くなった。
 けれどその厚意に裏があることはあれ、嘘があることだけはない。
「だからさ、キミもほっときなよ」
 あくびをひとつ見せ、促すように彼は奥へと戻りかけた。だが動こうとしない自分の様子を感じ取ったのだろう。その足は、逆にこちらへと向けられた。
「大丈夫だよ、きっと」
 交わした瞳に、その想いを疑う色はかけらもなかった。
 自分には出来ない。相手を無条件に信頼するような行為は、まだどうしても。
 このふたりには、きっともう切れない絆があるのだろう。だが自分と彼のあいだには、まだそれだけの時間すら過ぎていない。
 わずかに浮かんだ昏い想い。それは、ささやかな嫉妬だろう。
「和真クン」
「……できません」
 きたないその感情を打ち消すように、脳を支える首をゆっくり横へと振った。
 だが、ここに残ってなにができるというのだろう。いや、むしろ現状を招いたのは自分ではないのか。
『刺せるなら、やってみろよ』
 生き様は常に挑発的。いまにも誰かに殺されるのを待ちわびているような彼の姿。徐々に動き出したはずの運命は、明確に破綻へと時を刻んでいる。
 くすぶっている炎を、完全に消してしまうつもりなのだろうか。
(そんなのは、イヤだっ!)
 利己主義といわれようとかまわない。あの瞳がいつか自分を射るという夢だけでも見ていたいから。
 恋とは思わない。だがあの熱いまなざしには焦がれている。
「……だろうね」
 必死に見かえせば、なぜだろう。上から掌がふわりと載せられた。
 包みこむのはやわらかな空気。ちいさく笑いを向けた相手は、そのままかるく頭を叩いていった。
 彼が救われることで、他にも救われる人はいる ―― 。
 それすらがいまの自分をどこかで支えていた。
「まあでもさ、キミも寝るんだよ」
 再度の促しには、さすがにちいさく頷きを返さざるを得なかった。本格的な朝を迎えるまであとしばし。確かに起きてしまうには早すぎる。
 むしろしっかり寝てすこしでも早く帰れば、彼の寝場所も確保できる。
 先に戻った相手を見送り、自らも与えられたマットへと戻りかける。だがちいさな呻きに、その足は止まってしまった。
 音の方向には、全身を縮こまらせてて眠る彼の姿。
「だから。こんなのダメだよ」
 けれどその目に、自分が映ることはないのだろう。
 ふたたび見下ろした相手は、瞼をかたく閉じていた。どこか苦しげに窺えるのは、明け方の薄い光が成した陰影のせいだろうか。
 もがくくらいなら、腕を伸ばしてくれればいい。
「ダメなんだよ……」
 つぶやきは独り、うすい闇へと消えていく。

 朝はまだ、ひどく遠そうだった。




『コヨーテ』からの連作・番外編

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   > 否定-04 ・否定-03・否定-02 > 060:轍 > 否定-05  あたりか。




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