03: そうやって自分を誤魔化すんだ


 カウンターにほど近いテーブルで、独りグラスを傾ける。
 あいつがいなければ、俺のまわりなど静かなものだ。ダンスミュージックも人々のざわめきも、ただ無意味に耳を通り抜けていく。
 空になりかけたタンブラーには性別不詳な姿が、氷越しにすこし歪んで浮かんでいる。
 巻き込んでしまった被害者の姿だ。
(いや、望んで巻き込まれにきたのか)
 きっかけは与えたかもしれないが、選んだのは当人でしかない。グラスを口元へ寄せ戻し、ひずみのないそんな相手を見やる。頭がふらふらとさまよっているのは、きっと尋ね人が見あたらないからだろう。
 広いとはいえ、たかがしれたフロアだ。探しきれないほどではない。カウンターに、近場のテーブル、ダンスフロア。だが確かに、そのどこにも見あたらない。
 昔ならば、他の階へ移動している可能性もあった。だが最近は、言葉なしにここを離れることだけはない。
 ならば、壁の暗がりにあるくぼみ。その奥にはレストルームの扉が並んでいる。
 その一枚から、さりげなく目的の男はでてきた。だがつづいて、もうひとり同じ扉から人影は現れた。個室のはずであるその場所。出てきたのが男女であれば、中でなにが行われていたかは明白だ。
 誇示する意識も働いているのだろう。人目もはばからず姿を見せた女は、先をいく相手を追いかける。だが男は既に関心を失っているらしい。振り返りもせずに颯爽と歩きだせば、瞬間悔しげな顔をみせた女性は、けれど刹那の逢瀬を満喫はしたのだろう。すっときびすを返す仕種に、憎悪の色は窺えなかった。
 今回は刺されずに済みそうだ。甘いカクテルを舐めつつ浮かんだのは、いささか皮肉な想いだけだ。
 コースターに戻せば、氷が澄んだ音を立てた。そろそろ替え時かもしれない。
 バーカウンターへと目を上げかければ、グラスを取りにきたのだろう。くだんの男は、ちょうどテーブルの脇を抜けていくところだった。
「好きだね、おまえも」
 そのシャツの背に投げた声は、重ねてつくため息でかき消されるはずだった。だが一歩戻った長身は、目の前のテーブルへ、なぜかその肘先をかけた。
「俺だってな、単にヤリたいときがあるのさ」
 めずらしく話に乗る気になったのか。しかしにやけた言葉とは裏腹に、その姿はさきほどまでの行為の痕をみじんも感じさせない。瞬間を目撃していなければ、誰に言われたとて信じはしないだろう。
 首もとはいまだゆるめられたまま、そして唇には移り紅というのにだ。
「たまにはいいだろ?」
「ごまかすの、ヘタだね」
 器用に吊りあげられた口元は、だが所詮は見慣れたポーカーフェイスでしかない。
「そうやって自分をごまかしてんだろ?」
 本音があまりに透けている。きっぱり言い放てば、かすかにだがその鉄面皮がゆらいだ。渇く喉をそれこそごまかすように、濡れた舌先が唇をなぞっていく。ぬぐい取られる紅の残滓。愉しみの痕であるはずのそれは、だがもはやイヤな油臭さを口中に拡がらせるだけらしい。ぐっとしかめられた眉が、感情を露骨に示した。
 けれどその下にある瞳は。
 そこに隠されているだろう別の想いを読み解くべく、俺はじっと視線を注いだ。
「……やっぱり夜は落ち着いて過ごしたいよな」
 もともとの色を取り戻した唇は、独り言のように動く。そうして尻も座らぬうちに、相手はすっと体を翻した。流れた先は、フロアのセンター。結局、喉を潤すことなく、彼は身体を動かしはじめた。
「どこが落ち着いてんだろうね」
 折しもBGMはディスコクラシックスだ。意外に耳馴染みのあるナンバーは、どれもかなりテンポが早い。
 意外な展開に目線を向け続けていれば、我流のダンスは、けれどその基礎筋力に支えられ、しなやかな動きを繰り出していく。
 切り取りたい、瞬間。元々ある身長や体型もあるのだろう。フロア馴れも加われば、もはや最初の理由など意味もなく、ただ瞳を奪われるばかりだ。
 そんな対象のむこう側、同じくらい強い視線を注ぐ相手は立ちすくんでいた。ようやく見つけだした尋ね人の新たな一側面に、近づくことすらままならないようだ。視線の交錯点で踊りつづける男は、その重さを背負わぬのか、軽やかにステップをひけらかす。
 いや。むしろその目を拒否するように、激しさを増していく。
 切れ間なくつづく音に押されて数曲が過ぎれば、ハードペース。さすがに疲労も溜まるのだろう。額の汗をかるくシャツの腕でぬぐうと、動きは突如として失われた。乱れた息づかいと滴をちらす髪先。躍動感を感じさせる身体は、気配だけでこちらの背筋をぞくりとざわめかせていく。
 だが見惚れていたのは、俺たちふたりきりではなかった。無駄に体力を費やす気はないと、めったに長時間は踊らないはずの男だ。その姿に目を瞠りながらも、鮮やかな動きをみせた肉体に、羨望と欲望の視線は蜘蛛の糸のようにまとわりついていく。
 だが実状は逆かもしれない。むしろ身体をエサに、今宵、最上の生け贄は選ばれた。ぐるり周囲を眺めたまなざしは、そのうちの独りへと定められる。
 絞り込まれた標的は、もはや逃げることはない。それは確信。
 いまだ熱のひかない身体は、まずその一歩を詰めた。いまだ音楽は流れている。
「まったく。ごまかすのがうまいね」
 朝まで戻ってこないだろうことは、容易に推察できていた。だがこの一晩を落ち着いて、ただひとりの相手で済ませるにも、まだ体力が有り余っている。だからこその激しさ。生半可なことでは宥められない身体が、そう訴えていたのだろう。
 つまりは、それほどまでに餓えを感じているということ他ならない。
「本当にヤリたい相手は、誰なんかね……」
 忘れきっていたグラスを揺らせば、氷は熱気に崩れていた。底に残っていた甘ったるいはずのカクテルも、既に水ばかりの味わいだ。ただ冷感だけがグラスに取り残されている。
『あとはよろしく』
 無意識に向けっぱなしとなっていたのだろう。視界の端。かすかな身振りが、状況を示してきていた。
 答えは待たれていない。壁際のくぼみではなく、外界への下り階段にその姿は吸い込まれていった。
「じゃあ、俺も行くかな」
 薄まっていようが、独りで呑む酒はどうにも苦い。男に委ねられたその人間へ向かって、俺はフロアへと出ていった。点対称の先、尋ね人の消えた扉を見つめる相手の掌は、なぜか首筋へと当てられている。
 そこに秘されるは、誰の想いか。

 グラスの底に溶け残った蜜酒は、どこか澱にも似ていた。


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060:轍 直前か?