グラスの花。


「そういえばおいらって、お酒ほとんど飲めないんだっけ……」
「あ? そうだったか? まあまだ成人したてなんだから、いいじゃんか」
「うーん……」
 独りオンザロックを舐める俺の横、学校帰りに立ち寄った和真はじっと人のグラスを眺めてきていた。夕方とはいえまだ日のあるうちだ、非難されているわけでなくともはっきり言って呑みにくい。
「あ、あれは。ヴァイオレットフィズとか。フラッペでもいいが。気に入ってたんじゃないか?」
「見てるぶんにはね」
 苦し紛れに切り出したのは、こいつが綺麗と喜んだカクテル。だが所詮は飲める代物でもないのだろう、視線はいまだこの手の内のグラスにある。このままではいきなりこれを奪って飲み干しかねない。
「……待ってろ」
 グラスをテーブルに置いた俺は、しぶしぶと立ち上がった。
 とはいえ当てがあるほどでもない。そもそもこの部屋に何のアルコールがあっただろうか。飲むことは嫌いではないが、もっぱらスコッチだけであれば他にさほど持ち合わせている記憶もない。ビールに酎ハイ、安っぽいワインでもあればいいところだ。
 和真が飲めそうなほど軽く、どこにでもあるもの。そしていますぐに出せるもの。
 意外と高いハードルに、酔うまでもなく目の前がくらりとする。
「ねえ、先輩ぃ……」
「飲むなよっ!」
 背中へと投げられた声に一瞬で叩き返す。相当に焦れている、というか置いてきたグラスに興味津々という感じだ。試したいならそれもいいだろう。だがそれはその後の口直しが用意できてからのほうが無難というものだ。
(こんなことで落ち込まれてたまるかよ……)
 せっかく恋人が来ているのならば、もっと有効に時間を過ごしたい。だがそうして気が急くほどに見つかる率はきっとさがる。もう一度と見回した冷蔵庫には、ミネラルウォーターに牛乳のパック、数本の缶ビール。あとはビタミン補給のためのオレンジとトマトジュースと。
「オレンジ……? あ」 
 確かとアルコールの棚を覗き込めば、記憶は案外と正確だった。いつものスコッチの奥にあるミニボトルに、自然と緩む口元を自覚する。材料があれば仕上げることなど一瞬だ。
「これは?」
 グラスを片手に戻れば、テーブルに突っ伏して和真は拗ねていた。それでもそれを置けば、澄んだ音に視線はあげられる。ガラス器にはそれなりのこだわりがある。今回のグラスはフリュートグラス、その中では淡いオレンジ色が軽く弾けている。
「ミモザ。名前も単純だろう?」
「って、花の名前じゃなかったっけ」
「それに似てるからだとさ。オレンジジュースみたいなもんだから」
 中身はゼクトとオレンジジュースが半々。本来はシャンパンを使うものだが、さほど味の差が気になることでもないだろう。夏だからとすっきり爽やかなゼクト……ドイツのスパークリングワインを買い足していて幸いだった。
「バリエーションもいくつかあるメジャーなカクテルだ。味は?」
「……オレンジのファンタ。薄い感じまで似てる」
「な、るほど。まあゼクトが甘口のだからそうかもな」
 そっと口をつけた相手からのコメントは、あまりにも情緒が欠けていた。たいしたものではないが、一応は思索を巡らしたのだ。淋しさを感じつつ放置していたグラスに手をつければ、氷が溶けきったロックは似たような水っぽさを感じさせる。
「でも飲みやすいや、おいら炭酸好きだし」
「ならまあ、よかったな」
 そういえば昔からジンジャーエールはよく飲んでいた。さほど得意でもないアルコールだ、おいしいと感じられるならそれで十分というものだ。
 安心しながら、こちらも水と二層になってしまったグラスを廻し鳴らす。薄いロックもすこし濃いめの水割りと思えばなんでもない。満足感は味わいを変えるのだ。
「これにもなんか意味あるの?」
「あ?」
 ちいさな自己満足。その不意を突いてに投げられた問いに、いささか間の抜けた声を返してしまった。あわてて見返せばそこにあるのはほんのりと染まった目尻。
「なんでもない」
 すぐさま発言を自ら否定した唇は、そのままグラスへとゆっくり触れさせられる。静かな動作、酔うにも早すぎるその赤さ。停止していた脳がじわりと動き始める。
 質問の意味はわかった。あの日託した、バイオレットの……パルフェタムールのように、言葉にしない意味があるのかどうか。しかしあり合わせでつくった酒にどれほどの意味が持たせられようか。
(シャンパンにオレンジ、ミモザ……、あ?)
 記憶が確かならば。巡らせた考えはふっとひとつの単語に引っかかりを覚えた。そんなものにロマンを託したことはない、だが意味などないと否定する隙もなかったことにかすかな感謝すら湧く。
「二杯めは俺もそいつにするかね……」
「甘いよ?」
「いいんだよ、たまにはな」
 一度封を切ったゼクトもどうせ閉まってはおけない。
 だがいまはまだグラスもいっぱいだ。とりあえず俺は液体のみとなったスコッチへ口をつけた。


 いまこのカクテルを出したのは偶然でしかない。
 それでもミモザの花言葉は……秘めた恋。この恋は、いつまでも消せない想いだから。





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