日常こそ非日常



 患者が次々と退院していき、なぜかしら人の余った午後。
 和真は積もった有給を半日ながら潰させてもらい、勤務先を後にした。
 向かった先は馴染みの友人宅。大学院も卒業を迎える三月となれば、一日中部屋にいるはずだ。
「待ってるんじゃないのか? あのひと」
「あのひともいま追い込み中」
 だから予定より早く帰るとジャマになると思って。
 軽やかなベルの後、迎えてくれた政人は苦笑しつつも家へあげてくれた。
 だがもともと予定になかった急な訪問。最初に近況を話せば会話のネタもすぐに尽きる。
 となれば話せる内容など、もうひとりの近況くらいなもので。
「ふーん」
「なんだよ、政人」
「いや、なんでいきなり俺んトコに来たかと思えばってね」
 クールと称されることの多い顔が意地悪く嗤う。このしたり顔ぶり、徐々に彼の恋人と似てきた気がする。だがそれは、警戒したところで無意味なところまで伝染しているらしい。
「退屈なんだろ、かまってもらえなくて」
 最近仕事が忙しいらしいとぼやけば、その一言ですべてを見抜いたらしい。
 いや、誰でもわかることか。
「……ドキドキって、減るもんなんだってね」
「で、安定を心地よく感じる、βエンドルフィンが分泌されると」
「なんだ、結城さんも見てたんだ」
「あの番組、政人が好きだからね」
 ふっと背後から声がかかろうと焦る必要はない。どうやら政人が似た原因は、めずらしく戻ってきていたらしい。
「まあ、安心感ってのも重要なんだけどね……」
 ふたりの生活を支える上で仕事も大切。籠もりきりで仕事に打ち込む姿は、以前ならそれなりに格好良く感じたかもしれない。
 しかしそれだけじゃどこか物足りない。
「さて、和真クン? そろそろ定時じゃないかな」
 相変わらずの笑顔で告げられ、ふと時計を見れば確かに頃合い。増えた仕事量に応じてたまにしか戻らない彼であれば、ここに居座るのが迷惑だということはわかっている。
(滅多に逢えなきゃ、ドキドキもつづくんかな……)
 不毛なことを考えることをやめられない帰り道だった。
 そうしてたどりついた家。いつもなら料理の真っ最中であるはずの相手は、なぜか姿がなかった。仕事中かと覗いた部屋は真っ暗だ。
「ああ、帰ってたのか」
「……え。しょう?」
 疑問形なのはその姿のせい。声の主は頭からバスタオルをひっかけた状態で、ジーパンのベルトを締めながら現れた。荒っぽく拭うタオルの隙間から覗く顔は、苦笑しながらも爽やかだ。
「さすがにずっと籠もってたら、ウザくってな」
「それで洗濯物になってたんだ」
 とは、シャワー浴びていたと同意義だ。返されるのは苦笑。
「メシ、ちょっと待っててくれ。だいたい作ってあるから」
「慌てなくていいけど。おいらが早かっただけだし」
 基本的に家で仕事をしている翔が、家事一般は担っている。責任感なのか、いまだ上半身は裸のままという姿で、彼は冷蔵庫を覗き込んだ。見るともなく和真の視線はその背中を追いかける。
「……どうかしたのか?」
 皿を取りだして振り返れば、なにが気になったというのか。いきなり男は逆の手を伸ばして、額に触れてきた。意図が読めなければ身動きもできない。触れた手はシャワーのせいか熱い。
「まあ、いいけどな。あ、ドレッシング……、こいつにするか」
 無言で見上げていれば、ふっと掌は離された。そのまま指先はちいさな使い切りパッケージを拾う。ためらいなく立てられたのは、彼の鋭い歯。そのうすいビニルの端がちぎれた瞬間。
「ったく、せっかく風呂はいったってのに……」
 白い中身は、口元にまで飛び散っていた。それをついっと指でぬぐい取ると、彼はためらいなく口へと含む。ちょっとしかめた眉。サラダとならばともかく、単体での味は濃すぎたのだろう。舌打ちがてら伸ばされた舌先に、まだ白くその痕が残っている。
(ワイセツだ……)
 気づいているのかいないのか。改めて見れば、目の前の男は扇情的な色香を漂わせていた。
 たとえその手がざくざくとサラダをかき混ぜていようともだ。昔取った杵柄なのだろうか。
「さてと、食べようぜー」
 一度気になれば、どうしてこうもエロくさいのか。特に品が悪くも変わった食べ方をするわけでもない。せいぜいがスピード。かなり空腹なのか、咀嚼して飲み込むいきおいは壮絶だ。
「どうした? 口に合わないかったか?」
「そ、そんなことないよ。おいしい、特にこれ」
 呆然と眺めてしまえば、細められた瞳がまっすぐ見返してくる。その瞬間に弾んだ心。食卓にあるまじき感情を覚えてはぐらかす。   
「だったら、俺にも」
 だがそうしてくっと吊り上げられた口元にますます目は惹かれて。
「……食べさせてくれよ、なあ」
 誘われるまま箸を差し出せば、うすく開かれる唇。覗く白い歯と、対照的に鮮やかな舌先だ。含んだものを咀嚼しつつ、唇を舐める。その間も逸らすことなく、その瞳はこちらだけをみつめている。
「も、もっと食べる?」
「ああ、そうだな――」


「……なんだったんだ、いったい」
 汗も引かない状況で男は秘やかに呟いていた。
 夕食もそこそこに一頻りベッドでもつれあえば、既に相手は寝入っている。
「いつもあんな目で見られたんじゃ、たまったもんじゃねぇな」
 帰ってきてすぐ向けられた視線。こちらをみつけた瞬間に潤んだ瞳は、普段の仕事着とはちがう服装のせいだったかもしれない。
 だが、それでもドクンと心臓が鳴らされたのは、事実。
「ま、積極的なのもウレシイもんだね。たまには俺もこいつのためにだけキメてみるか?」
 くすくすと練る計画は妙に気恥ずかしくもある。
 だがいまはただゆっくり眠ろう。ただ抱き合って眠る時間も幸せだから。




2008-5-11 インテックス大阪
ペーパー用テキストでした




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