真夏の……


 それは、朝食のカフェオレを飲み干した瞬間のことだった。

「でかけないか?」
「どこへ」
 返らない答え。けれど上着とキーを片手にした彼を目の前にしては、ソファに座っている気にもなれない。とりあえず立ち上がれば、相手は無言のまま玄関へと向かっていった。
「ちょっと待ってよ!」
 問いかけは確定だったようだ。ガチャンと重い扉の開く音がする。
 とりあえず、いつもの鞄とジャケットだけあればどうにかなるだろう。瞬時の判断でそのふたつをひっつかむと、振り返らない広い背中を追いかけた。
 カップはテーブルに置き去りにされていた。

 助手席に乗り込むやいなや発進した車は、一直線に近場のインターへ向かうとただひたすら高速を流しつづけた。
 まだどこへ行くのかは、知らされていない。
 目的のみえないドライブも、だがさほど嫌いではない。鳴らされるカーステレオはいつものロック。天高くから車内を照らす太陽も鮮やかに、ひらけた前方へとただまっすぐに進んでいく。
 横を窺えば、普段のメガネをサングラスへと置き換えた彼。オートマチックなのに片手で握るハンドルは、音楽にあわせ小刻みに揺らされている。骨っぽい指先が時おりリズムを弾く。どうやら機嫌はよいらしい。
「どこに行くわけ?」
「さあな。どうしようか」
 はぐらかす気にしても、呆れた意見だった。
 それなりの速度で流れている高速道路、すでにかなりの距離を走ってきているはず。
「冗談でしょ?」
 ため息まじりの問いに返されるのは、鼻歌だけだ。これは隠し事にせよ、そうじゃないにせよ、これ以上なにも出てくることはないだろう。
(しょうがない……)
 諦めて、シートへ完全に身を委ねた。角度のせいで直射日光が飛び込んできた。だが目を閉じる間もなく、遮るようにサンバイザーがおろされる。
 伸ばされた手は、もちろん自分の腕ではない。ついでのようにあげられるボリュームは、なんの意図か。だがその答えを導くより、睡魔の訪れは格段に早かった。
 それからどれほど眠ったのか。
「……ああ、起きたのか」
 角度の変わった陽射しを受けながら、彼はいまだハンドルを小刻みに揺らしていた。視界に入った看板はグリーン。どうやらまだ車は高速上にあるらしい。
「どこ?」
「そろそろ下りる」
 あくまでもマイペースな彼は、ウインカーを出して速度を徐々に緩めていくのだった。

 そうして連れてこられたのは、なぜか海岸だった。
「夏だしな」
 白と青のツートンカラーは、弾ける陽射しに確かに夏らしさを演出している。だが人の気配はほとんどない。打ち寄せる波の音は、どこまでも心地よく響くばかりだ。
「遊泳禁止なんかな、ここ」
「つか、もうお盆すぎたしね」
 乾いた砂を蹴りつつ首を傾げる姿に、思わず苦笑が浮かぶ。
 いまさらこの場所でどうしろというのだろう。燦然と輝いていた太陽は、ゆっくりとだが高度をさげかけている。あげくクラゲが怖ければ、誰も泳ぐ気にはならないはずだ。
 とはいえ、彼に海水浴という発想がないのは知っている。
 日焼けできないというほうがよい体質の彼は、出来る限り長袖を身にまとう。いまも着ているのは、グレーストライプのUVカットシャツ。だがそんな衣類では隠しきれない身体つきは、さぞや水着姿で魅力を発揮するだろう。
 もったいないとも思う。その身体を誰にもみせたくないとも思う。
「どうした?」
 背反する想いに、ぼんやり囚われてしまっていたらしい。気づけばその対象は、間近でこちらを覗き込んでいる。
 馴染めどもなお慣れないのは、この顔自体がよほど好きなのだろう。ひそめられた眉にすらふと感じれば、恥ずかしさに一歩身を退くしかできない。
「おい」
「えっ? あ、ああ。海だなぁと思って」
「ちょっと待て」
 赤くなっているだろう顔を隠すように重ねられた呼びかけをはぐらかせば、怪訝な表情はなおさら深まった。
「足くらいつけよっかな!」
 焦る感情そのままに駆け出せば、逃げた理由の見当がついたのだろうか。呆れたそぶりをみせつつもやさしい瞳は見守ってきていた。
 そう、やさしいのだ。睨めばどこまでも鋭くなるまなざしは、いまとても暖かい。そんな姿を遠巻きに窺えば、ますます目線を外すことなどできない。思わず立ち止まり振り返ってしまえば、もはや完全に囚われた。
 ただ立っているだけの彼。だが風にシャツがなびくせいで、なおさらに身体の線があらわになる。首から肩、腕、そして厚い胸元から腰。そこから連なるパンツへのラインも、同じく均整が取れすぎている。そんな足が、ゆっくりと砂を踏み進む。動き出せば、なおさらに鍛え上げた肉体が浮かび上がる。
 むかしと変わらぬ体躯は、常に野性的な魅力を漂わせる。だがどの印象よりも知的さが勝るのは、黒すぎない肌のせいかもしれない。
「ほら。すこしくらい水に濡れたって、怒りゃしないから」
 ぽんっと頭に手が乗せられる。身動きできないうちに、すっと隣に並ばれていた。見下ろす笑顔は柔らかい。
「着替えはないから、転ぶなよ」
 無人にちかい海岸は、陽射しさえ和らげば快適な空間でもある。すこしくらいは待ってくれるということだろう。
 ならばせっかく連れ出された海だ。誘いかける波に戯れてみよう。
 軽く押し出すような促しに靴を脱ぎ捨てかければ、だが向かいから近づく影。ちいさなそれは、どうやらふたつある。くっついたり、離れたり。どうやらカップルらしいそのふたりは、人気のなさを幸いにくりかえしキスをしながら歩いてきていた。
 さすがにこの年で水とふざけているのを見られたくはない。そのまま素通りするのを待てば、だが彼らはむしろ速度を落としてくる。もはやキスは、その領域を越えかけていた。
 一応、他人の存在は認識しているらしい。ちらちらと窺いながら、それでもまさぐる手を止めるそぶりはない。男は誇らしげに、そして女性もまた意外なほど大胆に。
 見せつけるつもりか。それとも淋しい二人組とでも思ったこちらをからかうつもりか。
「なあ、キスしようぜ?」
「え?」
 どうやらイラついていたのは、彼も同じだったらしい。波にかぶせてささやかれた声は、ひどく低い。
 普段ならば決して思いつかないだろう、くだらない遊びだ。だが、しょせんは旅先。かつ目の前にはバカなカップルしかいない。服の中に手を入れかけた露出狂に、遠慮する必要など無用のはずだ。
「……いいかも」
 見せつけてやるのも、おもしろいかもしれない。
「な?」
「うん」
 どれほど驚いてくれることだろうか。タチ悪げにうなずけば、それ以上にニヤリと笑った顔が返される。こんなとき、どうにもぞくっと寒気が走っていく。
 けれど真剣なまなざしだけが、その表情を裏切っている。きっとそれはこちらも同じなのだろう。閉じられない目のまま、ドキドキと高鳴る胸を押さえながら、そっと身を寄せる。
 物まねでバカの仲間入りをするのは明白。だがこの状況じゃなくとも、彼の誘いは魅力的だった。
「……ん、っ!」
 たかがキス、されどキス。
 薄手のシャツの上からまさぐるのは、あくまでもそのオプションらしかった。
 ピークは過ぎたといえ、まだ暑さの残る季節。重なる体温は、互いの衣類を通してとはいえ決して薄れることはない。むしろじわじわと伝わる感覚は、鋭敏さを呼び起こすだけだ。
 抱きしめられれば、なおのことリアルに感じるあの筋肉の張り。思わず指を立てれば、心地よい抵抗が跳ねかえる。足りないのは、素肌の感触だけ。
 欲しい、欲しい。望むままにむさぼれば、いくらでも快楽が与えられる。吸いたいように、舐めたいように。舌も唇も味わいつくせば、周囲はすべて世界から消えた。
 そしてその瞬間、身体は崩れ落ちた。だが唇が離れても、砕けた腰は当分立ちそうもない。すがるようにつながった唾液だけが、妙にみだらに映った。
「醜態のひとつやふたつ、晒せないわけじゃないけどな」
 呟きが、奇妙に熱く耳を打った直後。突然、自分をかかえあげると、彼は一目散に駆けだしていた。
 思いがけない鮮やかな転身。長い脚は砂地をものともせずに蹴りつけていく。振動が、抱き上げられた身体にも激しく伝わる。そんな異様な体勢でおたがい顔を見合わせて、次にしたことは爆笑だった。
「あ」
「なんだ?」
 車までは大した距離でない。そのままシートへとおろされれば、だがふと気づいたことがあった。
「見そびれたね」
 相手が運転席に回るのを待ってから答えれば、カップルの絶句しただろう顔を拝み損ねたことに、ようやく彼も気がついたらしい。けれど気にせずエンジンを吹かしはじめる。浜辺から滑るように車は離れだした。もう夕陽にほどちかいのだろうか。キラキラと輝かされる水面は、リアウインドウに流れていく。
「どうでもいいさ」
「……うん、そうだね」
 肯定は、わずかに遅れる。カップルなどどうでもいい。だが海に足を浸けそびれたことだけは、どうにも惜しかった。

「高速ってのは便利だな」
 たどっている道のりは、どうやら来たときとと同じものらしかった。
 このまま家まで帰るつもりなのだろう。当たり前のことを思いつつ、だが往きとは違う落ち着かない感覚を助手席で味わっていた。
 明日も仕事。帰途を焦る気持ちも分かる。だがインターにも着かないこの海岸沿いから、あの部屋まではあまりに遠い。だからそのくらいならば、いますぐ。
(この熱を冷ましたい……)
 狭い車のなかでかまわない。一度つけられた火種は、いったん消えたように思えてもたやすくはなくならなかった。ふたりきりの密室にこれから数時間、どこで爆発してしまうことだろうか。
 醜態がさらせないわけじゃないと言ってくれた彼だ。救いを求めるように隣を見つめれば、まっすぐフロントだけに注がれている視線がある。引き締められた口元に、先刻の余韻はない。
 だがそれは、インターを目前にしてひょいとゆがめられた。
「ああ、あったな」
「え?」
 正面だけを見つめていた視線が、左右に揺れる。つられるように窓を見れば、インターにはつきもののような建物がけばけばしさもあらわに林立していた。
「まったく高速ってのは便利だよな」
 一瞬だけ向けられた顔は、わずかにからかいを乗せた微笑み。それはすぐに正面へと戻され、アクセルが踏み込まれた。料金所を目の前に、ウインカーは素早く出されている。
「このまま帰るわけにもいかないよな」
 答える間もなく切られていくハンドルは、意外なほどに乱暴だった。
 熱いのは、自分だけじゃない。横顔にある瞳に安堵しているうちに、車は停まっていた。



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