「……だから、踊らないかって言ったんだが」
 耳慣れないセリフは、思わず聞き返したところで変わることはなかった。

「踊るってね、あんた出来るの?」
「音に合わせて身体を動かすだけだろ」
「……それは踊ると言わない」
 大音量でラテンミュージックの流れるここは、確かにダンスフロアすらあるバー。
 だが踊り慣れた人間以外はその床を踏んではいない。 
 そもそも恥をあえて晒す気など誰にあるというのか。陽気なラテン気質は持ち合わせにない。
「教えてやるから。ちょうどいい、サルサだ」
「ちょっと待てって! おい」
 だが常識など彼には通用しない。言うことを聞かないのもいつものことだ。
 それでも普段より強引なのは、強かに酔っぱらっているからだろうか。
 グラスを放り出した手で掴まれた腕は、ほんの少し痛みを訴えた。
「だいたいあんた飲み過ぎだってーの! 吐くぞっ」
「この程度で? ビールなんぞ水と一緒だって」
「それ以外にどんだけ飲んだんだよ!」
 ぐんぐんと進む相手からは陽気すぎる笑いが返されるばかりだ。
 あっという間に連れ出されたフロアでまで悪目立ちはしたくない。
 おとなしくしていれば、即座に向かい合わせに立たされて手を取られた。
「俺の右足が前に出たら、左足を下げて。足を戻したら、今度はおまえが前に……、そう」
 基本の動きは単純。手を取られる形で、互いに前後の動きを繰り返す。
 耳慣れたリズムはすぐに身体に馴染む。誘われるままにサイドステップも踏めば、なお面白さは増した。
「うまい、うまい。んじゃ、このまま回ってみようか」
 互いの位置を入れ替えるように誘導される。そのついでにターン。
 楽しい、かもしれない。目の前にある愉しげな顔つきもその感覚を増長させた。
 だが悪態は忘れない。
「あんた、踊れるんじゃん!」
「だから身体を音に乗せるだけだろ……」
 難しい動きは確かにしていない。目の前の男は、編曲家としてこの手の音楽にも慣れている。
 だが見よう見まね以上の動きを示す身体は、手を離した瞬間に本領を発揮させる。
 酒にも音にも溺れたい。そんな彼なら踊ることも音楽に溶け込むだけのことなのか。
 仕事柄、外出も少なければ髪も伸ばしっぱなしになっている。
 その髪を乱しながら揺れる動きは、薄暗い中で時折当てられるスポットで軽やかに縁取られる。
「つづけるぞ、ほら」
「あ、……うん」
 再び伸ばされた手は、力強くこちらの手を取り上げる。
 さきほどより密着した身体がリードするのは、普通ならば女性が受け持つだろう動き。 
 だが夜も更けてあちこちにもアルコールが満ちていれば、誰も男同士ということなど気に留めない。
 パートナーをチェンジせず、高まるテンションのまま数曲を踊りつづける。 
 息がつづかない。そんなとき、スローな曲調がフロアを流れ出した。
 バチャータだ。
 悲哀に満ちた音楽は自分たちが踊るには似つかわしくない。
 見上げれば、抱き寄せた体勢そのままに唇を奪われた。
「ったく、帰るよ」
 上がった息はあくまでも慣れないダンスのせいだ。
 濡れた瞳は隠しようもないだろうが、せめて口調だけでも強く言い放つ。
「そうだな。どうせ踊るなら、俺もおまえの上がいい」
「あ、あんたね……っ!」
「どうした?」
 憚られなさすぎる人目に、三十は過ぎたというのに息ひとつ切らせない体力。
 音だろうが酒だろうが、これ以上酔わせたらろくな目に遭いそうにない。
「……俺もそのほうが得意だよ」
 反発したところで無駄だろう。ことりと胸元へ頭を寄せかける。
 深すぎた酒は汗と酔いに変容する。そして近すぎる体温。漂う匂いは夜の持ち物だ。
 既に俺は、この相手自身に酔いしれていた。 



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