AMBER 〜 work scenery 〜
ゴールデンウィークも過ぎれば、さすがに誰もが部室にいることにも慣れる。甲高い嬌声に耳を塞ぐことにも長けただろう。
しかしその鼓膜をも突き破る、今日の騒ぎはなんだろうか。
いつもとな異なる喧噪に満ちた部室を、講義明けにやってきた哮は入り口からそっと覗き込んだ。キャイキャイと騒がしい女性陣という、いつもの部室風景のなか、ひどくおおきな背中がある。誰だろうか。彼より身長のある部員は、男子とてそうはいない。
けれどここに立っていても仕方がない。彼はあっさりと中へと入ると、まだ慣れない扉を閉めた。相も変わらぬ建てつけの悪さは、今日もまた新入部員を悩ませる。
「……コウ?」
ガタンと立てた激しい音に顔をしかめれば、思いがけない名で呼ばれる。振り返って見やれば、さきほどの背中が向きを変えている。そこにあるのは、だが意外にも見知った顔であった。
「翔にぃ、なんでここに?」」
「俺は仕事だ。そういうおまえこそ」
「あんたが言ったんじゃないか。すこしは文章表現覚えろって」
仕事という単語に疑問を感じながらも、年上にはつい応じてしまう。それがこの哮の特徴だ。
相手は囲い込んでいた部員をかるくさばき、つかつかと大股に近づいてくる。間近までくれば、やはり格段に背の高さは実感させられた。
「そうだったな」
「おかげで本当にあんたの後輩になっちゃったよ」
憮然とした答えは、どうやら気にいられてしまったようだ。陽気な雰囲気に、なおさら愉しげな笑みが乗せられる。どこまでも余裕に満ちた振る舞いは、きっと年の差が成すものだろう。わかっていても、なにか悔しい。
決して嫌いな相手ではないが、何となく苦手意識が抜けないのはこのせいかもしれない。
「あ……!」
どうにも苦々しく見つめていれば、その肩越しにふと部長が現れた。来たばかりなのだろうが、ひきつった顔をめずらしくもみせている。
「ウチの新人さんに、手ぇ出さないでくれる? これ以上」
「出してねぇよ」
背後からかけられたはずの声に、あっさりと彼はことばを返す。やはり昔なじみなのだろう。そのまま振り返れば、かるく片手をあげる程度に挨拶はおわる。
しかし気になるのは、その点ではない。
「……これ以上?」
「気にしなくていいわ。こいつと話してると、病気がうつるから」
部長により、あっさりと疑問ははねのけられた。こうなったら彼にとって年上は厄介な存在だ。気になれども決して追及はできない。イライラしながらもう一方の相手を見上げる顔は、それでも無表情にほどちかいのだろう。
「らしいぞ、新人クン」
そんな哮の感情を気づかぬわけもない男は、しかし飄々としたものだ。突如として呼び方を改めたところからするに、彼は自分たちの関係を隠す気らしい。部長に知られたくない理由があるのだろうか。
だがその表情からして、決して後ろ暗いところがあるわけではなさそうだ。むしろただ愉しげな遊びを思いついたかのようだ。
「仲、よさそうですね」
「気になる?」
顔は部長をみていたはずだ。けれど返されたのは、なぜかその隣からだった。
「あんたには、聞いて……」
「ちょっかい出すなって言ってるでしょ!」
自分で文句を言う隙はなかった。すかさず挟まれたのは、普段からは想像しがたい部長の鋭い叱責だ。唖然とみつめれば、矛先はこちらへと向き直った。
「あなたも、気にしないの! ネタになりたくないでしょ?」
「ネタ……?」
「そう、ネタよ、ネタっ」
語調はきつい、だがその単語の示すところがわからなければ、攻撃も鈍るというものだ。怪訝な表情で応じれば、深まったのは苛立ちより呆れだったらしい。がっくりと肩を落とした彼女の様子に、けれど不満があるのは哮のほうであろう。
そしてこの状況を明らかに認識しているだろうもうひとりの男は、説明をするでもなくただ吹き出しそうな笑いをこらえていた。確かに一瞬取ったはずのホールドアップ体勢は、既に解除だ。
「そのほうが早く原稿あがってくんじゃねぇの?」
こんなふうにさ。すっと背後へと回り込んできた彼は、ふわりと肩へと腕を絡めてくる。どうという感慨もないが、周囲はわずかにざわめいた。なにより部長の険しい顔つきに、一応は相手の腕を振り払う。
あっさり解放してきた彼をそのままじとっと睨めつければ、なぜかちいさく笑みかけられる。黒みの薄い瞳は、どうにも意図が読みがたい。
「あいつもいないし。編集、今年はこいつに頼むことにするからな」
頼みの綱になる発言すらも、理解できない。唐突なのは特徴だろうが、どうにかしてほしい。
切実に悩めば、やはり同じ意見を持ったのだろう。
「ちょっと、そんなこと勝手に!」
「一年だろ? これから当分、こいつに任せりゃいいじゃんか」
掌を机に打ちつけながら叫ばれた声は、だがさらりと流されそうだ。それ以上の反発はどうやら起きそうもない。
通常、卒業年には引退するらしいサークル活動だ。部長もなにか思うことがあったのだろう。考え込むように黙り込んだそんな彼女を置き去りに、彼はその身体を扉の向こうにやっていた。
「な?」
もはや打ち合わせも不要ということなのか。唯一残したコメントはそんな短いものだけで、彼はそのまま部屋をでていった。肩越しに振り返りつつのまなざしは、その薄い色のせいか不安をあおるだけのものであった。
「あいつったら、相変わらず勝手なんだからっ」
扉が閉まるやいなや、部長は机をまた叩いていた。その瞬間、ズキンと胸が痛んだのはなぜだろうか。
どうにも胸が苦しかったことに、ようやく哮は気がついた。あの彼から放たれるプレッシャーは、それほどに大きかったのか。だが普段ならば感じたことのない苦しさだ。
不快な感覚をごまかすためには、意識を逸らせばいい。
「ああ、もう。あんたにいろいろ教えなきゃいけないじゃないのー」
しかし敢えてなにかを考えるより先に、強制的にそれは変えさせられた。
頭を抱え込むほど面倒なことなのか。文字どおりの行動を取る姿は、なかなかみられるものではなさそうだった。しかしいま重要なのは、この点とはきっと異なる。
「ところで、編集ってのはなんの話です?」
「部誌よ、部誌っ」
高められたテンションは、なかなかに下がらないものらしい。数週間のことしか知らないが、これほどまでに感情をあらわにするとはタイプとは想像もできなかった。
それとも彼が特別なのか。考えれば、どうにも苦しさは増すばかりだ。
「これからしばらくは、原稿書かなくていいからね」
ビッと一本指をつきつける姿に退いたのは、指名された後輩ではない。彼はひとり、違和感を感じる胸を押さえて、静かに立ちつくしていた。
それから半月に満たない期間、彼女はつきっきりで編集の基礎をたたき込んでくれていた。
誰もいない部室で、ふたりは今日もまた一機のPCを真剣に見つめている。そこで起動しているのは、文芸らしからぬ画像加工ソフトだった。
写真を挿し絵がわりに使用するのは、もう既に伝統のようなものになっている部誌だ。作品を書き上げ、だいたいのページを合わせたいま、そのためのスキャンデータの確認が彼らにできる最後の準備ともいえる。
『状況と台割りだけ報告してくれりゃいい』
プレッシャーを与えるあの相手は、そんな連絡を電話でよこしたきり、一度たりとも顔をだすことはなかった。
「あんたって、パソコン得意だったっけ?」
カチカチとクリック音が繰り返されるなか、怪訝な声音は不釣り合いに響いた。椅子に座る相手の背後に立ってのそれは、口調はともかく女性らしい高さを持っている。
「別に」
「そうよね……」
モニタを見つめたままのやり取りは、すぐに終わった。だが作業を淡々とこなしていく相手の様子は、だがあまりにも慣れたそれで。やはり疑問はすぐよみがえるのだ。
けれど実状は彼女も知るところである。彼には編集ということ自体をまず説明することからはじまった。ソフトの基礎知識すらない。それをここまでのレベルにしたのは、紛れもなく彼女の指導が的確だったからだ。
「まあ、いいことよね」
至極当たり前なことをどこか首をひねりつつ告げる姿は、残念ながらマウスを握る男には見えない。彼はそのまま、どれを使うと決めているわけではない大量の写真を、ひとつずつ丁寧に処理していくのだった。
そうこうするうちに、日が傾きかけたのだろう。差し込む日射しは画面を徐々に見がたくしていた。目を細めるにも限界がある。そう感じた瞬間、モニタは一気にグレーになった。
「あ、翔に……」
戸口に呼びかけた瞬間、鋭い視線が飛んできた。それはつい名前で呼びかけてしまったからだろうか。それとも単に切羽詰まっているのかもしれない。
話を聞くに、彼が作業に来るときはタイムリミット直前。だいたいの準備完了報告とともに呼び出され、それがいつになれども期限までにつくりあげる義務を負っているのだから、そのプレッシャーが大きいことは予想に難くない。
扉が閉められたことで、画面はうっすら色を取り戻す。わずかにその角度を変え正しい色調を得れば、体勢は整ったのだろう。ガタガタと椅子を引き寄せ、彼はメインモニタの前へと座り込んだ。
「俺、なにすりゃいいの?」
「みてりゃいい」
それまで無言を保っていた彼の声は、明快に突き放している。むろんこの態度が許されるはずもない。
「なによ、あんたっ!」
「……とにかく、邪魔だけはするな」
対等、もしくは今回の雇用者は、だがあっさり払いのけられた。ギッとメガネ越しに流された瞳は、睨みつけるまでもなくふたりの口を塞がせる。そんな様子を気にすることもなく、彼はいきおいよくHDを検索しはじめた。
「なんだよ、写真は取り込み済なわけか」
一気に状況を分析して、結果を頭に流し込んでいく。
「じゃあ色調を整えて、貼りつけて、あとはそうだな」
そしてばさっと前髪をかきあげた彼は、ふっと笑いその顔のメガネをかけ直した。
伊達に場数を踏んでいたわけでもない。草稿をもらっていれば、挿す画像の選択はさほど悩むものではなかった。写真自体の出来を評価するのも、あの友人を持っていればこその技だ。
「さて。まあ、こんなものかね……」
抜き出された画像と、あとはそれをはめるページ。その両方を開き、彼は一度だけ今年の編集役に視線を流した。
「まずは空白にあわせて、サイズ変更だな」
すぐに画面に向き戻れば、作業は昨年同様にはじめられた。流れるように動いてはとまり、また動き出すマウスとキーボードさばきは、やはり先刻までの動作がいかにつたないものであったかを認識させる。力量の違いを見せつけながら、画面に次々と加工済みのデータを積み上げていく。
「だいたい余白に対して30〜40%になってるな」
黙り込むふたりの前で流し見られた写真は、きっと言葉のとおりになっているのだろう。保存形式を変更したそれらを確認するには、だがあまりに速度に問題があった。けれど追い立て続ける時間は、口を挟む隙を与えない。
「文章への貼りつけは、このソフトをつかって」
唯一正しくそれらを認識しただろう彼は、何事もなかったように次へと進む。
その肩越しにモニタを見ていた部長は、ようやく自らの感じていた違和感に気づいた。しばらく思索に耽れば、結論は意外にたやすく導かれる。
「文章の下端に揃えて、配置。偶数ページは、あまり外側にしない」
どうやら原因は、この男の独り言だった。
何年も彼の編集作業は見守ってきたが、今まで誰にもこういう態度には出ていなかったと思う。そもそもこの作業時の助っ人に素人同然の相手を選んだことなどあっただろうか。けれど説明というには、その手つきも口調もあまりに早すぎる。
状況が進むにつれて、疑問もふくらむ。差し迫る時間だけが、それでも質問することを阻んでいた。
PCと一体化したような動きは、その目の前で鮮やかに続けられていた。
「楽勝だったな」
あとはCPU任せとなった瞬間、請負人は勝利宣言をした。
エンターキーから離れた手は、一本のペンをそのままつかむ。さらさらと記憶のままに走らせたのは、発注書に向けての基本情報だった。ついでのように封筒にも慣れた住所を記していく。
「速達なんだね」
「ああ」
託されたのは、当然ながら今回の編集委員だ。もしものためにと待機していたが、最後まで指示はなにもでないままにCD-Rは焼き上がっていた。
仕事らしき内容は、これを無事に郵便局へ運ぶこと。
その唯一にちかい使命を果たすべく彼の出ていった扉の向こうは、意外にもまだ赤みのない空が広がっていた。
「今年は、安くていいぞ」
気兼ねのいらないはずの後輩とはいえ、他人がいるということは多少ちがうのだろう。ニッと笑いかけてくる男に、部長もまたほっと安堵の吐息をついた。作業中ずっと立ちつくしていたことすら気づかなかった。よほど緊張していたのだろうと疲れた脚に休息を求めれば、椅子はそっと勧められた。
「ずいぶん準備していてくれたもんだな」
「まあね。彼、頑張ってくれたから」
「なんか不満がありそうだな」
腰かけながら返せば、ほくそ笑んだような表情がそこにはある。
「飲み込みがいいのは、嬉しいんだけどね」
「けど?」
「……ううん。なんでもないわ」
引きずられて開きかけた口は、そっと噤まれた。予想どおりに返すのが癪に障るということもある。
だが、出来すぎて後輩らしくない。そんな不満は、さすがの彼女にとっても憚るべきと判断されたのだろう。
「いいだろ? 俺の相棒にぴったりじゃん」
元々しつこく追及する男ではない。かぶりを振った相手に、彼は少しだけ矛先をずらした話題を振る。
「相棒ねえ……」
「原稿、進まないか?」
意図を明白にさせようというのか。にんまりとした顔つきは、モニタを見つめる姿からは想像できない嫌みさだ。
「なんかあんたたちって、そういう気にならないのよ」
「あ、そう」
「似てるのかしら……」
拍子抜けしたコメントは、無意識に重ねられたらしい呟きへと消えていった。
確かに他人にしては似すぎているふたりだ。身長やクールな態度などの織りなす雰囲気のせいだと思っていたが、それだけなのだろうか。けれど決め手はどこにもない。
「俺の相手、決めてかかってるからじゃねぇ?」
そっとうそぶいて、煙に巻くのはお手の物なのだろう。笑いで逸らした視線は、窓の向こうに注がれる。ゆるやかに赤みを帯びた光は、その陰影をより複雑に彩っていた。
そうしてしばらくの解放を各々で感じ取るうちに、時間は過ぎていたらしい。
ガタガタと扉の奏でる騒音で先に立ち上がったのは、男のほうだった。
「まだ開けられないのかよ」
からかいで扉を開けば、行きも帰りも全力疾走だったのだろう。肩を上下させつつ、大役を担った新入生はそこに立っていた。切れた息は、しかしそれでも表情に変化を与えない。室内に向け走らされた目は、即座に部長を捉えていた。
「おい、哮」
「え? ああ、なに」
呼びかけに、ともかく部屋へと脚を踏み入れた。出ていったときと何も変わらない状況に、当然と感じながらも、一歩ずつ落ち着いていく感覚を感じる。けれど不思議に思うだけの時間はなかった。
「わかったな? もうできるだろ」
「だいたい。記憶したと思う」
「よし」
短い言葉で示す相手の視線は、PCに向けられていた。ならば問われた内容はひとつのはずだ。見当づけた内容への答えは一応曖昧に濁したが、今にでもこの通りにならできるだろう。その程度の自信はある。
「もう1、2回やれば、ひとりでできるな?」
「たぶん」
「……うそっ」
重ねての問いにしぶしぶうなずけば、それまで黙っていた部長の口から否定が飛び出した。だがそれは字面だけのものだ。その驚愕と羨望にも似たまなざしは、なんともいえず心地のよいものだった。
応用を利かせられるかどうかは、実のところはなはだしく疑問である。だがきっと言わぬが花だ。
「まったく、本当に頼りになりすぎるぜ」
たった一言の返事は、彼にも満足のいくものだったのだろう。背もたれを越えるように反り返った相手は、ずれたメガネをそのまま外してしまった。
くすくすと笑う姿に疲労の色は濃い。光に弱いという目は、既にモニタの輝度に負けたのか、充血しきっていた。だが色素がほのかに薄い瞳は、睨まなければやさしさを伝えてくる。
「来年からは、稼ぎになりそうもないなぁ」
「あんたたちって……。なんだか、よくわからないわ」
「それでけっこう」
冷たい答えが、誰のものであるかなど明白だ。唇を尖らせて向き直った彼女に頷きで応じれば、その同意に満足したのだろう。彼はニヤリといつもの表情を見せてきた。
だが夕陽に満たされた室内でそそがれる視線は、素となってなおさらにその色合いを変えている。
白黒つかない、けれど灰色よりもよほどあたたかなアンバーカラー。
(もう苦手じゃないかもしれない……)
ひとつのことをともに成し得た達成感か。そんな感慨に思わず微笑みを浮かべれば、部長はなおさら眉をひそめている。その不審そうな顔つきに、同窓生は満足したのだろう。
「じゃあ、俺は帰るからな」
特に後ろ髪を引かれることもなく、彼は扉を抜けていく。
そのおおきな背を見送ることで、哮にとって初の入稿は終わりを告げたのだった。
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