RED 〜 sympathy "L" 〜
夏の終わり。去年、あれほどに疎ましかった季節は、今年ただ静かにある。
そんな昼下がり、ひとり筆をとっていた男はちいさな物音に視線をあげた。キィっと遠慮深げに開かれた扉の先には、ずいぶんと背の高い人物が立っている。
「あ、翔にぃ。めずらしいね」
「ここは静かだな」
ふらりと現れた彼は、どうやら直接このアトリエにやってきたようだった。
家人への挨拶すら避けるというのは、静けさを求めているのだろう。ならば話しかけるのも控えたほうが良いかもしれない。
「相変わらず、ワケわかんねぇ絵だな」
失礼なつぶやきは、けれどどこか優しい響き。
適当に絵を眺めはじめたらしい従兄の心境を推しはかり、二歳年下の渉はもとのキャンバスへと向かいなおした。
それからどのくらい経ったころだろう。
「赤……」
「え? ああ」
彼は一枚の絵の前に立っていた。それは半年前、高校卒業のときに描いていた抽象画だ。境界線で塗りわけた画面はどこも色とりどりに鮮やかで、だがそこに赤色はほんのわずかしか使われていない。
いったい何がそれほど目を惹いたというのか。
「血、だな。それも流れたての」
こちらを向くことない彼の指は、その軌跡をたどるように動いていく。
斜めにただ一本。すべての境界を叩き斬る。
それが赤の ―― 。
「引き裂いたのは、おまえ自身なんだろうな」
広い背中が、やけに遠く感じられる。淡々としたことばは、だが真実を射抜いていた。
「この絵って、タイトルあるのか?」
「うん。『L』って ―― 」
「ライブ、か」
どこまでこの相手は、深くこちらの心情へ入り込んでくるのか。
重ねるように告げられた単語に、渉は息を飲まされた。
だが相手は振り返ることすらなく、キャンバスにだけその目を向けている。いや、離すことができないだけか。そのまま互いは動きをとめた。
「あいつがナイフを差し出したなら、俺だって自分を切り刻めるのに」
沈黙があまりに痛くなったころ、ようやく与えられた反応。
ちいさくちいさく、あまりにかすかだったその声は、だがすべてを一瞬にして渉に認識させた。
赤を血液。生命の色と見立てるのは、紛れもなく同じ感性だ。
そして他者からの刃で自らを切りつけたい衝動もまた、決して記憶に遠くない。むしろとても身近なものだ。
「苦しそうだね」
共感が呟かせたことばに、目の前の背中がびくんと弾ける。だがそれだけだ。赤いラインへ再び這わせられた指先は、ゆっくりと動きかけて、静かにとまった。
「……いいや」
静かに振られた頭が、否定を強調してくる。
「いまはただ、好きという想いだけがある」
「翔にぃ……」
一言ずつを大事に紡ごうとすれば、発言自体は短くなる。訊く者の心を波立たせるそんな行為は、むろん相手の本意ではなかっただろう。年下の従弟にまで、悩みを伝播させてどうなるのか。
だがことばを選ぶことで、男はいま自らの心を整理していた。
(きっかけは、なんでもよかったんだろう)
好奇心、反感。そしてみつけてしまった安心と焦燥。認めてしまえば、当てはめる単語はひとつしかなかった。
「ただ好きなんだ」
けれどそれは受け入れてはならない、自分には許されない感情だ。相手が大切ならばなおさらに認められない。
だから相手を厭う仮面をかぶりとおす。この手から逃がしてみせよう。
そうして流す血は想いの証。この痛みすらもきっと。
画面に当てたままの指は、奇妙な痺れを訴えていた。だが乾ききった絵の具は、指先に何の痕も残さない。一瞬だけその指を見つめたらしい彼は、ようやく背後を振り返った。その表情は、思った以上にさばけている。
それは覚悟ゆえのものか。それとも、ただのあきらめか。夕陽に浮かぶ透徹した姿は、少なくとも彼の決意を示している。
「……突き放すだけが、手段じゃないよ」
相手の選び取っただろう道は、渉が過去に歩んだものだった。
だがいまならばわかる。自らを傷つけていく証立ては、相手にも負担という犠牲を強いてしまう。それは望むところだろうか。
「俺にはむずかしかったけど、翔にぃならさ」
大切さゆえに選択肢は少ない。
だが血は傷を示すためにあるのではない。生きているからこそ流れるもの。
「きっと抱えたままで、飛べるから」
相手の傷も、自身の傷も。すべてを包み込んでどこまでも行ける。自分とは違い、選ばれることを待つことなく、ただその力で。
Lから一番に想像したものが、ライブ ―― 「生きている」ということばであるのだから。
「だと、いいんだがな」
まっすぐに見つめれば、ゆっくりと浮かべられる苦笑。だがその表情はどうにも儚い。あまりにも顕著な疲労が、いっそう拍車をかけている。
「でもさ」
「ん?」
「身体の調子が悪いなら、それは病院に行かないとね」
心の不調が身体に影響するように、身体の問題もまた精神にダメージを与える。どちらが先かはわからなくとも、治せるところから変えてほしい。
そんな意図は通じたのだろうか。
「……看護人なら、余ってるな」
しばらくのちに示されたのは、苦々しげながらゆるんだ表情だった。ようやく普段の彼らしさがかいま見えた気がする。
切羽詰まっていながらも、彼は必ずこちらのことばに耳を傾ける。年上の余裕を示すためか、それすらもただのやさしさか。少なくとも、それは子どもの頃から変わらない。懐かしさに思わず笑えば、なおさらに苦さを増した表情が視線を逸らした。
「帰る。邪魔したな」
ちらりと見上げたのは、壁の時計だったのだろう。片手をあげると、彼はしなやかな身のこなしで画材の隙間を抜けていった。あっさりとした別れの挨拶は、もはや引き止める猶予を与えない。
だが声を返せず見送る視線は、そのまま遠ざかる背中に当てられたままだった。そんな気配はきっと気づかれている。だが立ち止まることない彼は、いったい何を思うのか。
あとはもう、ここへ来たことでなにかが好転してくれたことを願うだけだ。それは過去の自分との共感がなすものか。理由をさがす瞳は、薄暮を泳ぐ。
(いや、ちがうな)
きっと翔にぃだからだ。幸せになってほしいと、無条件にそう思わせるのだ。
「渉」
「えっ、なに?」
思考から呼び戻す突然の声に、答えがうわずった。視線を向けなおせば、彼は扉を押し開けたまま立ち止まっていた。だが背はしっかりと向けられたままだ。逆光が照らす影は、黒く大きい。
「……ありがとよ」
そうして来たときと同じく唐突に、彼は去っていった。
あわてて窓から見送れば、決して振り返らないだろう背中。夕焼けに照らされた姿は、なお血にまみれる覚悟をにじませているようだった。
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