SEPIA 〜 memorial 〜


 室内を覗けば、既に他の部員は帰ってしまった後のようだった。
 時刻は午後七時をもうすぐ迎えようというところ。五限のせいでどうやら散会には間に合わなかったらしい。
 だがまだ残暑の厳しい季節。夕陽差すその部屋には、いつもどおり部長だけが残っている。
「ずいぶんと古い冊子、見てますね」
「そうねぇ。四年……いいえ、それ以上になるかしら」
 建てつけの悪い扉を開くのも、一年たてば慣れてきた。静かに歩み寄れば、だが紙面に目を落としていたはずの彼女は、驚いたそぶりも見せずに答えてくる。
「いらっしゃい。遅かったわね」
 つづけて上げられた顔は、どこか笑いをこらえていた。
「おもしろいです?」
「はい」
 そうして読みかけとおぼしき本は、あっさり渡される。
 問いかけは、確かに作品へのものである。だが見たかったわけでもない。受け取りの手はしばらく伸びない。
「感想は、読んでしかわからないものよ」
 紅うすい唇を尖らせた指摘は、もっともなものであった。
 ページは開かれたままだ。とりあえず隣に座り、その作品の扉にもどる。それから行をなぞるようにたどりはじめる。
 内容はここの部誌らしい恋愛話。無駄に難解なことばを重ねないそれは、すらすらと読み進めていける。嫌味のない文章は、だがむしろその知的さを感じさせはしないだろうか。
 いや、この小説はきっとそんな分析すら必要としない。
「読んでいるほうが、照れちゃう告白よね」
 ほぼ終わりまできた頃合いを見計らったように、共感は求められた。
 答えは必要とされていないだろう。問われた瞬間、顔が熱くなったのが自覚できた。
「誰が書いた作品ですか?」
 浮かんだ疑問のままに問えば、相対する顔はにっこりと口角をあげてくる。
「説明しなきゃ、わからない?」
「……いいえ」
 彼の名があるエッセイとは、似ても似つかない文章だ。けれど丁寧なことば選びと、整然とした展開。文体を多少違えた程度でごまかせるほど、相通じる感性は微弱なものでなかった。
 だが何よりこの作品は、彼そのものだった。
 この小説に脈々と流れる生き様が、あまりに本人と重なりすぎる。どんな恋愛であるかよりも、誰を愛するかよりも。
 ひとを愛するが故に生きている、ただその一点だけで語りつくされている。
 改めて思う、彼の偉大さ。
「すごい、ですね」
「そうね」
 同意は思いがけず、さらりと返される。驚きに視線を流せば、そこには赤い光に浮かぶ苦笑いがあった。
「だいたい部誌に載せる厚顔さからしてよね」
 頬を染めてみえるのは、きっと夕陽のせいだ。
 なぜだろうか、そう決めつけたい感情に駆られた。
「……載せさせたのは、誰だよ」
「あら、いらっしゃい」
 ここの扉を無音で開けられる人間など、そうはいない。視線を向ければ、扉の先、苦虫を噛みつぶしたような顔つきをした男がいた。
 噂をすれば、というところだろうか。とはいえ、元々来る予定だからこそ待っていた相手である。
「だいたいなに見てんだよ、年寄りくさい」
 ぼやきながら、つかつかと中へはいってくる。会話の内容は、途中からしか聞いていないはずだ。だが手元にあった冊子でおおかたを察したのだろう。
「最後の編集だから、なつかしくもなったのよ」
「ああ、そうか。おまえも、ようやく引退か」
「そうよ。長かったわね」
 本来なら、部長とは副部長を辞めたあとの名誉職。
 偶然にも彼女は大学院へと進学したために、博士二年まで実働をこなしてきたが、来年に最終年を迎える予定だ。この仕事を最後に、ようやく次代に継ぐこととなっている。
 ささやかな疎外感。共有する記憶を、ふたりはたぶん振り返っていた。
 だがそんな雰囲気を甘んじて受け入れる彼らでもない。
「ただし! 年寄りくさいは余計よっ」
 先に噛みついたのは、やはり部長だった。
「だいたい、載せたのはあんたでしょ」
 まっすぐ一本向けた指は、勝利の笑みも麗しく、鮮やかに相手だけを貫く。
 あまりに綺麗すぎた。指先も、彼女自身も。
 だから、その先に自分がいないことが腹立たしくなる。
「仕方ねぇだろう。原稿が足りなくなっちまったんだから」
 嫉妬と賞賛の目線を向ければ、彼は冊子だけをみつめていた。ため息には、すこしだけ拗ねた色がよぎる。
「それに、作品はそれ以上の何でもないからな」
「……そうね」
 足りなくなった理由は、彼にあったのだろうか。けれどそれは説明されることもない。
「作品は、ただそれだけなのよ」
 ことばは単なる事実を言い当てているだけだ。
 だがくすくすと漏らす笑いは、共犯者のものにも似ている。書く者同士にしかわからない何かが、あるというのか。
「ま、いいんじゃない? 一作くらい残ってたって」
「だな」
 なおさら強まる疎外感。いや、これは既に苛立ち。
 書けば、自分にもわかるものなのか。その感情が共有できるのだろうか。だが書く人間ではないのが、自分なのだ。
 ならば、なにかで表現することができるのだろうか。
 しかし人間なかなかこうまで堂々とできない。技術じゃない。ただ一度、流し見ただけで納得させる力は、わからせようという意志の問題だ。
 あとは、表現するだけの想いがあるのか。
 古ぼけた冊子は、読んでしまったいま、圧迫を感じさせる物でしかなかった。
「コウ。おまえにはおまえの方法があるから」
 たかが一つの小説。されど。
 それを睨んでいただろう視線をどう感じたというのか。それを書いたはずの男は、やさしい表情でこちらをみつめていた。
「まだ時間はある」
「……そうね。楽しみにしてるわ」
 それは本音なのだろうか。
 薄闇にまぎれそうな笑みは、奇妙なほど愉しげだった。





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