Yellow 〜 meeting"T"〜


 合格通知をもらった日。
 数年前にそこを卒業した従兄は、おめでとうと笑ってくれていた。
「これでおまえも、俺の後輩かぁ」
「学部がちがうけど。後輩になりたかったわけでもないし」
「おまえなぁ」
 事実を告げただけだ。だがどうやらそれははるか年上の彼の気を害したらしい。
 とはいえ、もうこの手のことにも慣れているのだろう。しかめ面はため息ひとつで片づけられた。
「ちったあ言葉遣いを覚えたほうがいいぞ」
 正しい指摘かもしれない。だがこの口調で言われては説得力に欠けるというものだ。あまつさえいまだ残る身長差で見下ろされれば、なおさら反発したくもなる。
「……あんたには言われたくない」
 けれど思いやりある忠告と思えばこそ、その声はちいさくしか出せなかった。



「ご入学、おめでとうございまーす!」
「サークル活動もがんばってくださーい」
 発表から数日ののち、入学手続きのために学校へと向かう道は、ひどい混雑を呈していた。むろん新入学生の数など、決まっている。原因は彼らを獲得しようとする、サークル勧誘員のせいだ。
 通路をふさぎ構内への道を塞ぐだけでなく、ばらまかれるチラシまでもが足下をすくう。
 もはやこれは公害の領域に達している。憤慨に車道へと出かけた瞬間だった。
「どうぞ」
「え? あ ―― 」
 突如差しだされたのは、誰もが見知ったものだったろう。
 だが理解には苦しめられるだろう。手に残されたのは、ずいぶんと長さのある黄色の花だった。
「これは……菜の花、だよな」
 認識をことばにしてもなお、状況だけはわかりかねる。合格祝いにしても、不可解なもの。いきなり渡されるには、あまりに異色すぎたのだ。
「あの! これは……っ」
 呼びかけは、ふいに鳴り響いたチャイムに遮られた。
 もはや気にかけている余裕はないようだ。まだ鳴り続ける音色は、たぶん正午の合図。手続きのリミットまではあと一時間だ。間に合わなければ、ふたたび受験生に戻される危機である。
「まずは、行くしかないな」
 配りつづける相手の姿を視界に入れつつも、まずは手にした茎を握りしめる。そうして新たに立ち塞がりだした障害へと立ち向かう姿は、ひどく気合いに満ちていた。

 ギリギリで辿りついた講堂を、ぐるり一周の旅。
 そんな手続きの間じゅう気になっていたのは、やはり菜の花だった。書類を書くにも邪魔、動くにも邪魔となれば、どうしたって気にはなるだろう。
 だがそれだけではない。あの瞬間、確かにこれは目をひいた。
「文芸、ね」
 あわせて渡されていたらしい紙には、サークル名と活動拠点が記されている。
 無表情にほどちかい顔立ちを持つ彼は、そのままふらりと学内の奥へと進んでいった。
「こんにちはー」
 記されていた地図は、割に正確だったようだ。立てつけの悪すぎる扉を力任せに開ければ、中は意外なほど閑散としている。どうやら皆、勧誘に出払っているのだろう。
(どうするかな……)
 勝手に中にはいってしまって待つか、それとも出直すか。しばし戸口で迷っていれば、肩をかるく叩かれた。
「合格、おめでとう」
 くだんの花を手にしていたことで、新入生だとはわかったのだろう。振り返れば、さきほどそれを配っていた女性がにこやかに立っていた。
「文芸にようこそ。文学部なのかしら?」
「いいえ」
「じゃあ、小説を書くことに関心があって?」
 室内へと誘導しながらの問いかけは、当たり前の内容でありつつ愚問であった。一般的な男子学生の答えなど、決まっている。
「全然」
 思い切り首を振って否定を示せば、さすがに胡乱な瞳が向けられた。
「……なんで来たわけ?」
「あなたが気になったから」
 これ以上に正確な回答はない。
 しかし自信を持ってのそれは、どうやらどこか問題があったらしい。なおさらに硬化した態度は、誰もいない室内を凍りつかせる。
「不機嫌そうに、これ配ってたので」
 すぐにも放り出されそうな気配に、あわてて花を突きだせば、どうやら彼女の好みではないのだろう。配っていたときと同じ目線が、黄色いそれへと投げられた。
 表現のしがたい、不思議なまなざしだ。
(ああ、気になったのはこのせいか)
 手渡すときは笑顔。だがその直後に見せた、不満そうに。けれどどこか愛おしげに、腕のなかの束をみおろしている ―― 。
 鮮やかな色がではない。配っていた彼女の印象が、あまりに強烈すぎたのだ。
「悪かったわね……」
 ぶつぶつと呟く姿からは、結局のところその花への愛着がうかがえた。だがここで笑っては、ふたたび怒らせそうな気がしないでもない。
「それに、すこしは文章表現を覚えろと言われてるし」
「……確かにそのほうがいいかもしれないわね」
 付け加えたことばは、運良くも思い出した内容だった。
 どうやらそれは初対面の彼女すらも同感だったのだろう。目の前で深く吐かれたため息は、見覚えのあるものに似ていた。
「だから全くそういう関係は知らないです」
「気にしなくていいわよ。みんな、初めてのときはあったんだから」
「そうですか」
 会話の合間に、彼女は机の引き出しを覗きこみはじめた。そうしてがさがさと取り出された紙は、どうやら入部届だったらしい。ペンとともに押し出されたということは、許可されたということだろうか。
「もし書けなくても、編集とか。そういう作業もあるから」
 微笑みを浮かべながらのひとことに、彼もまたようやく笑みを浮かべた。この部屋で初めてみせた、新入生らしい初々しさの漂う表情だ。
 なにせまだまだ入学手続きをしたばかり。それなりに緊張していたのだろうと、対応していた彼女もさすがに気づいたようだ。軽く椅子を示して座らせると、あとは書き進める様子をゆっくりと待つ。すらすらとペン先が書いた文字は意外なほどこどもっぽく、なおさらに笑みを誘っていた。
「神楽坂……、コウ?」
「たける、です」
「そう。どっちにしても、名は体を表さない典型ね」
 綴られていた文字は、咆哮の『哮』だった。
 背は高くともまだひょろっとした姿からは、あまり似合うとは言い難い。むろんそこには、神楽坂という名字から連想した人間のせいもあるのだろう。
「数年後は、ともかくね」
 あと7年経てば、どう変わっているのか。ちいさく笑った理由は、きっと目の前の彼にはわからないだろう。
「ところで」
「私なら、ここの部長よ。それも、もう5年め」
 眉をひそめたままの質問の矛先を読み、彼女はあっさりと立場を明かした。ちょっと顔をしかめた様子は、親しみをもちやすいコケティッシュさをみせている。
 むろん表情の理由はその年数だったが。
「……留年?」
「大学院博士課程2年!」
 とてつもない認識の方向性に、訂正は鋭く飛ばされた。
「ホント、思いつきで話すのはやめなさいね」
「はい」
「それでいいのよ」
 もはや彼のパターンは認証されたのだろう。素直に返事をかえせば、向けられたのはにっこりとした笑みだった。
「これで本当に後輩かぁ……」
 その顔から連想されたのは、あの従兄の顔だった。わずかに苦くなった声は、あのことばを自ら認める結果としてしまったせいだ。
(でも大学院博士課程っていうと……)
 もしかすると彼を知っているかもしれない。嬉しいような嬉しくないような接点だが、気にかかってしまえば仕方がない。ふとした思いつきに、彼は首をひとつ傾げて指を折りはじめた。
「……あと、女の年齢は気にしないこと」
「はい」
 ぞっとする低い声は、一気に背筋を伸ばさせた。
「まったく。あいつなら、こんなこと言わなくて済むのに」
「すみません……」
 明らかに誰かと比較しての内容は、しかし和やかな雰囲気へと溶けていく。

 その『あいつ』こそがいまのぼやきの原因だとは、まだ知らない二人だった。





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