前髪をあげたり、メガネを外したり。香水をつけかえたり。
 そんな諸々の儀式を持って、神楽翔はただのショウになる。

 儀式 ―― 大げさなようだが、それは確かに他の何でもない。



「一夜でもいいから愛されたいとかな」
 めずらしく多少は機嫌がよかったのだろう。クラブに来て早々、グラス片手の彼は戯言につきあってくれていた。
「でも、それは誰かに愛されたいって……」
「一晩でもいいんだろ?」
 目まぐるしく色を変えるライトを背にすれば、表情はとかく読みづらい。問いかけに返される答えは、だがかすかにも変わらなかった。そのままくるりと手の中のグラスが回される。カシャリと氷の崩れる音が、ざわめきのなか確かに響いた。
「俺は、望みを叶えてやってるだけさ」
「まあ、そうなんだろうけどね」
 そんな対応にも、逆となりの相手はただ苦笑を浮かべるだけだ。一理を認めているのだろう。
「どんな望みであろうがな」
 微笑みに偽りはなく、まさしく悪魔のごとく妖艶だ。そうして糾弾の言葉を飲み込ませた彼は、ただひとりで乾杯の仕種をみせる。そうして一気に中身をあけると、ふたりに背を向けフロアへと流れていってしまった。
「つくづく、真理だね」
 ふうっと吐息をついたのは先ほどと同じ相手だ。だがその傍らで和真は、ぎっと唇をかみしめていた。
「はい。とりあえず、飲んで」
「ありがとうございます」
 差し出されたジンジャーエールは、口元に気づいた故か。ともかく喉へと流せば、胸の詰まりもわずかに癒えた。
 原因となった男は、すでに明滅するライトの先。ときおりかけられる声に適当な挨拶をしながら、いまはただフロアを流れているだけのようだ。望みを叶えてやろうと思える相手を捜しているのだろうか。
「……最近、ムラが激しい気がする」
「そうだね」
 視線はフロアに向けたままつぶやけば、返された相づちはひどく短い。
「翔とショウの行き来が激しい。そんなところかい?」
「まあ、そんなところです」
 二重人格というわけでもないのだから、その言い方は不適切だろう。しかしそう説明するのがもっともしっくりくるのも、また事実だった。
「振り幅が広すぎて、混じり合ってきただけかもしれないけれど」
 薄く浮かべられた笑み。そしてささやかなくせに、どうにも目を引くアクション。フロアの片隅に立つだけで、この造られた不夜城の主として君臨している。そんなさらりとしたクールさにも、確かに惹かれるところはある。
 だがそれらは『ショウ』でしかない。
「なるほどね」
 隣で傾けられていたのは、似たようなドリンク。ただしそこにはアルコールが確かに含まれている。だがかけらの酔いも含まない声もまた、前だけを向いている。だからこそ存分に、視線は惹かれるままに彼を見つめていられるのだ。
 わざと突き放したり、そのくせやさしい戯れ言ばかり告げてみたり。飄々とした姿は、彼自身の意図を窺わせない。ただでさえ気になる存在に、ますます翻弄されている。
 これすらも『望んでいる』からだろうと、彼は嗤うのだろうか。
 イライラと爪を噛めば、おろしたグラスで甲高い音が鳴らされる。弾かれたように視線を戻せば、ふっと笑いが向けられていた。
「クールダウンも、必要だから」
 見据える視線をどう解釈したのだろう。なだめる口調は、しかし確実に的を射ている。テンションを保ちつづけることは、誰にも出来ないのだ。自分も、そしてあの彼も。
 流れることをやめたのだろうか。立ちつくす彼は、いつかの姿を思い起こさせる。
『書きたいんだよ……っ』
 クールな『ショウ』にはないいきおい。最近の彼には、常にその炎の片鱗が窺えてならない。
 はじめはただの苛立ちにも思えたそれが、なにか激しく求めているせいだと。そしてそれを抑えているがゆえだと、ようやくいまわかった。
「どれだけの情熱を注ぐんだろう……」
 書くことに対して。そして、なんらかの対象に対して。
 燃えはじめたらとまらない、そんなキャラクタだとは思わなかった。だがもはやその飾りのない濃密さは疑いようもない。
(素顔のあんたは、一番情熱的だ……)
 さりげなさすぎる変貌は、逆にそれこそが素の彼だと感じさせる。
 彼が無意識のうちに選ぶ『キャラクタ』が、まったくない、感情に正しく左右される姿。気取るわけでも、はしゃぐわけでも、威圧するわけでもない。なのにもっとも現実味のある、存在感のある状態だ。いや、選ばれる「キャラクタ」が彼の一部でしかないのならば、それがすべて重なっているのだ。希薄なはずがない。
 それが自分であったならば。あの強いまなざしで自分が見つめられるならば。
 いや、書くことに目覚めたならば、それは叶うことがない望み。
 情熱は一つところに注がれるものだから。
「帰りましょうか」
 視線の先。今宵の主を決めたらしい男は、かしづくことでその傲岸さをあらわにしていた。
「いいの?」
「ええ」
 溶けるに任せたグラスの中は、すでに水っぽい液体ばかりが残る。
 消えた先をみつめていても、その姿は戻りはしない。彼も一夜の癒しを探しているのだから。自らの望みの代わりに、他者のそれをささやかに叶える。それがクールダウン、代償行為。
 生き急ぐのが、彼の本性なのか。すべてに対して情熱的すぎるだけだというのに。
 本人も意識しない範囲での、融合。それは、ガードレールの内なのか外なのか。
「ともに歩いていきたいと思ってくれればな……」
 誰か、みつけてほしい。書くことだけでは危険すぎる。それだけで、きっと駆け抜けなくてすむはずなのに。
「思わせるのは、キミだよ」
 ふと思索を突き破ったのは、あくまでやわらかな声音だった。それまでじっと沈黙を守ってくれていた相手は、立ち上がるためにそうしてグラスを空けた。
「キミが望むのなら、ヤツは叶える」
「一晩じゃ、無意味なんです」
 暴走しつづける情熱に、ただ一時のやすらぎなど価値はない。彼自身が燃え尽きない道を選ばぬ限り、破綻は必ずくる。
 むなしさにそう首を振れば、だが常のものをより深めた微笑みがそこにはあった。
「だからさ。一日でも、なんて思わなければいい」
 あっさりと言い切る姿には、わずかなためらいすらない。
「本当の望みをぶつけるんだよ」
「ほんとうの……」
 望みをぶつけるとは、どういうことか。どういう結果を招くのか。


 綺麗事じゃすまされない。ドロドロとした内面との対話は、ここからはじまる。





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