Second Night 〜 St.Valentine's Day 〜


「おいらのこと、本当に好きなくせに!」
 誰もが帰った部室はがらんとして、声は思いがけず響いていた。
 後期の試験もおわれば、構内に来るものなどそうはいない。夕暮れも過ぎれば、なおさらだ。
 だからだろう。睨みつけた先の相手は、その大きさを咎めはしなかった。
「……ああ、いますぐしたいくらいな」
 真顔で見下ろしながら告げられた声は、あまりに扇情的だ。わずかにひそめられた眉もまた、薄闇のなかでは色気以外の何でもありえない。
 見ているだけで、心臓が痛くなる。この男はその表情を自覚しているのだろうか。
「でも帰るんだ?」
「もう夜おそいだろ」
 そそのかすつもりのセリフは、あっさりかわされる。百戦錬磨の相手だ。太刀打ちするのは難しい。
「あおるだけ煽って……」
 夕陽の赤ささえ消えだしたころから、ふたりきりでいたのだ。まったくなにもなしだったわけがない。
 ささやかなスキンシップが、慣れないディープキスに変わるにはたいした時間もかからなかった。
「普通、本気ならもっとムードつくったりするもんじゃないです?」
「雰囲気で流されて、なんてイヤだね」
 そうして口元をゆがめて嗤う姿は、以前よくカウンターで見かけたものだ。
「流されただけだなんて、わからないでしょう」
 だがそのたった一言だけで、ポーカーフェイスは崩れる。しょせんは仮面なのだ。
 見つめ合えば、あとは。
「……じゃあ、流されないかどうか」
 試してみるか?
 流し目だけで語られたつづきに、うなずきはしっかりと返せたはずだった。
「これから俺がするのは、ジョークだからな」
「わかった」
 宣言は、けれどきっと彼自身に向けてのものなのだ。
 おそるおそる伸ばされた手はまず髪を透き、うなじへと流れていく。だがそんなためらいは、すぐに消えたのだろう。指でもてあそぶ髪の先を耳の裏側でくすぐるようにさせていたかと思えば、逆の手はいつの間にかシャツの襟元から鎖骨へと滑り込んできている。
 ボタンはいつもひとつだけ外れていた。隙間からするする素肌をかすめる指先に、強引さはない。
 髪に触れていた手は、首から肩。背中をとおって、腰をゆるやかに抱いている。布地越し、けれど巧みな指はそこから生まれる感覚を追わせていく。
 徐々に熱があがってくる。つい、乾いた唇を舐めかければ、覗かせた舌が一気に奪われていく。
 詰まる息すらも飲まれ、ふわりと来たのは酩酊感。離された唇は、そのままさがって首筋へと息をかけて。
「ほら、流された」
 遠くから、軽い舌打ちが聞こえる。身を退かれたとわかったのは、そのときだった。
 振り仰いだ彼は、口元を左手で覆い隠している。
「ちがう、よ」
 逃げた相手を求めた腕は、だが伸ばしきれずそのままはさまよう。
 失われた感触が惜しい。ねだるように掌が押さえたのは、以前は痕が残されていた場所。なぜか彼が決して触れなくなった首筋だ。
「あんた相手なら、いつでも本気になっちゃうだけ」
「おまえ……」
 何かを発しようと開かれただろう彼の口は、だがため息だけで閉じられた。
 そのまま彼は扉へと向かう。静かに差し出された手は、同じ行動を要求している。
「ずるいよ、あんたって」
 甘えた不満には、ささやかな微苦笑。
 つかまずにはいられないその手は、だが思った以上に熱っぽかった。

 扉を閉めたのは、彼だった。無言のままに、地下鉄の駅へと向かう。いつものグリーンロードは凍てつく寒さで、つないだぬくもりを実感させてくれる。
 強く握れば、包み込むように握り返される。そんなささやかなやりとりは、なお言葉を奪っていた。
「さむ……」
 だがたどりついた駅でまで、手をつないでいるわけにもいかない。名残惜しくほどけば、彼はその手をポケットへとしまっていく。すぐに来た電車に乗れば、まずは一駅、そんな状態で過ぎていく。
 乗り換えのためそろって降りれば、次のホームは出ていったばかりなのか待ち人すら少なかった。
 とはいえ再び手をつなぐには、微妙なためらいがある。ただ隣にいるのは、それもまた気詰まりだ。
「あんたは、ちがうのかな」
「ちがわない」
 真正面だけを見て返されたことばは、こちらの意図を明確にくみ取っていた。
 ふと想いが口をついて出ただけのものだ。だがどうやら話は途切れていなかったようだ。
「それだったら」
「だがな」
 追及と完全に重なった声は、どこかきびしい。
「本気になるからこそ、動かないんだよ」
 警笛を鳴らしながらホームへと来た電車に、彼は即座に乗り込んでいった。
 待っていたのは、だが彼だけではない。ともに乗り込めば、だがもはや会話の糸は切れている。
 必死に考えれば、ただむやみに流れゆくのは時間。あと二駅で、お互いの乗換駅だ。別れの刻限はちかい。
「おいらの本気はどうやって示せばいいんだろ……」
 疲れた声音は、車体の揺れがおさまるのに合わせて、静かに消えていった。
 エアー音とともに開いたドア。吹き込む風が、ふたりのあいだを抜けていく。
「そうだな」
 ふわり、と。上方から柔らかな笑いが降ってくる。
「チョコに鍵のひとつもつけてくれりゃいいぜ?」
「え?」
「ってことで、また明日な」
 ぽんっと電車から飛び降りた彼は、そのまま閉まる扉にむかい手を振る。
「ちょ、……待った!」
 あわてたのは、和真の方だ。だがそこはふたりの降りる本来の駅ではない。
 だが追いかけようにも、扉は既に閉じられた。発車のベルが、ホームに響きはじめる。
「さて、それまでに決められるかねぇ」
 滑りでていく地下鉄を見送りながら、彼はちいさく笑っていた。



 そして日常はなにごともなく過ぎ、街はチョコレート一色。世界はあわただしさを増していっていた。
 だがそんな世情は、無縁のはず。長期にわたる春期休業、和真はただ家のなかでぼんやりとしていた。
 雪がちらつきだした夕暮れは、室内にいてなお寒さを見せつける。マンションの高い窓から見下ろせば、地面はうっすら白く硬化していくばかりのようだ。
「本気だったら、ふつうその気になるよね……」
 呟きはどこから生まれたのだろう。彼はとりあえず世界を遮断するように、カーテンを引いた。
 だがそうして座り込めば、かえって思索の深みにはまりこむばかりだ。
 なぜ、流されてはいけないのか。こちらが感じかけることを、彼は極端なほどに厭う。
 流されているのではないのに。本気だからより感じたいと、そう訴えているだけなのに。
 そういう感情を否定したいのだろうか。
 でも彼は『したい』と言ってくれた。本気だから、でも動かないのだとも。
 状況は説明されている。理由もだ。だが、最後のところがつかみきれない。
「ああ、もう。なんでダメだっていうんだよぉ」
 ごろりとカーペットに転がれば、玄関先でめずらしくベルが鳴った。
 だが出迎える気は起きない。右と左に転がっていれば、ぱたぱたと軽い足音がした。
「すみませんね、天候が悪いので……」
 たぶん母が応対しているのだろう。ひどく腰の低そうな相手の声が、廊下に響いてきている。
 やり取りは、ほんの短いものだった。金属の重たい扉が閉まる、独特な音。それらは聞くともなく耳にはいっていた状況だった。
 けれど次に耳へと飛び込んだのは、まさしく自分に向けてのものだった。
「なに?」
「あんた宛よ。天候が悪いからって、気を利かせてくれたんじゃない?」
 寝転がったままノックに応えれば、その扉はすぐさま開かれる。予想どおりの相手がそこにはいる。
「あれ、先輩からじゃん」
 目線だけで起きるよう促される。そのうえで手渡されたのは、宅配で来たらしい袋だった。几帳面なくせに右上がりの文字は、もはや見慣れたものだ。
 ガサガサと封を開ければ、中にはきっちりラッピングされた小箱がはいっていた。
 重くもないそれは、いったいなんだろう。説明くらいあるかと袋を見直すが、手紙はない。
「なあに? お財布かなにかかしら」
「うん。あ、ちがうみたい」
 覗き込む母の前で仕方なく箱を開ければ、中は本革らしい質感のパスケースがひとつ入っていた。
 深い色目は、ブラウンか。ほとんど黒に近ければ、なおさらに素材のツヤがひきたっている。彼一流のこだわりも窺えるプレゼントだ。
「なんでわざわざ送って……」
 プレゼントのいわれもわからない。それに休み中とはいえ、週に一度は逢っている。
 合理的な彼の行動とは思えない。だが見直したところで、やはりメッセージはない。外袋には宛名を記した伝票と、2−14と記されたシール。どうやら期日指定の印らしい。
 気を利かせて、とはこの意味だったのだろう。遅れるくらいなら、早いほうが確かによい。
「あら。いい感じじゃないの」
 長く使えそうな手触りは、見ているだけでも伝わったようだ。
「あ、うん。なんかおいしそうだね」
「食べちゃダメよ。おいしくないから」
 からかいなのか、本気なのか。的のはずれた指摘を残して、母は出ていった。
 だがいくらなんでも、革製品をかじってみるほど子供ではない。
「でも、まあチョコみたいだしね。……あっ!」
 口にして、驚きにまじまじと見返す。
「これって……。ということは」
 一人になってからでよかった。熱くなった頬を、とりあえず両の掌で覆ってみる。指定された日の意味がわかれば、照れくささは増すばかりだ。
 だがそうして無邪気に喜んでばかりもいられない。しばらく床を転がって、和真はふと立ち上がった。
 手にしたのは携帯電話。そのリダイヤル20の最新を呼び出す。
「あ、先輩? あした……」
 コール数度で出た声は、いつもどおり穏やかだ。それがとまどいに変わるのは、愉しかった。
 もはや雪のことは、頭にない。外は既に白く染められていた。



 そんな電話から24時間と少々。ふたりはひとつのロビーで落ち合っていた。
「よう、ここで合ってたよな?」
 先に来ていた男は、柱にもたれるように立っていた。
 冬になると好んで着ているらしい黒のロングコート。中はカジュアルなジャケット&パンツにオリーブグリーンのタートルネックだ。普段よりも少しだけ控えめな色遣い、そして遊びすぎないセンスは、さりげなくこの場に溶け込む。
 それに比べて、自分はどうなのだろう。
 遠巻きに眺めたまま一向にちかづこうとしなければ、大股に寄ってくる姿はいつにも増して格好良かった。
「ちがったか?」
「……だったら、おいらが来てないと思うけど」
「そりゃそうだな」
 卑屈な照れ隠しには、あっさりとした答えだけだった。そのまま彼はぐるりと周囲を見回している。
「こんなホテルで夕飯食べたら、相当かかるだろうなぁ」
「だろうね」
 ともに振り仰いだ天井は、吹き抜けでひどく高い。それ自体が値段を示すわけでもないが、圧倒する雰囲気は確かに相応の格を感じさせた。
「でもせっかくだし? ラウンジ見学くらい行くかぁ」
「け、見学?」
「そう」
 思いがけない単語に咽せかけるこちらを後目に、相手は平然としたものだ。
 とりあえず促されるまま外で夕食を済ませ、戻ったロビーから今度は最上階までエレベータに乗る。どんどんと遠ざかる、ロビーの床。
 スムーズな動きがもたらす浮遊感は、なおさらに夢見心地を高めていくばかりだ。
「……あ、と。おまえ、まだ未成年か」
「う、一応」
 ふと思い出したように告げられたことばに、一瞬だけ窮した。だが相手はいたずらめかして笑ってくる。
「バレなきゃいいさ。黙っとけよ」
 チン。タイミングよく軽いベルが鳴れば、扉は静かに開かれた。
 そこはそのままラウンジへの入り口。すぐに近づいてきたボーイは、恭しく一礼を向けてくる。思わず後込みをすれば、ゆっくり促すような掌が背中を支えていた。
「ふたりなんだけど、空いてますか?」
 肩越しにかけられた声に、とにかくエレベータを下りる。
 さすがに手はつながれないものの、すぐ後ろにある気配はひどくあたたかかった。

 案内された席、街を見下ろせる窓辺は静かな音楽が似合いすぎた。
 潜めた会話がふさわしいそこでは、オーダーすらなにか秘めやかだ。薄暗く落とされた照明に、横文字の並ぶメニュー。無言で立つ黒服のボーイはそこにすっかり溶け込んでいた。
「……あと、パルフェタムール」
 いったん切って相手を見やったのは、在庫を確認するつもりだったのか。
「ございますが、いかがいたしましょうか」
「じゃあ、それをフィズ、いやフラッペで。ええ、お願いします」
 見学といってみせたのは、冗談だったのか。彼の態度はあまりにも慣れすぎていた。
「どうかしたのか?」
「別に」
 抑えていても揺れている肩。苦笑の雰囲気は、きっと理由にも気づいているからだろう。
 ふてくされるのも今さらというものだ。ここは彼の領分。自分とはちがう世界を生きてきた相手なのだ。
 だが誰とそこにいたというのか。考えれば、嫉妬も疼く。
「お待たせいたしました」
 なんと文句を言ってやろうか。そこに水を差したのは、闇から現れたボーイの手だった。
 コースターの上に、ちいさなグラスが置かれる。その中に小山をつくるのは、砕かれた氷。それは綺麗な紫に染められている。
「きれい……」
 もともとこの色は、一番といってよいほどに好きなものだ。揺らめくキャンドルの灯りに映し出された幻想さは、それ以上の感嘆のことばを紡がせない。考えていた文句など、消し飛んでいた。
 限りなく蒼にちかいヴァイオレット。ただしばらくは、手を伸ばすことさえできずに眺めるばかりだ。
「溶けちまうぞ?」
 控えめにかけられた声に目線を上げれば、彼は掲げていたグラスをかるく揺らしてみせた。
 どうやら乾杯のつもりらしい。慎重に持ち上げて同じ仕種を返せば、ヴァイオレットの輝きはより増した。なおさらに口をつけるのはためらわれる。
「これって、お酒?」
「それなりにな。イヤならやめとけ」
 雰囲気だけを感じておけというのだろうか。普段はほとんど勧められないアルコールだが、今日に限っては許されたらしい。
 せっかくのラウンジだ、確かにジンジャーエールではわびしいかもしれない。
 嘯いた相手の手には、見慣れた琥珀の液体。無意識に揺らしているのか、氷がカラカラ音を立てている。
「……あまいね」
 おそるおそるその滴を味わえば、ほのかな香りはなんだろう。
「苦いよか、マシだろ。おまえにとって」
「そうだけど」
 向けられた笑いにからかいの色はない。けれど頬はきっと赤くなってしまっただろう。
 自分のためにセレクトされたカクテルは、大好きな紫。見ているだけで嬉しくなるこれは、なにでできているのだろう。
「ねえ、パルフェタムールって? このカクテルの名前?」
「ん? いや、ちがう。酒の名前だ」
 舌を濡らすつもりなのか、そこで彼は一口スコッチを含んだ。
「クレーム・ド・ヴァイオレットのひとつで……、まあ要するにすみれ色の甘い酒だ」
「パルフェ、タムール……」
 ふわりとウイスキーの匂いを漂わせた説明は、自分にとっては十二分なものだった。
 大切な名前を呟き、その味とともに記憶へと閉じこめる。なんとも言えない風味は、キライじゃない。
 ありがとう、と。ふと顔をあげれば、黙って夜景を見下ろす視線がそこにはあった。カウンタに肘をついた仕種は、あの店にいるときと同じはずなのにいまはあまりに遠い。
 かけるべき声を失えば、ただその横顔は見守るしかないものだった。
「 ―― おい、危ないぞ。グラス」
「え? ああ」
 あわてて見下ろせば、グラスの縁。傾いた水面からリキュールが滴りかけていた。
 軽そうでそれなりに重さのあるガラス製だ。携えた手のなか、自然と傾いていたのだろう。
 なぜ横を向いていないくせに気づけるのか。ますます差を感じさせられたが、これ以上考え込んでも意味もない。目的はそもそもこれではなかった。
「そういえば、これ」
 ちいさな紙袋を、ためらいがちに押し出す。さりげない切り出しなど、いくら悩めど思いつかなかった。
 中は赤と黒のコンビネーションの箱と、ミニサイズの封筒だ。見るからにチョコレートとわかる箱を一瞥した彼は、どことなくゆっくりと封筒を手にした。
 カードはすこしだけ厚め。取り出す仕種を待ちつつも、目はぎゅっと瞑ってしまっていた。
 乾いた音がBGMに一度だけ不協する。きっとあの視線は、その上を滑っている。
「……やるじゃん、和真」
 無意識のように吐かれた息は、感嘆のものか。少なくとも、サプライズは成功したらしい。
「最近は風情がなくなったと思ったけど、こうされるとちがうもんだな」
 かざし見ているその口元は、どことなく弛んでいる。
 メッセージカードのように添えたそれこそが、望まれた今夜のキー。
「受け取ってくれます……?」
「よろこんで」
 夜景の窓、映りこんだ彼はカードを再び戻している。
 コースターへと戻されたグラスは、崩れだした氷に色味を変えつつあった。



* * *



「えーっと、和真ぁ」
 ラウンジにいたときとは異なる、自然な声音。
 というにもあまりある間延びした口調が、移動先での彼の第一声だった。
「なんです」
「無理したんじゃないか?」
 最上階のエレベータとは逆の状況だ。中を覗き込んだまま、彼は入り口付近で固まっていた。
「え、別に無理なんて……」
「この部屋のことなんだがな」
 先に入り込んでいた室内から戻りつつの表情は、ひきつってしまっていたのだろうか。
 くすくすと笑ってみせた彼は、ほんのすこし足を踏み入れて値踏みするように内装を眺めだした。
 ロビーやラウンジでも感じた高級感は、このスタンダードルームですら明らかだ。落ち着いた色目でまとめられた調度は、決して華美でないぶんなおその雰囲気を助長している。そこかしこに置かれたちいさな小物ですら、きっと吟味されているのだろう。
 慣れない人間が感じ取れるものを、この相手が気づかないはずもない。
 徐々に部屋の奥へとはいっていてきた彼は、窓際に置かれた背の高いスタンドのライトを点けた。そのまま外を見下ろせば、夜景はやはりそれなりの眺めを保っている。
「相当、高くなかったか?」
「う……っ」
 ため息まじりのことばに絶句したのは、図星を指されたからだ。
 電話のあとからあわてて探しはじめた空室は、意外にもほとんど残っていなかった。
 だからチョコレートはたった二粒しか贈れていない。彼に合わせた品を探すだけで、精一杯だった。
「げ、こりゃ恐ろしい」
 スタンドの脇。据えつけデスクに置かれていたのは、なんの冊子だったのだろう。
 ぱらぱらとめくってから綴じ込みのパンフレットを眺めていた彼は、驚いたようにそれらを引き出しへとしまい込んでいた。その手はそのまま、彼のポケットへと滑り込んでいく。
「ほら。足りない分はでもおまえのおごりな」
 差し出されたのは、一枚の紙幣。意味はすぐに理解できた。
「そんなの受け取れないよ……」
「払ってないと、落ち着いてベッドで寝れねぇよ」
 ふたたび室内へと巡っていく目は、本心から嫌そうに眇められている。
 先ほどの冊子は、たぶん宿泊約款だったのだろう。パンフレットがここのものならば、基本料金も知られたことになる。つくづく決まらないものだ。
「そのかわり、半分は俺の権利だからな」
 だがこちらの困惑など、むしろ押し切る気なのだろう。
 宣言した彼は、ぽんっと片側のベッドへコートを投げ捨てた。重ねるようにジャケットもだ。
 オリーブグリーンのセーターだけが、上半身を包んでいる。ゆったりとしたニット地でさえ、その鍛えられたからだつきは隠し切れていない。
「でさ。俺、シャワーあびたいんだけど?」
「あ、はい。どうぞ」
 首から肩。そして胸板を呆然とみつめてしまっていた視線を、あわてて顔へと走らせる。
 だが少々遅かったようだ。既に彼は愉しいことを思いついたときの、あの表情を浮かべている。
「半分だって言っただろ? だから」
「それは、いまはまだ勘弁!」
 一緒にな。すっと伸びてきた腕は、だが間一髪で逃げ切った。そのまま気合いで壁際までと逃られれば、どうやらそれは完全なるからかいだったらしい。
 空を切った手はそのまま髪を掻き上げ、浮かべられていた笑みは馬鹿笑いに取って代わられている。
 いつものこととはいえ、どうにも悔しいこと限りない。
「んじゃちょっと失礼して。先、借りるからな」
 ふてくされたところで、相手の態度は同じこと。これも普段どおりだ。
「あとで、おいらも入っていいですか?」
「いいぜ? 当然の権利だろ」
 ただ肩越しに振り返っての答えはあっさりしすぎていた。
 そのまま彼はユニットの向こうへと消えていく。薄い扉が閉まるやいなや、なぜだろう。息はながく口元を抜けていった。
 くだらない会話を繰り広げてはいたが、やはり緊張しているのだろうか。
 気を落ち着けようと、とりあえずなにも置かれていないベッドへと腰掛ける。けれどそのせいで自然と目に入ったのは、脱ぎ散らかされた服だ。
 なんということのないはずの品。だがそんな抜け殻が、今からの行為を予測させる。
 響いてくる水音さえも、生々しさを助長してくるだけのものだ。
「あっつ……」
 喉が渇いているのは、はじめて飲んだカクテルのせいだろうか。設定室温に上着を脱いだが、火照りと動悸もおさまらない。耳を打つ鼓動も煩わしいばかりだ。
「このホテル、おもしれー!」
 ひとり息詰まっていた雰囲気は、扉むこうからあがった爆笑に吹き飛ばされた。
「なにをそんな、ウケて……」
「わかっただろ? ローブなんて、普通置いてあるか?」
 笑い転げる勢いのままに、すこし荒っぽく扉が開かれる。そこには確かに唖然とさせられる光景があった。
 まだどこか濡れた趣のある身体にまとうのは、日本ではめずらしいバスローブ。豪奢なホテルならではの一品だ。だがタオル地仕立てのそれは、彼の膝ギリギリ覆う丈しかない。
 妙に男くさく感じたのは、きっと気の迷いだろう。言い聞かせれば、笑いも返せるというものだ。
「それにしても、早かったですね」
「ん? 一応、上から下まで浴びたけど?」
 だがどうにも正面から見ることはできない。逸らした視界に入ったのは、靴を蹴りつつ戻る彼の素足だ。
「キスができるくらいには、な。まだ必要ないだろうが」
「え? キス?」
「いつかな、いつか」
 ぽいっとそれまでの衣服をベッドへと投げた彼は、ひらひらと手を振りつつその脇へと転がった。
 そのままリモコンでテレビを点ける。切り替えられたチャンネルは、騒々しいお笑い番組だ。もはや耳も目も画面に奪われたのならば、早々にバスルームへ行くべきなのだろう。
 床に転がる靴を揃え、ついでのように自分の靴も脱いで並べる。いまさらながらにスリッパを入り口に忘れてきたことに気づくが、今さら必要もなさそうだ。
(キスねぇ……。歯でも磨こうかな)
 まさか顔を洗ったわけでもあるまいし。笑い声を聞きながら、濡れっぱなしのノブをひねる。
 そうして扉を閉めた瞬間、はたと気づかされた。頬をのぼる紅潮。
「あのひとはーっ!」
「だから、いつかな」
 ユニットを揺るがす絶叫は、当然室内へと響いてくる。
 ベッドへ寝そべった男は、いまだくすくすと笑い続けていた。

 期待されているのか、いないのか。
 ひとり悩みながらぬるま湯に浸かれば、思った以上に長風呂になってしまった。あわてて身体を拭い出せば、扉越し、コントらしき声はいまだに響いている。
 番組がつづいているならば、焦る必要はない。安心しながら丁寧に身支度をし、静かに扉を開く。
「……ずいぶん長かったな」
 テレビは確かに点いたまま。だが彼はライトを落として、窓際の椅子に腰掛けていたようだった。
 いつもならばほのかに漂う香水は、入浴後のせいか感じられない。だが部屋にうすく広がる、馴染んだこの匂いは。ゆらりと立ち上がるシルエット、その指先にはタバコがあった。
「女より長いぜ。……ウチのねーちゃんなんか、俺よか早いってのに」
 比較のことばに、思わず肩を震わせたのが見抜かれたのだろう。対象が誰であるかをあえて付け加えた彼は、テレビ本体で電源を切った。
 代わりに点けられたのは、スタンドライト。だが光量はひどく絞られている。
「しかもちゃんと服まで着ちゃって。そんなに俺の姿、不気味だったか?」
 どうにか届く明るさのなか、肩を鳴らすように上げ下げする姿はコミカルだった。だが取って付けたような感じがどうにも否めない。しそびれた謝罪もできなければ、促された笑いに応えることもできかねる。
 浮き足立っているのだろうか、このホテルに来てからずっと。
「あ、そうそう。これは俺から」
 互いにどこかちぐはぐな応酬は、だがこれだけでは終わらない。
 返らない反応すら無視して、彼はベッド脇、渡した紙袋の横にある包みを手に取っていた。
「チョコ?」
「ん? そうだけど。これは招待されたから、その手みやげ」
「……はあ」
 意味不明な説明とともに押しつけられたものは、ひどくちいさい。
「俺はうまいと思うんだが」
「そりゃそうでしょ、こんな高級品」
 逆接の接続詞はなぜ付けられるのか。ごくシンプルなラッピングをほどけば、現れたのはやはり予想に違わぬ立派な造りの箱だ。型押しされているのは店名だろうか。それはアルファベットで綴られている。
「高級だから旨いわけじゃねぇだろ。口に合うかどうかだけだ」
 それは真理だ。けれど高いからおいしく感じるのもあるだろう。
 惑わされないのか、彼は。
「……にしても、おまえ詳しいな。ここ知ってるなんて」
 向けられたまなざしには、曖昧な笑みだけを返した。
 知らなくてもわかる。彼が自分なりに選び取ったものならば、決してそこに妥協は存在しない。あまつさえそれを人に呈するとなればなおさらだ。
「あんたもどうぞ」
「サンキュ」
 だが好きな物を教えてもらえることは、純粋に嬉しい。ベッドに座りながら差し出せば、つまみ上げられた粒は、慣れた手つきによってスムーズにアルミ包装を剥がされていった。
「トリュフもいいけど、この液体がでてくるのがいいんだよなぁ」
 一口でほおばれるサイズのチョコレートにあえて歯を立てたのだろう。カリリというちいさな音とともに、すっと目元が弛む。よほど好きなものなのだろう。言葉どおり満足げに食べる姿を見つめながら、和真も真似るようにひとつ口に運んだ。
「この時期だけだしな、砂糖っけの少ないやつは」
 黒い外見に違わぬビターな味を舌先で溶かしてみると、パリっとしたコーティングは確かにうすいチョコレートだけらしい。ザラリとした舌触りがなければ、到達した内側、アルコールは一気にあふれ出す。
「……げほっ!」
 予想より多くはるかに強い液体は、そのまま肺へと蒸気を流したらしい。
 飲み下してなお激しく喉を灼いていく感覚は、甘いくせに苦すぎる。あのカクテルとはあまりに違う。
「もうすこし、リラックスしろよ」
「ちょっとアルコールが……」
 子供扱いの苦笑の前。咳き込めば、なにか覚えのある匂い。それは彼がよく飲むあのグラスの酒か。
「きつかったか? だったら……、もらってやるよ」
 わざとらしいほどのシチュエーションで、寄せられる唇。よく考えればなにをリラックスするのか。
 頭を支えるように廻された手は、がっしりと逃げを封じていた。



 とうにチョコレートもアルコールも失われた口中。動きまわる舌は、わずかな味も奪い取ろうとぬめっていた。その間に寝台へと倒された身体には、服の上、同じくらい執拗に掌が這いまわっている。ショコラボンボンは、紙袋と同様に、ナイトテーブルへ置き去りにされていた。
「あ……」
 ついに、釦が外されていく。いっそローブにしておけばよかった。見ているのも恥ずかしいのに、見ないではいられない手つきがここにある。
 乱されるのは、まとった服すべて。騒がされるのは、心ばかり。
 するりとはだけられた首もとから、下。ゆるゆると高められる感覚は、前回と同じものだ。
 違うのは、彼の姿。ただ一枚のローブは、着崩れてゆるむにつれて肌を露出させてくる。互いに同じということが奇妙に安心感を誘う。
 あとは任せればいい。そうして瞼を伏せた瞬間だった。
「なんであんた、今、こんな物持ってるの?」
 枕元、硬い物が落とされる感触に、思わずその目を開いていた。視界にはいったのは、ちいさなボトルだ。
 見た目だけではその中身などわからない。けれど、その隣にある見覚えのある四角いパッケージ。
 あげくこのタイミングで出されたならば、おおかたの予想はつく。
「まさか、いつも」
 昔の習性ゆえか。いや、それだけではないのだろうか。
 いまなお常日頃も持ち歩いているのかと思えば、一気に全身は硬直した。
「あのなぁ」
 動きを止めたのは相手の腕も同じだった。降ってくるため息が、ひとつ。
「ふつう、期待するぞ。こんな誘いされてたら」
「……あ」
 傷ついた顔はすぐに隠された。重なっていた上体もまた、起こされていく。
 互いの間を抜けるのは、風。離れた肌は冷えていくばかりだ。
「だいたいそういう話じゃなかったのか? バレンタイン」
 距離があいた分だけ、暗がりの表情はぼやける。声はどこか硬い。
「……ちがったか。悪かったな」
 揺らいだ気配は完全に離れていった。代わりのように、ふわりとケットがかけられる。
 完全に答えるタイミングを逃した。視線だけで彼を追えば、手に取られかけたのはタバコのパッケージ。大きな手の内、へしゃげかけたボックスは、だが一瞬のためらいののちに投げ出された。
 低い息の音。そしてギシッと軋むベッドマット。感覚だけが鋭敏に追う。
 感じるのは苛立ちにも似た波動。だがそれはすべて彼のなかで終息させられていく。
 どうしてここで引けてしまうのだろうか。
「とりあえず、チョコ。食べていいか?」
 ちいさなパッケージは、彼の手の中にすっぽりと収まっていた。声は既に穏やかさだけを残している。
 ただ、かけられたリボンを引きほどく顔は、うつむいているためにまったく窺えない。
 いま彼が何を考えているのか。わからない。不安が増幅していく。
 単にそれほど抱きたいわけじゃないからなのか。そんなはずはない。
「……ちがわない」
「え? ダメってことか?」
「ちがう。ちがわない!」
 言葉はめちゃくちゃだ。ともかく相手のことばだけは、跳ね起きることで否定する。
「お、おい」
 この間で、望んでいることは正しいことだと。形にできない欲望すら受け入れてもらった。
 だから不安は解消したはず。ならば、自分から求めなければ。
「鍵を贈ったら、本気だってわかってくれるんじゃなかったの?」
「……そうだったな」
 髪を振り乱して必死に訴えれば、驚愕に見開かれていた目は静かに細められる。そしてためらいがちな声は、空気をもそっと揺らした。きっとまだ疑っているのだろう。
 それでもあの日、与えられた提案は。ただ試すのではなく、道はちゃんと造られていた。
「だったら、ほら」
 そして、いまも。ベッドヘッドに片手をかけた彼は、粒の真ん中に歯を立てて手を差し出している。
 つかまずにはいられないその掌は、今日もまた熱い。見つめる目に促されるまま唇を寄せれば、分け与えられたチョコレートは互いの間で溶けはじめた。
 安っぽいトリュフだ、特別なアクセントはない。
 けれどカカオ独特の苦さは消えない。その分、甘さは強くなる。
 そんな味とともに、与えられる感触を互いのものとして実感していれば、一気に身体は引き倒された。
「おまえが、甘ったるいチョコみたいだな」
 一度離された口元が、かすかに微笑む。そして改めて、溶け残りの絡んだ舌を吸い上げられた。触れあったまま発される笑いは、直接に脳髄へ響いてくるようだ。
 その体勢のまま、冷えた指先が壊れ物に触れるように頬を撫でる。かすかに震えながらも、何度も繰り返される動きに、そっと目が開かされれば。
「ひぁ……っ」
 あの目が、すぐそこにあった。欲して止まなかった、あの危険なまでの熱が。
 鮮やかな豹変には、いつだって振り回される。口を突いてでたのは明らかなる嬌声だ。
「もう、やめないからな」
 宣言は誰へのものか。うなずく間もなく、暗転は起こった。
 上下を入れ替わりつつ抱き込まれれば、視界も暗い。だが見えないことは恐怖ではない。

 彼はいつだって強引そうで、だからこそやさしい。

 おだやかな暖かさは、もはや情熱となるばかり ―― 。



≫≫≫ First Morning(not link)


でも僕はオランジェリーが好きだ。




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