No-Number: 心理テスト。
それは6月最初の土曜のことだった。
この名古屋を含む東海の地は、国公立大学の多くの学校祭が春から夏に行われる。
翔たちの通う大学も、また然り。水曜日の午後からすべての授業が休講となり、日曜の夜まで祭りがにぎやかにつづくのだ。
そして、その4日目にあたる土曜。
学祭本番は今日からだとばかりに、構内は趣々雑多な人々であふれかえっていた。
翔もまた、めずらしくそのうちの一人となってメインストリートにたたずんでいた。4年目ともなれば学祭自体は慣れたものだが、意外と落ちついて回った記憶はないものだ。文科系サークルなどに所属していた場合、その傾向はなおさら激しくなる。
彼もその例外ではなかった。エッセイやショートショートなどを中心とする文芸サークルに、入学早々からはいっていたのだ。
「まだまだ学生は元気デスってか」
はじめてまともに参加したであろうこの行事の賑わいに、彼は小さく笑いながら呟いた。
そしてそのまま雑踏の中を、渡り歩いていく。
騒がしいのはあまり好みじゃないが、こんな日はそれもいいか。サークルを理由にし、ロクに参加しようともしなかったことが、少しだけ悔やまれなくもない。
(書くこと以外、どうでもよかったんだよな……)
振り返った過去は、ほんの少し苦かったようだ。
とはいえ、そんな想いをかけらもにじませることなく、彼は飄々とグリーンベルトを進む。緑豊かなそのメインストリートは、初夏の陽気が、そしてわずかな涼風がよく似合う。
「気づかなかったな、こんなにいい季節に学祭してたなんて」
そよ風になびく前髪を、さらりと指先でかきあげる。その瞬間、彼の耳はバタバタという、この場に不釣合いな音を聞きとがめた。
唐突に起こったそれは、どうやら彼のほうへと一直線に近づいてくるようだ。
せわしないこの調子と、ゴム底タイプのものしか奏でないであろう、特有の足音。
(来たな……3,2,1)
カウントダウンとともに、翔の長い腕が、一気に伸びる。
「構内をむやみに走るな!」
抑えた恫喝を発するや否や。彼の腕は、目の前を駆け抜けるかに思われた相手の腰を、鮮やかに捕らえていた。
「こんなトコにいたーっ」
しかし、その手の先にひっかかっているものは、そんな一喝にもめげず、満面に笑みを花開かせている。叫んだ声は、いささかだが甲高い。
「ぎゃんぎゃんわめくなっ」
「だってさ! ちっとも顔出してくれないんだもん」
「たまには俺だって出歩くんだよ。お前こそ、店番は?」
突如として現れた彼は、まだ2年次生であるサークルの後輩。ほとんどをクラブハウスに拘束されているはずだ。ゆったりこんなところを歩いていられるわけがないのだが。
「そうだよ! おいらはさ、ずっとあの場所にいなきゃならないんだよ?」
抜け出してきたことを悪びれもせず、サボタージュの主は【先輩】に対して堂々と言い放ってきた。さしもの男も、この意見には呆れるしかない。
(……っていうか、お前も4年になったらこうやって歩くんじゃねぇのか?)
最初で最後のこの機会、どうせなら満喫してみようと思うのが普通ではないだろうか。
これまでは『わざわざ参加するなど……』と思っていたこともすっかり棚上げで、内心でグチってみる。
「だから、ホントなら今だって逢えなかったんだよ?」
けれどこの様子では、どうやらそんな心境は理解してもらえないようだ。というか、してやらないという雰囲気がありありというべきか。
じとっという言葉が一番適格な視線で、走り来た相手は憮然としてみせた彼を見上げている。
そのまま二人の視線が絡み合う……かと思ったところ。
「わかった、わかった。悪かったな、和真」
「 ―― なら、よろしい」
めずらしいことに、この彼のほうから今回は折れたのだった。
その姿に、和真と呼ばれた相手は、小さくふんぞりかえる。とはいえ、威張ったそぶりをしても、まだまだ子供じみてみえてしまうのは、その表情のせいか。
「へいへい。ありがとよ」
やっぱりふたつの年齢差は、あるんだな。
猫のようなくりくり目を笑いをこらえて眺めながら、翔はいまだ掴んだままだった手を放した。
「それで、なんだったんだ?」
「あ、そうそう。今回の部誌、もう読んでくれた?」
すっかり忘れていたのだろう。その言葉に弾かれたように、相手はがさがさと背中にあったDバッグをあさりだした。
「お前が貸さなきゃ読むわきゃねぇだろ……」
もうすでに最終学年を迎えた彼だ。いかに今年を含め4年間編集に携わっていたとはいえ、その作業中に原稿を読むような暇はない。そしてサークルもほぼ引退状態の今、仕上がった本年度の部誌を先回りして読む機会もありはしない。
息を切らしながらの質問に、彼はふたたび呆れて天をあおいだ。しかしそんな様子を気にすることもなく、相手はウキウキと1冊の本を取りだしていく。
(おいおい、部誌自慢かよ)
わざわざ走ってきてまで探し出し、言いたかったのはそんなことか。
思わず知らず、ため息が口を突いてでる。
別に彼とて、同じサークルに所属しているくらいだから、その手の心境がわからない人種ではないはずなのだが、どうもついていけない。
理由はといえば、単にこの男が感情を吐き出すために『書く』タイプの物書きであり、『見せる』ことへの執着が薄すぎるからなのだが、それは別段書き手として問題にはならないだろう。
「読んでないんだよね? ラッキーっ!」
眉間に縦皺を刻みながら見下ろしている相手に、まったく頓着しないのか。和真はその目の前で平然とページをめくっていく。
彼もどちらかというと自己表現のために『書く』人間だというのに、いったいどうしたのだろう。
訝しがる男の前で、それでも目的のページは探り出されたようだ。
「じゃあじゃあ、いくぞっ」
勢い込んだかけ声は、なおさら男を脱力させる。
「……どこへだよ」
「あなたは腕時計をしています!」
いつもどおりの軽口も、覇気がなかったためか、あっさりと無視されていく。話をはじめた相手に、翔は仕方なさげにつき合いはじめた。
とはいえ、マトモに応じる気など、この状態の彼にあるはずはない。
「してねぇよ。見りゃわかるだろうが」
「だから、してたらだよっ」
「してないものは、してない」
へらりと返された言葉に、話を聞けと和真は咬みついていく。こんな前提で、ごちゃごちゃ言われては話が進まないからである。
しかし、もちろんしれっと『現実』を返すのが、この神楽翔という男である。
「うー……」
この相手に実行するなど、どう考えても無駄という気がする。
それまでの浮かれた気分というか、やる気が、一気に和真から奪われた。
やる気……そう、彼は試したかったのだ。本に載っていた心理ゲームを。
「じゃあ、どうしてしないの?」
しばしの猶予をおき、彼は仕方なく設問を変えてみた。これなら答えが返ってくるだろうと。
それに対して、回答は迷うことなく返された。
「締めつけられるみたいで、嫌だから」
ガーン……。
和真の心象風景は、荒野と化した。
この手の本を読んだことのある人なら、知っているかもしれない。
この質問では、常に身につける『腕時計』=『恋人の象徴』なのである。
さて、この二人。このショックの受けぶりでお判りかもしれないが、彼らの関係はいわゆる恋人同士というものである。性別などは、愛の力の前では無力だったということなのだろう。
「おいらって……」
うっとおしがられてる?
思いがけない答えに、どう見てもこちらが受だろうと思われる青年、荒井和真は愕然とした。
(……っていうか、常に身につけるものとしてすら、認識されてないということ?)
それは、あまりにひどい認識ではないだろうか。
「それが、どうかしたのか?」
衝撃を与えた男は、ますます怪訝さを深めて、突然にこわばった質問者を見下ろしてくる。
当たり前といえば、そうであろう。
彼は自分の返した答えがどう解釈されるかなど、まったく知らないのだから。
「どうもしないよ……」
頭を強く振り立てて、和真は気を取り直して、次の設問へと進むことにした。
あくまで遊び、ゲームなのだからと、自分自身に言い聞かせながらだ。
「さらに進むと子供がひとり泣いてます」
「シカトする」
「じゃなくてー」
がくっと肩を落とした和真は、本すら取り落としかけた。こんな調子では、いつまでかかってもマトモな結果は得られそうにない。
「なんだよ、ったく」
文句を言いたいのは、妙な質問責めに遭っている彼のほうであろう。
「どんな声でどんな泣き方をしてますか!」
しかし、せっかくはじめたのだ、そうそうたやすく諦められようか。
決意に比例して語調も強く、どうにか問いのところまでたどりついて、相手を窺えば。
「……。すんすん、かな」
割にマトモな答えが、今回はすんなりと返された。
一応、理由を聞いてみたい気がする。
「ふーん。どうして?」
「ガキのなき方だろ」
「そうだけど……」
あっさりと返されたが、何の説明にもなっていない。
首を傾げて、和真はつい続きを促してしまう。
その姿に、相手の男はニヤリと口の端をひきあげた。
「お前がいつもそう“啼く”からだ」
「おいらはガキじゃないっ!」
しかしそんな反駁も、高笑いで返されるだけだ。
あげく『なく』と表された状況を考えれば、ますます地団駄を踏むしかない。
(む、むかつくー!)
判断される心理は確かにその内容のとおり『ベッドでの声』だったのだが、この男がなくはずがない。ならば返ってくる答えは、おのずと知れる。質問したこと自体、失敗だ。
これくらいならば訊かなければよかったと思っても、後の祭り。
どうやら、小含みをもたせて言葉がとめられたときに、ロクな続きを聞けたことがないということを、彼はまだ学習できていないようだ。
「もうちょい行くと小川がありましたっ!」
「落ち着けよ、声がでかいぞ」
いらだちを吐き捨てるように次の設問へと話題を変えた相手に、男はくすくすと笑いながらたしなめた。
「うるさいの! 川があったんだってばっ」
しかし、その言葉はどうやら逆効果だったらしい。
なおさら声を荒げた相手に、彼は内心だけだがマズったと思っていた。
(冗談抜きに、目立ってるとは思うんだ)
周囲からの視線が、かなり痛い。
メインストリートであるグリーンロード。そのど真ん中で、ぎゃあぎゃあと会話をしているのだ。迷惑がられるのも仕方ないだろう。
(しかも、この女の子たち……)
徐々に偏ってきた周囲の顔ぶれに、彼は小さく前髪を引きおろした。
「川岸に二本のロープがあったんだけど、その二本、どう置いてあると思う?」
「二本だって一目でわかったんだろ」
そんな周囲の事情に、気を払う余裕もないのだろう。相手はますます強い調子で答えを要求してきた。その様子に、翔は最後までつきあう腹を決めた。
「だったら、バラバラに置いてあったんだろうな」
「ば、バラバラ……?」
そんな相手の心も知らず、和真はその与えられた返答に、クリティカルヒットを喰らっていた。
この二本のロープとは、『対人関係』の象徴である。要は恋人と愛し合った後の状態というか、希望の体勢を表しているらしいのだが、それがバラバラということは。
(くっついてなんか、いたくないってことだよな)
要するに、ヤリ逃げってこと?
露骨な言葉で表現してみれば、なおさらに虚しさだけが心に広がっていく。
「……で、もういいか?」
疲れの色濃い問いかけが、その頭上に降ってくる。
「あとひとつ。それでラスト」
これ以上わざわざダメージを喰らうのも、さすがにバカバカしい気がしないでもない。それでも和真は最後の設問をはじめることにした。
「またしばらく歩くとボロボロの吊り橋がありました。吊り橋の向こうは金銀財宝の山。あなたの後ろからは敵が迫ってます。さてあなたのとる行動は?」
その質問文を読みながら、彼は相手の回答を予測していた。それは、その本に載っていた一例、そのままのものだ。
(これは、これ以外の答えは返ってこないよなー)
まず最初に、敵を徹底的にやっつける。そして慎重に吊り橋を渡り、確実にお宝ゲットを狙う。いったいそのほかに、どんな回答があるというのだろう。
彼がこれまでどおりの理論を呈するならば、まず同じ結論に達すると思われたのだ。
「吊り橋、ねぇ……」
「どったの?」
あっさりとこの答えが返ってくるだろうと思っていたのに、意外にも目の前の男は唸り声をあげていた。それもかなり真剣そうに眉を寄せてだ。
「なにか、問題あるのか」
「向こう側にも逃げ道、あるか?」
「さあ……どうして?」
唐突な質問に、和真もさすがに答えを返せない。
「渡れても帰ってこれないかもしれないだろ、荷物増えたら」
とことんまで理論を追求したいらしい。ここまでくれば、ひねくれっぷりも一つの個性だ。
そこまで拘らなくともと、質問者としては言いたいところだが、そう答えてはきっと話はここで頓挫してしまうだろう。
「なるほど……。なら、向こうにもルートがあることにしていいよ」
前提を勝手に増やして心理テストとして成立するのか、多少不安ではあるが、この際である。和真はそう条件を提示した。
その言葉に、男はふんふんと軽くうなずいてみせる。
「まあ財宝なんか無視して、とにかく逃げるってのもイイが……」
「……が?」
「逃げ道あるんだろ」
再度の確認に、小さくうなずきを返す。
「だったら一気に橋なんか駆け抜けて、敵がまだ橋の上にいるうちに、吊ってる縄を切り落としてやる」
バシっと言い放たれた答えは、和真の想像の範疇を超えていた。
「で、ブツ持って、向こうの道から退場するさ」
「はあ……」
「敵と戦う手間も省けるし、一石二鳥。まあ逆に橋を落とされないよう、気をつけなきゃいけないがな」
安全策ともいえるが、あまりにも無謀な感が拭えない。どうしたら、こんな答えが導き出せるというのだろう。
そんな眼を白黒させている相手をよそに、男は顎をしゃくらせて思考をつづけている。
「ああ。それも誰か一人、敵を引きつけておけばいいだけか」
さすがに相手も、仲間を巻き込んで橋を落としたりはしないだろう。
どうやら彼的には、理論を通せたらしい。
が、ここにひとつ難点が残っている。
「橋、ボロいんだよ?」
「いくらボロったって、渡れない橋じゃ、質問にもならないだろ」
さらりと返されたのは、そんな言葉だ。なぜこんなところだけ、設定を疑わないのだろうか。
「逆にボロ橋なら、すぐ落とせるだろうし……」
ぶつぶつとまだ考えつづけている相手を放っておくことにして、和真は改めて部誌へと視線を落とした。
追いかけてくる敵は、恋人。橋の向こうにある財宝は、魅力的な異性。
「……次の幸せを確保できる見込みがあったら、前の恋人のことなんか考えないってことか」
「なんだ?」
心理的考察をくだした和真は、深々とため息をついた。目の前はすでに真っ暗だ。
たかが心理テスト。
けれど、恋人から返されるには、あまりにキツい内容ではないだろうか。
「考えないって?」
どうやら部分的にだけ、聞きとがめたらしい。
「追ってるのは敵なんだろ。迷ってるヒマなんてないじゃんか。な?」
引きつった様子に、どうやら相手の不安はかき立てられたようだ。
眉をほんの少ししかめて、わざわざ言葉を重ねてくる彼は、意外な必死さをみせている。その姿からは、さっきまでの考察がまちがった、杞憂なのだとしか思えない。
(理論派には通用しないってワケじゃないだろうけど……)
彼の愛を、信じたいとは思う。
けれど導き出せた結果に、もはや相手への不安や不満どころではない、もっと大きな不信にも似た何かを感じてしまった和真は、どうしてもその顔を曇らせずにはいられない。
「敵なんか、殺すか逃げるか。だろ?」
そんな相手の様子に、信じるべき恋人はいっそう首をひねっている。
(いっそ、この本を見せてやればいいのかな)
だが、コトはそういう問題ではないのだ。
「じゃあ追いかけてるのが、昔の仲間とかだったら?」
ふと思いついた質問を、彼はぶつけてみることにした。“敵”という定義が、相手にとってはあまりにも対立するものという認識が強すぎる気がしたからだ。
「そうだな……」
目の前の男は、宙を見上げた。しかし、すぐさま視線は元へと戻された。
「場合によっては、あっさり殺されてやる」
「はぁ?」
「っつーか、自分に非がありゃあな」
なんと潔いというか、あっけらかんとしたというか。
今までのパターンからは予測もできない答えに、もはや和真は声を失った。どれもこれも、すべてが予想範囲外だ。
(このひとって、絶対に理解不能……)
それでも、ほんの少しでいいから知りたい。
そんな想いが、大きな瞳をひたと相手にとどめさせてしまう。
きょとんとしたそのまなざしに、見つめられた翔はそっと苦笑をみせた。
「あと、それにな」
そして先ほど言いそびれた言葉をうながされように、唇にゆっくり乗せていく。
「絶対手に入れたいと思った財宝なら、手に入れてみせるさ」
逃げ道なんて、なくてもいい。ないなら、造るだけだ。
「そうだろ?」
風にあおられる前髪のなか、覗き込むように注ぐ視線は、強く輝いている。
一番に選ぶべきものを知っている者の自信が、その表情にはあった。
「翔……」
ようやく得た、ファーストネームでの甘い呼びかけに、男は静かに相好を崩す。ますます和真を虜にしていく、流し目つきでだ。
「それを一番知ってるのは、お前だと思うけどな」
けれど微笑みは、一瞬にして、からかいの表情に取って代わった。
やたら声量を抑えての言葉は、深読みを誘ってやまない響きがある。
「あんた、これ読んでっ……!」
「読んでねえって。おい、やめろっ」
よろめきかけた自分のふがいなさに、腹が立ったのだろう。
和真はいきなり、本で目の前の男の身体をバシバシ叩いた。もちろんさほど力はこめられていない。
「んなコトより、かなりウケちゃってるんだがなぁ」
大げさに肩をすくめ、ようやく本を奪い取った男は、いまだ好戦的な相手へと声をかけた。
その言葉にあわてて視線を巡らせれば、いるわいるわ。
遠巻きに集まっているのは、見覚えのある人間ばかり。サークルの……ようするに、お仲間というヤツだ。部誌の内容も、しっかり記憶しているのだろう。
「ど、どうしよ……」
くすくす笑いやら、不穏げな視線やらのど真ん中で、ようやく状況を理解した和真は、あわてて男をつついた。
「お前がくだらない心理テストなんか始めたからだぞ」
「なんで心理テストって、わかるんだよ」
「そんなもん、それ以外のなんだってんだよ」
こそこそとしたやり取りは、かえって目を引くらしい。
ますますざわめきだした周囲に、それでも不敵に笑いながら、堂々と翔は問いかけた。
「さて、どうする?」
「そんな、どうするって……」
聞かれても、答えられるはずがない。思わず呆然と立ち尽くしかけた、その瞬間。
「なら、逃げるぞっ」
その言葉と同時に和真は腕を掴まれ、ダッシュを余儀なくさせられたのだった。
「財宝を手にしたら、あとは全部いらないからなっ」
どこへ向かうのだろうと疑問を持つ間もなく、緑風を切りながら、一気に男は開け放たれた校門へと駆け出していく。
「おいらの荷物……っ」
いきなりの行動についていくのがやっとだった和真が、焦ったようにそう口にした。
「それ持ってるんだから、別に何もないだろ」
切れ切れの声に、ペースを緩めないままながら振り向いた相手は、すぐさま向きなおる。
示されたのは、肩からかついでいるDバッグ。見た目からは想像出来ない重さのそれが、彼のいつもの持ち物であることは、翔もよく知っていることである。
「うん……。でもあんたは?」
「これだけあれば、どうとでもなる」
携帯と財布など、貴重品を入れているセカンドバッグをかざし、足取りはますます速められていく。和真はついていくだけで精一杯、ほとんど引きずられている状態だ。
「なに、そんなにっ、焦ってんの?」
「どうせ今日は夜出直して、軽音行く予定だったろ」
問いには直接答えず、逃げ足なら速いと常々言っていた翔は、その足をなおさら誇示する。
「あとでメールすりゃ、お前の荷物も部室から運んどいてもらえるだろ。な?」
「そりゃ……。そうだねっ」
少しどころでなく図々しい意見。けれど、和真は同意を示した。部室に一番戻りたくないのは、彼なのだ。
相手がいいというならば、それできっと大丈夫。
無責任ながらも、彼はあざやかにすべてを責任転嫁した。
「明日は、本番かー」
自ら進んで駆けだしながら、彼は重い荷物を気にすることなく地下鉄駅へと向かう。
明日の日曜は、ライブ。和真は、高校からの友人と、昨年の秋同様バンドを組むのだ。
「楽しみだよねっ!」
「そうだな」
元気いっぱいという様子は、いかにも和真らしく、見る者にも微笑みを浮かべさせる。
そんな調子であっという間に改札をくぐれば、まだまだ来る人間のほうが多いらしく、名駅方向のホームは無人状態だ。
「で、どこで降りるんだっけ?」
「ああ…適当に、夜までの時間つぶしをしよう」
がら空きのベンチに座り、わずばばかりかいた汗もそのままに、これからの予定を話し出す。
「うん、そうだね。どうしよっかー」
夜からは、明日に向けて最終調整。泊まりこみになるだろう前に、多少の休憩も取らなければならない。けれど、まだまだ陽は高いのだ。
明日もさることながら、どうしたって今から何をしようかと、心が躍ってしまう。
「どうとでもなるさ」
「へ?」
「時間はたっぷりあるしな」
別に言葉だけならば、普通のものだ。
けれど、耳元でささやかれるそれは、妙に扇情的なものとして響かされた。
(な、なに? これって!)
思わず全身を強ばらせるが、軽く肩に腕を回されては、逃げるところはどこにもない。ヘタに動けば、対面ホームからも怪しまれる。
なにより恋人の腕を拒絶することなど、誰にできようか。
「ちょ……、せ、せんぱい?」
「翔だろ。……心理テストなんかで、計るより。な?」
ほとんど耳を噛むような状態で、言葉はつづけられる。かすれた声音も、熱い息も。駆けてきたためにあがった体温すら利用した、策略に満ちた誘いだ。
(それなのに、そんな真剣な表情するなんて……ズルイや)
手管と知っていて、なお和真の心拍数はとどまるところ知らずに上げられていく。
「お、おいら、明日、本番……」
「俺もだ」
とりあえずの逃げを打つが、そんなものが通用するとはお互いに思っていないだろう。
交わす視線は、もはや暗黙の了承を示している。
「もう二度と、あんなもので試せないようにしてやるよ」
そして、かすめ取るような口づけ。
翌日。軽音のライブがどうなるか、まだ誰も知らない……。
おわり
とりあえず、逢ってから1年と2ヶ月ころのふたり。
人間として、落ちついてきた感じ…ただバカップルともいえるが。
これも過去作からの手直し。
本編は出会いからはじまり、恋愛自覚、そして告白までが目標。
なのでこんなふたりになれるようにと希望を込め。
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