概 略
津島祭は、七月第四土曜日宵祭(提灯祭)、翌日曜日朝祭(車楽祭)を中心として、三ケ月に亘って執り行われる津島神社の大祭で、大きく別けて神社で行なわれる「神葭神事」を中心とした神事と、天王川で行なわれる川祭に別けられる。
川祭は、津島五車(下構・堤下・米之座・今市場・筏場)による巻藁船による宵祭と、市江車と津島五車の車楽船による朝祭が行なわれる。
宵祭は、船二艘を横に連結し板を渡し、その上に屋台を乗せ、その上に井垣を組み、その上に坊主(巻藁を詰めた木枠)を乗せ、これに竹の先につけた提灯三百六十五個(閏年は三百六十六個)を半円形に飾り付け、中央に真柱(如意竹)を立て十二個(閏年十三個)の提灯を掲げる、他に約百個の提灯を飾り付け、車河戸より津島楽を奏しながら(試楽)御旅所に漕ぎ渡り参拝し、車河戸に帰る。
朝祭は、船の屋台の井垣の上に、上段・下段の屋台を組み、能人形を乗せ小袖や花等を飾り付ける。鉾持ち十人を乗せた市江車が、先車として天王川に漕ぎ出し、後に津島車が続く、中程で鉾持ち十人が次々と川に飛び込み、御旅所前に上陸し、津島神社まで駈け布鉾を神前に奉納する。その後市江車・津島車は順次御旅所前に着岸し、稚児以下上陸参拝の後、神輿と共に津島神社に参詣し、神前に楽を奉納し、再び乗船し帰途に著く。
神事は、神葭に人々の罪穢れを託し、川に流す事により、神の力により酷暑を無事過ごそうと祈念した、祖先の信仰の名残であろう。
由 来
津島祭の由来を記したものに『浪合記』『市江祭記』『藤浪私記』『津島祭記』が残されており、これらを要約すると下記の四項となるが、どれも確証を得る事は出来ない。
一、@ 天王 尾張国、姥か懐(津島市 姥か森)という所に来り給い、其後、居を津島にしたもう。その頃、今の天王
嶋(津島神社の所在地、二百年以前は独立の島で、嶋・天王嶋・向島などと呼ばれた)は草野であったが黒宮修理
という市江嶋在居の武士の下人が、草刈船に乗って天王嶋に渡り、草刈りをしていたが塩満ち来り、皆々船に乗ろ
うとした時、下人の一人が、「吾は牛頭天王なり。今疫癘盛んにして万民悩む事少なからず、彼の真要を学び、船
の上に種々の荘り物をし、神意をすすめし祭事をなすべし。疫癘静まるべし」と云ったので、草刈船の帆柱に衣類
をかけ鎌をならし、舷をたゝき、口笛をふき、神祭を勧めたので、即時に疫癘鎮まり、万民安堵の思いをした。こ
れにより、毎年六月十五日満水に船を組み、車をあげ、鞁をのせて、鞁の声・笛の音がひびきわたり、天下泰平・
国土安全の祭として黒宮の一類が集まって神祭を相つとめた。
A 天王(牛頭天王)西洋(にしのうみ)より光臨され、市腋島の草のに御船がついた折、草刈の牧童が集まってい
て、簀を積重ね、枴に手巾ようの物をかけ、笛を吹き、鎌をうち鳴らし、余念なく遊び戯れている姿を愛で給い、
児舞・笛(津島笛)の譜を製し、教えられた。ところが、文治の頃、天下大いに乱れ、御神事も退転せんとする頃
、諸国に疫癘流行して、万民悩むこと夥しく、この頃、市腋島に黒宮修理なる武士が在存し、その召仕の童子に神
託があって「六月十五日の神事は国家安全武運長久の祭で、早く調栄すべし」と伝えられたので、黒宮修理は一族
と議し、船を組み、屋形を設け、様々に装い、舞楽を奏したので忽ち疫癘鎮まり、万民安堵の思いをなした。それ
より中絶することなく元亀の頃に至った。また、天仁の頃(十二世紀初)合戦止むことなく、神事退転し七十七年
中絶したが、元暦元年(十二世紀後半)申辰、諸国に疫病流行し、万民苦しみ悩む折、市腋島の黒宮修理の下人が
草刈に集まっている人々に神託を伝え再興された、とも伝えられる。
B建速須佐之男尊の神託によって、市腋島の草刈船に神意をすすしめ、疫癘が鎮まった。
二、「佐屋村に台尻大隈守という北朝方の武士がいて、津島に逃れ来た良王(後醍醐天皇の孫、尹良親王の御子南朝方)
に讐をしようとしていた。良王を守る津島の四家七党(大橋・岡本・山川・恒川の四家と、堀田・平野・服部・真野
・鈴木・河村・光賀の七党)の武士は祭事にことよせ、天王の神託ありと披露して台尻大隈守を誘い出したので、台
尻大隈守は一族を催して船を飾り津島に漕来った折、四家七党の船十一艘は津島にあり、大橋氏の船一艘は一会村に
あって漕出し、合図を定めて台尻の船を取囲み、討沈めてしまった。この台尻を討ったのは、六月十四日の夜の事で
、これにより後世まで『台尻(車楽)討ったと囃すべし』との命により毎年囃し替わることなく津島祭を行なうに至
った」
また、四家七党の船にには、一類一党の者の他が乗る事は堅く禁じ、もし他家の者乗る時は、四家の者の装束を借
りて乗り、これを主達衆と名付けた。
三、「尊神が酷暑に当り、人々が矮屋に住み、苦しんでいるのに対し、此の祭を見る者をして炎熱をさまさしめるため」
また、「牛頭天王が南海に赴き、ご本望をとげられ、王子を数多く儲けられ、帰途に巨旦(将来)を退治遊ばされた
」ことによるとも、「宝祚の御長久・天下泰平・国家安穏・五穀成就の御祭である」とも伝えられる。
四、「此祭礼は去る享禄年中、一書に永享八年六月十四日、四家七名字の者とも、京都祇園の御霊会を写して、船をもゆ
ひ、山を架して渡す」
歴 史
津島祭の第一人者で『藤浪私記』『津島祭記』『津島祭礼勘例帳』等を著した神学者真野時網(一六四八〜一七一七)の時代には既に祭の真意が不明確となっており、他に、津島祭の歴史を記したものに『津島神社記録』『筏場車祭礼記録』『今市場車諸記録』『市江車諸記録』等が残されてはいるが、今では、起原も、神葭神事と川祭の繋がりも不明瞭であるが、記されている事を大別整理すると、
神葭神事については、『張州雑志抄』仁治年間(十三世紀中頃)の解状や、愛知県文化財鉄灯籠(津島神社所蔵)の刻文、
津島神社所蔵の長禄三年六月十二日付古文書や、『牛頭天王講式』(天文頃)によって、神葭神事が中古以前に六月十五日に行なはれてた事がわかる。
又、神葭野がどこにあったかは不明であるが、他の津島神社所蔵の古文書によると、神葭野は聖地とされていた。
江戸時代の多くの文献には、神葭放流神事による神葭が、潮の流れによって津島近郊を始め、熱田・知多半島等伊勢湾の遠隔地にまで漂着し、芸能を伴う「神葭祭」が盛大に行なわれた事が記載されている。
川祭については、
『津島祭礼勘例帳』大永二年に、津島三車(筏場・今市場・中島)の車楽及び大山の置物の名が記され、『筏場車祭礼
記録』(大永二年より記録)天文九年には、川祭が市江車と共に行なわれており、狂言「千鳥(対島祭)」は、室町末期
の津島祭の陰影を伝える物かもしれない。
川祭については、
古文書(津島神社所蔵他)
「かつさ殿(信長)橋の上に御座候而御見物成られ女房達橋坊主のうらに桟敷を打、それに御座候」(弘治四年)
「殿様御見物成され候」(天正五年)
「六月二日天下にて明知むほん仕 上様殿様御あやまちによって 十四日迄 車用意不仕候而 俄に十四日ニ台尻
はかりすくるま(素車)にて江口迄わたし 十五日にも右之分はし(橋)迄わたり申候 山(大山)ハわたり不申し
候」(天正十年)
「殿様御見物成られ 一段御ほめ成られ候 橋坊主処ニ而御見物遊ばされ候」(天正十五年)
「殿様志やうやう様車御見物成られ たいそう(な)まつりと 御ほめ成られ候…」(天正十九年)
「清須寺従(侍従)様より五ケ村之車へ 米五十石御寄進成られ候而 一段御車かさり道具けっかうニ成申候 寺
様向島橋つめニ二十間ニ長屋桟敷を御作成られ 御見物遊ばされ候 堤下 米之座 此年より川わたりニ成られ候」
(慶長四年)
「下野様(忠吉)御見物なられ候而 一段と御ほめ成され候 五ケ村之車へ米五十石御寄進成られ候」(慶長六年)
「殿様御見物」(慶長十年)
「下野様御ふたり御見物成られ候 あふゑ様ハ御座舟にて御見物成られ候」(慶長十一年)
「主計様(平岩か)御見物にて…」(慶長十四年)
『張州雑志抄』
「按長政神主之解状 豊臣秀吉公覧祭之御 因当社御厚信 或時有命日 以当宮移伏見附一万石 以六月大祭渡淀
川。然れとも此神島鎮座 其根元遠神故を以て訴錬せしかは、甚た感喜せられ 其挙をやめられるとかや」
このように、織田信長・豊臣秀吉・松平忠吉等は、頻繁に川祭を見物し、車町に寄進された事の他、堤下・米之座の両
車が陸車から川車になった事や、「本能寺の変」で信長が逝去した時には素車にてのお渡りだった事、豊臣秀吉は川祭をい
たく気に入り、一万石と引換えに川祭を伏見淀川に移そうとして拒否された事が見うけられる。
又、市江車の事については、
『市江祭記』
「元亀の頃に至り、黒宮の子孫、次(治)郎左ヱ衛門という者、百姓を集め、元亀元年(三年ともいう)五月七日
に一揆を起こし、織田彦七の屋敷城(市江島のうち西保ともいい、尾州子消村ともいう)を改め、六月十四日(又は
十一月二十一日)に討亡ぼしたので、織田信長が天正二年に出陣し、市江一揆を静め黒宮の一類を残らず討亡ぼし、
市江島は為に空地となり、神事も中絶(二年又は数年)した。」「天正四丙子年(又は天正の末)宇佐美・服部・佐
藤・伊藤の四家の浪人が市江島に渡って、荒地をおこし、百姓を召集め、御祭礼を再興せばやと、旧記を尋ね古例を
糺し、往古の儀式悉く闕る事なく調べて復興した。」「六月六日夜、月とも知らず星とも知らず西保の宮にて、「神
事を始めよ」との神託を四家の者がうけ再興し、その後中絶することなく現在に至っている。」
とあるが、つまびらかではない。
江戸時代には、歴代の藩主が来遊し、車田を基盤として手厚い保護を受け大いに賑わった。しかし延享四年の大火により津島の三車の車楽・大山が焼亡(天明復興)したり、佐屋川・天王川の河口が浅瀬となり、宝暦・天明の間に天王橋が取除かれ、天王川が池となり、又、しばし出された倹約令の為、賑わいも次第に薄れていった。
明治新政府となり、市江車・津島車共に車田が召し上げられたが、各車屋の絶大な奉仕により祭は続けられることとはなったが、朝祭の大山は廃止された。明治三十二年には佐屋川が廃川され、市江車は船列を組んで祭場天王川に渡ることができなくなった。
その後、戦中・戦後と時代の変転の中でも祭は継承されてきたが、時代の変遷を受け、昭和三十八年奉賛会の設立と共に、奉仕者・見学者の便宜を考慮し、数百年連綿として守られてきた旧暦六月十四日(宵祭)十五日(朝祭)「水無月望の日」の祭礼が、新暦七月第四土曜日(宵祭)翌日(朝祭)に変更される事となった。
尚、市江車は毎年朝祭の「先車」として奉仕されるが、宵祭(試楽)には出ることはなく、車楽だけで大山の記録も無い。しかし、なぜ「先車」であるのかは、『市江祭記』の「御祭の濫觴ハ我里市腋ヨリ起リテ」との記述のみであり、「鉾持ち」が船より川に飛び込み神前に布鉾を奉るが、この事も起原等は不詳である。
祭 礼
神葭苅取場選定神事 宵祭十五日前(旧六月一日)
午前九時、神職立田村の神饌田に赴き、中央に梵天(御幣を付けた青竹)を立て、それより四方に注連縄を引き廻らし
聖地と定め清祓神事を行なう。
一夜酒醸造 宵祭四日前(旧六月十日)
神供の一夜酒を醸造する。
古来よりこの酒は、夏季の災いを祓除けるとの信仰があり、これを拝受しようとする人々が翌早朝に社頭に並ぶ。
神葭苅神事 宵祭三日前(旧六月十一日)
神職並び苅取人夫は神社を出立し、神葭苅祭を斎行の後苅取を行なう。
苅取った神葭の中から、太く真直ぐで葉が左右に分かれた葭を「真の神葭」として選び御幣に結び付ける。
この他の葭は、整え束にして神社に安置する。
神葭揃神事 宵祭二日前(旧六月十二日)
午前八時、神職潔斎後本殿に於いて、前日苅取った葭に飾付を行い調製する。
神輿飾 宵祭前日(旧六月十三日)
早朝より神輿お飾り立てを行ない、御旅所・太鼓橋に斎竹を立て注連縄を張る。
神輿渡御 宵祭当日(旧六月十四日)
大神様が宵祭・朝祭を御神覧なされる為に午前十時本殿にて渡御祭を斎行後、列を整え神輿を天王川御旅所へ
御神幸する。
御旅所に着き神輿・御神宝を安置後、着御祭を斎行する。
太御饌調進祭 朝祭当日(旧六月十五日)
宵祭の終った後、本殿内陣御神座間近に特殊神饌と、外陣に三宝神饌を供え、摂末社には、一夜酒を注いだ輪切りの白
瓜を供えて人々の疫難・災厄を消除祈請する、川祭の核心となる厳儀。
神輿還御 朝祭当日(旧六月十五日)
車楽船が全て着岸し、車屋・稚児・囃し方等上陸の後、神輿前にて還御祭を斎行、列をと整え(神幸祭の行列に、市江
車・津島車が続く。)本殿に還幸する。
本殿に着き神輿・御神宝を安置後、還御祭を斎行し後、市江車・津島車の車楽を奉納。
神葭放流神事 朝祭翌日(旧六月十六日)
朝祭の深夜一時、一連の「神葭神事」の中で、最も意義深く神秘な神事で、前日の大御饌調進祭に、人々の疫難・災厄
を消除祈請した神葭を、天王川に人目に触れる事なく放流し疫神の退去を願う。
神葭着岸祭 放流一日後(旧六月十七日)
放流された神葭が天王川を漂い岸に着くと周りを斎竹で囲み祭典を行う。着岸した町内は神葭を拝礼できる堤防上に、
手水鉢・燈明台を設けこの日より七十五日毎日献灯し拝礼する。
以前、周辺の町内は神葭の着岸を悦び歌舞や草競馬映画の上映等の神振行事を行ったので、若者は神葭を深夜に自分の
町内に引き込んだりした。又、小さな子供達は笹に提灯を付け神葭にお詣りする「おひともし」(お火灯し)も行なわれ
ていたが、今は残されていない。
江戸時代天王川が伊勢湾まで流れていた時には、伊勢湾岸各地に着岸した記録や、伊勢志摩地方や日間賀島に漂着しこ
れを祠にお祀りした、という記録も残されている。
神葭祭 放流七・八日後(旧六月二十三・二十四日)
七日後午後四時一回と八日後午前九時二回、宮司以下神職と巫女赤船二艘に分乗し、着岸した神葭前に進み、
祭礼と神楽を奉納し神慮を慰める奉納する。
神葭納神事 着岸七十五日(旧八月晦日)
午後四時着岸祭の斎行された祭場において、着岸町内の町人参列の上神事の後神葭を神葭島に納め、九十日間に亘って
斎行された津島祭は終了する。
朝祭(車楽祭(だんじりまつり))
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