御祭神 たけはやすさのおのみこと
   建速須佐之男命

       

御相殿 おおなむちのみこと
  大穴牟遅命(大国主命)

 須佐之男命は天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟神で、父神伊邪那岐神(いざなぎのみこと)が鼻を洗った時にお生まれになり、海を統治することを命ぜられたが、父の命には従わず泣哭するばかりで政をしようとはしなかった。そのため伊邪那岐神は怒り、根の国に追放を命じた。命は根の国に下るに際し、姉の天照大神に別れを告げるため高天原(たかまがはら)に詣るが、天照大神は、性が激しい命がどうして高天原に上ってくるのかと警戒するので、命は「決して邪険な気持ちは無い」と天照大神に誓約し、伊邪那岐神の許しを得て高天原にしばらく住む事となったが、生来の暴性が出て乱暴な行為を繰返した為、天照大神は天岩戸(あめのいわと)に隠れてしまった。高天原の神々は天安河(あまのやすかわ)で会議を開き、命に罪を祓わせたのち追放の刑に処した。命は旅を続けて出雲国に至り、そこで八岐大蛇(やまたのおろち)を屠り、この縁で稲田姫(いなだひめ)を娶り出雲に住むこととなった。又、八岐大蛇尾から出た天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を天照大神に献上し、許しを請うことが出来た。

御鎮座

 社伝によるに、須佐之男命韓国に渡りましける時、その荒御魂(あらみたま)は尚出雲國に鎮まりまして日御崎の神となり給ひ、又和御魂(にぎみたま)は孝霊天皇の四十五年乙卯(前二四五)に一旦西海の對馬州に鎮まりまし、欽明天皇の元年庚申(五四○)この地藤浪の里馬津港居森の地神島の南(南参道居森社の地)に移らせ給ひ、聖武天皇の天平元年己巳(七五七)神託によりて北方柏森(境内栢森社の地)に移し奉り、嵯峨天皇の弘仁九年庚寅(八一〇)今の地に移り給ふたとある。

御神徳

   疫病・厄難除け・医療・殖産興業と授福

 逸話

一、日本書紀 巻第一(神代上)

 一書(あるふみ)に曰(い)はく、素盞鳴尊(すさのおのみこと)の所行(しわざ)、無状(あぢなき)し、故(か)れ諸神(もろもろのかみ)(おほ)するに千座置戸(ちくらおきと)を以てして、遂(つい)に逐(やら)ひたまひき、是の時に素盞鳴尊、其の子五十猛神(いそたけるのかみ)を帥(ひき)ゐて、新羅国に降到(くだり)りまして、曽尸茂梨(そしもり)之処に居(ま)します。乃ち興言(ことあげ)して日はく、此の地(くに)吾不欲居(あれをまらくほりせじ)とのたまひて、遂埴土(はにつち)を以て舟を作り、乗りて東に渡り、出雲国の簸川上(ひのかわかみ)に在る鳥上(とりかみ)の峯(たけ)に到ります。

二、備後風土記(蘇民将来説話)

    和銅六年(七一三)勅命により編まれ上表された地誌

 備後国風土記(きびのみちのしりのくにのふどき)曰はく、疫隅国社(ひのくまのくにやしろ)、昔北の海に坐しし武塔神(むたふのかみ)、南の海の女子(むすめ)をよばひに出で坐ししに、日暮れたり、彼所(かしこ)に蘇民将来(そみんしょうらい)・巨丹将来(こたむしょうらい)といふ二人住みき、兄の蘇民将来は、甚(いと)貧窮(まづ)といしく、弟の巨丹将来は、富饒(にぎは)ひて、屋倉(いへくら)一百(ももち)在りき、爰(ここ)に武塔神、宿処(やどり)を借り給ふに、惜みて借しまつらず、兄の蘇民将来は借し奉る。即ち粟柄(あわがら)を以て座(みまし)とし、粟飯等を以て饗(みあへ)(たてまつ)る。既に畢(を)へて出で坐しき。後(のち)年経(としへ)て、八柱の子(みこ)を率(ゐ)て還り来て、詔(の)りたまはく、我(あれ)、将来の為に報答(むくい)せむ、汝(な)が子孫(うみのこ)、其の家に在りやと問はし給いければ、蘇民将来答へ申さく、己(おのれ)女子(むすめ)と斯の婦(め)と侍(さもら)ふと申す。即ち詔り給はく、茅(ち)の輪を以(も)て腰の上に著(つ)けしめよと詔り給ふ隨(まにま)に、著けしめき、即夜(そのよ)に、蘇民と女子(をみな)二人とを置きて、皆悉(ことごと)に許呂志保呂保志(ころしほろぼし)てき、即時に詔りたまはく、吾は速須佐能雄能神(はやすなのをのかみ)なり、後世に疫気(えやみ)あらば、汝蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以て腰の上に著けよ、詔の隨に著けしめば、即ち家なる人は免(まぬか)れなむと詔り給ひき。

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