御神紋は「木瓜」(もっこう)、この紋は京都八坂神社を始め『須佐之男命』をお祀りする多くお社のが御神紋としており、御祭神と何らかの関係があると思われるが不明である。
「木瓜」は「きゅうり」又は「ぼけ」の切り口をかたどったものともいわれ、実際祭事の期間中にきゅうりを食さない等の信仰も残されているが、元来は中国に於いて、官服や御簾模様に使われた文様を示し、卵を産んだ鳥の巣を象ったものといわれている。
 織田信長もこの紋を使用し、「織田木瓜」とも呼ばれ、津島神社は信長の紋を拝領したとの説もあるが、織田氏の祖は越前織田の郷「剣神社」の神官であり、この社紋を使用したとの伝えもある。
 又、先に述べたように京都八坂神社を始め多くの『須佐之男命』を御祭神とするお社が「木瓜」社紋を使用していることから、当時の武士が神の力によって武運を祈願したように、信長も『須佐之男命』の御神威を身に付け自らをより強固のものとする為、この神紋「木瓜」を用いた思われる。

 本殿の正面と裏面の中央に「桐」が描かれており、欄干の飾り金具には「木瓜」「葵」「桐」が描かているが、これは本殿の築造の起源に深く関係しているのではないかと思われる。
 本殿は慶長十年(1605)清洲城主松平忠吉公(家康四男)健康祈願の為、室政子が寄進とされているが。それ以前、天正十九年(1591)豊臣秀吉によって楼門が寄進され、慶長三年(1598)には豊臣秀吉病気平癒祈願の為、子秀頼が南門を寄進しているが、この間文禄二年(1593)本殿の造替寄進も行われており、それ以前元亀・天正年間にかけて現在の本殿に見劣りすることのない造営がなされていたとおもわれる。
 何故、慶長十年に室政子が本殿を寄進し建て直したかと言う疑問が生ずるが、これは平安時代から続き当時も信じられた「怨霊の祟り」という信仰によるものと思われる。
 秀吉は、家康に豊臣家の将来を託して逝ったのに、家康は徳川家繁栄の為豊臣家を排除し全国を平定していったという、歴史背景によるものではないだろうか、家康の四男松平忠吉が病弱なのは、秀吉を始め豊臣家の祟りと考え、秀吉が信仰していた津島神社の本殿を造営することによって、御祭神『須佐之男命』の御神威に依り、豊臣家の怒りを鎮めたとのではないかと考えられる。


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