隠居のつぶやき(番外編 2部)

(11)感 動  12月31日
  各地への書き込みも今年は終わったと思っていた。ところが朝刊を開いてびっくり、思いがけない記事、是非全国の皆さんに紹介したいと思い急遽パソコンの前に。
「生きてよ!熱血先生 全国からバスケ部員OBら500人集う  がんの恩師に贈る ”激励”試合」「今日集まったみんなは奇跡を信じます」。愛知県江南市東野町の私立滝学園に30日、がんで闘病中の同校もと教諭、溝口健さん(61)が病院の特別許可を得て訪れ、集まった500人の卒業生らと再開。全身衰弱した状態でありながらかっての教え子一人ひとりを励ました。・・・」
  誌面を大きくとった記事、そして写真、移動式ベッドに横たわる溝口先生、周囲を囲む
年輩の教え子たち。  「溝口さんは同日、教え子でもある医師につき添われ、病院の救急車で同校体育館へ。衰弱が激しいためベッドに寝たままだったが、目を細めて観戦。・・・・」
  年1・2回大会のおりしか会わなかった溝口先生だったが、バスケでは先輩でいろいろ言葉をかけていただいた。息子の高校進学では我の家まで勧誘にみえた(進学しなっかったが)。また私が県のバスケ部門でスポーツ功労者の表彰をただ一人受けた折も、実は溝口先生が、理事会で「無名の人物であるからどうか」と難色を示した発言に対して「知らぬ者は黙っていろ」と叱ってやったと私に言われた。バスケ名門校だったので私の教え子も厄介になった。
  ともあれ未だ若い溝口先生その気力を持って病魔を克服して、バスケット界を再びリードして下さいとひたすら念ずるのみです。
  (今年も後13時間程残すのみ皆様よいお正月をお迎え下さい)

(12)悲喜こもごも 14年1月4日
  3日朝雨戸を開いてびっくり凄い積雪今日の同窓会は大丈夫かと危ぶむ。52才の人たちである。今回は婿さんも出席するとて彼の車で会場まで。60数名の参加者でビックリ。直ぐ見て誰か分かる人もいるが全く記憶のない人も多い。時間が経つと段々少年少女時代の面影が出てくる。
  100人近くの社員を統率する経営者のY君、37才で主婦ながら大学に入り管理栄養士として活躍しているM子さん、すでに孫が小学1年という元ソフト部員、他町村に養子にいき町会議員をしているK君・・・なかには堅い会社勤めをしながら別にタレント業をしているというS子さん、有名タレントと並んで大きく新聞に載っているのを披露。なかなか楽しい。ところが私が陸上部で指導したT君、郡内の大きなスーパーの店長をやっていたと聞いていた。そのT君が2年ほど前倒れ退職し、最近また入院中と聞く。あの健康そのものでハードル選手として地区大会で優勝した彼が。また建築会社を興し盛大にやっていたI君、名古屋にも大きな店を作っていたが、最近倒産したそう。
  いまだに子供に恵まれない男性、女性、娘が28才になっても結婚意志がないと嘆くH子さん様々である。37年の歳月は一人一人に多くの喜びや重い試練を与えているようです。
  帰省中の孫が初心者マークで雪の中を迎えに来たのに乗車し、はらはらしながら帰宅。
幸多かれ昭和43年3月卒業の諸君!とただただ念ずるのみ。

(13)古武術  1月25日
  時代小説「剣客商売全集」池波正太郎著八巻を年末からかかって全巻読破した。無外流達人の小柄な秋山小兵衛65才、百姓娘だった後妻20才、大柄な剣豪倅の大治郎、妻三冬・・老中田沼意知の妾腹の子(美貌の剣士)。この異色の組合せで彼らが織りなすストーリーは毎回異なっていて興味津々、読後感も全く爽やかである。特に主人公小兵衛の快刀乱麻を断つ事件解決、強敵を倒す剣の冴え、これぞ古武術かなと想を逞しくする。そう言えば少し前テレビで藤田まことが剣客商売での秋山小兵衛を演じていた。
  ところで隠居はこの頃古武術に関心を寄せている。それはNHKで放映された「古武術を活用した桐朋学園のバスケ」(ETV2001)からである。かなり要望があってか28日に再々放送されるそうである。まだ見ておられない方はぜひ見られるとよいでしょう。
  桐朋の金田監督は1月17日の日記で次のように書いておれれる。「古武術を導入し成果を出してきたのですが、本家もダメになってしまいました。・・・」  http://www.team4u.jp/
  吾が尊敬するMocchin先生(松江高専助教授・島根県バスケ協会副理事長)は遙か島根より上京、桐朋学園の練習を見学に行かれました。そしてつぶさに感想を「提言欄」に書かれ、その上最近「古武術練習日誌」を公開されました。とても貴重な資料です。皆さんもきっと参考になる、また目が覚めるような記事に出会うと思います。隠居も稿の進むのをワクワクして待っています。
    http://black-gw.matsue-ct.ac.jp:8088/~y-mori/

(14)葉書通信  2月8日
  「紅葉のきれいな季節となりました。先生にはご健勝の由嬉しく思います。いつもお便りを頂いてもご無沙汰ばかりで申し訳なく思っています。私1昨年の秋胃の4分の3を切除しました。・・・現在順調・・・」(10月24日着)(60歳をこえた女性、小学校での教え子よりの葉書)卒業以来会っていない。
  もう10数年になる。年賀状の替わりに年一回、教え子や昔の同僚に「葉書通信」を送ることにした。年々いろいろな形式で。最初はペン書きと小さな絵を。近年は和紙に墨絵と毛筆の短文を書き葉書に糊付け。遠近に関わらず案外楽しみにしているようだ。返信無用と断ってあるが必ず返事をくれる人もいる。昨年からは多忙で?(HP関係・・)パソコンでの葉書通信になってしまった。今後は一部「メール通信」に切り替える予定。
今年もぼつぼつ葉書通信を開始しなければと思っている。
吾が加齢を忘れ、いまだに縁会った人たちを励まし続けている。

(15)母よ、もっと抱きしめて
  国府宮の裸祭りは昨日だった。義妹夫婦と参拝に。「なおい」一つ100円を10本買う。厄落としになるそう。奉納のデッカイ餅も切断し売っていた。境内は一杯で老人が参集していた。帰宅すると郵便受けにいつものようにカタログが。その中にニンニク卵黄のパンフレトに混じって手帳より小さい冊子があった。「母よ、もっとだきしめて」とあった。ふとページをめくって感動した。その内容を紹介します。

  母が亡くなったのは、偶然にも私の44才の誕生日の日だった。・・・・私は4才で実父を亡くした。母は私と姉と妹を母の実家と伯父の家にそれぞれ預けて、鹿児島へ働きに出ていた。伯父は酒飲みで恐かったが、伯母は優しい人だった。それでもやはり4才の私には、ずいぶん淋しい日々だった。
  伯父の家には大きな秋田犬の岳(タケ)がいた。私はタケが大好きだった。昼間晴れている日であれば、近くの海の見える小高い丘にタケと登り、日がな一日鹿児島の方向の水平線を眺め、母が乗ってくる船を待っていた。「母(あ)やんくるかな」とタケに語りかけると、タケは大きな舌で私の顔をぺろりとなめてしっぽを振った。
  母は二、三ケ月に一度、私たちに会いにきた。遠い水平線に目を凝らしていると、糸ほどのかすかな煙が見え、それが次第に毛糸ほどになり、やがて力強い黒煙と船影が見えてくる。汽船は港に近づくと、大きく歌うような汽笛を鳴らした。当たりの空気を震わすその汽笛は私の小さな胸にも響きわたり、私は歓声を上げた。タケも一緒に長い鳴き声をあげた。汽船が沖に停泊しガラガラと錨を降ろし始めると、私とタケは転げるように港への坂を駆け下りていった。沖に停泊した汽船から乗客が伝馬船に乗り移り、港の桟橋に近づいてくると、そこに母の笑顔が見えた。伝馬船を下りると、母は駆け寄った私の頭をぎゅっと自分の身体に押しつけるように抱いた。母の懐かしいにおいとぬくもりに、天にも昇るほどの幸せを感じた。
  母は近くの川原に私たちを連れてゆき、持ってきた散髪道具で頭を刈ったり襟を剃ったりした後、流れで、かおりのいい石けんを使って頭を洗ってくれた。その夜は母と一緒に安堵して眠った。母が二、三ケ月に一度私たちに会いにくる度に、今度こそ私を一緒に連れていってくれると強く期待した。しかし私の期待はいつも裏切られた。母が再び鹿児島へ帰って行くことを察知して、朝からメソメソ泣いた。「男ん子が、おかしか」と伯父に叱られても、母の腰にしがみついて泣き続けた。
  いよいよ母が帰る汽船が到着し、伯父が乱暴に私を母から引き離すと、母も泣きながら伝馬船に乗り込んだ。私は伯父の大きな手をふりほどき、岸を離れる船を追って腰まで海に入った。母は私に、戻れという仕草をし、怒り顔で泣いていた。母があの遠い水平線の彼方からやってきた時の天にも昇る喜びと、たった一晩で去ってゆく悲しみと苦しみは、幼い私の全身を悲しみでふるわせた。私の泣き叫ぶのを聞いて、傍らのタケも哀しげな声をあげた。私とタケはまた丘に登り、母の乗った汽船が水平線の彼方に消えるまで、メソメソと泣きながら見送っていた。やがて真っ赤な夕陽が空お染めながら、水平線の彼方へ沈んでいった。
村山 劔
村山氏は昭和11年生まれ、東京での勤務後脱サラで起業(平成7年度売り上げ45億円)。私はこの短文を読みつつ、またキーを打ちつつ感涙にむせんだ。

(16)水耕栽培   3月15日
  水耕栽培という言葉は大抵の方は知っておられる。しかしその発祥の歴史は余りご存知でないと思う。この栽培法は私たちの近くの小さな村(伊勢湾台風で被害が多かった)の若者のグループが、戦後間もない頃開発したものである。私がミニを作った町に農業学校の分校があり、そこに昼間定時制があって、農家の子弟が通っていた。ここの卒業生たちが20代前半だったが村井君というリーダーを中心に水耕栽培に取り組んだ。
  土壌のかわりに水を使う当時奇想天外の農法だった。このグループに体操部員だった教え子がいた。この研究が軌道に乗ると大企業からの買収が多くあったが皆断ったと。私が感心するのは彼らは高い学歴の持ち主ではない。また特別大学の先生の協力を得たようでもない。即ち若者たちだけで試行錯誤研究したのだ。荒れた土地でも砂漠でも水さえあれば農作物が思うように生産できる水耕栽培、いかに多くの農家に役立ったことだろう。村井君の名を取ったのかM式水耕栽培と名付けられた。
  10数年前教え子に会ったら技術部長で全国を指導して回っていると言っていた。凄く立派な車に乗っていた。あの貧弱な肢体の彼が頑丈な体になり恰幅も立派になっていた。私も技術科の授業(先生が不足で応援)で水耕栽培をやり「きゅり」をうまく作り生徒と収穫して喜んだものだ。

(17)出藍の誉れ   3月21日
  かって佐屋ミニのHPの開設にあたって紹介したことがありました。私が10年間運営したミニで教え子のYajiさんが管理人です。早速リンクしていただいて喜んでいます。今すでに40ヶ所以上のミニとリンクができて、その急速な発展ぶりに流石わが教え子「出藍の誉れ」と評価しています。3年連続3年生担当、まして学年主任の大役、その多忙のなかでの各地への書き込み、そのパワーに驚いています。
  その彼が最近「sayamini 別館」と銘打って中学校生活を話題としたHPを作りました。中学生のお子さんをもつ親さんにとって参考になる記事が多いと思います。ぜひご覧下さい。  「sayamini 別館」  http://www.geocities.co.jp/NeverLand-Mirai/7527/
  なおGalleryには隠居が家内と毎日参拝する神社の楼門の写真が出ています。確か織田信長の寄進とか。
(佐屋ミニ:ここにはフランスにいかれてもミニをやっておられるぼんじゅーる一家の書き込みがいつもあって、フランス事情がよく分かりますよ。
    http://www7.plala.or.jp/sayamini/)

(18)花の命は・・・長い
  デンドロビューム
  2月20日の午後花屋さんが豪華な鉢植えの花をK子さんからだと持ってきてくれた。彼女は57才ぐらいになっている教え子である。夜彼女のメールが入っていた。
{先生お久しぶりですね。今日メール見てびっくりしました。なぜかといいますと、ここの所お休みをとってケアンズに行ってきました。10日間程メールを見ていなくて、たまたま用事があり、鈴木生花さんに行き先生の事が気になっていて、素敵なお花がありましたので、送りました。私だと思って眺めて下さい。(・。・) どうして先生と意志が通じるのかなと思っているところです・・・・・。}
  最近葉書通信に変わってメールができる人には送信をしていた。その返事である。こんな花見たことがないと眺めていたら一枚のカードが挟んであった。「デンドロビューム・ノビル・タイプ」と書いてあった。もうあれから1ケ月も経ったのに一枚の花弁も落ちないでピンピンしている。不思議な花である。この花を見るたびに彼女たちと成人学級でキャンプや盆踊りをやった頃が懐かしく想い出される。

子どもや生徒・学生を指導しておられる皆さん、皆さんの努力は不滅です。教え子の心にいつまでも残り語りつがれていきます。与えたよりもっと多くのものが周辺より無形有形もたらされます。ありがたいことです。   合掌

(19)現在なら?
  教員6年目、前にも書いた同窓会を湯ノ山で開いてくれた59才の人たちが中学1年の時。私が1年の担任だった。まだ入学して間もない時、ホームルームで教室へ入ったら騒然としている。竹川(仮名)と山田(仮名)が大喧嘩をしている。生徒たちは周りでワイワイ言いながら困って見守っていた。私は先ず2人を引き離した。そして生徒に机腰掛けを全部後ろに下げささせた。竹川、山田に「さあ今から徹底的に闘え」と言った。2人は猛然と殴り合い、組み討ちを始めた。双方が疲れた頃を見計らってスットプさせた。あと喧嘩の理由も尋ねなかった。以後2人は仲良しに。現在ならこんな教師は新聞種で大変だろう。山田君の死去の報、あの同窓会で聞いたが残念でしかたがなかった。

(20)苺狩り
  20日土曜日は充実した一日だった。昼少し前昔10年いた佐屋中へ出かけた。バイクで10分。郡市の新人戦第1日目だった。目当ての佐屋中のゲームは終わっていた。組み合わせ表を見直したら1時間間違っていた。舞台上に上がっていったら大治中の鷲野君が挨拶してくれて、しばらく話し合った。彼は昨年全中2位、そして現全国選抜チームのヘッドコーチ、時の人である。「若いとき先生の業績を知りそれを目標にやってきました。お陰で皆さんの支援でここまでこれました」と謙虚に語ってくれた。なお昭和ミニから入った1年生177cmの子は膝の手術をする予定だそうだ。「彼女は将来の大物、無理しないで完治させたい。日本の宝でもある」と。さすが全日本中学のコーチだ。
  午後5時妹婿が迎えに来てくれた。例のミニクラス会出席のためだ。20年勤務した懐かしの村へ。農園に着いたら誰もいない。早すぎたようである。間もなく幹事の橋本君がきた。早速苺狩り。累々となっている苺を摘む。箱に一杯になる。メンバーが増えてきた。なかにはお嫁さん、孫まで連れてきた女性もいた。特製のバーベキュー用のハウスで宴会が始まる。20数名である。狭い場所で一人一人とは会話ができない。周りの数人と語らう。昔には珍しく国立大を卒業した松永君は大企業に勤務し転勤7回とか、定年で故郷に戻り88歳の母親に孝養を尽くしている。彼には40数年ぶりに会った。私と同名の子が数年前に亡くなったと聞く。この年代になると櫛の歯が欠けるように教え子が逝く。クラス会でただ一つ嫌なことは先だった子の話を聞くことだ。
  前に座っていた名古屋から来た女性が一冊の本をくれた。「これ兄が退職して初めて出版した本です読んでください。」小説  郵政殺人たん(註:たんの漢字がでません)稲垣兵一  文芸社 1000円   郵便局に勤めていた著者の処女作ゆっくり読もう。
  さて帰るとて婿がエンジンをかけたら「バリバリ」と大音響、何かを踏んだのかと見回すが何もない。ハンドルが効かないと言う。やむなく私は元体操部員だったすみ子さんの車で送ってもらう。婿は息子に迎に来てもらった。翌日メールで「ハンドルに関係するベルトがゆるんでしまっていた。車は家の近くの修理屋まで運んでもらった」と。
  もし走行中に故障が生じていたらと思ったら慄然とした。実に不思議だ。これぞ先祖の加護と感謝した。昔体操部でいつも私に泣かされていたというすみ子さん、運転しながら「先生酢のとても良い健康食品があるので、血圧にもよいから今度持っていってあげるよ」と言ってくれた。ありがたいことだ。
  バスケ観戦とミニクラス会楽しい一日だった。翌日たくさんの苺を配るのに大変だった。