隠居のつぶやき(番外編 3部)

(21)五箇條ノ御誓文  5月20日
  神社の境内に昭和43年(1968)近くの村の有志によって寄贈された五箇條の御誓文の石碑がある。碑の文字が見にくくなっていて一部不明だった。旧制中学の修身の教科書であったかこの文章を習い脳裏に残っていた。ところが6月号の月刊誌にそれに関わる文書があった。即ち五箇条ノ御誓文は明治天皇が明治の初め国是として下されたもである。
  一,廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
  二、上下(ショウカ)心ヲ一(イツ)ニシテ盛ンニ経綸ヲ行フヘシ
  三、官武一途庶民ニ至ル迄各(オノオノ)其の志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
  四、旧来ノ陋習を破リ天地ノ公道に基クヘシ
  五、知識ヲ世界に求メ大ニ皇紀ヲ振起スヘシ
  ほとんど現代にあっても規範として正しいものと思う。ただ五の皇紀の言葉に抵抗のある人もあるだろう。ともあれ今の日本人にいかなる道が指し示されているだろうか。今朝も午前中学校があると思われるのに、近くのサークルKの前で、女子中学生が制服のままコンクリートの上に座って何か食べていた。こんな子供たちが日本を支えられるか。こんな子供たちを生んだ戦後の社会の罪は重い。教育行政で理想論をやっている間に日本は腐食してしまいそうである。

(22)感恩報国  7月8日
  NHK朝のドラマ「さくら」はなかなか面白い。国籍はアメリカ人だが3世、英語助手として来日、学校や下宿先で大活躍。最近は家族全員が故国へ。ふと思い出して毎朝参詣する津島神社の大鳥居の脇にある大石碑を観察した。
    御大典記念 感 恩 報 国    昭和三年十一月   渡米人  代表 ・・・
  と記銘され裏面に寄贈者三百名の氏名金額(百円・八十円が1・2名・十五円・十円・五円が大勢)が彫刻されている。文字は大分風化して一部読めないところがある。中に私と同名(千賀)があって驚く。この姓はあまりないので。 わが町の周辺の農村からこんなに多くの方がアメリカに出稼ぎに行ったものかと驚く。昭和3年11月隠居がこの世に生をうける直前である。寄贈者の方たちはすでに帰国していた方、まだアメリカにおられた方だろう。私の実家の近くに何軒もの帰国者の方がおられた。そういえば終戦後しばらくして母の実家に祖父の兄が夫婦で帰国してこられた。祖父は次男だったのだ。家を継いだつもりだったが長男が2世の家族を置いて突然生家へ。奇妙な合同生活が始まった(後日別に家を新築し別居)。そういえば母の実家は農家には珍しく立派な倉や座敷があり、叔父が名古屋の旧制中学へ通えたりしたのものもアメリカからの送金があったせいらしい。
  大正から昭和にかけ多くの移民が日本を去り、大変な苦労をされたようである。また戦争中は収容され想像以上の難儀をされたと思う。あの頃の日本人の多くが持っていた進取の気性はいずこにいってしまっただろうか。ドラマを見つつ先人の勇気苦労に想いを馳せた。

(23)難しいことが  7月15日
  昔しばらくの間中学でバレー部の顧問をしていた。そのころ低いボールは両手の平を使ったアンダーレシーブを行っていた。近いうちにそれがルールでできなくなると聞いた。両手の平が使えなくなったらどうやってレシーブするのか。無茶なことを言うなと憤慨していた。また9人でやっていたのを6人制になるとも噂されていた。9人でさえ守れないのに6人でやれるものかと疑っていた。バレー部をやめ陸上部を創部して活動していてふと気づいたら、バレーのレシーブは両手を組んで見事にやっているではないか。また6人で結構攻防が連続されているではないか。人間追い込まれれば不可能を可能にするものだなと思った。
  そういえばバスケで3点エリアが始まった頃、私は1線を引退していたが、これは無理だと思っていた。近くからさえなかなか入らないのに、あんな遠くからでは中学生では無理だと。しかし現在楽々と生徒たちが3点を打ち成功しているのを見ると、人間の可能性をあらためて感じる。先入観はいけない「やればできる」と挑戦することが大切だと現在は思っている。

(24)奉仕活動  7月30日
  中教審答申骨子。その中で「高校、大学で奉仕活動を単位認定」は理解できるが「入試で実績を評価」「就職で実績を重視」にいたっては首を傾げたくなる。今でも内申書を有利にするため生徒会役員を進んでやるなど問題も生じている。そこに奉仕活動が強制され入試などが有利になると。いったい奉仕とはなんぞや。なんらかの卑しい根性が入っているのは奉仕ではない。(強制することで始め嫌々だったが体験して目覚めることも無いとは言えないが)
  私たちが中学生の時は勤労奉仕と言った。戦争で人手のない農家へ授業を止めて手伝いに行った。戦争が激しくなり全く授業は無くなり軍需工場で飛行機を作った。これは勤労動員であった。中教審がいう奉仕とは意味も違うが隠居は、今回の答申にはNOである。こういった案を作った偉い方々、みずから奉仕活動を体験されたらどうか。

(25)同級生  8月8日
  先日図書館を訪れたとき貸し出し禁止の書架に「生活教育」が置いてあった。あまり教育関係の叢書は手にしないが、彼が載っていないかと開いた。最初のページに日生連委員長中野光(和光大学、立教大学元教授である)とあった。題は「ノーベル賞受賞者の子ども時代」。彼は中学同級生で私が前後20年勤務した村の出身者だ。(今昔物語第26話中野充君の兄)文中にこんな言葉があった。野依さんも「野山で遊んだこの体験が僕にとっての生き方の根元になっている」と言い、若い世代へ「現場」に身を置けと説かれ・・・と紹介していた。教育界では相当活躍しているようだ。
  同級生で母校旧制中学の校長になったH君は50才後半で現職で亡くなった。その後校長になった同級生のY君は定年前市長選に担がれ3期目の終わりごろ体調を悪くし出馬を止めた。そのあと間もなく黄泉へ。やはり仲間の市会議員から県会議員になったM君も県会の重鎮になった頃病で療養、昨年死去。もう同級生の4分の1以上現世を去った。   私は昔から扇風機が秋になれば必要がなくなって物置に入れられるように、人間も用がなくなったらあちらの世界に移ると思っている。ネットのお陰で隠居も少し必要があるようで毎日忙しくパソコンに向かっている。私が生きておるのも、生かされているのも、皆さんのお陰であり、バスケの恩寵のせいでもある。ありがたいことだ。  合掌

(26)平成14年長寿祝一覧  8月27日
  毎朝参詣する神社にこんな看板が出ていた。神社も宣伝の時代か。ご祈祷料はいくらか?
  還暦祝い  昭和17年生    61才 ・  古希祝い  昭和 8年  70才
  喜寿祝い  大正15年・昭和元年77才 ・  傘寿祝い  大正12年  80才
  米寿祝い  明治37年     88才 ・  白寿祝い  明治37年  99才
  上寿祝い  明治36年    100才
  皆さんのご両親は何歳でしょうか。該当の時はぜひお祝いをしてあげてください。我が家は還暦も古希も誰も祝ってくれなかった(この原稿を娘に見せたら上寿祝いを盛大にやるからそれまで楽しみにと答えた?)教え子が古希に夫婦湯呑みを贈って送ってくれたのは嬉しかった。隠居は次なる喜寿に向かって挑戦します。

(27)さらば文学全集  9月8日
  昭和43年春一念発起して日本・世界文学全集50巻を購入した。今後ゆっくり読もうと計画していた。ところが部活(すもう・陸上・体操・ハンドボール・バレー・駅伝・バスケ)に夢中になっていてほとんど読まなかった。娘のお雛様の雛壇づくりに分厚い全集を並べて利用しただけ。年を経るに従って本の箱?が色あせてきた。中の本は全て新品同様である。娘も倅も見向きもしなかった。せめて孫たちを期待したがこれもダメだった。 実は読む時間がなかったのは言い訳でした。ちなみに大衆小説は膨大な冊数読み、図書館で借りるのが困難な現状です。結局私には文学的な素地が無かったということです。
  さてこの全集の後始末をどうしよう。このままでは最後は資源ごみに出されるだろう。誰かもらってくれる人も心当たりがない。ネットで貰ってくれる人を公募しようかとも思った。でもそんな恥ずかしいことはできない。ふといいアイデア が浮かんだ。いつも行く高校のバスケ部員にもらってもらおう。善は急げ、遊びに来た娘の車に乗せ高校へ。居合わせた部員に体育館までに運ばせた。一人2冊か3冊、気に入った本を持っていくように指示。あの全集は23名の部員の書棚に現在鎮座しているはず。いつか読んでくれるであろう。
  今朝も用済みの卒業証書を筒か出してみたら「・・・文学士と称することを認める」と記されていた。なんとインチキな文学士かなと反省している。そうだ日本最初の通信教育生、小学校の代用教員をしつつ戦後間もない東京に夏休み中スクーリングに。ろくろくテキストも無いままに大学は単位を授与していた。どさくさ紛れのなかの卒業生が隠居の正体です。

(28)40年の星霜  10月21日
  昨日(10月20日)昭和38年3月中学卒の同窓会に招待された。同僚だった先生たちは珍しく5人揃った。もちろん全員退職している。出席者男子29名女子23人、村に残っているのは26人だった。あれから40年経た面々、幾多の星霜を顔に滲ませていた。時間が経つに連れ少年少女時代の面影が浮かび上がってくる。
  東京でリクルートなど大事件を検事としていくつも扱い、現在名古屋で弁護士事務所を開設しているT君。隣の村役場の総務課長で立派な恰幅になった白皙のI君。脳梗塞で肢体不自由になったS子さん、彼女私に会いたいと友人に介護されて出席。酸素吸入装置をつけて来てくれたW 君・・・みんな懐かしい。豪華な蟹料理に舌鼓を打ちながら座は賑やかに花が咲いていた。
  そういえば当時私は健康を害しながらもこの時陸上で優勝をさせていた。特に男子100mでは連戦連勝、県No.1になったM君は所在不明。彼と健脚を競ったO君は10年ほど前急死した。4人の孫があると自慢している女性もいた。悲喜こもごものそれぞれの人生である。次回は還暦の時と言う。私の長い眉毛に触って「先生、元首相の村山さんと同じだよ。長生きしますよ」と励ましてくれる子もいた。皆が異口同音に先生若いよ、顔色も艶々していると誉めてくれた。これもネットで全国の同志と交流しているお陰と痛感した。
  出席者の中でミニ創立時の父母の会会長をしてくれたK君がいた。彼の娘さん3人ともミニで教えた。夜次女のK子さんから電話「今日家に戻りました。父から先生の話を聞きました。今度中京大のキャプテンになりました」と。前後20年村の中学に勤務し、親子2代に渡って師弟の情を結べれた幸せを感謝し、彼らの幸せを祈りつつ素敵な一日を終わった。

(29)喜びと悲しみ  12月4日
  街を疾走しているとき時折建設中の家を見る。たまにT君の店(建築)の幟が立っている。一番最初に中学を送り出したT君が経営している。この不景気のさなか彼の会社は繁盛しているなーと思いつつバイクで通り過ぎる。「先生漸く娘を片づけました」「息子が結婚しました」「家を新築しました」「主人が校長になりました」「孫の世話で大変です」・・・。かって縁のあった人たちが元気でそして幸せなたよりは本当に嬉しいものである。 特に部活で指導した人たちは接触も多かったし記憶も残っている。特にバスケは想いでも多くそれぞれの人生に関心を寄せている。まして親子2代にわたってバスケを教えた人たちとの縁は深かったと思う。
  しかし全て幸せになっているとは限らない。いまだに結婚できず親さんが心配しておられる家もある。折角一児をもうけたばかりに主人を交通事故で失った子もいる。どういうわけか愛児が非行に走ってしまった子もいる。全霊を打ち込んだつもりだったが、私の部活での心の指導が徹底しなかったのでないかと悔やまれる。
  ともあれみんなが日々幸せを感じて暮らしてくれることを心より願っている。

(30)年賀状  1月2日
  葉書通信を教え子や親しかった同僚などに年賀状代わりにだしているので、あらためて出す人は数十人に過ぎない。元旦数センチの厚さの年賀状を戴いた。若い人たちはお子さんの写真などが載っている。特にバスケットで縁のあった方たちのはほほえましい。
  村のミニの後継者のK君は「・・・いつまでも先生の灯した火を消しません・・」と添え書きをし、2才の長男がポーズをとっていた。ミニのコーチをずっとやってくれていたM子さんは「2月の始め2人目を出産します。2児の母がんばります。」2才5ヶ月の娘さんを2人で抱かえて。婿さんもバスケの教え子。
  県大会7秒で優勝を逸した時のキャプテンは、4人家族の背比べの写真を。主人178センチ、U子さん168センチ、長男174センチ(中3)、次男145センチ(小6)ユニークな年賀状。学生時代に日本公認を取ったA子さん、私を助けてくれた最初のコーチ、今他地区の中学教師。愛児4才、首を傾げ白い歯を見せにっこり。
  高校で教えたS子さん産休中、8ヶ月の坊やが帽子を被ってにっこり、バスケ素人のご主人バスケにはまって佐屋JRの監督。同級の元ミス津島のセンターだったY子さんは香港旅行のスナップ写真、親子三人が楽しそう。双子を産んでてんやわんやのK子さんは夫婦で3人の子を抱えて・・・・。
  年々歳々みんな成長していく。「今年主人が定年退職、2人で海外旅行をしました。英語をふんだんに使いました」最近英語を勉強したらしいM子さん。中学最初の卒業生。彼女も又男子双子の母親。元英語教師の蒔いた種かな?
  元旦年賀状を見ながら昔を偲んで喜んでいました。