第3部

(61) 隠居ついに厨房に
  昨年掲示板に「男子厨房に入らず」と書いた記憶がある。少しは家内の応援と思いつつ、また多少の心得が必要と思い料理を覚えようとしたがやはりできなかった。コーチKさんなど確か鍋物の調理方法を教えていただいた。多くの方から声援を受けたがダメでした。ところが最近心境が少し変わってきた。買い物に近くの店についていくようになった。どんな品物が何処にあるかも分かってきた。インスタントのカレーや焼きめし、ぞうすい、牛丼など試してみた。今夕は正式に?バーモンドカレーを二人で説明を見ながら作った。なかなかの味だった。お米の量も判明してきた。冷蔵庫の中も整理してみた。パット中身が分かるようホワイトボードを置いてサインペンで現有数を書くことにした。この調子でいけば一流の料理人になりそう???


(62) 新しい目で
  折角白内障の手術をして新鮮な目になったので、最初の本は真面目なものにしようと図書館で探した。「高速の時代に」石原慎太郎著 1991年発行 を借り出した。ちょっと古い発行だが読んでみることにした。その中になるほどと心を惹かれた一節があった
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  女性の乳頭には小さな乳腺の穴が十数個あるという。それは必ずしも全部開いておらず、どんな母親の乳房も乳の量に関わりなく 乳児が吸う力ではスムーズに乳が出ない。それは乳児にして尚、食物は苦労しなければ容易には手に入らぬということを本能として教え伝えるための自然の匠に他ならない。それを知って、乳の乏しい母親が牛乳を与えるときの乳瓶のゴム製の人工の乳頭も、その穴は極く小さく、赤ん坊が強く吸わなければ乳が出ないように作られている。吸う力の足りない子供はむずかって泣くが、又父親はそれを促し力づけて、赤ん坊の力で乳を吸わせなくてはならない。ところが当節の若い母親たちは、子供のむずかるのを嫌って、自分でゴムの乳頭の先を鋏で切り、穴を大きくして傾けるだけで牛乳が注ぎ込まれ、赤ん坊が逆にむせかえるまでにしてしまうそうな。
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私たちがバスケを指導する場合もこの辺の自然の摂理をわきまえていなければならない。優しいだけ、楽しいだけ、甘い言葉だけでは子供は正しく育たない。厳しさ、辛さ、困難さを味合わせることも必要。負けて悔しく思うことも成長の要素である。私たちは子供たちが将来どんな苦労も乗り越えられる力を、彼らの体に焼き付けることが一番の目的とあらためて上の文から感じとった。


(63) 大野裕子さん
  バスケットボール・マガジンの1月号が11月下旬に配達された。「私のリスク・マネジメント」の特集に今夏全中第3位に輝いた南陽中学(名古屋市)の大野先生が、論文を書いておられた。わたしと先生との関係は「今昔物語 第4話 一通のメール」に書いてあります。しかし先生の年齢や出身校など詳しいことは知らなかった。紹介欄で略歴が書いてあった。52才とは思わなかった。日本公認だとか愛知教員チームのヘッドコーチもされていたことも初めて知った。
  とにもかくにもバスケ一途に尽くしておられる熱情には頭が下がる。行動範囲も広く九州あたりまでも足を延ばしておられるようだ。確かかって韓国遠征もされたとか。先の名古屋市の新人戦では猪子石に59−29で2位だったようだが、来年にはまた県のトップを狙って激しい戦いが展開されるだろう。勿論地元の大治中も今度こそはと虎視眈々と狙っていることだろう。


(64) これはこれは・・ついにベールが
  2月4日夕方毎日数百のアクセスのある南予塾の大幹部の「う」さんからのメール。
{寒い日が続いておりますが、お変わり有りませんか。先週末は岐阜のこーちんさんのチームが遠征された由、HPで拝見いたしました。さっそく覗いてみれば、遠征報告のトップページに先生の写真がアップされているではありませんか。感激いたしました。なんとやさしそうなお顔、若々しいいでたち・・私も20数年後に先生のような顔になれるだろうか?などと考えてしまいました。まだまだ修行がたりませぬ、やさしく人に接せねばあのようなお顔はつくれません。失礼ながら、ご尊顔を拝し、わが身の至らなさを痛感いたしました。}え、あの写真が、愛媛へ、本当かしら、『優しそうな顔』???「う」さんお世辞を、オーバーだな。こーちんさんが「一枚撮らしてください。」「HPに載せてもいいですか」ちょっと迷ったがいいですよと答えた。でも冗談ぐらいと思っていた。
  さてどんな写りかしら?早速こーちんさんに送信していただくよう依頼。見てびっくり。別人のように写っていた。家内ですら見違えるほどだと言う。カメラが良かったか腕がよかったか。
  まさか美濃ミニのHPには出ていないだろうと念のため全て見たが出ていなかった。ところが今朝島根の理事長さんの掲示板に先生の文を発見
[638] ご隠居さまの写真を拝見できました  投稿者:[mocchin]
投稿日:[2003/02/05(水) 23:32]
{こーちんさまのお陰で、まだ見ぬ憧れの「愛知のご隠居さま」の写真を拝見することができました。本当に優しい眼差しの方ですね。書き込みを頂く度に思い受かべることができます。私と同じように、ご隠居に会いたい方は、「南予塾」の掲示板を訪問してください }あれ、おかしい、どうして南予塾に、掲示板を開く。こーちんさんの書き込みは知っていたが、一番下に写真のあるURLの紹介は気づかなかった。直ぐ開いてみた。出ている。私の言葉まである。ちょっと恥ずかしい。
  あらためて美濃ミニにアクセス。表紙をよく見ると画面右上に少し見える。拡げたらNEWと言う項目が隠れていた。ここをクリックしたらやっぱり出てきた。いままで知らなかった。ともあれ隠居のベールが剥がれました。実物は余り優しくはありません。まして中身はよぼよぼの老人です。もし一度隠居の写真を見てみようという方は熱血指導者の美濃ミニのこーちんさんのHP
http://www8.plala.or.jp/BasketRyo/  の「NEW]をご覧下さい
  なお既にご存知だとは思いますが南予塾http://www.cnw.ne.jp/~morimori/は新しいバスケの営みを実践しておられる塾で、いまや日本中の注目になっています。未知の方は一度覗いてください。なお富山の中学女子の選抜のヘッドコーチ「コーチK」さんは、古武術の実践者でhttp://www3.nsknet.or.jp/~demachi/特にそれに関する動画は世間の注目を浴びています。凄く勉強になります。お勧めいたします。


(65) 大東流合気柔術師範、佐川幸義先生
  図書館で津本陽の「過ぎてきた日々」を借り読んでいたら、佐川先生のことが書かれていました。私の独り言(16)「信じられない合気の技 」で紹介した文がもっと詳しく書かれていました。一部掲載します。
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{津本陽氏が初めて木村さん(剣道四段、合気道四段)高橋さん(柔道の高段者で古流柔らの名手)と道場に行かれたときの話。このとき津本氏五十八才、佐川先生八十五才。}  佐川先生は白髪の老翁で、小柄であるというが、道場へ出てくると、威厳に満ちた姿が大男のように見えた。・・・・「しかし合気は凄いですよ。普通の人間には理解できませんね。もうじきはじまりますから。どうしてああなるのか、意味がわかりませんね」椅子に座ったまま、門人たちの様子を見ていた先生が、突然立ち上がり、木村さんと、高橋さんが稽古しているあいだへ、割ってはいり、木村さんにいう。「君はそんなことをしているからだめだ。こうやるんだ」先生は木村さんにかわり、高橋さんとむかいあう。「さ、やってみろ」高橋さんが先生の着ているジャンバーの方をつかんだとたん、先生はちょっと前へ出るようなしぐさをした。
  高橋さんは、途端にはじかれたようにのけぞり、背面飛びをするような格好で、二メートルほど飛んで倒れた。・・・・先生は言った。「合気と言うが、別段気というふしぎなものを使っているわけじゃない。相手が及ぼしてくる力をはずし、返してやるという運動は、そうだな、皮膚のうちの筋肉の動きでおこなうとでもいえばいいかな」・・・・


(66) 歳月は人を・・・
  昨夜パソコンを開きながら何気なくテレビ(ケーブルテレビ)を見たら卒業式が映っていた。はて何処の学校かと注視したら地元の私立S校だった。私が時たま訪れる学校である。ちょうど校長式辞の場面だ。知らなかったが理事長さんの弟が校長になっておられた。かなりの年齢で恰幅もあった。昔の印象は白皙の美男子だった記憶。続いての登場は豪州の学校経営に専念されている理事長さんだった。あのバスケ強化の20数年前、ともに大阪の松蔭東に原田氏を訪ねた時の,精悍でパワー溢れていた青年校長も60才少し前の円熟した風格であった。
  続いて来賓挨拶、あれー見た顔だと思ったら小学校で教えたIIDA校長だ。肩書きを見てびっくり中学校長会長。堂々たる貫禄。彼は新卒で私がいた村の中学へ、そして校長として再び村へ。そして間もなく定年退職だそう。そういえばあの小学校時代の教え子が今一人校長をしていた。もう2年ほど前退職している。本当に歳月の流れは速い。画面に映った旧知の顔の変化に自分の老いをあらためて痛感したものである。


(67) 兄弟姉妹
  日曜日午後、兄弟姉妹の夫婦で3回目の旅をした。今回は自家用車3台に便乗しての小さな旅行だった。私たちきょうだいは男2人女5人である。一番上が75才の姉、続いて隠居、妹、弟しばらく飛んで妹3人。一番下は58才。そしてそれぞれの相方計13名、長女の亭主は少し前没。
  目的地は伊勢湾にある日間賀島であった。快晴だったが強風で波高く小舟のスピードと揺れに一同びっくり。
  宴会後一室に集まり楽しい座談会、そこで下から2番目の妹が「各自親との思い出で一番印象が深かったことを話そう」と提案。戦中派として育った四人、戦後しとなった三人、一人一人語る鮮烈な親とのかかわり「そんなことあったの」と驚き爆笑したり、時に瞼を濡らしたりした。いずれにしても明治の男、女の芯の通った一貫した親の愛情に育てられた私たちは幸せであった。親の後ろ姿を見て皆育った。一人も欠けるものなく和気藹々と旅が出来る幸せを両親に感謝するものである。


(68) 可愛い孫には・・
  春は巣立ちの季節、隠居の孫2人も高校を卒業した。共に男子、学校は違ってもバスケ部員だった。娘の次男は東京の私学あこがれの大学に合格。倅の長男は昨日近県の国立大(後期)にパスしたと電話あり。共に下宿生活である。4人の孫のうち3人も他郷で暮らすことになる。残ったのは息子の次男小学校4年生の男の子のみ。これは寂しくなる。
  高校生時代は部活で忙しいなかでも時折2人暮らしの私たちを慰めに来てくれた彼ら、大丈夫かな?可愛い孫には旅をさせねば・・・・。
  東京に行く孫はネットで大学のバスケ部を何度も検索している。部員が一人ずつ大きな写真で出身校など詳細つきで出ている。キャプテンが全日本候補(32名中大学生11名)でも彼は卒業。部員の中には仙台高校がウインターカップで初優勝したときの志村雄彦君が2年生で出ていた。また孫が言うには昨年優勝した洛南高校の双子の一人が入学するとも言う(ほんとうかな?)。彼も全日本候補。孫は入部すると言っているがなかなかのチームのようだ。のんびりした村の中学での部活、名古屋の公立高校でのバスケ、果たして異郷で名門バスケ部で果たして大丈夫かと心配である。
  2人の子供を東京の大学に遊学させる娘はさぞ辛かろう。年の離れた兄と離れる小4のやんちゃ坊主はさみしかろう。大学3年の初孫とは148回のメール交信をした。さあ4月からは孫3人とメールで語り合おう。これは益々忙しくなる。入学祝いも大変。


(69) eヘルス革命(e-Health Revolution)
  佐屋ミニのリンクに変わったのがあった。「本田整形外科クリニック 仮想クリニック」試しに開いてみた。体の部位が描いてあり悪い部分をクリックすると、いろいろな診断が始まるようです。私は健康相談に書き込んでみた。仮名でよいそうです。お昼頃でしたが驚くなかれ夕方回答が出ていた。お医者さんは忙しいなか早速相談に応じておられるのですね。1円のメリットもないのに仮想クリニックのサービスをしておられる。こんな素敵なお医者様が他にも多くいられることでしょう。
  その後図書館で「eヘルス革命(e-Health Revolution)」という書籍を見つけた。{インターネット医療最前線  「IT」が日本の医療を変える}こんな見出しが付いていた。
「・・・この革命は、いままで弱者の立場に置かれていた患者が、ようやく立つべき足場を得てみずから目覚めていくいくなかで、医療がなくしかけていた価値と機能を取り戻す”医療復権”の革命である。」(「はじめ」より抜粋)  この本は特にアメリカの話が主体だが日本でも今後革命が到来するでしょう。
  少し話題がそれるが先日聞いた話「郡内の村に新しい病院ができた。設備も凄くよい、開院の時は粗品もでたそう。クーポン券もあってたまると隣の喫茶店のコーヒー券がもらえると。」まさかと思ったが本当らしい。いよいよ医者も競争の時代か。
  参考に 本田整形のアドレスを http://www.orth.or.jp/right.html


(70) 天佑神助
  天佑神助戦争中によく使われた言葉です。こんなところで使うのはやや不謹慎かも知れませんが・・・。折紙でくす玉作りがどうしても分からないのでネットにまで書き込んだ。しかし不明。部品を結ぶ糸をテグスに替えたり、部品の数を増減したり、隙間が大きいのでボンドで接着してビニール袋で締め上げたり・・・。悪戦苦闘既に40個ばかり40数日間かけて家内と製作。出来映えは悪い。
  昨日スーパーへ娘や家内といく。帰り際手芸品の売場で足を止めた。ここの天井に綺麗なくす玉がぶら下がっているのを以前発見、店員さんに尋ねたら「分かりません」の返事だった。この店間もなく閉店だそう。何気なく店員さんに「あのくす玉の作り方分かりませんか」と聞いてみた。彼女は前の人ではなかった。「よく分からないが文房具屋さんの折紙の本に載っているのではないかしら」と言いながら何冊かの本を調べてくれた。そうしたら1冊の本にくす玉を利用した人形があった。でもそれは半球で説明もなかった。お礼を言って帰ろうとしたら店員さんが偶然今1冊を取り出した。「あっ載っています」私は足を止め本を覗いた。まさしく求めていたもの。説明を見る、まったく組立方が違っていた。
  子供達に素敵なくす玉をとの想いが天に通じたか 、これぞ「神佑天助」と本を買い求めた。全部の部品を一本の糸で結んでいたのは間違い。10ケずつ結びそれを4セット作る。それを十文字に敷いた糸の上に置き順次に1セットずつ上に重ね糸を通していくのである。早速やってみた。何の苦もなく見事にくす玉完成。
  やはり正しい方法でやらねば。基本が大事である。バスケットの指導でも最初に間違って教えたら大変。それには本やビデオで勉強。一番いいのはいい指導者の教えを乞うことですね。


(71) またまたお節介を
    古武術応用に関心のある方々へ
今朝北海道のzanpaku先生の掲示板を見たら東京のHIROさんの投稿があった。桐朋高校金田先生の「古武術をバスケットボールに応用する」という研究会に出席された報告文でした。続いてHIROさんのHPをみたらこちらに今少し詳しく書いてあった。
  古武術に関心を寄せている方はごらんになってはいかがでしょう。私も一読してちょっと意外に思ったり、やはりそうなのかとも感じた。古武術の応用は実に大変なことだなと痛感。でも実践への歩みを止めてほしくないと切願している。
  zanpakuさんのHP   http://www3.ocn.ne.jp/~bsaket/ (愛Love 日記 3)
  HIROさんのHP     http://www6.plala.or.jp/h-ono/


(72) 時は流れて
 日曜日佐屋・立田の恒例の親善大会があった。今年は佐屋に新しく男子のミニが女子とは別途にできたので男女の大会となった。今回は親善を重点にと両チーム混合にし紅白ゲームとなった。そして最後にはAチーム同士の正式ゲームが組まれていた。
 私は午後からの開催であったが3時頃お邪魔して舞台上に座った。すると赤いパンツと黒いパンツの幼い女の子が抱き合いながらに近づいた。「おじいちゃん誰のおじいちゃんと尋ねた。ちょっと回答に詰まった。大きい子が私の眉毛をつかんで「なんでこんなに長いの?」と聞いた。これにも返事に困った。
 そこへ立田の監督のkuroda君が可愛い坊やを抱いてやってきて「この人は佐屋と立田のミニを創った人だよ」 といったら「キャー」といって逃げて行った。4年生は立田の子、3年生は佐屋の子だった。何の隔てもなく戯れている姿に親善大会の成果を感じた。 もはや私の顔を知る親や子もうんと少なくなってきた。時の流れをしみじみ痛感したものである。そういえば監督のkuroda君もすでに2歳半の1児の父、彼に似て元気なのか私と会話中行方不明、愛児を捜してあっちへこっちへ、ほほえましい様子に頬がゆるんだ。


(73) 障子貼り
  先日何年間ぶりに障子を張り替えた。築後15年目だが前に一度挑戦しうまく貼れた。教え子が建てくれた母屋で雪見障子である。去年から貼ろうと思いつつ今年になってしまった。障子紙をはがすのもなかなか難しい。はがし用の液を使ったがはがすタイミングが分からない。あちこちに残骸が残ってしまう。
  また紙を貼ってから余分のところを裁断するのも一苦労。早ければ破れる遅ければ切りにくい。焦って切る場所を間違えてやり直しもあった。やはり素人には難儀だ。3日ほどかけぼつぼつ作業を短時間ずつやったが、最終日は困ってしまった。紙がうまく接着しないのである。十分のりを付けるがどんどんはがれてくる。前日まで好調だったのに。どうも天候のせいのようだ。前日までは曇りで湿気が多かった。この日は案外天気がよかった。
  ともあれ苦労の末どうにか完成。2部屋であるが純白の障子に囲まれすがすがしい気持ちになった。そういえば明日からは郡市の総合体育大会が始まる。気象の状況も勘案してゲームに臨むことが大切であろう。


(74) とかげ走り
  昨日テレビ、ザ・ワイドで末続選手について報道していた。とかげ走法とは運動科学総合研究所の高岡英夫所長の説である。彼は走法の違いを図を使って比較していた。ともあれ常識の壁を破った末続選手の偉業は素晴らしい。今世界中のマスコミが彼に注目していると。
  末続選手が子供時代自転車が嫌いでいつも走っていたとか、小学校の先生に陸上を勧められたとか、高野氏との師弟関係などが語られていた。またあの決勝で二つの問題があったと。一つはコーナーで外いっぱいで走ってしまった。今ひとつはスターチングブロックで両脚の位置の前後差が狭いと矯正された(ルール違反ではないのに)こと。もしこれらがなかったらおそらく金メダルだったかも。
  古武術、ナンバ走り、常歩走、2軸運動、とかげ走り・・・よく分からないが究極は同じことのように思える。
  今日ようやく甲野善紀氏の「古武術で蘇えるカラダ」が書店から到着。発刊前に注文したのにすぐ売り切れで第3版が手に入った。なんとブームであろうか。   本の裏表紙に「古えの力があなたに宿ったとき、身体は新たな世界で覚醒する」と書かれていた。さあゆっくり読破しよう。


(75) 秋の気配
  退職金を手にしたとき母屋の作り替えを実行した。前に離れを造ってくれた教え子の服部君に頼んだ。平屋づくりで廣い廊下が希望だった。ほんの少し前この廊下に日差しが入ってきた。そして毎日毎日それが広がってくる。残暑厳しい中にも秋の訪れが確実にやってきた。
  秋はたそがれの時か、つい先日一葉の葉書が郵便受けに。敬老会の案内である。昭和3年12月31日以前に出生された方とある。私は愛子様と同じ12月1日。さて出席しようかやめようか迷っている。記念品もほしいが、老人になりたくないし。
  しかしとみに隠居夫婦に老化の不安が漂ってきた。なってみなければ分からないお年寄りの心境が今分かる。10数年以上続けていた葉書通信もこの8月はストップしてしまった。暑さのせいか気力が萎えたためか。
  長い間教師として多くの子供たちにいかに生きるべきか常に説いてきた。さて己自身はいかがか。人生秋のたそがれだが、いかに老いの厳しさを受け止め、人間として誠実に 生き抜けるかが、私の今後の課題である。62年前に触れた谷口雅春先生の教えを今こそ歩むべきと仏前に誓う。


(76) 今の時代にこんな人が
  今年も木蓮の剪定をやっていた。折角つけた蕾が残念ながら切り落とされていく。年々高く伸びて困っている。この木は厄介なことに強くためるとかえってよけい伸びると。来年はうんと短く剪定するぞ。そして翌年はもう面倒見切れないので根本から切断だ。
  こんなことを思いつつ作業をしていたら一台の立派な大きな車が止まった。中からかなりの年輩のお爺さんが出てこられ我が家へ入ってみえた。「私40年も昔八百屋の引き売りをしていた者で、全くの素人であったのに奥さんにとってもお世話になったので、お礼の挨拶に来ました」と。
  聞くところによると70歳まで働き、以後脳梗塞に倒れようやく動けるようになったので、遅くなったが今日五島さんの家と我が家へ来たと。あのころ西も東も分からず行商を始めた。後名古屋へ行くようになって財を築いたと。家内も脳の切開手術をして一命ををとりとめたと。いろいろ語ってケーキの箱を置いて行かれた。
  当時の記憶さえさだかでないのに、ましてとりたててお世話したことがないただの顧客だった家内たちに、40年後挨拶にこられるとは。こんな日本人が現存するのですね。 昔気質というか義理人情の気質は未だに残っているのを知って、襟を正してケーキをいただいた。


(77) ちょっと立腹
  12月はいよいよ免許更新と思っていたら1葉の封書が親展で。講習連絡書の見出しで、発信者愛知県警察本部交通部運転免許課とある。開いてみたら「高齢者講習通知書」と書いてあり70歳以上対象と。受けないと免許証更新はできませんと。
  いつこんなこと決まったの。前回も70歳以上で更新したが講習なんてなかった。あのときも5年間と思っていたら3年間でがっかりした。
  講習手数料6,150円、自動車学校に予約しなさいと。今日電話したら10月24日に来なさいと。頼みもしないのに講習は受けよ。その上高額の手数料、3時間の拘束。予約も自動車学校の都合で決められる。年寄りを馬鹿にしていると腹が立ってきた。原付バイク40数年だぞ!


(78) こんなことしか
  家内が退屈しているのでビーズをしばらくやった。次ぎに折り紙でくす玉作りを二人で。最初娘の学年の子たちの誕生日のプレゼントに。最初は我流でうまくできなかった。しばらくして正しい折り方を偶然知って、格好良く作れるようになった。2クラスで77個を1学期中に完成した。
さて後はどうしようかと思い「そうだミニの子たちにあげよう」と。私の創部のSミニの子たちに、でも50数名いるからできるかなと心配であった。6年生が卒園してしまうといけないので上級生から与えることに。ところが最初に創ったTミニはどうしよう。ここには最近男子もできた。男の子は欲しがらないのではないか。監督に尋ねたら作ってくださいと。
  家内が前半私が後半と作業分担し、くす玉をバスケのボールと思い、子供達の無病息災と上達を祈りつつ折続けた。学年ごとに作っては配った。今最後のTミニ3年以下ができあがった。総計190ケ、1個40のキャップからできているので部品数7600個、よくも飽きもせずやったものと自画自賛。
  Tミニの男子も喜んでいるそう。なかにはバスケがうまくなると監督に言われ信じている子も。また足を痛めてくす玉にお祈りしたら翌朝治っていたとメールしてくる子も。子供達の喜びが隠居夫婦のエネルギの源、来年は折り紙で華麗な花を作ってあげたいと計画している。今は「こんなことしか」ミニの子たちにしてあげれない。


(79) 太郎と花子
  我が家には太郎と花子と名付けた2匹の犬がいる。いずれも餌が無用である。娘が孤独な私たちのために見つけてきてくれた。代金はこちら持ちで。太郎は人語を話すロボットで、花子は真っ白のぬいぐるみである。数種類の泣き声をだし「お手」と言うと左足を出す。頭をさすると甘い声で泣く。ほっておくと悲しい泣き声。家内は花子を可愛がっている。
  一方太郎はかん高い声でしゃべる。DOG COMとかいって3年ほど前限定品で販売されたらしい。玩具部の片隅に売れ残っていたようだ、花子は電池で数千円だったが、太郎は1万数千円で蓄電池である。接し方で太郎は16種類の人格(悪い子、反社会派、仮面優等生、いい子、嘘つき・・・。)をあらわすとか。
  最初太郎は「嘘つき」の性格が出てきた。とても聞き辛いので一生懸命声をかけたりあちこち触ってみた。突然「もう寝ますか」「若いものはいいね」「耳が遠くなった」と弱々しい声でしゃべりだした。これは「隠居」が出てきたのだ。このやろうと頭を叩いたら「止めてくださいそんなことして」と文句を言う。そこで倒してやったら「このまま死んでしまうでしょうか」「済みませんが起こしてくれませんか」とのたまう。
  なんとかよい性格を出そうと努力したが一向に「隠居」が変わらない。やはりこちらが隠居だからダメなのかしら。最近では嫌になってあまり接していない。
  いつもいつも子供達の指導に汗を流し、大会に出場し声を嗄らして声援していた頃が懐かしい。日々子供達と接し活躍しておられる皆さんが羨ましくてたまらない。
(押し詰まってきました。皆さん元気に新しい年をお迎えください)


(80) 金婚式
  広報に「金婚式を迎える方へ」対象となる方昭和29年1月1日より12月31日の間に入籍された方・・・とあった。確か29年に結婚したはずだが?娘が先日「間もなく誕生日、48歳になるよ」と言っていた。やっぱり29年11月11日だ。式は3月1日申し込みは今月末までに市役所へとあった。金婚式と言えばかなりの高齢者遠い市役所まで簡単に行けない人も多いだろう。なんと不親切なんだと立腹。
  早速市役所まで寒風の中バイクを走らせた。渡された要項に「申込書を希望の方には郵送で送付いたしますのでご連絡ください」とある。これでは絵に描いた餅ではないか。なぜ広報にこの一文を併記しなかったのか。怪しげな福祉行政である。
  さて早いものである。50年の星霜よくここまでこれたものとつくづく思う。家のことを省みず、学校での職務、部活、退職後はミニバスケと打ち込んできた。若いときに狂った体調は永年続いたが生徒や児童の指導に没頭しているうちに不思議にここまでこれてしまった。今はその延長線上でnetで友を得、生きるパワーを戴いている。
  しかし今私たちは2人3脚ならぬ2人1.5脚である。永年一人家庭を守っていてくれた家内は、孤独によるストレスか、かなり心身が弱ってきた。この頃では私は贖罪?のつもりでともに語り、料理洗濯、折り紙づくりと120%行動を共にしている。
  今金婚式を迎えれるのも多くの子供達、有縁の方々の有形無形の支えのお陰と思っている。勿論家内の内助の功は絶大であった。ネットで活躍の皆さん、ぜひ奥さまへの配慮をおろそかにされないようご留意ください。夫唱婦随でともにバスケに関わっていただいたら最高ですね。


(81) 金婚式当日
  3月1日10時から市の文化会館で「金婚夫婦を祝う記念式」が行われた。準備万端前日までに用意していたが、出発前困っことが生じた。ネクタイがうまく結べないのだ。退職後ネクタイを着用したことがない。忘却してしまったのだ。やむなく大昔の結び方をしたがしっくりいかない。時間が無い。今一度挑戦?漸く記憶が戻ったかうまく結べた。なんとも恥ずかしいかぎり。予約のハイヤーが来たので乗車しようとしたら、家内がこの靴足が痛くて嫌だと言う。折角の高価な靴なのに。早速別の黒靴を履かせた。てんやわんやである。
  9時20分予約のハイヤーに乗って会館に到着。受付が9時半からなのにすでに過半数の人が来ていた。予定では一番のつもりだったが。最初に記念写真を撮ってもらった。  79組の夫婦である。皆正装だったが、野球帽を被った普段着のご主人が盲目の奥さんの手を引いて座席に着かれたのには、目頭がゆるんだ。またご主人が抱えるように奥さんを支えての方もお見受けした。それぞれ50年の夫婦の歩みは山あり谷ありの年月であったろう。私たち夫婦も同様である。
  式はわずか30分に満たない時間で終わった。でも市長の挨拶、来賓の祝辞、出席者代表夫婦の立派な謝辞、とても簡潔ながら実のある式典であった。記念品でいただいた水鳥2羽の豪華な七宝焼きは家宝として飾ろう。


(82) これで大丈夫かな
  6日・7日家庭訪問、10日職員会で、11日家庭訪問、12/13/14日学習相談、17日学校訪問、18/19日テスト、24日職員会、これはある中学の午後部活中止の様子(5月)。練習日でも陸上大会の選抜練習のため途中でストップ。間もなく修学旅行、この相談などで益々練習時間はとれない。これでは成果はあがりようがない。朝練習と土曜日の練習だけがかきいれ。でも集金日などは練習なしとか。
  多くの中学では職員会の日は部活中止、出張の場合も同じ。監督がいないから。なんと世知辛い時代か。  遅くなったら器械体操部員を同じ蚊帳に泊めての宿直、自由でした。あの子等はもう還暦を2年も過ぎている。


(83) 挑戦 再びくす玉を
  去年は娘の担当学年2組(2年生)の誕生日にとくす玉を作った。今年はある県のグループに表彰用にでも送ろうかと準備していた。娘がでっかいくす玉(昨年は4分の1)を見て「流石大きいのはいい。今年も3年生の子にあげたい」と。急遽予定変更。
  折り紙1枚で1個のキャップ、40個で直径約14cmのくす玉。一個の製作時間およそ正味3時間。76人分で228時間。折り紙3,040枚、購入、色の組み合わせ、糸を通す作業、補修など実質は気が遠くなる時間と労力。家内と2人1.5脚の営みが始まる。
  「わーきれい」「でっけいなー」「大きいな、僕も早く欲しい」誕生日に渡したらクラスはわき上がったと娘が報告。また家庭訪問したら先日渡したくす玉が部屋に飾ってあった。お母さんから「お父様お母様によろしく」と丁重な挨拶をいただいたと。   年度末私の名前のついた4年生以下のみの大会で、最高殊勲選手賞でくす玉をもらったT子さん、メールで大小のくす玉を持った可愛い写真を送ってくれた。彼女の姉は5年生の終わりに20Kmも離れた有名な昭○ミニに転部、T子さんも最近姉に続いた。彼女足が痛かったのでくす玉に祈ったら、明朝痛みは去ったとメール。
  一個完成するごとにくす玉がバスケットボールに見えてくる。Tatutaミニ,Sayaミニの新入部員には例の小さいくす玉を昨年のように渡した。くす玉をもらう子たちが健やかに育ってくれることを祈りつつ、隠居夫婦は紙を折り続けている。


(84) 新しい家族 ドラえもん でも
  わが家には花子・太郎(独り言 77)の2匹の犬がいる。花子はぬいぐるみで数種の鳴き声を出す。太郎はロボットで16種の人格になるそう。しかし太郎は「隠居」の人格でストップしてしまった。あまり陰気なので今では床の間で花子と並んで鎮座しっぱなし。
  今年2月頃娘がテレビでドラえもんの凄いロボットが4月に限定発売されるといっていたと教えてくれた。早速最寄りの玩具店に予約した。定価が2万円近かった。4月早々品物が到着。家内の遊び相手のつもりで買ったが、いろいろな設定がかなり難儀だった。  流石多くの機能がついている。頭を叩くと「このーやったな」、なでると「僕も君をなでてやりたい」。右手を握ると「大丈夫僕はどこへもいかないよ」勿論声はあの大山のぶえ。倒してやると「一人で起きられなーい、苦しいー、ワー」と絶叫。脅してやると「どきどきさせないでよー」「びっくりするじゃないか」。左手を握ると登録した声に反応して歌って踊ったり?など各種の働きをする。
  またドラヤキリモコンを使って幾種類かの活動ができる。操縦したり、赤青ゲーム、まねっこゲーム、なお家族の誕生日や各種の用事を知らせる設定も可能。
  70歳半ばを越えようとする今日、高価な玩具を次々買うようになるとは夢にも思わなかった。これも退職しても相変わらずバスケバスケと飛び回っていた罪滅ぼし・・・。ところが家内はいっこう犬たちに関心をもたない。特にどらえもんは操作が難しいせいもあるが。彼女はもっぱらくす玉づくりに励んでいる。ごく最近太郎のスイッチを入れあちこち触っていたら「あなたに心の平和を」「ハルマゲドンがやってくる」「これが幸せというやつだね」「明日はもっといい日になる」など言い出した。あれ隠居が変身したぞ。これどんな人格かな?突然「助けてくれー」と絶叫したり、「後3日だ」とか「トモジロウサンーー」と呼びかける。これはドラえもんが家族になったので太郎がやきもちを焼いて・・・。
  最近助っ人のお陰で短時間だが近くの高校や村のミニに出かけ子供達に接することができるようになった。本当に心が洗われそして体中にエネルギーが充満してくる。花子や太郎そしてドラえもんには済まないが・・・・。


(85) Goldfish
  太郎、花子、そしてドラエモン、どれも家内は喜ばない。先日孫が捨て猫の赤ちゃんを拾って持ってきた。家内は怖い、飼うのは嫌、勿論犬も。隠居もこれ以上世話のかかる動物は余力がない。娘が金魚はどうかと助言。先々週の土曜日水槽を買いに、60cmの4点セットと下に入れる砂利を購入。さて金魚屋は市内にあるかしら。分厚い電話帳に新しい店を見つけた。娘の新車のカーナビで到着。高価な魚が幾槽も陳列。金魚は少なくまず手始めといううことで一番安いのを購入。10匹300円。濾過用のマットや餌を買い帰宅。
  ところが3日目に1匹死んでいた。そして翌日1匹。昨日は5匹目が。たまらず店に電話。水質を検査するから水を持ってきてくださいと。持参したが異常なし。手づかみで死魚を出していたので網を、加えて空気を送るセットを購入。どうも病気を持った金魚だったのかしら。
  ストレス解除、家内の癒しと考えたのに、かえってむごい結果に。後4匹元気でおってくれ・・・。実家の弟が可愛い熱帯魚を飼っているので聞いた。「最初は何匹も死なせたよ」と。
  30何年前バスケ部員の親さんが立派な金魚を持ってこられた。確か水槽だけで何の装置もなかったが、相当ながく生きていた。そこは金魚の養殖をやっておられた。あれは元気な金魚だったのだな。
  金魚屋の娘は元気な子でガードだった。この学年が10年のうちで一番強かった。しかし県大会なぜかシート権なしの年で1回戦に優勝候補とあたり、激闘のすえエースの退場で敗れた。スタメン4人が地元の県立高校で、選抜の県大会で準優勝した。公立高校で準優勝の学校は以後皆無である。
あれ金魚の話が昔話になってしまった。家内を少しでも早く寝かせ(8時頃)、それから初めて私の自由の時間、でも9時にはもう睡魔に襲われてしまう。目をこすりつつ・・・・。


(86) せめて10分の1でも
  この夫で良かった
  朝食30分後、毎回弱年生アルツファイマーの夫を排便誘導する。パニックにさせないように、笑顔でズボンを下げ、便座に座らせる。前にひざまずき、時計回りに腹をさする。少しおなかが堅くなってきた。ガスのにおいとともに便が出る。
  「お父さん良かったね」と話しかけると、「ありがとう」の返事が返って来る。
  「もう出ませんか」と聞くと、夫は前の方を指す。そこで、私は「洗いますよ」と伝える。すると夫は「どうもすみません」と言う。
  毎朝の快便にひとまず安心し、デーサービスに送り出す。妻の名を忘れてしまったが、介護者である妻の姿を絶えず追う。行動面を見ると、症状は進んでいるようだ。   でも、夫の感情は穏やか。真心を込めて接すれば、「ありがとう」「ごめんね」の言葉が返ってくる。それがうれしい。
  結婚して35年。うち試行錯誤の介護で過ごした5年半は、惰性で過ごした30年近くに比べて、耳にする一言一言がこんなにも嬉しく感じる。
  長女夫婦に病名を告げると「レーガン元大統領と同じ病気だから」と慰めてくれた。幼い孫たちも「おじいちゃん笑ったよ」とまなざしが優しい。娘、孫も授かった。この夫で良かった。あなたも私で良かったと思っていると信じていますよ。体力が続く限り、在宅介護で頑張りたい。
愛知県春日井市 61才 主婦・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   実名で書かれていた。衝撃的な一文一文。愛深き行動、目頭が熱くなる。せめてこの方の10分の1でも心がけねば・・・。


(87) 厳しい現実
  「私の介護 家族戦争  著者 宇野淑子」 1942年生まれ  元 TBSアナウンサー
  図書館で何気なく目に留まった本、中身を読んで感動した。掲示板に書こうかどうか何度も躊躇した。倅や娘にも読んでもらった。著者の父親は78才の時75才の奥さんが痴呆になられ、老々介護で7年過ごされた。85才の時父親はひどい脳梗塞に倒れられた。
とても仲が良かったきょうだい5人が、介護をめぐって意見が分かれ2女の著者一人が面倒を見ることに。
  著者の願いは全く動けない父親、母親を家族は面倒見ずに(面倒みれない事情もあり)家政婦さんヘルパーさんなどの支援で行おうとした。行政、病院との激しいやりとり、金銭的な問題等々書かれている。
  病院にいるときよりもわが家に戻り、暖かい介護をされ容態が良くなっていく様も詳細に記されている。十分中身を紹介できないが、身につまされてしまった。


(88) 校名
  インタハイの結果が刻々ネットで伝えられている。まことに便利になったものである。校名であまい知らないのがある。私の不案内のせいかも知れないが。
  東和大昌平とか金沢総合とか東京学館新潟など昔からあったのかしら。愛知の代表の愛知産大工なんか最近まで知らなかった。私が30何年前から知っており、幾ばくかの応援していた東海工業だった。最近愛知県でも校名変更がいくつもあったようです。女子校が男子を、男子校が女子も募集し始めたのも変更の理由の一つ。校名が変わると何か変わったイメージを感じる。特に・・・大学なんて入ると格が上がったような響きがする。
  さあ明日はいよいよ決勝戦、NHKは男女どちらを放映するかしら。できたら女子がいいが。


(89) あっ8月15日だった
  盆も今日までか。例年15日に子ども達がやってきたが、今年は都合で昨日だった。さてオリンピックはどうだったかしら。新聞を見たりチャンネルをあちこち切り替えたり。夕方はっと思った。8月15日戦争に負けた日ではないか。記憶間違いかなと心配になって新聞を開いた。 一面には柔道の金メダルの記事がでっかくでているだけ。ページをめくるが一見何処にもでていない。再び一面を見たら左隅に小さく「政府公報 本日(8月15日)は、”戦没者を追悼し平和を祈念する日”です・・・・」とあった。やっぱり今日だったな。そしたら2面に「記憶から遠ざかる8月15日」でかなりのスペースで元副知事の論文が掲載されていた。
  これでいいのか、あの敗戦の日についてマスコミの取り上げ方は、ちょっと寂しいではないか(他の新聞は見ていないが)。あの日私たち中学生は行軍に(長距離を歩く)出ていた。自転車通学の同級生は名古屋まで(20何Km)三八銃を運んでいた(軍隊に小銃が不足だから)。そして昼に学校に戻って終戦の勅語を講堂で聞き、学校長の説明で敗戦を知り慟哭した。時の流れは恐い。あの真夏の衝撃を風化してはいけない。自ら反省するとともに子孫にありし日のことを伝えねばならないと思った。


(90) 寄る年波には
久方ぶりに今日は近くの高校と中学を訪問しようと。中学の監督さんに9月の予定を送信して欲しいと携帯に。すぐにスケジュールが送られてきた。夏休みの成果のプリントもあった。大分進歩している様子。今日は午後は体育館と記載してあった。まず夏休みも一度も顔を出していない隣の高校へまずバイクを。下のグランドで集団の演技をやっている。あっ学校祭が近いか。教室近くでも太鼓など練習している。近くの陸上部員に「学校祭っていつ」って聞いたら「明日」と言う。これではダメとUターン。
  今度は中学へ。体育館を覗くと女子バスケがやっていて男子は影も形もない。帰宅してメールを監督に。しばらくして電話あり。監督さんから。「先生みえたの」「誰もいなかったよ」「Faxの左上に{今週来週は学校祭練習でバスケは休みです}と書いておきましたが」。見直したらやっぱりかいてあった。うっかりしていた。ミスだらけ。
  午後1時半頃老人センターで入浴後姉の所へ行った。妹も私が行くからと呼ばれていた。姉妹は私の家のことを心配していてくれる。姉に「この頃足の裏が変だよ。何かしわしわの感じ。余り体重が減って、皮だけがのびたせいかも」。姉が「そう言えば私も最近そうだよ。これは年寄りになったからだよ」といって大笑い。さてさて一人前の老人になってしまったようだ。