第4部

(91) 雑感 9/30
  あんな事を書きたいこんなこともと思いつつもなかなか書けない。家内の世話で心の余裕がない。サービスや助っ人でそれぞれ週4日ずつ世話になっているが。今日は外出訓練で名城公園へ5000円持参で(指示)行く予定だったが、台風の影響での雨で知多のえびせんべいの店に変更らしい。家内はいつも喜んで迎えの車に乗車してくれる。この機会に少し独り言を。
  先日の佐屋親水体育館で行われた近県交流試合、もう12日も過去に。最近土曜日1時間ほど応援に行く立田ミニ、郡市では今年は抜群の強さで各大会優勝している。しかし交流試合であたった岐阜、三重の上位チームとの対戦では惨敗した。かなり恵まれたメンバーで練習日数も週3日、近県への練習試合、招待試合にも積極的に土日参加している。若い監督も熱心。それなのに力が十分出ていない。なぜだろう。
  ゲーム運びをみてもバスケットらしさがでていない。練習内容も全般を見ていないので正確では無いが、基本的なことが十分されていない感じ。私は監督にあれやこれや助言をしておいた。
  家に帰ってからよくよく考えたら、チーム力の不足の遠因は私にあったことに気づいた。監督は中学で私の部のキャプテンだった。私が退職と同時にミニを創り、彼は高校3年生でアシスタントコーチ 、以来10年近く支えてくれた。当時のミニは週2日、練習試合は皆無(佐屋ミニも創った関係で)、県の登録も無し、いわゆるバスケを楽しむ程度のクラブでした。
  こういった環境で私のバスケ指導を身につけた監督は、環境が変わった現在も私の殻から出られなかったようだ。県大会に是非出たい、それには尾張大会で成果をあげねばと監督は切願している。私は昨夜わが家に寄った監督に「私の呪縛から脱出しなさい、県大会で活躍するにはどうあるべきか、原点に立ち戻って考えなさい。君ならできる。自分の足で立とう」と。
  軽々しく立田ミニの戦いぶりなどを批判してた己の軽率を反省しているこの頃です。


(92) 平行読み
  今読んでいるのは「士道遙かなり 疾風新選組 第二巻 池田屋斬込み 早乙女貢著」「ビートたけし 顔 麻痺」「二十三年介護 ねじめ正一」「継母(はは)ボケて鉄人となる 頑健ボケ婆ちゃんと元極妻の介護十番勝負 遠藤よう子(ようの漢字がない)」の4冊である。最近なぜか何冊かを少しずつ同時に読んでいる。そのため筋がよく分からないこともある。「士道遙かなり・・・」はテレビで新選組をやっているので借りてきた。
「ビートたけし 顔 麻痺」は何となく題が気になって。後の二つは介護関係なので勉強がてら。
  遠藤よう子の略歴をみて驚いた。あの阿部譲二の元奥さん。「塀の外の同窓会 阿部譲二」を返却してその次に元奥さんの本を読むとは。前々から不思議に思っていること。あの容貌魁偉前科も多くあるやくざの彼が、日本航空の乗員に合格、そして美人のスチュワデスなど何人かと結婚できたこと。彼は良家の出で橋本元首相と同級生である。
  ちなみに遠藤よう子は同志社大学英文科中退、日本航空のスチュワデス。父親は追手門学院大学の元学長。幼いときから継母に阻害されていたが、痴呆、精神分裂症のたぐい希な行動に必死に取り組む介護内容。まだ中途だが身につまされ読んでいる。
  「二十三年介護 ねじめ正一」は母親の記録ノートを元に綴られている。この頃は新聞でも介護関係の記事に目が止まる。


(93) くす玉
  居間の鴨居に大きいくす玉が20個ぶら下がっている。10種類以上の折り紙でできて色鮮やかに部屋を飾っている。すべて娘の学年の誕生祝い。これで12月分までは完成だ。いつもは離れに置いてあるが、娘が家内の脳の活性化に良いと言うのでぶらさげることにした。
  少し製作に余裕ができたので佐屋と立田のミニに連絡「途中入部の子にもあげたいので数を教えて」と。立田は調査します。佐屋は「1名ですが賞品にしたいから5個欲しい」と。ふと気づいた。今までの子たちへは小さいくす玉を配っていた。今あるのは4倍の大きいくす玉だ。ちょっと不公平だが大きいのをあげよう。来年度の入部者へは全てでっかいのをあげることにしよう。正直言って小さいのは愛妻にとって大分難儀になってきた。また新入部員がくす玉をもらえば部員勧誘の宣伝に役立つかも。
  しかし頭上に沢山の球状の物があると、バスケットボールに見えてくる。試合は勿論近くの中学や高校へも滅多に顔が出せない。イライラはつのってくる。
  3日前沢山のもろこを煮て大昔の教え子が持ってきてくれた。近所の方や実家にも分けた。早速ヘルパーさんに箱寿司を作ってもらった。まだ余っていたので先ほど一箱我流で作った。今夜は手製の寿司を食べイライラを癒そう。
  いろいろあるでしょうが子ども達を指導し、ゲームをしては喜んだり悔しがったりできる皆さんは幸せですよ。尽くした分の何倍かが将来必ず戻って来ます。日本を支える子たちにしっかりした種を植え付けてやってください。


(94) 遠い親戚より・・・
  40数年前田圃の中にできた分譲住宅10軒、私は一番乗りした。近くには桃や梅の木々があった。西の山さえ見通せた。それが今や400世帯を越す町内、旧市街と繋がってしまった。多くの家はブロックや垣根で仕切られてしまって、隣近所の立ち話さえない。引っ越してきた隣の家の子供さん、今は40前後だというのに顔さえ知らない。 10軒の家は殆ど老齢で現役の世帯は無い。従って幼児は2人だけ。
  そんな環境だが向かえの家寺岡さんは家内がずっと仲良くしていた。92才のお爺さん88才のお婆さん、共に車椅子が必要。寡婦の真智子さんは最近まで老人ホームに勤務しておられた。最近増築され若夫婦が住んでおられる。
  家内はこのごろ寺岡さん宅を訪問するのを楽しみにしている。勿論私も一緒に。ここで寺岡のお婆さんたちと例のくす玉作りをやっている。人情紙の如くというご時世なのに、真智子さんは家内を迎えに来てくださる。帰りには靴まで履かせてくださっている。お陰でどれほど助かっているか分からない。
  昨夕も前にも書いた和裁学院の院長さん(教え子)が私たち夫婦に、和製ベストを作って来てくださった。その上特製のお酒まで(日中だが少し飲んで今いい気分でキーを叩いています)。
  「向かえ3軒両隣」昔よく使われた言葉、老齢社会の今日ほどかえって必要だと痛感している。心暖かき人々の支えに励まされ癒されているのを如実に感じただただ合掌の隠居です。

  向かえの寺岡さんの真智子さんが、息子が大型の車で福井の方へ家族とお嫁さんのお母さん、お友達夫婦と行くから一緒に行きましょうと誘っていただいた。でも何かと世話のかかる家内のこともありお断りした。ところが夜遅く息子さんの英男君が来て是非と勧められ好意に従うことにした。
  今朝台風の前触れの雨の中北陸路を変更して知多半島を目指した。英男君が勤務するレストラントの大きなバスで。ここの主人は昔の教え子である。祖父母用の車椅子2台も車中にある。休憩したり目的地に着いたとき、孫に当たる英男君とお嫁さんは抱えるようにしてお爺さんお婆さんを介助しておられた。子ども達さえ孝養が忘れられている現代、自ら運転しまた足腰不自由な祖父母を労り、少しでも秋の行楽をさせてやりたいという若き夫婦の心情、まことに心打たれる情景でした。
  また母親である寡婦の真智子さんは家内の世話を始終していただき、トイレまで面倒見てくださった。行動もままにならぬ高齢の舅姑の日々の世話だけでも大変なのに、いつも家内を励まし労ってくださっている。この母にして祖父母孝行の英男君が育ったのでしょう。そしてあの明るい天心爛漫なお嫁さんを迎えることができたと思います。
  知多は豊浜、円の中に「は」を書いた”まるは”の屋号の大きな食堂に入った。ここでおいしい昼食をいただいた。ここにはテレビなどでも紹介された有名な創立者のお婆さんがおられる。以前息子の学校に講演に来ていただいたおり、感想文を送ったりした関係で、以来とても倅は可愛がってもらっていて、いつも沢山の煮干しなどいただいている。
  食堂を去るとき玄関の隅でこのお婆さんが鎮座しておられた。私たち一行と会話せられ「98才です。耳が遠くてきこえません」と言われ、みんなに土産物として置いてある商品を惜しげもなく私たちにくださった。顔艶もよく腰もしっかり伸びておられる。ああして玄関で現役で見守っておられるようです。入り口には2体の大きな仏像があり不思議な想いをして車に乗り込んだ。
  もう2度と遠出の行楽は出来ないと諦めていたが、こんな素敵な一日が送れたこと寺岡の皆さんに感謝の言葉もありません。
  夕方には先日和製ベストを持参してくださった院長さんが、家内のを作り直してきてくださった。本当の名称は「ポンチョ」と言うそうです。家内は喜んで早速着用。
  皆さんの暖かい支えに感謝し2人1.5脚ではあるが、明るいことのみを心に留め、一歩一歩歩みたいと願っています。


(95)続: 遠い親戚より・・・・
  向かえの寺岡さんの真智子さんが、息子が大型の車で福井の方へ家族とお嫁さんのお母さん、お友達夫婦と行くから一緒に行きましょうと誘っていただいた。でも何かと世話のかかる家内のこともありお断りした。ところが夜遅く息子さんの英男君が来て是非と勧められ好意に従うことにした。
  今朝台風の前触れの雨の中北陸路を変更して知多半島を目指した。英男君が勤務するレストラントの大きなバスで。ここの主人は昔の教え子である。祖父母用の車椅子2台も車中にある。休憩したり目的地に着いたとき、孫に当たる英男君とお嫁さんは抱えるようにしてお爺さんお婆さんを介助しておられた。子ども達さえ孝養が忘れられている現代、自ら運転しまた足腰不自由な祖父母を労り、少しでも秋の行楽をさせてやりたいという若き夫婦の心情、まことに心打たれる情景でした。
  また母親である寡婦の真智子さんは家内の世話を始終していただき、トイレまで面倒見てくださった。行動もままにならぬ高齢の舅姑の日々の世話だけでも大変なのに、いつも家内を励まし労ってくださっている。この母にして祖父母孝行の英男君が育ったのでしょう。そしてあの明るい天心爛漫なお嫁さんを迎えることができたと思います。
  知多は豊浜、円の中に「は」を書いた”まるは”の屋号の大きな食堂に入った。ここでおいしい昼食をいただいた。ここにはテレビなどでも紹介された有名な創立者のお婆さんがおられる。以前息子の学校に講演に来ていただいたおり、感想文を送ったりした関係で、以来とても倅は可愛がってもらっていて、いつも沢山の煮干しなどいただいている。
  食堂を去るとき玄関の隅でこのお婆さんが鎮座しておられた。私たち一行と会話せられ「98才です。耳が遠くてきこえません」と言われ、みんなに土産物として置いてある商品を惜しげもなく私たちにくださった。顔艶もよく腰もしっかり伸びておられる。ああして玄関で現役で見守っておられるようです。入り口には2体の大きな仏像があり不思議な想いをして車に乗り込んだ。
  もう2度と遠出の行楽は出来ないと諦めていたが、こんな素敵な一日が送れたこと寺岡の皆さんに感謝の言葉もありません。
  夕方には先日和製ベストを持参してくださった院長さんが、家内のを作り直してきてくださった。本当の名称は「ポンチョ」と言うそうです。家内は喜んで早速着用。
  皆さんの暖かい支えに感謝し2人1.5脚ではあるが、明るいことのみを心に留め、一歩一歩歩みたいと願っています。


(96)町村合併とミニバスケ
  本日(平成17年4月1日)より我が市を囲む二つの村とふたつの町が合併して愛西市(愛知県の西端)となる。先日村のミニの監督さんからメール。今まで無料でそれも練習日を優先的に固定していた総合体育館が有料になった。年間10万円程かかる。それも3ヶ月前に抽選会で使用日を獲得せねばならない。また毎年15万円補助金が出ていたのがこれからは1万5千円になる。何も良くなっていない村民が市民になっただけだと。
  今まで村長旗争奪大会で各チームを招待し、立派な賞品や会場の全ての人にぜんざいの サービス、勿論監督コーチの食事などを行っていたが、今年度からはどうなるだろうか。町村合併はどんなメリットがあるのだろうか。いままでその趣旨について私は聞いていない。新聞などでも見た覚えが無い。国はもっとこれについて説明すべきではないか。
  我が市をはずして周りの村と町が合併したのは、私たちの市の財政状況が悪いのが原因のようだ。今後どうなるのだろう。かって織田信長の天下制覇の財源だった我が町、今日の衰退残念なことだ。


(97)流石 大学教授
  今日(午前9:48)01895,昨日07381,延べ2,540,344
  神戸女学院大学文学部総合文化学科・内田樹教授の日記のカウンターの記録です。
甲野善紀先生の随感録で名前を知って以来教授のサイトにアクセスしている。連日長い文章の日記が書かれている。時に隠居には良く分からない内容もあるが、その筆力のすごさに驚く。それにしても毎日のアクセス数の膨大なこと。大学の先生は凄いな、でもこの教授は特別かも。書籍も多いようです。その上合気道の指導者、文武両道の達人。こんな先生に教えてもらう学生は幸せだな。老いた隠居もこの日記を読ませてもらってとても勉強になっています。
http://blog.tatsuru.com/ (内田教授のHP)


(98)6月16日
  朝からメールやインターネットが使えない。プロバイダー の故障。漸く午後回復
 1.バスDAIさんからのメール 彼は報徳学園の先生。二宮尊徳翁の生誕地など以前旅行しておられたので、この学校尊徳翁に縁があるかも。以前送った鷲野君の資料漸くソフトをいれてみられた。とても参考になったとのこと。いい資料なので他の先生にも重宝されたそう。
 2.高蔵高校の後援会長さんからインターハイ出場・壮行会の案内をもらう。
 2年ぶり22回目だそう。重田監督が大学を出て赴任されたばかりに、縁あってお邪魔し爾来息子まで世話になった。我がバスケの恩人。しかし夜家を空けるわけにはいかないので丁重にお断りをした。今回こそいい結果が出ることを願っている。
 3.「そこ知り板東リサーチ 木曽川の恵み・新生愛西市ぶらり旅」のテレビ番組
 平素はこの番組余り見ないが今晩だけは縁の地なのでじっくり見た。旧立田村ではでっかい温室でトマトの栽培。教え子が孫を抱いて登場、そして息子さんが説明。レンコン料理ではPTA役員をしていただいた女性(教え子の奥さん)や高校時代水泳選手で名を馳せた女性が画面に。お菓子屋さんではこれまた旧知の人物が息子さんや孫達と。みんなめっきり加齢していた。
 屋町では木魚の製作所、佐織町では趣味からおそばやさんになった老人。そして八開村では明治にアメリカへ渡った方の影響で、以後この近在から何千人もの方が移民された。そしてその子孫の女性が里帰りして登場。私の祖父の兄も移民され戦後帰国。
 (近くにいても余り知らない店や史実を知らされ興味深く番組を見終わった。)


(99)介護百人一首  7月1日
  毎週水曜日NHK教育テレビ午後8時から介護関係の番組がある。一昨夜はいつも何かと忘れてしまうので録画した。
  3年介護されている70才の男性   何食べたい 日々問いかける 習わしが 続くを願い 今日もまた問う
  リハビリで 現状維持も ままならず これから先の 頼るすべなし
  もう一度 歩きたいよと 泣く妻の 日に日に萎える 足見る辛さ
  治らざる 病に耐えし 吾が妻の ほほえみありて 介護いそしむ
  幾たびも 聞き返しては 叱られる 呂律まわらぬ 妻との会話

 (デーサービスもヘルパーもなくご主人一人の介護。食事さえ口に運んでおられる。この短歌作りで癒されるそう)

  57才の主婦 介護12年
  共に見て 共に話すを 契りしに 返らぬ声に 苛立ちの声
  生きること 夫(きみ)の手となり 足となり 空気の如く そっと寄り添う
  吾が半生 地蔵の如く 居る夫(つま)を 若き日想い 支え過ぎゆく
 (話が通じなかったが、短歌の好きだった主人が、奥さんの短歌に反応しはじめ、会話がなりたった)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  あまりにも心情が理解され瞼が曇ってしまった。それぞれ真摯に人生の厳しさに直面して、愛深く行動されている。おのが未熟な日々の対応に反省しきり。


(100)念願成就の方法
  少し前新聞の広告欄に「五木寛之の百寺巡礼」の大きな広告の横に「気の発見 五木寛之 対話者 望月勇(気功家)」が小さくでていた。早速注文、とても格調の高い本でした。その一部を紹介します。

望月:何年も前ですが、ロンドンで、運転免許をとるとき、試験の一週間前から、毎日、横になって、リラックスして、試験に合格して、無事免許を手にしたところをイメージしたんですね。かなり詳しく、デイテールまで細かく。

五木:試験から、合格までのプロセスをこと細かに頭の中に描くわけですか。

望月:そうです。まず試験官が採点表を手に助手席に座るところから始まり、結果発表でその人が「ユー・パスト」といって、合格証明書を出してくれるまでです。・・・・その光景を何度もなんども脳裏に焼き付けるように、イメージしました。・・・・・・・・・・・・・・
望月:ええ。(笑)それ以来、いろいろ体験しましたけれど、祈りとか願いをした場合プロセスについても、大いなる宇宙の意志にまかせて、自分はただ成就した場合をイメージするというやり方のほうがいいみたいです。そしてそれが実現したことを前提に、お礼をいってしまうんです。・・・・・・・・

五木:・・・・・・・・・だけど、「祈るときは、それがかなえられたと思って、現在完了形でしなさい」というけれど、なかなかむずかしいですね。

望月:そうですね。それと、もう一つ、祈りとかイメージをする場合、大切なことは、強く、リアルに、細部に至るまで丁寧に描写することです。それを毎日そして一日のうち何度となく、自分の確信になるまで行うんですね。と同時に 結果を手離すんです。

五木:結果に執着しない。これもなかなかむずかしい。

{私が若いときから教えられ信じてきた考えと同じです。勿論人事を尽くして天命を待つ事は当然です。}


(101)回想記録を?
  私の拙い掲示板を見てくださる方が毎日100名前後あります。しかし終日家におりあれこれ家事に忙殺されているとなかなか書く材料がない。ましてバスケは縁遠い。折角アクセスいただいても何日も書き込みが無くて申し訳ない。
  認知症患者にたいして音楽療法とか計算、音読療法が行われている。最近回想療法が外国などで普及しているそう。そこで私もボケ封じをかねあれこれ回想してみようと思った。でも主なことは今昔物語、終戦秘話、つぶやき、独り言なので書き尽くしてしまった。さてなるべく重複しないでと思うがうまく思い出せるかしら。
  言うは易く行うは難い。ほんの数回しか書けないかもしれない。ともあれ実行。


(102)回想1.小学校教師になった時
  戦後賠償のため大同製鋼が縮小し始めたとき独断で退社(詳細はどこかに書いた)。しばらく家業の電気商を手伝っていたが、4月ごろ友人が村の小学校で先生を捜しているときいた。早速親類の退職校長に頼んで採用された(昭和25年5月31日 1950年)。旧制中学4年卒業(戦時で5年が短縮)すなわち代用教員(助教諭)である。
  登校すると教師の選挙運動の真っ最中だった。確か参議院で教師出身の成瀬幡治を応援していた。毎日夕方から暗闇のなか村道を自転車に乗りつつメガホンで「ナルセ ナルセをお願いします」と連呼。これが愛知県中の先生がやった。選挙結果は全国1の抜群の得票。勿論社会党だ。選挙後村役場に赴任挨拶に校長に連れられていった。そしたら挨拶はどこえやら村長始め役場の幹部が校長さんに選挙運動の文句を言っている。それもそのはづ子ども達まで「ナルセ ナルセ」だったから。
  この教師集団の威力に驚いたのかしばらくして教師の選挙活動が大幅に制限された。会社の養成所出身で技師であったが正規の学歴がないので日本最初の通信教育で日本大学に入った。


(103)回想2 小学校教師
  あのころは学校に電話が無かった。子ども達は冬は服の上に和服の羽織みたいな防寒着を着ていた。クラスも多い学級は60人を越えていた。宿直は男性教師が少なかったから毎週1回は泊まった。独身者は一人だったので何度も先輩の代わりに泊まった。
  さてある年同窓会会長が電話を設置するため同窓生などに寄付をお願いした。成功者を遠方まで訪問し拠出を頼まれた。勿論学校長も。幹線道路からかなり離れた農村地帯、電柱が何本も必要だった。総額10数万円集まった。そして漸く学校に便利な電話が創設された。当時は始業ベルもなかった。年老いたお婆さんの小使いさんが半鐘を鳴らしていた。放課でゆっくり抹茶を飲むためかなり鳴らす時間を遅らせたものだ。
  校庭の中央部東西に校門があった。夏アイスキャンデー屋さんがグランドを通過していく。みんなであみだ籤をやって購入し暑さを凌いだものだ。悠長な時代だった。


(104)回想3 若き女教師  その1
  校舎は勿論木造建築、職員室の机腰掛けは勿論木製だった。冬には二人に1個の火鉢が置かれ小使いさんが炭を配っていた。赴任した頃職員は12名ぐらいだった記憶。教務主任、校務主任はなかった。
  ある時隣席の新卒間もない女教師が突然私の方へ倒れてきた。驚いて抱えた。危うく落下するところだった。かなりボリュームのある先生でとても重かった。美人には縁遠い容姿だったが独身の隠居の初体験だった。先輩教師達と宿直室まで運んだ。彼女ダンスを勉強中でかなり疲労が蓄積していたらしい。校医が来て診察単なる貧血だった。部屋を出るときふと振り返ったら、上衣をひらかれむき出しになった見事な双丘が目に焼き付いた。

         若き女教師  その2
  今一人これは美人の先生だった。女学校出たてのやはり代用教員だった。家の方向が私と同じ方なので帰りの遅いときにはT村にある彼女に家の近くまで送ってあげていた。この先生が特に関係のある大切な行事のとき突然欠席、心配して私が頼まれ家庭訪問。父親と対話。先輩女教師と少しトラブルがあったのが原因で欠席ではないかと話をした。親さんの態度は曖昧だった。
  翌日彼女の死去が報ぜられた。私が訪問中は危篤状態だったのだ。何が原因で折角の青春を・・・。世間はもしかしたら独身教師の私が原因ではなかろうか・・・。かなりたって家人の話で上司との関係が原因らしいと語られた。 何故かこのあと近くの同じ年頃の他の学校の女教師も生を縮められた。戦後まだ数年も経っていない混沌の時代の影響もその背景にあったのかもしれない。


(105)回想4 通信教育その1
  毎夏スクーリングで休暇の殆どを東京で勉強した。学校は水道橋の近くにあり地下の柔道場が宿泊場だった。全国から参集した人たちでいっぱいだった。寝具などを大きな袋に入れ駅まで自転車に乗せ輸送を依頼した。学校に初めて着いたが荷物が着いていなかったので布団なしでごろ寝をした。翌日漸く水道橋駅で荷物を受け取り、それをかづいて宿舎まで。真夏大きく重い荷物を運ぶのは重労働だった。今考えるとぞっとする。
  昼食は経費節約でコッペパンなるものをお互い食したものである。学生は教員が多く年齢も雑多だった。師範出の教師は2級免許状であるので1級免許をとる目的で来ていた。(この頃は免許単位の講習会が夏休み県教委の主催であちこちで行われていた。)
  それぞれ同県人同志が固まって暮らした。九州の連中はなにか豪傑風で元気が良かった。道場なので中にはバク宙(後ろに宙返り)をして皆を驚かす人もいた。始めて風変わりな宙返りを見てびっくりした。後年中学で体操部を創設してそんな演技を指導するとは夢にも思わなかった。

          通信教育その2
  今だから書くのだが当時の大学通信教育はまことに杜撰だった。他の大学のことは不明だが。私が2代目県人会長をしていたときのことである。毎期のテストは名古屋の中学校で行われれた。この学校の先生が通信教育の学生でもあった。私は大学の教務課から派遣された試験官を食事に連れだし饗応に努めた。その間試験官不在である。
  私自身テストが受けられない。やむなく問題を聞いて帰宅して答案を書き翌朝試験官に届けた。このため通教生(通信教育生)は大分助かった。
  学年は進んでも教材が揃わなかった。4単位のものが2単位でやむなくそれで4単位を認めていた。大学自体もいい加減な時代だった。まだこの制度が始まったばかりで大学もテンヤワンヤだったのだろう。

          通信教育その3
  これもまた良くないことだったがもう時効だから書こう。大学2年経って2級免許状の単位があらかた揃った。しかし教育実習の単位がない。まだ開講されていなかったのだ。友人が大学に行って教務のMさんに頼んだら実習の単位をくれたと。そこで早速夜行で上京。普通列車だが夜行は準急並だった。早朝東京駅到着。定期テストで名古屋にきた教務課の職員に小声で教育実習の単位を請求。彼は夕方再度来るように言った。なんとか夕方まで時間を過ごし再び教務課へ。彼は一通の封書をくれた。外へ出て見たら単位が認定されていた。
  後日愛知県で免許状の申請をしたら2級免許状(国語・英語)が授与された。しかしそれは結局使わず後2年経って正式単位で高校2級、中学1級の免許証を卒業と同時に東京都より授与された。勿論教育実習を付属の高校で受けた。でも実に簡単で代表者が授業をやり我々は英語教師から講義を受けただけだった。
  実は大学は当初文部省より教員免許がとれる認可が下りていなかったのだ。我々が卒業する頃には認可がおりる算段だったらしい。新聞に広告していた入学案内の内容は実はインチキだったのだ。私たちも良くなかったが大学もいい加減だった。

          通信教育その4 学歴詐称
  かって選挙後学歴詐称でマスコミが騒いだことがあった。そのため折角の国会議員を棒に振った人もいる。私はとっても悪いことをしたとは感じなかった。勿論してはいけないことだが。
  私が通信教育を卒業してしばらくして日大の愛知県の同窓会があった。たった1回出席しただけ。そのとき正面に座っておられたのが有名な私立大学の学長さんだった。実はその方東京の大学に在学中名古屋の旧制中学校の校長だった父親の急逝で、大学を中退して校長になられた。後中学校が高校にそして大学まで作られた。卒業生は全て学士号を授与、肝心の学長が学士号がない。そこで通信教育を。だから私の後輩。しかしレポート出されたのかな。多分特別授業で?卒業されたのだろう。通信教育はまことに便利な制度だった。

          通信教育その5 こんな方も
  終戦間もないとき全国で最も若い衆議院議員が私たちの選挙区で当選された。公職追放になった会社社長の秘書で地盤を受け継いで立候補されたのだ。新聞の学歴は商業学校(註:中等学校)出身とあった。以後毎回の選挙に当選後に大臣までされた。いつの時か記憶がないが新聞の学歴は日大卒業と変わっていた。通信教育から転部されたのかな。やはり特別授業?が行われたとか噂に聞いた。
  数年前大学創立100年記念の寄付金募集の趣旨書が送られてきた。発起人の代表としてかの代議士の名前が書かれていた。大学にとって最も大切な卒業生ということになる。現在この方は亡くなられ息子さんが跡を継いで代議士。

          通信教育その6 大学入学資格試験
  大学入学資格試験こんな名称の試験が夏のスクーリングのときあった。勿論テスト料が必要だが。高校3年卒業で大学は入学なので、旧制中学出身者は5年修了、いまでいう高校2年生である。まして私は戦時の関係で中学4年生修了だ(但しこれは5年修了と同格)。すなわち私たちは別科生でこの試験合格で正科生、大学1年になるわけ。
  受験生は多かった。記憶が定かでないが英語と2,3の教科だった。英語不得意な年輩の書家が隣に座らせて欲しいと懇願。ぎっしり座った席で受験。テスト後かなり豪華な夕食をふるまわれた。殆どの人が合格したようだ。


(106)回想5 適格審査
  私の学校用の履歴書に「昭25/5/10愛知県教員適格審査委員長より教員適格判定を受く(第35868号)」の記載がある。これは戦争犯罪の調査で、公職追放とか不採用となるものであった。採用にあたって履歴調査が行われたのである。友人の口利き、退職校長の事務所への斡旋で採用が決まる。 昭25/5/31 ○○公立学校教員に任命する三級に叙する   ○○小学校助教諭に補する 4級5号俸を給する 3565円   大同製鋼KK時代の月給の3分の1の薄給だった。題名の「適格審査」なんて語はもはや死語である。それにしても私の採用は復員された元教師の方が、先生より百姓の方が収入がよいと復職を止められた結果だった。のちその方も現場に戻られ校長にもなられた。   ともあれ戦後は先生不足で校長の仕事は先生探しであった。家内も名古屋の女学校へ通学していたが学校が戦火に見まわれ以後学校へ行かなかったようである。それであるのに地元の小学校でしばらく教鞭をとっていた。


(107)回想6 宿直
  宿直は小学校4年間、立田中学14年間あり、そして佐屋中学では何年目だったか記憶がないが廃止になった。当時は校舎は木造だったから深夜の見回りは不気味だった。 最初の小学校では赴任当時電話もなかったし別棟で就寝。2部屋でとなりに高齢の小使いさんが生活を。風呂はないので近くの農家で厄介に。夕方子どもが呼びに来てくれた。 先輩の宿直の時、隣室の老婆が亡くなっていた。私の番で無くて良かったが、以後宿直が嫌だった。
  立田中学では校舎の真ん中に宿直室が。部活が終わると先生達は碁や麻雀をやっていた。私は一風あって余り親しまなかった。風の強い夜、バケツが転がったり、掲揚塔のワイヤーが音を出して寝付かれない。ある晩熟睡中何かが体の上を走った。ネズミだ。校舎の点検も廊下がミシミシと響くのが恐怖。体操部をやっていた時は面倒だから泊まっていけと蚊帳の中で同宿させたこともあった。
  深夜窓を叩く音に目覚めた。同僚がずぶぬれになっているではないか。時は3月。有力者の娘の入学祝いに3名の先生が招待。学校の横を流れる幅50m程の川の堤防を自転車で戻る途中、泥酔のためか川に転落、後ろを走っていた先生が助けようとして、これまた転落。3人目の教頭さんが2人を救出。昔は新1年生は堤防にある小橋(用水用)からよく落ちたものだ。現在は堤防は危険だから封鎖されている。昔の男子教員はこの宿直によって大分鍛えられたと思う。
  来月川に落ちた先生と一泊の同窓会に招待されている。彼らはすでに62才ぐらいだ。


(108)回想7 修学旅行引率
  小学校勤務4年目6年担任として修学旅行の引率をした。勿論当時は旅行社はなく教員が電車や宿などの手配をした。村の二つの小学校が一緒で行き先は伊勢であった。電車や汽車を乗り継いで。恐らく神宮へも参詣したはずだが記憶にない。有名な二見浦へも行ったと思うが。両小学校2組ずつであった。子ども達の食事を終わってあと職員だけの宴会、勿論酒付きだった(これはかなり後々まで続いたが、世間が難しくなって?食事は一緒になった)
  就寝の段になって校長さんが「そろそろいってらしゃい」と。若造の私は何のことか分からなかったが、世帯持ちの先輩が「行こう」と誘ってくれた。繁華街へ繰り出したのである。どうも修学旅行の宵は若い教員は密かに抜け出すしきたりがあったようだ。いまならそれこそ新聞や週刊誌もの。懲戒免職ものだ。


(109)回想8 バスケットなるものを初めて(昭和30年頃)
  教師になりたてのころは郡市中学校の陸上競技大会とブロック選抜教師対抗の陸上大会が同じ会場で行われていた。トラックでもフィールドでも中学生も先生方も必死に走り投げ跳んでいた。中学の先生はさぞ辛かっただろう。指導している生徒の前で自分が競技するのだから。中には学生時代陸上の経験者だった先生は格好が良かった。私は幸い小学校だったから気楽だった。走り幅跳びの選手で予選落ちだった。
  この陸上競技大会の横で中学生の球技大会が行われていた。そしてこれがバスケットボールの試合だった。なぜこれが行われていたか、これも郡市大会だったのか記憶がない。ただ砂埃の中、女の子が戦っていたのだけ脳裏に残っている。後年これが終生の友になるとは・・・・・・。


(110)回想9 変わったプール
  昭和29年小学校4年勤務後、通信教育卒業で立田中学へ転任。晴れて教諭となる。校庭は無く校舎前わずか10mほどの幅が土、前はでっかい池。これは校庭を掘ってその土で木曽川の堤防の嵩上げに。そのかわり木曽川の砂で掘った校庭の埋め戻しと、昔からあった校庭南の池も同時に埋めた。
  さて表土の土がない。そこでこれまた南の畑を掘って砂の上に張った。勿論トロッコで。後は生徒を使って踏み固めた。掘られた畑は約50mほどこれが横を流れる鵜戸川の水を引いて天然プールとなる。板や杭で一応飛び込み台も作られた。
  この天然プールで校内大会が。背が立たないので水泳部員が救助体制で。毎回溺れそうな子が出た。
  唯一のクラブは有名な水泳部で上記の鵜戸川で練習。水深深く部員は時に魚にお腹をつつかれながら練習に励んだ。水着は赤のふんどしであった。まだ郡市には何処もプールはなく尾張の大会と県大会だけだった。当時全国トップの選手もいた。
  赴任当時の選手の孫がもうミニの卒業生で中学2年生、バスケ部員で頑張っている。


(111)回想10 しづやしづ
  推理小説を読んでいたら静御前が語られていた。ふとスッチを入れたらNHK8時のドラマ「義経」が終わって次週の予告「しづやしづ」がでていた。最近はこの番組は見ていない。不思議、小説でそしてテレビで懐かしい言葉「しづやしづ」の出現、遠い昔少年の日のことを思いだした。
  あれは小学校6年生の時だ。国語の教科書に静御前にかかわる題材があったのかしら。「しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな」の一節を担任が静御前が義経を慕う歌と説明していたとき、私は後ろを振り向いてにやりとした。突然つぶてが飛んできた。先生がチョークをぶっつけてきたのだ。そして怒った。歌の前後は記憶にない。大分早熟だったのかな。
  早速検索したら下の文章があった。60数年経って静御前の大要が分かった。今度の日曜日は是非ドラマを見よう。あの先生の息子さんを新任教師のおり担任した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  磯の善次の娘として生まれた静は6歳で父を亡くし、思い出多い故郷に別れを告げ、母と京都に上りました。巧みな舞と美しさで静は指折りの白拍子に成長。寿永元年(1182年)7月、後白河上皇が京の神泉苑で雨乞いの神事を行った時、召されて舞った直後に大雨となり「日本一」のお誉めにあずかりました。  また堺の住吉神社の舞会で平家追討に来ていた源義経に見初められて側室に。静18歳、義経27歳でした。義経は平家滅亡後、兄頼朝と不仲になり静を連れて吉野山に逃げましたが、途中雪の中で別れ別れとなり、身重の静は捕らわれて鎌倉に送られました。文治2年(1186年)4月8日、鶴岡八幡宮で頼朝をはじめ並みいる武士たちの前であざやかに舞ったのは有名です。“吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき しづやしづ賤のをだまき くり返し 昔を今になすよしもがな"と義経を慕って歌ったのが頼朝の怒りにふれ、幽閉されました。静は7月に男児を生みましたが子は由比ヶ浜に棄てられました。後に許され、禅尼となった母と懐かしい故郷の磯に帰った静は、生家跡に小さな庵をつくり、義経の無事と愛児の冥福を祈りました。20余歳の秋の暮れ、静は鳴き弱った虫が消えるように夫と愛児の後を追いました。


(112)回想11 教えた教科 スポーツ 11月24日
  英語・国語・数学・理科・体育・技術。長い教員生活で6教科の授業を担当した。免許状は英語・国語である。他は臨時免許状を申請して。中学へ赴任した当時は体育の免許状所有者は各学校にもあまりいなかった。師範学校出身者は教科毎の免許状はない時代だった。そのため各自希望の免許状2科目が授与された。小規模校ではみな臨時免許状をもらって不足教科を埋めねばならなかった。
  赴任早々体育主任、ともあれ若い教員が体育の授業を。田舎の中学だったが3年生にもなると大分生意気だった。そこで体育の授業で「お前達何か文句があるなら、いつでもかかってこい。」と啖呵を切った。どんないきさつでそうなったか記憶はない。誰も向かってきた生徒はいなかった。
  クラブは相撲・体操・バレー(9人制)・ハンドボール・ソフトボール・陸上・駅伝・バスケットボールの監督をやった。相撲・ハンドボール・駅伝は臨時クラブだった。他校の先生方は私が体育の先生だと思っていたようだ。相撲はまわしをつけて指導した。最も強い選手を大勢が見守る中で小手投げで簡単に投げ飛ばしてから、生徒達の見る目が違ってきた。多少柔道の経験があったので自信はあった。


(113)回想12 体罰  11月28日(月)
  先日養老での中学最初の卒業生の同窓会、宴会後全員が私たちの部屋に集合。昔話や近況を元気に話し合っていた。みんな孫のある連中だ。T君が前にやってきた。彼は学年でも最もいい体格をしていて相撲の選手だった。純粋の農業人でレンコンも沢山作っている。
  彼が言う「先生は凄い声で足を開け、歯を食いしばれ、と言って平手でバシンと、いやほっぺたの寸前でストップ。肝が冷えたよ。先生は恐そうで本当は優しかったなあ」。
  そう言えば私はあまり叩いたことはなかった。たいていは声と気合いで叱っていた。
「先生は贔屓はなかった」といって誉めてくれた。確か職員室で遅刻者数名を平手で例の足を開かせ歯を食いしばらせて一発ずつ叩いた記憶もある。村の有力者の長男も一発。
  教師でむごい体罰をやるのは大体弱い教師だった。私は先輩や先生によく叱られたれたので生徒の気持ちがよく分かる。だから叱るのは一瞬で終わり。
  バスケ女子で一度だけ試合中タイムをとって、5人の頭をスコアブックでパンパンと叩いた。相手チームにプレシュアをかけるため、そして彼女たちに気合いをいれるため。でもあまり感心できないね。


(114)回想13 講演 1
  私は生涯平教員だった。中高の免許状を持っていたが、小学校の免許状を故意に習得しなかった。嫌々なった校務主任、それも止めたくなっての転任で、思いでの学校へ再任、教務主任で。授業が終わるや体育館へ。学期末先生方の通知票の点検、私の担当箱から校長さんが取り出し先に点検、後から教務の私が目を通す。全く逆。その校長さんは人徳者だった。
  こんな教師だったから講演なんて縁がなかった。しかし過去3度その機会があった。1回目は28年ほど前地元私立女子高校がバスケット部強化に乗り出した頃。夏休みの先生方の研修会に招聘された。真ん前に高齢の先生方が座っておれれて恐縮だった。
  2回目は夏休みの尾張部一円の部活動指導者対象の研修会だった。当時部活動中死亡事故が欲発生していたので県教委が主催していた。会場は甚目寺中の近くにある町の施設だった。受付で現U15のヘッドコーチ のWashino君が出席をとっていたのを覚えている。確かそのときHPに載せている語録を配布して資料としたはず。

          講演 2
  さて3回目は今年8月初旬だった。息子がN先生が「おやじさんに講演をしてもらいたい」と言ってきた。これには驚いた。N先生は家の事情で定年前に校務主任で退職されたが凄い先生だった。倅がSaya中時代に色々指導してもらった。大変な豪傑でこんな人が事務所の生徒指導担当になるといいなとさえ思っていた。もう何年も前からN先生を囲んでの会合がおこなわれていたようだ。もう人前に立つ年でなく柄でもなかったが、倅が世話になったことでもあり出席することにした。集まる顔触れも、会の要旨も不明のまま会場へ。その日は日本一喧しい石取り祭りの日で、浴衣着の女性が会場へと急いでいた。桑名駅の近くのホテルが講演会場だった。
  結婚式場のような配置で祭りの関係で出席できなかった方もあったそうだが、30数名の男女の方が席についておられた。教員が多かった。中には現役の校長さん教育委員会の先生もおられ、N先生の交友の広さに驚く。金屏風の前では話し辛かったので司会者用の場で話をすることにした。特別なお話はできないのでありのままを話せばよいと腹を決めた。

          講演 3
  約1時間の講演だったがここには冒頭の部分のみ記載します。ちょっと自慢めいた感じで恐縮ですがお許しください。
 「要旨」
  最初に私のイメージの誤解を解いていただこうと思います。
 Tatuta中最初の14年間で 郡市大会優勝 体操 陸上 駅伝 男女で20回
 Saya中10年 バスケの優勝 郡市 9回、 尾西 8回。 県 2回 
         準優勝 3回 3位 1回
 Oharu中    バスケ 郡市・尾西 1回    総計 41回

  各種目全く素人ながら数々の優勝で、私がとても強健な人物でかなりハードな練習をしていたと思われていたと思います。しかしそれは全く逆でした。
  年中体調が悪かった。不快な気分だった。体重も落ちかなり痩せた。たいていの先生方はたまたま風邪などの体調の悪いときに欠席されたが、私はいつも悪かったので休めなかった。
  通信教育出身で栄達の見込みもなく、後進に追い越されて行くくらいなら高校の教師にでもなろうかと思っていた。子どもも幼く親としてこの体で責任が全うできるか不安でした。そのとき「流れる水は濁らない」の言葉に出会った。「そうだ将来のことを思い煩うより、今のことに全力をあげよう」
  そして教科指導に、学級経営に、クラブにと励んだ。もちろんクラブは学校の枠内であった。後年気づいたら優勝旗が沢山並んでいた。そして子ども達も先生方の仲間入りに、そして私もどうにか元気にこれた。生徒達のお陰、クラブの恩恵です。私が弱かったから優勝できた、今に生きたから勝利の女神に愛されたと思います。


(115)回想14 天才って
  旧制中学を4年生で卒業して大同製鋼専門技術者養成所へ入所した。戦後最初に教室に貼られた入学案内だった。月給あり就職も決定とのこと。月給も当時の教頭さんより多い。兄弟7人戦争で財を失った親に厄介になってはいけないと志願。10数名の同級生が希望したが運良く私だけ合格。
  知多半島の長浦にある鉄心寮に寄宿。7期生17名。寮には6期生が15名?(記憶が曖昧 5期生6期生の頃は戦争が激しく100名を越える生徒数、終戦で一応退社、一部優秀者だけ復帰。当時は2年制。私たちは3年制で募集)尚寮には復員した先輩が同宿していた。
  私たち7期生は2名ずつ1室に6期生1名が室長。2段に仕切られた寝床だった。同期生の岐阜出身の高野(仮名)について語りたい。彼は陸軍経理学校の生徒だった。戦中に本屋に海兵(海軍兵学校)とか陸士(陸軍士官学校)という分厚い本があった。高野は陸軍経理学校の本の扉に大写しに 写っていたそう。
  戦時中は誰しも戦場に行かねばならないと信じていた。だったら職業軍人がいい。最も安心な陸軍経理学校がよい。前線に出ないから生命の危険が少ない。だから最高難易度だった。海軍経理学校は船に乗るので危険度は大きい。近視では兵学校は受からないので私は陸軍経理学校に願書を出したが、書類審査で落ちた。
  彼の父は28歳で小学校校長だったそうだ。(昔は師範学校卒業生が少なかった)高野は授業中真剣に聴いている。数学など一度習えば完全に理解していた。私なんか寮に戻って復習し漸く理解できのだが。彼のノートも完璧だった。速記しても実に綺麗な文字で書かれていた。常に研究室で実習があったが2人一組での作業なので、全てレポートは彼任せだった。中学時代案外トップグループだった私も全く歯が立たなかった。為に勉強する意欲がなくなって授業中は雑誌など読んでいた。
  同期の連中もなかなか優秀だった。海軍兵学校の生徒、陸軍幼年学校の生徒もいた(いずれも超難関の学校)。養成所3年のはずだったが戦後賠償の関係で2年で卒業した。以後会社不振で名大に入った者、警察官になって署長にまでなった者もいるようだ。卒業後会っていないが風の便りで高野は築港の方の工場長になったと聞く。   彼のような凄い頭の持ち主は最高学府で学ばせたかった。早く父親を亡くしていたため月給のもらえる養成所に入ったのだろう。私は彼は天才と思っている。


(116)回想15 少年の日の思いで 1
  どうも腕白少年だったらしい。本人は全く自覚がないのだが。最も古い記憶は幼稚園の鉄柱に二人で縛られていたことがある。もちろん理由は覚えていない。小学校の父兄会には母親は恥ずかしいと言って叔父さんが代理で出席したそう。これは印象に残っていない。式の練習の時態度が悪いと前に出されてこともあった。校庭で二人でずっと座らされたこともある。殆ど原因が分からない。
  失敗談もかなりある。秋祭りの子ども獅子の時であった。先頭で鈴を振ってかけ声出して町を練り歩く。その鈴は子どもにしては大分重かった。6年の子たちが道路の中央で片手で大きく回す。そうすると不思議に鈴が鳴らない。子供心に不思議だった。私も試しに鈴を回した。突然女の子の悲鳴。鈴が女の子の頭に当たってしまったのだ。大変なキズだったが後のことは全然覚えがない。申し訳ないことをしてしまった。

          少年の日の思いで 2
  同学年の男の子が近所に2人いた。よく一緒に遊んだ。ある日地面に釘みたいな鋭利なもので投げて陣地をとる遊びをしていた。私は錐を使っていた記憶だが。狙い澄まして打った錐が友人の足に刺さってしまった。これまた大騒動。この時の折檻で母親に肩の骨を外されてしまった。
  家の近くに芝居小屋があった。近所の叔母さんに連れていってもらった。二葉劇団とかいった一座だ。小屋は枡席になっていた。舞台に近いほど席が低くなっている。舞台の袖には花道?(役者が舞台に出入りする)がある。   私は演劇中なぜか横の方から花道を渡って舞台近くに降りようとした。暗かったせいで足を踏み外して枡席に落下。マスに右腕をのせ全体重がかかった。腕が凹状になっていて驚いた。完全な骨折。接骨医で腕を固定し肩から吊っていた。
  ちょうど有名な豪華絢爛な巻藁船のでる川祭りの直前で、池は満水地面まで溢れていた。池と地面の境が分からず、骨折した腕のまま池に落ちてしまった。勿論背は立たない。泳ぎはできない。どうやって上がったか不思議だ。これまた母親に強く叱られた。


(117)回想16 合格祈願
  これは教師時代、最初のTatuta中時代。若い同僚と学事視察に。当時はこういった名目の出張があった。一応形式的に研究校を訪問しパンフレットをもらって、あと目的の観光を。そのとき私たちは3年生担当だったので伊勢神宮に参詣した。記憶がさだかでないが外宮だったと思う。本殿にお参りしたあと直ぐ近くにある池に行った。確かコイが泳いでいた。同僚が餌を求めてそれを投げた。とその拍子に彼は池に落ちていった。思わず捕まえようと彼の体を掴んだら私も池に。そんなに深くなかったが格好の悪いこと。修学旅行の生徒や団体の人たちが変な目で見ていた。
  境内の近くの宿に宿泊していたので、戻って服を乾かした。「私たちが落ちたから間もなくある入試は全員合格だぞ」と二人で笑った。入試結果は好成績だった。


(118)回想 無遅刻、無欠勤の記録が・・・
  小学校6年間 私は無遅刻、無欠勤で学年末に皆勤賞を毎年戴いていた。精勤賞と言うのは1ランク下だった。その記録は中学3年の時破れた。終戦秘話にも少し書いたが、昭和18年(1944)6月25日閣議、学徒戦時動員体制確立要項決定(本土防衛のための軍事訓練と勤労動員を徹底)で19年4月17日より4・5年生が軍需工場へ動員されることになった。(低学年は農家などへ手伝いだった)。
  折角最上級生になったのに学校におれないので、彼らは下級生に鉄拳制裁を猛然と始めた。3年生になって何かと不良染みておった私たち数名は、避難するとて木曽川を渡し船で渡って農家の友人が持参した白米で飯ごう炊さんをした。食料の無いときまことにおいしかった。その後は終戦秘話の方で・・・・。
  勤労動員と言えば4年生になって飛行機製作工場へ動員された。電車で通った。そのとき凄い美人がいると噂があった。そこで早速見に行った。彼女は翼の上で作業をしていた。振り返った顔をみて愕然とした。世にこんな美女が存在するのか、化粧もなく作業着のままなのに、輝くような乙女であった。今もその折の様子が記憶にはっきりと残っている。


(119)回想 旧制中学 1
  終戦秘話にもいろいろ書いた記憶があるが、あまりにも印象が深いので思いつくまま記述してみます。私が入った中学は、昔第3中学校と呼ばれていた。愛知県で3番目にできた学校。1中は名古屋、2中は豊橋。「津島」はかっては愛知県では有数の町だった。私が入学した昭和17年(1942)は愛知県立津島中学校となっていた。
  制服は霜降り教科書などは黒の風呂敷で小学生にとってはとても魅力的であった。入学して間もなく服は国防色(カーキー色)戦闘帽、足にはゲートル、朝礼は横隊2列。先生、先輩には挙手の礼。集団で登下校の際は上級生の号令で先生に挨拶。全く軍隊式だった。

        旧制中学 2
  級長は上着の手首のあたりに2本金筋が入っている。副級長は1本である。羨望の的だった。出席番号は成績順だ。3学期末の成績が次年度の番号になる。靴箱も出席番号順である。チビッコ秀才が背伸びして最上段へ、でっかい劣等生が最下段へ腰を曲げていれている。成績発表は教室の黒板に一覧される。上級生の成績も靴箱を見れば一目瞭然。職員室に入るときは「2年甲組3番隠居」と大声で呼称し入室する。全てにわたって人権無視。現在ならば大変だろう。
  甲組、乙組、丙組、丁組の4組だった。席次1番から甲組、丁組は4番が出席番号1番となる。5番からは逆に丁組から甲組へと。甲組3番は学年9番ということ。上記の2年甲組3番という番号を呼称していた隠居、なぜかそれより若番はとれなかった。何しろ試験もない教練、体育・武道まで点数があった。問題生徒だった隠居はそのあたりが限界だった。
  閲兵のおりは5年甲組の級長は指揮刀(サーベル)を抜いて全校生徒を指揮する。まったく格好がよかった。朝礼も同様指揮をする。教室への入場は音楽部?のラッパ隊が吹奏する。勿論国旗の掲揚もラッパで行った。
  終戦後何日も経って学校における大事件で、進駐軍が調査にくる日より、軍隊式朝礼などは無くなった。

        旧制中学 3
  私たちが入学したとき広島文理科大学の英語科の教授だった河合茂先生が校長として赴任された(戦時中で格落ちして)。英文法の日本的な権威で授業を時々された。1年生当時この校長さんに誉められた思い出が、退社してエンジニアから英語教師に転じた遠因でもある。
この校長さん有名な人をよく招聘された。松井岩根陸軍大将(A級戦犯で死刑 7名の一人)、山本海軍大将?(五十六ではない 中将だっか?)、世界的芸術家イサムノグチの父親野口米次郎(慶応大学教授 詩人 吾が津島市生まれ)など講堂で全校生徒が耳を傾けたものである。
  今の新制中学の校長さん達とはスケールが違っていた。終戦直後学校の小銃などを埋め(隠居達が作業)進駐軍に発覚し、校長さん取り調べで一夜にして白髪に変貌(英語が分かるのでショックがひとしおだったと)。我々もCIAから尋問された。「監獄に行きたいか」初めて聞いた生の英語。


(120)回想 何がいったい良いのか悪いのか
  私は終戦の翌年すなわち昭和21年旧制中学を4年生で卒業した。実は 「昭和19年3月18日 決戦教育指導措置要綱決定(国民学校初等科以外の授業1年間停止)」により昭和20年3月には中学5年生・4年生が同時に卒業した(全ての旧制高校・旧制高専・旧制大学も)
  この時の4年生はなんと哀れ。5年生と同時に上級学校の受験を受けねばならなかったのだ。戦争とはこんな酷いことも甘受せねばならなかったのだ。幸い私は中学受験で問題生徒?ということで不合格(この時はやはり戦中とて学科試験中止、体力測定・身体検査・面接と3日間・・・・学科試験があったら恐らく)。
  さて戦後4年生で最上級生になった私たちは、卒業期になったら4年で出たい者は卒業しなさい(落第しそうな人は出た方がいいよ)。上級学校を受験し落ちた者は5年生まで。結局私たちの同級生は上級学校2回も受けれた。前年進学した者も多くいるから競争率はとても低かった。(上記の「決戦教育指導措置要綱決定」は当然なくなっていた)
  私は進路先が決まっていたので4年生で卒業。でも卒業式らしいものは無かった。夏になったら卒業式をするとの案内で登校。ささやかな式で終わり。まことに混沌とした時代だった。「4年で5年卒業とみなす」という特例で私の中学不合格のマイナスは帳消しになった。かえって何かと落ちて運が良かったと思えることが多い。