第5部

(121)回想 小学校で教えた子
  良いお天気だったのでJAへ行った。花の苗と種子を買うため。けちんぼうなので安い苗しか買わない。ふと見ると懐かしい名前があった。富田○八郎と生産者名が記されてあった。教師になった最初は小学校だった。兄の△八郎と4年間に二人とも担任した。なかなか優秀な兄弟だった。兄が67歳、弟が65歳ぐらいか。中学に赴任して以来ずっと会っていない。
  ルビナス、シレス、ポピー、カンパニュラの苗、花のことはよく分からないが、彼の名前の苗をみんな買ってきた。種子は百日草、マリーゴールド、朝顔、おしろい花。
  家内の昔からの夢は私が退職したら、小さい庭だが共に花を育てることだった。よく案外高価な種や苗を通販でとっていた。残念ながら彼女の夢は果たせない状況になってしまった。


(122)変わった同窓会 11月22日
  20日の日曜日、中学第11回卒業生(昭和33年 63歳)の同窓会に招かれた。日・月の一泊のため今回は少なく20名(男11名・女子9名)の参加、プラス教師は2名だった。場所は遠足コースだった養老の滝の近くの施設。最近は2年に1回のわりで行われている。彼らが20歳頃からずっと続いている。最も懐かしい集いだ。
  宴会でのスピーチで介護の近況をお話し、「家内のために特殊な気功(ハンドパワー)を習得したから、故障のある人は私たちの部屋へいらっしゃい」。と伝えた。誰も来ないようなので難聴のI先生にパワーを。すると続々皆が遊びに来た。幹事役のH君が右腕の手術の後小指がしびれて治らないと。両手で彼の指を間隔を開けて挟む。1分経たないうちに指が温かくなったと言う。わずか8分ぐらいで終了。「しびれとれた」と。次ぎに片肌ぬいで元体操部員のM君「腕の可動範囲が痛くて極端に狭い」と。これもかなり動くようになって驚く。S君両膝が永年痛いと。これは珍しく膝をやっているのに首がコツンコツンとやると不思議がる。私も初めて。
  待ちかねた元気なA子さん腰と両膝が悪いと、大分肥満だ。彼女も直ぐ腰が温かくなったという。なんとなく楽になったと。次がT子さん。もう参加を止めようかと迷ったと。1週間ほどまえ 腰を痛めて右半身が激痛で動くの難儀と訴える。(村内同志の結婚で旦那が60歳で亡くなったと。その旦那水泳で選抜され天理のプールで強化合宿、私は陣中見舞いに行った)。彼女パワーが終わった瞬間痛みがなくなり床にうつぶせになって歓喜。私もパワーの効果に驚いた。周りでは酔いのせいもあってがやがや賑やか。みんな不思議な現象に目を見張り「こんどは私だ」とやってくる。この年になるとそれぞれどこか痛めているようだ。半数近くがパワーを。
  翌朝日の出を何十年ぶりかに見た。とても見晴らしがよいので夜明けの様子を見守った。太陽が昇るのは案外速いスピードであった。とてもすがすがしい気持ちになった。   さて養老の滝にいくことになった。ホテルのバスで近くまで。しばらく歩いてリフトへ。ところがそこに上がるに沢山の階段を登らねばならない。昨夜痛みがなくなったT子さんA子さん上を見てもう駄目だと叫んでいる。「折角先生に楽にしてもらったのに、また悪くなったら嫌だ」と。確かに健脚の者でも苦労して登らねばならない。「大丈夫一緒に行こう」と励まして登る。遂にリフトの所へ到着「先生のお陰だと」二人は喜ぶ。足を上げることさえできなかったT子さん、だから余計嬉しかったようだ。
  雲一つない絶好の日より紅葉もすばらしかった。滝の近くは肌寒かった。戻りもまた階段を下りた。念のため昨夜治療?した面々を休息時に気功を施した。私自身効果の有無をやや半信半疑であるのだが、確かに劇的に結果がでるようで内心驚いている。
  私の気功で皆が喜んでくれた。きっと家内にも効果があるんだと自信が深まった。いつもと変わった同窓会本当に楽しかった。幹事の方たちありがとう。教え子の皆さん2年後また呼んでください。


(123)励ましの校歌 11月28日(月)
  昨夜旧制T中後輩Sと言う方からメールが届いていた。「介護記録を読みました。中学の校歌を送ります」と。付箋を開いたら音符つきで懐かしい歌詞が出てきた。記憶のない方だが以前にもメールをいただいたはず。アドレスを見てみた。私より5年ぐらい下の方のようだ。恐らくお会いしたことはないと思う。
  それなのにまだほんの少数の方しかアクセスのない私の「介護記録」を見ていただき、その上励ましの意味で古き時代の校歌を送ってくださるとは。それも母校に頼んで取り寄せて。早速お礼の返信を。すると直ぐメールが。今度はSさんがピアノ伴奏したメールを送って戴いた。メールで伴奏が聞けるとは知らなかった。Tさんの慈愛ある便りにただただ感謝。
     校  歌 
  神の守(も)る国  桜花(はな)匂う国  清く尊き 天性稟(う)けて
  日本男子と     生まれし我等     常に忘れじ  身の誇り


<(124)喜寿 12月1日(木)
  ああ77歳となった。愛子様と同じ誕生日だ。7は完成を顕わす数字、2つも揃って縁起がよいようだ。でも家内は4回目のショートステーで不在。
  でも朝一番で倅が「誕生日おめでとう」とメールを。夕方娘がケーキをプレゼント。二人とも私の誕生日を覚えていてくれて嬉しい。午後からお酒を飲んで独り喜寿を祝う。なぜか実家の近くの同級生は殆ど亡くなった。どうもあの一帯は危険地域?実家を出ていたので無事なのかしら?
  恐らく家内の介護のため神仏の加護で健康でおられるのかも知れない。ともあれ挫けないで挑戦だ。


(125)F中訪問記
  今日から1泊2日で家内はショートステー。暇だったのでF中のWashino君に練習の有無を尋ねた。午後練習中との返事で訪問した。彼が市内の中学にかわってきたので訪問が楽である。舞台には何人かの親さんや指導者の方たち。コートではミニの男女や他校の中学生達。技術的な個人練習をF中の部員がグループ毎に指導していた。昨年から三回目の訪問であるがF中の練習は見たことがない。(私の滞在時間はいつも一時間ほど)
  一回目は滋賀県の琵琶湖の近くのミニと見知らぬ中学生が来ていた。二回目は地元公立高校と静岡のミニが、今日は県内でもはるか遠方よりの中学生と地元のミニだった。
 「おい大丈夫か。いつ来てもミニや他校の中学生の面倒を見ている。全国あちこちへクリニック、来週は北海道だが。自分とこのチームは大丈夫か」と言ったら「先生が与えよさらば与えられんと言われたのを実行しているのです」と。培ったものを惜しげなく求める人たちにお分けしたいとの姿勢を貫いているようだ。
  部員は正直いって一人の長身者を除いてミニと変わらない小柄な子が多い。これで現在愛知県三強の一つ。流石U15のヘッドコーチか。


(126)年の瀬の悲喜
  昨日娘がTakeちゃんが死んだそう。お爺さんその人知っているはずという。漠然としていて分からない。Yumikoさんと同学年だよ、トマトを作っておられたよ。同じ大字だよ。同窓会名簿を見る。「あれNoda君じゃないわな」「そう、その人だよ」。まさか・・・。そういえば先日の同窓会いつも出席の彼の顔を見なかった。彼の結婚式にも招待された。息子二人も教えた。毎年沢山のトマトを持ってきてくれた。キュウリも。今年ももらったはず。いつも元気な大きな声で会話。長男が結婚したばかりらしい。昨日が葬式だったとのこと。嗚呼Takesiが63歳でもう逝ってしまったか。残念。冥福を祈る。
  先ほど本屋さんがBasketball Magazineを持ってきてくれた。表紙の題名を見ていて驚いた。音信不通になっていたTerada君の名前があるではないか。「高校生指導の現場から春までの練習計画を練る」の題名で書かれている。写真も出ている、大分年をとられた。履歴で49歳。かすかに噂はきいていたがあちこち遍歴された経歴が書かれている。地元の私立女子高校のバスケ部強化のため、当時日本1の学校で勉強しておれれた若きTerada君が赴任された。めきめき力がつき遂にインターハイ出場。そのおり起きた悲しい出来事・・・。私はミニをつれて合宿までさせてもらった。U15のヘッドコーチのWasino君も凄く世話になったはず。理由はよく分からないが理事長の方針が変わったためか、学校を去られた。とても素晴らしい指導者で大成を期待していた。色々苦労されたようだが月刊誌に登場される程になられた。これは嬉しいニュースだ。かってわが家で励ましの言葉を贈ったが彼の健在ぶりが分かってとっても喜んでいる。


(127)大晦日に思う 「蟷螂の・・・?」
  前々から「蟷螂の・・・?」という諺が脳裏をよぎっていた。自分の今の生き方はこの言葉に顕れている気がしてならなかった。蟷螂の・・後の言葉が出てこない。まさか辞書にないだろうと思いつつ国語辞典を開いた。あった「蟷螂の斧」かまきりが斧と戦う姿とある。当然勝ち目がないがカマキリは敢然と斧に立ち向かう。
  私が家内の病に立ち向かうのは蟷螂の斧でなかろうか。高額なお金を投じて娘と習得したハンドパワー(気功)で挑戦を続けているが。2年前、1年前とどんどん衰えていく機能、パワーで進度を遅らしているのかしら?大雨で今まさに決壊しそうな堤防を、一人支えている心情・・・。人は無謀と言うかもしれないが、あえて隠居の挑戦と自らを励まし来年も逃げることなくパワーを注ぎたい。先日もキャタツから落ちて全身打ち身、骨折などで激痛で苦しんでいた義弟がしばしのハンドパワーで苦痛から解放された。きっと家内の脳にも好影響があると信じて・・・。


(128)辛かった、でも充実した1日
  土曜日夜、家内が睡眠薬を飲んだにも関わらず、1時間半おきぐらいにトイレ、薬のためと足の痛みでふらふら、そのため何度もお漏らしており睡眠不足。
  日曜はショートステーで1泊2日、平素行けなかったところへ訪問を予定していた。ちょっと寝不足だったが地元のS私立高校を尋ねようと監督さんに電話。「今日は県大会へ来ています。今回は早めに桜花に当たります」と。では午後は村のミニに顔をだそうとでかけました。3月のクリニックの打ち合わせをして次は公立高校へ出かけた。   いいメンバーだが成績が悪いとの世評、チームもごたごたしているので一度部員に話しをして欲しいとの外部コーチの依頼。漸く体育館の補強が終わったコートで「明けましておめでとう。さてあなた達にとってバスケはなんだろう。私にとってバスケは今や生きるための支えです。・・・」
  次は町のミニの代表に「今晩行こうと思うが送迎頼む」と。ここでも「明けましておめでとう」。2月12日の隠居賞リトル大会のため4年生にゲーム要領を指導した。また月末の新人戦のため5年生も面倒を見る。久しぶりに40年も使った色あせたホイッスルを吹いた。音色はあいかわらず良かった。日常の憂さが払拭された。子ども達のお陰です。


(129)ピンチ
  介護記録に昨日書いたが3時頃起きようとする。起きあがれない。睡眠薬ももう影響ないと思うが。腰が痛いと訴える。足首は前から痛がっている。介添えして立たせようとするが駄目。やむなくストーブを点火し部屋を暖める。4時にもう着替えて今一度起こそうとする。やはり駄目。これは重大だ、救急車を呼ぼうか、子ども達にメールして家にきてもらって相談しようか。諦めつつ再度挑戦・・・本人の意思がでたか起きる気が生じたか補助してやったらどうにか立ち上がった。勿論かなり腰が曲がって不安定。両手を向かい合って持ってやりゆっくりゆっくりトイレへ。着座させ尿漏れパットを外すが失禁なし。不思議、ところが排尿が起こらない感じ(よく分からない)。かなり長時間待つ。でも駄目。
  部屋に戻ろうとするがここでも立てない。2回も3回も試みるが「痛い痛い」と言って挫折。ハンドパワー(気功)を施す。今一度やはり本人の意思が働いたかどうにか立ち上がり部屋に戻る。フトンの端っこに座りこむ。うつぶせで寝ようとする。無理に横にさせる。
  ともあれ心配している子ども達にメールしようか?今迷いつつある。塾長さんに会える絶好のチャンスなのに、北海道や東京の友がこられるというのに、果たして家内どうなるのか?今日一日様子を確かめようか。慌てて即断しては悔いを残す恐れがある。この病は入院などすればもう出られなくなってしまう傾向がある。居宅介護がベターかも。現況原因不明のため判断に迷う。眠り続ける家内が哀れ。
  大阪の若造さん、残念ですね。でも焦らないで。チャンスは求めればいつでも掴めます。あわてないで一歩一歩地道に実践していってください。


(130)これは厳しい
  家内の容態変わらず。何かが壊れたように気力がない。折角の電動寝台も起こすことが難儀。腰の激痛で簡単にできない。あれやこれやと試行錯誤。甲野先生の介護のビデオを思い出し試みる。さっと楽に上がった。これは不思議、でもその要領まだ定着せず。
  食欲もないのでスプーンで口にいれてやる。部屋に入れたポータブルトイレを使わせるのも必死。120%の介護。頼りの綱の娘が体調を悪く昨夕通院、昨夜痛くてねられなかったと。それでも登校の途中母親の様子を見に立ち寄った。インフルエンザに感染したが予防接種しているのでいま攻防の最中か。
  藤浪のトーレーニングマッチの日も近づいている。遠来の友も来津する。現状では身動きできない。入院させた方がよいか、いや点滴などじっとしていない家内では無理だろう。ただでさえ機能が衰えていく病、入院は別の意味で車椅子の厄介に・・・。
  バスケのゲーム大差のビハインドで4コーター目を迎えた感じ。どう対処すべきか判断に迷う隠居。


(131)みんな慌てるな
  昨日届いた「あいち 退教互だより」訃報欄をみて驚いた。同僚だった3人の先生が亡くなっていた。A先生は54年退職だから10歳年長。私が幼稚園の時の先生のご主人。美術の先生で飄々とした方だった。ひとり娘がフランスにバイオリンで留学、国際結婚して向こうに居住。一度お邪魔したとき奥さんに「○○ちゃん大きくなったね」と言われてしまった。
  B先生は旧制中学の1年先輩、昨年までバスケで有名だった大○中時代の同僚碁が得意だった。「隠居、君は趣味が無いから退職後困るよ」と言っていた。あの荒れた時代の学年主任。
  C君彼は中学同級生でなかなかの豪傑だった。私がたっぷり10年間バスケができた佐○中でしばらく一緒だった。珍しいことに今ひとりの同級生と3人傍系出身者が顔を揃えていた。このC君校長等幹部に逆らって職員会さえも出てこない。私が呼びに言ったら「お前の顔を立てて出席してやる」と。数年前の同窓会でC君「俺は中学へ入ったとき隠居が恐くって仕方がなかった」と。当時彼はチビだった。しかし後年は逆転していた。  先月も近くの同級生が黄泉の国へ旅立った、トマトをいつも沢山持ってきてくれた63歳の教え子もまた。何故かみんな慌てて・・・。でもそろそろそんな年代かな。
  隠居はまだまだ使命が一杯あるからそう簡単には・・。まずは家内をまもらねば、そして遠隔の地のバスケの友に会わなければ、加えて地区のバスケの向上と、日本のバスケの行く末を見定めねば。


(132)藤浪トレーニングマッチ
  藤浪ー東京成徳、猪子石ー児玉、東京成徳ー猪子石、藤浪ー児玉のハイレベルのゲーム、松山南(愛媛)若松原(栃木)飯山(香川)小針(新潟)遠来のチームの激突、本当に素晴らしかった。多くの出会いもありました。待ちに待った愛媛南予塾塾長さんとの初対面、昨夏全中以来2度目の北海道のzanpaku 先生、3度目になる東京成徳の保護者のFanさん。思いがけなく何十年ぶりかの桜花高校の井上先生、私の師匠だった高蔵高校の重田先生、紹介受けた安城学園の監督さん。ネットの友美濃のこーちんさん、文芸部ひろさん。枚挙のいとまがない。あっ東京の小野先生を忘れていた。この方昨年もお出でになった。
  2日間に渡るトレニングマッチよくぞこれだけのチームを招来し、立派に運営された鷲野君の手腕に脱帽した。塾長さんも「愛媛では見られない日本トップのゲーム、ただただ素晴らしい一語だ」と絶賛。   これだけの大規模な行事終始お世話くださっていた保護者会の皆さんの献身的なお働きがあったればこそ、成功したと思います。「恐らく全国でこれだけ素晴らしい強豪の顔合わせは恐らくないだろう」と会場で囁かれていた。 (こーちんさんだったかコーチンさんだったか、確認のため掲示板をみたら、おやじさんが写真云々とあったので、あちらを開いたらなんと、重田先生、塾長、こーちんさん、私と写っているではないか)
  11日の昼食時一言話をするようにと鷲野君の督促で(昨年から言われていた)、天下の有名指導者の方たちの前で臆面もなく一席弁じました。
  ともあれこの2日間別世界にいたように充実しており興奮が未ださめやらぬ状況です。家内の見舞い子ども達に任せての2日間、さあ現実に戻って・・・・。


(133)2005 古武術クリニック
  昨年末長野で行われた古武術クリニックのDVDを、主催者の長野高専の児玉先生から送って頂いた。既に3回目でだが前2回はビデオだった。今回はDVDで箱にも大きく写真が載っていた。まだ1巻半見ただけだが今回もまた参加者の熱心なこと、次ぎつぎ質問があり、積極的に舞台に上がって直接体験された方も何人もいる。
  私は特に介護法について関心を持った。テレビやビデオでよく見ているが、まさか自分がそれを必要とするとは夢にも思わなかった。家内をベッドから起こす場合、車椅子から立ち上がらせるとき。今回のクリニックではその手法が若干変わって、もっと楽に介護できるよう進歩していた。
  今日知人の家を訪問。80Kg強の殆ど寝ている病のご主人。かたや50Kgもない小柄な奥さん。毎回ベッドで起こすのに大難儀と言われた。そこで私が最近ヘルパーさんで試して自信を持った起しかたを伝授。楽々片手だけで起こせて奥さんびっくり。
 片手を首の下に、入れるとき甲を上にして入れ、その後掌を上にかえる。そして足の方へ自分を倒していく(腕の力でなく体全体で)。
  実に不思議な身体操法である。今まで苦労の連続の奥さんとっても喜んでおられた。クリニックを開くことは大変なことだと思う。そのうえビデオやDVDを安価で提供しておられる児玉先生始め関係の皆さんの愛行、ただただ頭が下がる想いです。
  甲野先生が紹介されていた下のHP
    http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2005dir/n2639dir/n2639_08.htm
  介護法が8回にわたって書かれています。関心のある方アクセスしてください。


(134)津島ゆかりの素晴らしき人々
           「津島人物伝」より 1

  こんな題名の本が無料で配られたと姉が言った。興味を持ったので借りてきた。    1.織田信長2.服部小平太3.加藤清正4.真野時綱5.石原正明6.大橋秋二
   7.片岡春吉8.野口米次郎9.杉村兼松10.金子光晴の10人が書かれている。

  大変恥ずかしいが4.真野時綱5.石原正明6.大橋秋二の3人は名前を聞いたことが無かった。その他の人は歴史上有名だとか郷土出身の方として名前はよく知っていたが、津島との関わりについてはよく知らなかった。

1.織田信長(1534〜1582)
 津島近在の勝幡城に生まれた。津島駅から2つ目に勝幡駅がある。祖父信定が津島湊のの豊かな経済力に目をつけ、津島五ケ村を支配下においた。これが天下統一の信長の台所となった。(信長が尾張のどこかで生まれたと思っていたが直ぐ近くの旧佐織町(現 愛西市)の勝幡とは。
2.服部小平太(生年不詳から1595)
 津島出身。桶狭間の合戦で今川義元に一番槍槍を脇腹に突き入れた。義元は太刀をひき抜くや小平太の槍の柄を切り飛ばし、左膝を斬りつけました。そこへ朋輩の毛利信介が太刀を振るって義元の首の付け根に打ち込みました。天正十九年(1591)伊勢松坂城主になる。(姉の住む北町に曹洞宗寺院,雲居寺は小平太の先祖の創建と伝えられている。)
3.加藤清正(1562〜1611)
 津島の上河原町には「清正公社」という神社があります。戦国武将で大名となった加藤清正がお祀りしてあります。父を亡くした清正はこの地に住んでいました。(わが家から近い、実家の隣の町)清正盗賊退治の逸話を因んだ「鬼祭り」が行われています。
                                   続く

          「津島人物伝」より 2
4.真野時綱(1648から1717)
 慶安元年(1648)、津島天王社の社家である真野家に一人の天才が生まれました。名を真野時綱と言います。時綱は寛文3年(1663)、十六歳で白川神道に入門。後名古屋の東照宮し官(し・・漢字がない)吉見幸勝の門に入る。
 時綱は神官を務めながら「古今神学類編」という神道学の百科事典ともいうべき書物を三十余年の年月をかけ執筆した。
 津島神社ゆかりの名高い文人に、氷室長翁(ながとし)がいます。
(私が中学の時その子孫の氷室先生がおられた。授業は受けなかったが容貌がなにか変わった先生だった。小学校同学年に娘さんがおられた。現在その旧家はは市の文化財として保存されている)

          「津島人物伝」より 3
5.石原正明(1760〜1821)  宝暦十年(1760)神守宿(だいぶん昔神守は津島市に合併した)の豪農であった石原文右衛門家に五人目の子が産まれました。のちに国文学者・歌人としてその名を知られる石原正明です。(この人については全く知らなかった。)
 寛政四年(1792)三月、本居宣長は名古屋を訪れます。宣長の長男・春庭が目を患い、馬嶋明眼院(海部郡大治町馬島・・・私はここの大治中に勤務したことがある。馬嶋明眼院は有名だったらしくその屋敷跡が残っていた)で入院治療をするためでした。本居宣長は正明と対面し、その学才を高く評価し、入門を許します。
 のち正明は和学講談所を知り宣長門を離れることを決意し、資産の全てを売り払い、神守から江戸に向かいました。正明は塙己一の門を叩きます。彼は遂に和学講談所の塾頭になり「群書類従」の編纂の中心人物になる。
 文政二年(1819)、四一年の年月を掛けて収集・編纂された「群書類従」が完成します。正編千二百七十種五百三十巻六百六十六冊からなる日本最大の国書の叢書である。

          「津島人物伝」より 4
6.大橋秋二(1795〜1857)
 愛知県陶磁資料館(瀬戸市)には、大橋秋二の作品が多数収蔵されています。その作品は気品と風雅に満ち、ユーモアさえ感じさせます。大橋秋二は江戸時代の津島が生んだ「粋な文化人」と言われています。
 大橋秋二は、寛政七年(1795)に海東郡津島村高町屋(現、津島市本町三)で生まれました。秋二の生まれた稲垣家は「製法屋」(現、清芳屋)という屋号を持ち、漢方薬から日曜小物類まで扱う、父・甚兵衛まで四代続いた老舗でした。(ここを読んだ時驚いた。清芳屋は学校出入りの文具屋さんで現在は新しく大きな店舗を構えておられる。そう言えば昔の店はとても古く奥深い店であった。現当主は秋二の系統だったのか。)
 文化十年(1813)、秋二は十八歳の時、大橋清左右衛門(豪農)の養子となりました。多彩な秋二は「書画」「詩歌」「俳諧」「邦楽」と文芸を楽しむ。また京都の陶工・尾形周平に師事して陶磁器の作り方を学びました。

          「津島人物伝」より 5
7.片岡春吉(1872〜1923)
 この人物はよく知っている。それはあの天下に有名な川祭りのある天王川公園に彼のでっかい銅像が建っているからだ。また彼の息子さんが養子して産まれた子が私の中学同級生であったから。
 海部津島地方も江戸時代中期には全国有数の綿織物産地になりました。明治時代に、外国から安価で品質の一定した機械製綿糸が、輸入されるようになり、国内産の手紡ぎ糸は衰退し、綿作農家は打撃をうけました。
 そのころ、津島に大きな夢を持った一人の青年がいました。名を片岡春吉(明治5年岐阜県養老郡多良村で生まれる。のち津島の片岡家に婿に入る)といいます。彼は綿織物では大企業にに太刀打ちできないことが分かったので、新しい素材を使った織物に取り組んだ。東京モスリンに2年勤務し、一台の手織機を土産に津島に戻る。そして次はセルに挑戦。
 春吉はセル地製織に都合の良い二巾織機を作り上げた。毛織物の研究で極貧に喘ぐ。明治三十六年第五回内国勧業博覧会で、春吉の毛織物は二等賞をとった。明治二十九年、春吉はイギリスとドイツに染色整理機一式と四巾動力織機を注文する。
 そして、ついに春吉の工場で、品質の優れた縞セルの大量生産が始まる。片岡の名は日本中に知れ渡り、片岡の毛織物は国内のみならず海外にも輸出されるようになる。
 (春吉の影響で私たちの地方には小規模の機屋さんが沢山あった。家内の実家も義妹の家も機屋さんだった。)  戦後ガチャ万と言う言葉が生まれるほど盛会だった毛織物業界も、いまや衰退してしまった。ごく最近かの片岡毛織が繊維業界から撤退したとの報があった。

          「津島人物伝」より 6
8.野口米次郎(1875〜1947)
 この人だけは終戦少し前中学校でお話を聞いた。羽織袴で長身の方だった記憶。前にも回想で書いた。
 米次郎は詩人であると同時に、世界に向けた日本文化発信の先駆者であった。彼は明治八年津島町中島(現、津島市本町四丁目)で生まれた。八歳の時から英語を学び、十四歳の時、名古屋の叔父のもとで英語教師につく。
 愛知一中(現、旭が丘高校)に入学、翌年二月退学、東京に出て私立成立学舎(予備校)に入学。明治二十四年一月慶応義塾入学。二十六年退学渡米。移民の人たちから仕事の紹介をしてもらう。
 明治二十八年、北米の大詩人をウオーキング・ミラーの山荘で生活を共にする。二十九年十二月、第一詩集「Seen and Unseen」を発行。アメリカ詩壇から高い評価を受け詩人ヨネ・ノグチの誕生である。三十五年十一月、ロンドンへいく。四ヶ月で戻る。英米詩壇で評判になり、冨残山房から「東海より」刊行、日本詩壇に大きな反響。日露戦争の時アメリカの新聞の特派員として帰国。このころアメリカの女性編集者レオニー・ギルモアは一人の男子を出生。イサム・ノグチです。しかしこの時米次郎は新しい家庭を持っていた。イサム・ノグチは世界の美術史に名を刻む偉大な彫刻家になる(彼の作品が母校の高校の庭にある)。
 米次郎は帰国後17年間、日本語の詩を発表しませんでした。日本語で自在に表現できない米次郎は英語で詩を書き続けたのです。詩のみならず、日本詩歌論、正倉院宝物、光琳・光悦の日本画から広重・春信などの浮世絵にいたる日本美術、また能・歌舞伎などの伝統文化について、英米の文学雑誌に寄稿し、日本文化・文芸を広く世界に紹介しました。
 米次郎は、昭和10年にインドに渡り、各大学で講演しタゴール、ガンジー等とも会見し文化交流につくします。昭和19年、「芸術殿」で日本芸術院賞を受けました。また慶応大学では明治39年に教授に就任以降、40年間にわたって英文学、詩論などを講義しました。
 (昔織田信長もよく見にきた、天王祭りがある公園の中の島に彼の銅像がある。市民の募金で昭和25年に建てられた。台座には英詩「LINES」・・天地創造・・が刻まれている。 前にも書いたが「諸君は若い、若いのは素晴らしいことだ」と壇上で叫んだ米次郎の声が耳朶に残っている。そのころ彼の甥の野口先生が中学におられた。)

            「津島人物伝」より 7
9.杉浦兼松(1889〜1979)明治22年津島神社の近くの禰宜町で兼松は生まれた。木綿の佐織縞を染める紺屋の父・杉村清助、母・みよの一家は、貧乏のどん底でした。(それでこの家を紺清といっていたのか。やはり天王川(池)のほとりで私の実家や現在の家の近く。何か有名なお医者さんの出た家だと昔から聞いていた。)兼松は向島尋常小学校(4年制)を主席で卒業。(これは現在津島市立西小学校。そう言えば私も向島小学校だった)。  高等小学校へ進学できず名古屋鉄砲町の岡谷商店(現:岡谷鋼機)に奉公。アメリカにいっていた次兄釜三郎がアメリカの鉄道王・エドワード・ハリマンの通訳として10年ぶり帰国。日米親善のためハリマンは柔道・剣道少年6人をルーズベルト大統領に見せに連れていく。そのなかに16歳の兼松がいた(彼は少年時代から剣道を習っていた。)
 ハリマンが「アメリカに残って学問する人には学費や生活費を出してあげます。誰かいますか。」一人兼松は手を挙げました。
 ニューヨークで、兼松はライル博士の家に下宿。大正元年の夏、彼はコロンビア大学に入学、研究に没頭。兼松の熱意と努力を認めたコーバー博士は共同研究者として、その研究成果を米国科学協会機関誌と生化学会誌に発表しました。新進生化学者の杉村兼松の名はアメリカ学会に認められはじめました。
 大正4年の夏世界的に知られていた科学者・高峰譲吉を会長とする日本人クラブに入会しました。その総会の席で、兼松は既に世界的名声をえていた野口英世に出会います。
兼松は、「終生をガン研究に身を捧げよう。そのためにはアメリカの地に骨を埋めてもいい」と覚悟を決めました。メモリアル病院長のコーネル大学医学部教授のユーイング博士は兼松を採用した。兼松はガンの化学療法分野で、寝る間を惜しんで研究に没頭しました。
 大正12年34歳の兼松は、ベルギー生まれのゾエ・マリー・クライエスと結婚。兼松にとって野口英世は最も優れた先輩であり、もっとも親しい友人でもありました。野口の意見にしたがって、腫瘍移植に関する論文を京都帝国大学に学位請求論文として提出し医学博士となる。さらに大正15年には放射線治療に関する論文を発表し、レントゲン学会のノーベル賞にあたる「レオナルド賞」を受賞した。
 昭和25年、第5回国際ガン会議で発表した「発ガン作用」と「腫瘍抑制」に関する論文は、ノーベル賞候補の声があがるほどでした。昭和30年日本医学会の招待を受けて38年ぶりに帰国、「ガンの実験的化学療法」と題する特別講演は、日本の医学者を大いに魅了した。そして5月2日、天皇陛下に拝謁した。
 昭和35年には勲三等瑞宝章を、昭和40年には日本医学会から「その学徳は日本医学界の亀鑑」として最高優功賞を贈られた。
(2週間ほど前姉の家でピアノ発表のビデオを3人で見ておられた。老女3人なかなか演奏ぶりもよく感心しました。一番若い方が、杉浦家の方だと姉が紹介してくれた。なんとなく縁があるなあと思った。)

         「津島人物伝」より 8
10.金子光晴(1895〜1975)
 (かなり以前からこの名前はきいていた。図書館には全集などがおいてあった。しかしどんな人物かまったく知らなかった)
 津島に生まれた金子光晴は日本を代表する詩人である。明治28年12月25日、日光橋西袂の「米林」という酒場に生まれた。大鹿和吉、りょう夫婦の3男安和、後の光晴です。父和吉は放蕩無頼の性格で全財産を使い果たした後、明治30年店を畳んで名古屋へ。ここで2歳の光晴は金子荘太郎・須美夫妻の養子となる。明治33年京都で尋常小学校に入学、とんでもない悪童になってしまう。明治39年東京へ。4,5人の子どもを手下に、かっぱらいをしては怒られていた。さらにアメリカへの脱出を企てて、家出や野宿・放浪をする。高等小学校にも殆ど出席しなかった。
 明治41年暁星学園中等部に入学。絵画は抜群で入学当初の成績も良かったが、3年生の時は200日も休み留年。漢詩や泉鏡花・徳田秋声らの小説を読み耽る。大正3年、19歳の光晴は早稲田大学高等予科文科に入学、翌年2月に退学、ついで東京美術学校日本画科に入学するが殆ど通学しないまま3ヶ月で退学させられた。  大正7年12月、詩集「赤土の家」を自費出版。大正8年1月ロンドンにしばらく滞在し5月にはベルギーに渡る。ブリュッセル郊外の居酒屋の2階に下宿,1年半滞在。生まれて初めて学ぶことの楽しさを知る。  大正10年1月神戸の港に着く。大正12年28歳の時、詩集「こがね虫」を新潮社から刊行。このころ光晴は試作に没頭する。
 大正13年、東京師範学校の生徒であった森三千代と出会い、室生犀星の仲人で結婚し、翌年には息子・乾が生まれる。光晴は詩集「水の流浪」「篝火」や三千代との共著「鱶沈む」を刊行しますが、文学者の二人には一銭の貯えもありません。生活苦や異性問題で、明日の光さえ見いだせない二人は、息子を三千代の長崎の実家に預け、ヨーロッパ流浪の旅にでます。
 昭和3年12月光晴と三千代は日本を逃れて上海へ渡ります。光晴は上海風俗画展を開いて路銀を稼ぐ。香港、シンガポール、マルセイユ、パリーと 旅する。
 昭和10年から立て続けに、詩集「鮫」、詩「灯台」「落下傘」等の反軍国主義、反体制、反戦詩を発表。昭和21年から、光晴は戦時中に書き溜めた詩を数多く発表し、反戦詩人と讃えられます。
 昭和32年、光晴は60年ぶりに津島の地を見に帰る。その折の「津島まつり」の詩
  みわたすかぎり泥田の津島  鯉、なまず、蓮根、くつわ、 いやいや、
  名物第一は、 牛頭天王の祭礼の宵わたり  (後略)
 読売文学賞(詩集・「人間の悲劇」、歴程賞(詩集「IL」、芸術選文部大臣賞など受賞。


(135)今日は佳い日だった
  近くの中学で新人戦があった。縁の深い2つのミニ出身の子がいる中学を見るために出かけた。壇上でふと向こうのコートを見ると長身の子がいた。身長どのくらいかなと思った。どうも余り強くないチームのようだ。どんなプレーをするかとしばし見ていたら、ハイポストでボールをもらってターしてシュート見事決まった。ほんのそれだけ見ただけ。 手前のコートに注目していると、倅の学校の女性の先生が話し掛けてきた。彼女T子先生(4月3日に書き込んだ隠居のつぶやき番外編(62)教え子再び母校へ の先生)のことをよく知っていた。「どうしてそんなに詳しいの?」と尋ねたら「私、T子先生の最初の教え子です」と答えられた。なお言葉を継いで「T子先生の2番目の娘さん先ほどプレーしましたよ。大きい子ですよ。」「ではさっきの大きい子が娘さん?」「そうですよ」。
  これには驚いた。全く知らなかった。まさかここでその存在を知ったとは。早速呼んでもらって対面した。確かに大きい。173cmぐらい。母親も大きいがご主人は180を楽に越えておられた(結婚式で一度拝見しただけ)。年賀状で着物姿で幼い姉妹が写っていたがもう今は見上げる成長。早いものだ。
  帰宅して早速葉書をT子さんに、そして後半に娘さんに一筆、約束のHPを紹介(出町中のコーチKさんの動画を参考にしなさい)今日は思いがけない素敵な日だった。明日は決勝だけ見に行こう。


(136)ああ無情か?
 1.娘に一試合だけ見てくると家内のお守りを頼んで会場へ。目的は有名なF中の出来映えを見るため。また決勝戦の相手が一番信頼しているかっての仲間のwatanabe 先生だろうと思って。彼に準決勝どうだったと尋ねたら負けたと。その相手ははこの3月までいた金魚の街のYatomi中だったと。8年間で一番強いチームを作って隣の町へ転勤。皮肉なことに手塩に掛けた子ども達と戦うとは。さぞ複雑な心境だっただろう。
  昨日の準々決勝これまた接戦、相手は8年前にいたTatuta中(ここで私と再度出会った。最初Ooharu中で。)ともにミニ出身者が主体のチーム。3位決定戦相手は私が縁深きSaya中だった。全く互角一進一退をくりかえす。ハーフで同点。終盤にYatomi10点のリード、誰しも勝敗の行方は決まったと思った。私は手前のF中のプレーを観戦。
  ふと向こうを見るとSaya中じりじり追い上げているではないか。3点が2本決まって1点差まで。タイムアップ直前Sayaにフリスロー、2本決まって勝敗を決した。Saya の臨時のコーチ、私が最後にミニで教え中学へ送った子で今大学1年生。
  そういえばTatuta の新監督は倅の教え子だったそう。私もやっぱり年取ったはずだ。監督さんや審判の人たちも見知らぬ人が多くなった。
 2.昨日試合会場で懇意の先生が来て尋ねた。「先生F中あの背の高い子(U15で最高身長185cm ?)が登録されていないがどうかしましたか」と。また別の先生も同じことを言ってきた。多少分かっていたが曖昧に答えておいた。
  今日会場でWasino監督(U15のヘッドコーチ)がきて「実は先生に報告します。彼女実家に帰りました」と。(家の事情で母親がどうしても戻らなければならなかったのが原因とか)。掌中の玉を失って彼は大変。現チーム160ocm 以上がいない。決勝で普通なら一方的なのにリバンドが弱く失点がかなりあり、外からのシュートも落ちていた。これで夏に2強と戦うはすこぶる大変。新1年生全国優勝のSyouwaより4名ほど入ったのがせめて救い。世の中なかなか厳しい。これぞ無情か・・・。


(137)藤祭りに思う
  直ぐ近くの公園では藤祭りが始まっている。最近は有名になりかなり遠方から観光客が訪れる。近くの小学校は車で一杯。公園では多くの露店が出ておりいろいろな催しが行われている。特に町おこしの一貫としていろいろの史跡やら旧宅の開放などあり、ロードマップを持参の人々がリックなど背に散策しておられる。地元の人間より我が町の故事由来をよく知っておられるようだ。
  実は私自身が東洋一を誇る藤を今年はまだ見ていない。近くの老人センターの風呂へ行くついでに少し公園を展望した。まだ四部咲きのようだ。
  今「功名が辻」を見終わった。信長も秀吉も清正も我が町に縁が深い。山内一豊は自分たちの町が縁が深いと言い争っているところもあるようだ。毛織物が盛んであった私たちの町も今は元気が無い。そこで市では「歴史を活かしたまちづくり」の施策をいろいろ実施している。
  名古屋では英傑行列が毎年盛大に開催されている。信長・秀吉が・家康・そしてその奥方姫達。近くの江南市の藤祭りでは同市ゆかりの7人の戦国武将(浅野長政・蜂須賀家政・生駒利豊・織田信忠ら)の行列が新聞に出ていた。
  先ほどテレビ「功名が辻」を見終わった。長篠の合戦、比叡山の殺戮等々・・。私はただ漫然と画面を見ているだけだが、果たして他地方の人はどうだろう。木曽川の西の長島(ミニバスケで全国優勝したことがある)では一向宗信徒が沢山殺戮された。ここの人たちはどんな気持ちで大河ドラマをみておられるかしら。何人かの人は征服され滅ぼされた人の子孫かも分からない。あの吉良町では昔から忠臣蔵は興行できなかったそう。
  我等が土地は戦国時代活躍し天下統一に寄与した英傑達の出生の地であると得意然としていたが、よく考えれば恨みをもっているいる人の方が多いのでなかろうか。それともそんな昔のことは無関係と思っておられるのかしら。


(138)ゲームを見て
  昨日は交流試合を見てきた。大阪・奈良・岐阜・三重・・県内でも遙か遠方の豊橋・豊田からの遠征。3時間半もかかった大坂チームよくもはるばる。ある県外チームは6年生一人、5年生若干、あとは4年生以下。このチームに練習日はどれほどですかと運営委員の方が聞かれたら、「金曜日だけが休み、それは移動日だから」と。他地区のチームかなりの強豪ぞろい。でも愛知の豊田・豊橋が抜群のようだ。3チームずつ一組でリーグ戦、3組である。午後1位同士の豊田、豊橋のゲームを前半だけみた。身長もそれぞれあり互角の戦い、スピードもありこれが小学生の試合とは思われない。特に豊橋の4番・5番は卓越していた。5番がかなり遠くから正確なワンハンド のシュートを打っていたのが印象的だった。しかし彼女が捻挫で退場したのが残念。最終の結果はわからないが。
  また小さい子たちが素晴らしいチームがあった。1年生か2年生かもしれない。でも基本がしっかりしていてミスが少ない。4年生位の小柄な子が地元チームの6年生を圧倒して鮮やかなボール運びをしているのに一驚。よほど早くから正しく教えられているのだなと思った。
  いい試合をみていると本当に快適になる。ゲームに無駄がない。観戦に吾を忘れている。しばしわが家の介護を忘れて。バスケが日々の苦労を癒してくれる。何もしなくていつも昼食をいただいているので恐縮です。50歳になったSayaミニの運営委員の4人の教え子の皆さん、ずっとミニを支えて頂いている。そして遠来のチームのため年4回も交流試合を企画運営してみえる。本当に御苦労様です。


(139)こんなところで
  膝の激痛でとうとう整形外科へ行った。ここへは背中の小さなコブ?をとってもらった。それから腕の件でも。レントゲンで3ヶ所の撮影。「たいしたことないよ。老化で炎症を起こしている。痛み止めの錠剤と貼り薬を出します。1週間ぐらいで良くなります」と。やれやれ。
  待合室で会計を待っていたら直ぐ前にバスケの教え子がいた。かって立田ミニを指導していたとき、車で私を送迎してくれた女性だ。彼女携帯を取り出して何かしている。メールでもしているかと思っていたら、突然携帯をさしだし「先生Akimiが赤ちゃん産みました」。携帯に生まれた直ぐ後の写真と、少し後の坊やの写真。まだ1週間たったばかり。Akimiさんもミニの部員だった。結婚したことも知らなかった。彼女50歳前にもうお婆ちゃん。「先生、孫って可愛いいですね」と 嬉しそうな顔で語った。


(140)まだまだ
  テレビを見ていて驚いた。平均寿命77.8歳と言っていたから。まだまだ先と思っていたのに。後3ヶ月程でその年齢に・・・・。ちょっと早すぎはしないのかさえ思われる。大きな責任完遂のためにできるだけ若きエネルギーを吸収してこなければならない。よし土曜日は高校か中学それともミニを訪問しよう。   しかし冬物を整理しなければならない。しまったり出したり今年の陽気は不順だった。金曜日までに雑事を片づけ、さてどこにしようか?


(141)これはショック
  吾が愛するSayaミニ、中学では入部は少なそうだとは感じていた。念のため中2の親さんにメールで尋ねた。 「・・・さて、新入部員は2人です。まだ調整期間とは言え寂しい限りです。2人とも身長はあるのですが、ゼロからのスタートなので、苦しい一年になるでしょう。・・・」追伸で「ミニからの入部はゼロです」。ちなみに3年生4名(一人休部中)2年10名、1年2名の陣容。ゼロなんてかって無かった。
  今年の卒団生は10何名で身体的にもとても恵まれていたのに。何が一体原因だろうか。
ずっと成績不振が続いているせいなのか、勝つ喜び感激を味わっていないためか。それとも中学の練習量なのか。確か中学は上下関係が厳しいから嫌だとの噂を聞いたことがある。もしかして夜などの社会体育での練習が負担かも。
  今後こんな状態が続いたら名門Saya中女子バスケ部は過去の物になってしまう。折角ミニで熱心に指導し支えてくださっているコーチ、運営委員の方もさぞがっかりだろう。私、アシスタントコーチ・倅・教え子・そしてそのご主人、部員達、40年近く営々と守ってきたバスケ部の将来が心配になってくる。


(142)これは嬉しい
  土曜日何処を訪問しようかと迷った。高校は県大会のスケジュールを見たら初日だった。F中のWasino君にメールしたら今日は郡市の陸上大会とのこと(かっては中学のグランドで準備など大変だった。ここで隠居はかなり令名を馳せたものだ?最近は他地区の公認陸上競技場で開催とのこと。車社会の時代だな。)
  そこで午後Tatutaミニへ出かけた。男子コートに長身の男性がコーチしていた。Yokono君だった。彼の長男(小1)が入部して手伝っているようだ。彼の細君(Shiho)高校3年生のときからずっとミニを手伝ってくれた。共に同級生私のバスケット部員。バスケがとりもって稔ったようだ。Yokono君私の時はコーチしてくれなかったがやっぱり我が子は・・・・。ともあれ元部員の子どもが入部、そしてお手伝いと。監督は喜んでいた。彼の長男はまだ年長組とか「バスケは嫌だ」と言っているそう。
  また先日男子監督の長男(小1)が入部したばかり。彼も中学時代厄介かけたが、今や熱血溢れる指導をしている。先週日曜日男女ともに地区の大会に優勝した。嬉しいニューズが続き満足している。そういえば今一人長くコーチしてくれた女性もバスケ部員と結婚し今や2児の母。他地区だけど多分バスケをさせるだろう。


(143)1ヶ月ぶりに
  近くの高校へ行った。教え子が新卒の時母校に赴任したが再び2校を経て戻ってきた。1ヶ月でどれだけ変わったかを見に行った。キャプテンに監督恐いかとメールで尋ねたら「先生は恐いことはないですが先生がみえる練習はとても緊張感がありいい雰囲気で練習できます。」と答えた。
  監督は基本を重視して体力づくりに力点を置いていると。まだまだ出席状況などルーズでそのあたりから指導が必要であると。
  私は帰りぎわ「直感的に評価すると100点満点の20点ぐらい。練習で覇気がない。もっとみんなで目標を明確にし、その実現のために燃えるような気迫を持とう。次回また評価します。」と告げた。
  キャプテンから「 今日は練習に来ていただきありがとうございました!!次先生がいらしたときはせめて50点以上はとれるよう頑張っていきますので応援よろしくお願いします!!暑くなってきましたのでお体に気をつけて下さい。」とのメールがきた。なかなか見所があるキャプテンだ。
  監督にぜひ素晴らしいチームを作ってもらいたい。いい結果が出てくるほど元教師の鼻が高くなる。


(144)満ち足りた土曜日
  午前中F中学へ、大坂から1チーム参加、高度なバスケを練習されていた。関東から女性の指導者も来ておられた。
  午後近くの中学で男子の練習試合があると聞き顔をだす。郡外のトップクラスのチーム、大坂のチーム、名古屋の高校(かなり有名)が総当たりでのゲーム。中学は見どころある試合運び。高校も中学相手に真面目にプレーしていた。
  2時少し過ぎTatutaミニへ出かけた。高校の先生も娘さんの送迎ついでに低学年の指導の応援。中学も合同練習に参加していた。ミニ出身が5割入部したそうでまあまあというところ。
  中学の女性の新監督(初赴任)は倅の教え子だった。監督としてのあり方を少し語った。「余り背伸びせず、今できることを子ども達のために尽くすこと。私はバスケ未経験の時外のコート(体育館が無かった)の水まき、石ころの除去。靴のひものほどけたのを注意、コートには出来るだけ早く出るなどした」と。
  彼女インターハイいによく出場するT高校に練習に行きたいがどうしたらよいですかと言う。「私に勧められました。隠居の息子さんの教え子で、Saya中出身者です。ぜひ教えてください」と電話しなさい。喜んで教えてくれますよ。

  予報のとおり雨が降り出していた。でも今日はバスケバスケで満喫できた。日々のストレスが霧散した。