『健太物語』  =部活とは・・?=


  健太は現在東京の某大学4年生である。これは、掲示板に十数回掲示した内容を編集し直したものです。この物語が、「部活」について考えていただく一助?となれば幸いです!  (2003年10月)


(1)誕生
  健太は街の産科医院で産声を上げたと言えば嘘になる。産気づいたと入院したのに一向に出てこない。一度退院し再入院をする。心音がかすかだと急遽医師の応援を他にあおぎ帝王切開となる。家族一同その出産を固唾をのんで待つ。小さい泣き声が聞こえた気がする。すると看護婦があたふた出たり入ったりする。大分経って医師が「4,600gです。羊水を飲んで肺呼吸が困難、大至急一宮市民病院まで救急車で輸送してもらいます」と。
  健太の母方の祖父勝雄は救急車に乗り込んだ。顔面蒼白の初孫との対面である。ありがたいことに市民病院の医師が同乗されていた。父親は車で追走。孫は酸素吸入をしていた。時は師走12月21日であった。
  ちょうど病院には愛知県で5台しかない保育器が設置されたばかりであった。勝雄と健太の父正夫は双眼鏡を持って愛児を見舞いに行った。小さな小窓を通して遙か向こうのガラス箱の裸の赤子を見る。体中にいくつものコードやゴム管がつけられている。勿論酸素吸入は行われていた。胸の部分が異様に盛り上がっており、多量の羊水を飲み込んだ結果である。健太の日々の体重が記録されている。体重はどんどん減っていく。不安な日々が続く。


(2)福寿草
  大晦日も正月もない。愛児もつれず退院し実家にきた英子の姿はあまりにも哀れである。朝夕勝雄夫婦とともに仏前に聖経をあげ先祖の加護を祈った。医師に今後の見通しを尋ねたら「酸素呼吸を続けたら体は快復したが頭がダメになったということになる。」実は帝王切開のおり泣き声も定かでなく、仮死状態でなかったか。顔面蒼白だったからもしかして脳に酸素が行かなくて知能がダメになってはいないかと心配していた。病院から母乳を持ってくるよう指示があったので、直ぐに冷凍もできる大きな冷蔵庫に買い換えた。採乳器を求め毎日勝雄は娘の乳を採乳した。たまたま婿は一宮地方の職場だったので運搬は楽だった。
  勝雄の家には正月ということで松竹梅の盆栽が北側の寒い玄関におかれていた。1月の7日頃かその盆栽に異常なことが生じていた。福寿草が松の枝のなかににょっきり頭を出しているではないか。毎年松竹梅を作っているが福寿草がそんなに伸びたことはない。はてこれはなんなのか?「福寿草・・そうだ福が来るのだ、松・・待つ 待つのだ、健太は助かるのだ・・」と直感した。
  少しずつ酸素は減らされた。過熟児だったから帝王切開になったが、体重が逆にあったから呼吸困難ななかにも命の火を燃やし続けれたとの医師の話。母親に直接嬰児に授乳するため病院に来るよう連絡有り。英子は母親とともに一宮へ。初めて赤ちゃんは母の乳房に吸い付いた。


(3)子供時代
  40日を越える入院を経て健太は奇跡的に助かった。健太が無事退院し母親の実家に帰る日だった。勝雄は中学校に勤務していたが落ち着いて授業ができなかた。急いで帰宅すると彼は新調したベッドに寝ていた。ようやく母子が一緒に暮らせれることを神仏に感謝した。毎晩健太はよく泣いた。祖母の信代も英子も疲れて眠っている。勝雄は初孫を抱いてあやした。泣きやんだのでそっとベッドに降ろすと直ぐ泣き始める。これには参ってしまった。
  健太親子を婚家先に送り届けたとき、勝雄夫婦は手放すのが惜しくたまらず瞼をぬらしてしまった。順調に育った健太を見るため学校帰りによく訪問した。わずか10戸ほどの部落で子供はいなかった。健太は穴掘りをやったりおもちゃの車を地面で走らせていた。これは足腰が強くなる、きっと大きくなったらスポーツが得意になると思った。
  彼は教師をやっている母親につれられ、街に買い物のついでによく母親の実家にきた。そんなおり勝雄は彼を乳母車に乗せ少しも恥ずかしがらずに、町中にある実家の母親に初孫を見せたものである。
  4月になると、勝雄は学校の2階から700mほど離れた健太の家の屋根の上に、贈った鯉のぼりが勇壮に泳いでいるのを見て無上に嬉しかった。


(4)中学時代
  出産のとき仮死状態で脳が壊れているかと心配していたが、脳の方は無事だったようである。小学校でも元気に通学し児童会の会長までやったのには驚いた。中学に入学して祖父の影響か母親の影響かバスケ部に入部した。身長は高い方である。小学校の運動会の字別リレーの代表にもなれず足は遅いほうだ。部は毎年1回戦で終わる弱小チームだったがスタートメンバーではなかった。冬場のトレーニングで周辺の農道を走らされていた。いつもみんなに遅れてゴールに。そのときは計時係りもだれも残っていなかった。監督は全然見ておられなかった。健太は時々部活が嫌だと家で母親に訴えるようになった。祖父の勝雄はそれを聞き学校へ行って監督と懇談した。孫可愛さの行動だった。学校は彼が20年も勤務した学校であり、村のミニを運営していたから先生も熟知だった。
  幼いとき庭で遊ぶ孫が大きくなったらバスケの選手になるといいな、あの遊びはきっと足腰を強くして良いプレーヤーになると期待していた。しかしその期待は裏切られたようである。どうも異常出産、そして何十日も保育器のなかで酸素吸入されながら過ごしたことが、彼の運動能力を落としたのかしらと勝雄は解釈した。(彼の弟は兄とそっくりの顔をしている。運動能力は高い。)大会でも出番はほとんどなく負け試合が決まった終わり2,3分で出場する程度である。勉強の方はトップグループにおり生徒会には自ら立候補して会長になる積極性があった。自己顕示欲が高い彼にとって、バスケ部における下積みの生活はかえって人格形成に役立つだろうと思うことにした。


(5)高校時代
  祖父勝雄は健太が幼児の時常に「健太は神の子だ将来立派な人物になる。生まれたときもうダメだったのを神様に救っていただいた。また近代医学のお陰で助かった。大きくなったら世の中のために尽くさなければならない」と繰り返し言ったものだ。さて彼は高校は進学指導の最たる学校に入学した。愛知方式による管理主義の体制だ。村から町の駅まで自転車で、次に電車で15分ほどの駅まで。後は徒歩で15分ほど。
  入学後部活にバスケ部を選んだのには驚いた。中学ですら活躍場面の少なかった彼が、高校でまたバスケ部に入部するとは。バスケットシューズを勝雄は買って与えた。中学時代も買ってあげていた。ところが1カ月も経たないうちに退部してしまった。勉強が大変だったせいかも。ある日彼は睡眠時間が少なかったためか狭い商店街の電柱に自転車でぶつかってしまった。居眠り運転だった。
  学校祭が近づくとだれも積極的に役を引き受けない。、夏休み中の練習にもメンバーが揃わない。受験勉強の方が大事だ。健太は大役を引き受け率先して活躍した。どうもこういった骨折りがとても好きな性格らしい。
  彼が小学校時代退職していた勝雄は、塾へも行かない孫のためおやつを持ってずっと家庭教師に通った。両親が教師だったが。3っつ下の弟もともに勉強を見た。でも教えた記憶はほとんどない。大体理解していた。弟も分からない時は「兄ちゃんこれ教えて」といい健太は丁寧に教えていた。私の存在は無視である。勉強が終わるとバスケットボールでパスやドリブルを教えた。またキャッチボールや鉄棒をコーチした。これらの道具は全て祖父が買い求めた。弟の方が全て上手にプレーした。


(6)大学時代
  健太は、東京の某大学に合格し、上京することになった。孫との断絶を恐れた祖父勝雄は、かねがね迷っていたパソコンを購入し、メールで交信することにした。彼から4月8日初めてのメール、名付けて「諸相」第1章とある。実家と祖父の家へ以後毎週送られてきた。
  {はじめに『諸相』についての説明しておく。これは僕が日々の生活を送る中、いろいろ思ったことをそれぞれのキーワードごとに綴ったものである。それ故、ひとつひとつの文の量はまちまちである。適当に書くべきことがたまるごとに発刊していきたいと思う。・・・・以下省略。}
  ある時のメールで彼は2つの秘密があるという。家族みんながあれこれ想像していた。祖父は皆目見当がつかなかった。正月に帰京して初めて分かった。その一つは部活で準硬式野球部への入部である。晴天の霹靂、まさか健太が。一度も小中高と野球に縁のなかった彼が、ましてバスケすら充分活躍できなかった健太が、同好会ならいざしらず大学の正規の部に入るとは。
  彼の意見はこうだ。同好会は飲んだり食ったりが多く不健全だ。野球部は東京都の第6部で最下位、その中でも弱い方。部員は10数名、それも未経験者が何人もいると。ここなら出番もありそうだと。彼の通う校舎は都心にあって殆どグランドがないので、キャッチボールかランニンング程度しかできない。土曜日に別の校舎それも電車でかなり遠方のグランドに行って練習。電車賃だけでも相当かかると。

  健太が寄宿しているのは会館である。総勢40数人(女子数名)、何かと生活リズムが狂う学生生活。だが健太は同宿者から聖人とあだ名されているそうだ。勝雄がもう少し柔らくてもいいがと忠告するが一向に聞き入れない。「みんながだらしないからぼくは真面目に暮らす。もし皆が真面目だったら逆にだらしない生活をする」と。かなり偏屈で天の邪鬼、誰に似たのだろう。それは婿の遺伝らしい?事実今日まで学校を休んだことは無い。単位も落としたことが無い。
  ある日の練習で大けがをした。それは3塁にいて牽制練習のランナーをしていたときだ。投手のボールが悪投で健太の足首を直撃した。運動神経が劣っていたからなのかよく分からないが、このため骨折してしまった。両親は駅まで歩けないだろうと急遽自転車を積み込んで東京まで。この自転車何回使ったかしら。後日自転車の話をしたら全然使っていないと。ぼくは駅まで10数分歩いた方がいいという。あの自転車は友人が使っていると。折角はるばる持っていったのに全く一風ある若者である。
  昨年秋成人式の会場が住居している都内であるのに、故郷でやるという。それも式の企画に参与したいと願っている。結局実行委員長に推薦され立派に当日大役を果たしたそう。

  健太はアルバイトを捜していた。家人はバイトをさせたくなかったが、社会勉強をしたいと中学3年生の家庭教師を始めた。折角長い夏休みなどの休暇も部の合宿などで盆過ぎには早々に帰京してしまった。彼は合宿などはとても好きのようであった。練習後などの仲間との集いが楽しいようである。彼の部には名目上は部長の名前があるようだが、名前も知らず顔も見ていない。コーチは部員がやっていた。練習試合も聞いたことがない。リーグ戦の時はスーツを着て会場に行くのがきまりとか、不思議な気がする。
  感心なことにメールで「諸相」は毎週休みなく正確に送られてくる。勝雄はその都度返信をしている。彼の学校生活などは諸相を通じてよく分かった。単位も落とすことなく好成績で通過している。純然たる理科系の大学で教職を取るのが大変なのにこれも着実にクリアしている。さすが我が孫だと勝雄は自慢している。
  春と秋の大会少ない部員だが勝雄の出番はなかった。学校の授業は真面目にこなしその上家庭教師、出番もない野球部退部しなさいというが聞き入れない。部活には大いに理解のある勝雄ですら、口やかましく退部を勧めたが。



(7)最後の大会 (諸相 第120章〜第126章より)
  「秋季リーグ開幕」  (9月 6日)
  3日に八王子市民球場で開会式が行われた。ここのところの開閉会式、不思議なほどに晴天。去年までが一体なんだったのだろうかと思うほど。いよいよ秋季リーグが始まったわけだが、当初予定していた6試合は、グラウンドが取れずに3試合に減ってしまった。・・・・

  「6番・ライト」     (9月14日)
  秋季リーグがまもなく始まるが、どうやら僕は6番ライトで先発出場できそう。希望はファーストだったが、この夏は、ファーストもライトも両方練習して来た。そのほうが出る機会も多くなると考え。普通にいったら僕はやはり控えなのだろうが、この夏の間、ライトを守る2年生が練習に遅刻したり開会式に遅刻したりと、大失態。キャプテンの逆鱗に触れ、スタメン失格を宣告された。それが良いか悪いかは別として、僕には思わぬスタメンがまわってきた。しかも打順は6番と、チャンスに巡ってくるかも!? なかなか責任重大だ。
  (3年生になってようやく出番が回ってきた。一度でいいからヒットが打てたら、守備でエラーしないように祖父は心配していた)

  「リーグ戦初戦」    (9月18日)
  小雨が降ったりやんだりする中、リーグ戦初戦が行われた。・・・・・・。僕は前にも述べたとおり、6番ライトでスタメン。・・・・
  2回表、いよいよ僕の出番。相手も6番バッターなのでかなり警戒していたよう。外野はかなりバックしていたが思うようにスイングできず、打球はショートへ。平凡なショートゴロに終わる。
  4回に2打席目が回ってきたが、同じようにセカンドゴロ。そんなにすごい投手ではないのだが、気負いがあるのか打てない。試合は2対2のまま4回を終えた。
  それまでに、ライトに2,3回打球が来たがフライもゴロも無難にさばくことが出来た。外野を守るのはかなり緊張する。・・・ついに勝ち越しを許してしまう。なお2アウト、1,3塁のピンチ。しかもこの非常時に、僕の頭上を越えるようなフライが来てしまう。右打者なのでライトには大きな打球は来ないと思っていたが、かなり大きい当たり。「ヤバイ!」と思いながらもボールを追う。ボールは見えている。でも後ろ向きに走りながらキャッチするのは難しい。ボールが落ちてきたので、タイミングだけ合わせて闇雲に手を出す。「パシッ!!」こぼれそうになりながらも、奇跡的にキャッチ。チームから歓声が上がる。ベンチに帰ると「もう駄目かと思ったよ。」とか「ミラクルキャッチだ!」と誉めらた。多分上手い選手なら簡単にとるのだろうが、僕にはミラクルでなければとれない。もしかしたら、そこで運を使い果たしてしまったかもしれない。
  6回の3打席目は、2ストライク3ボールから外角の球を見送ったら、ストライクを取られ三振。8対2。9回1点を返した時点で、4度目の打席が回ってきた。しかしここでも追い込まれて変化球に空振り三振。試合も終わって8対3で敗れた。
  守るほうではかなり良かったが、打つほうは全く駄目。次の試合は控えに下がってしまうかもしれない。
  (やっぱり健太は運動神経がよくない。さっぱり打てないようで困ったものだ)

  「大接戦・東工大戦」  (9月23日)
  リーグ戦2戦目は強敵・東工大。春季リーグはめった打ちを食らっている。
  僕は今回は控えかと思っていたが、幸運にもスタメン。前回同様6番ライト。・・・・2死1,2塁なおチャンスで、僕に打順が回ってきた。3球目のストレートを振りぬいたら、痛烈な3塁線のファウル。かなりいい感じで打てたので、ファアルになったのがもったいない。追い込まれて、来たボールは外角に逃げていくカーブ。これに誘われて、空振り三振。やはり変化球は打てない。チャンスを逸す。・・・・・
  3対1。なお2死2塁で、僕の打順。さっきの打席で、相手キャッチャーに僕が変化球を打てないことがばれてしまっている。追い込まれる前にと、インコースの厳しいストレートを打ちにいく。バットの根っこに当たり、ピッチャー前に。しかし打球に力があり、ピッチャーがはじく。僕は全力で1塁に走るが、惜しくもアウト。またもチャンスで凡退。・・・
  3対3。5番がツーベースで出塁。無死。3度目の打席。この打席は変化球に手を出さないようしっかり選んで2ストライク3ボール。ここでカーブを投げられたら三振してしまう、と心配しながらストレートを待つ。来た球は、ストレート。しかしカーブを心配していたため振り遅れる。振り遅れた上に、ボールをこすった。打球はライトへ。「こすった分だけ、ポテンヒットになるのでは!?」 しかし無情にも、打球は伸び、ライトライナー。今回ばかりは、自分のパワーが裏目に出てしまった感じ。・・・
  再び2点差。5対3。7回に4打席目が回ってきたが、ここは1打席目と同じようにカーブに空振り三振。4打数0安打、2三振。ここで僕はお役御免。ベンチに下がる。
  (よくもまあ打てないことだろう。朗報を待っているのに)

  「エース故障!!」    (10月 5日)
  先週の試合は、雨で延期になった。明日の自由学園戦は勝って当たり前と思われたが、予期せぬ事態が発生。僕らのエースが肩を故障。今まで3年間ピッチャーとして、ほとんどの試合を投げきってきた結果のようだ。すくなくとも、明日の試合は登板できない。我がチームには基本的に投手は一人しかしない。・・・・・・それも、明日が僕たちの代の最終戦になる可能性もある。
乱打戦になるかもしれないので、僕も今までのように凡退するわけにはいかない。

  「リーグ戦最終戦!?2年半の集大成」  (10月 9日)
  僕は7番ライトで先発出場。
  ・・・・2回裏、本校は四球やワイルドピッチで1点を返した。ここで僕の第一打席が回ってきた。相手ピッチャーの持ち球に大きな変化球は無い。全て直球と思っていい。いつも追いこまれてしまうので、初球から振った。高めのストレート。思ったよりボールが伸びてきて、打球はフライに。一打席目はショートフライに終わってしまう。
  4回裏に2打席目が回ってきた。「打てない球じゃない。ストレートしかないから三振はしない。」3球目を打ちにいくが、思いのほか難しい球に手を出していしまう。ドン詰まりで、セカンドゴロ。未だにヒットが出ない。これで10打数ノーヒット。
  ・・・・・・・試合は5回まで進んだ。稲山君はランナーを毎回出しながらも粘りの投球。2回の2点に抑えている。しかし僕たちは5回までわずか1安打。1点入っているのが不思議なくらい。2対1。6回裏攻撃は4番から。一人出れば僕に回る。4番がヒットで出塁。これがチーム2本目のヒット。すかさず盗塁とワイルドピッチで3塁へ。一打同点のチャンス。5番は三振。6番は四球。1死1,3塁で、僕の打席。「ここで打たなきゃ、僕は何の結果も残せず引退することになる。打てば、今日のヒーローになれる。」いろんな気持ちが入り乱れながら打席に入る。
  キャプテンが1塁ランナーに盗塁のサインをだす。1球目を見送ると1塁ランナーは盗塁成功。1死2,3塁とチャンスは広がる。1球目はボールだった。2球目、低めのストレートがストライク。見送る。「今のは、手を出したら凡打してしまう球。高めの球を狙うんだ。」
  3球目、真中の外角球。打ちにいく。「キーン!!」ボールは1塁側ファアルグラウンドへ。2ストライク1ボール。追い込まれてしまう。   「変化球は来ない。思い切り振るんだ。悔いは残したくないし。」4球目、同じようなコースへストレートが来る。今度こそ!と振る。「キーン!!」 ボールは後方に大きく飛んでいった。ベンチから声援が飛ぶ。「だんだんタイミングが合ってきたぞ!!」と。しかし追い込まれていることに変わりは無い。
  5球目が来る。真中高めのストレート。何も思わず振った。「カキーン!!!」 今までに無い感触が体に伝わる。打球はショートの頭上を越え左中間へ。「ヒットだ!!」喜びの気持ちを抑え、1塁ベースを目指す。2塁はさすがに無理で、1塁ベースに着いてベンチを振り返った。
  ベンチは大盛り上がり。2人のランナーが生還し、3対2と逆転。いわば逆転2点タイムリーを打ったことになる。スタンドに応援に来ていた4年生やOBも拍手喝采。
  ようやく出たヒットが、チームを勢いづける逆転打になった。「2年半頑張ってきて、その最後になるかもしれない試合で最高の活躍が出来た。これで悔いなく引退できそうだ。」その後、1塁ランナーの僕はサインを間違えて暴走。タッチアウトで犬死してしまった。その辺は、僕らしいといえば僕らしい。でも、ベンチに帰ると、みんなが「ナイスバッティングだったじゃん!」と声をかけてくれた。7回の攻撃のときには、相手ピッチャーは交代していた。結果的に見れば僕の一打でKOしたことになる。
  次の投手は、いきなり大乱調。死球、四球の連続でアウトが取れず5点取ってもまだ、無死1,3塁。ここで僕の4打席目。この打席は、気楽に打っていったらセカンドゴロ。でも3塁ランナーがホームインしたので、運良く打点がついた。・・・僕に第5打席が回ってきたが、もう運は無くピッチャーゴロ。・・・・・結局14−8で勝利。

  「引退が決定」
  僕ら3年生が挨拶をして、2年生に幹部職を譲った。OBの2人が、僕に声をかけてくれた。僕が1年だったとき3年だった人たち。「良かったじゃん。最後にこういった形で結果残せて。スタンドでOBみんなで健太のこと誉めてたよ。」
  「健太が上手くなった姿を見れて良かったよ。早いものだな、もう引退か。お疲れ様。」チームの仲間から言われるより、先輩から言われた言葉のほうがずっと身にしみた。口では引退、引退と言ってきたが、そのとき初めて「ああ、もう引退なんだ。」と感じた。
  その後は恒例の打ち上げに行った。今日の勝利打点は僕ということになり、良いひと時を過ごした。部活という僕の大学生活の大部分を占めるものが終わってしまった。翌日の授業は、2年半の思い出で頭がいっぱいになり勉強に身が入らなかった。


(8) 祖父は思う
  この物語をRomしていただいた方には、すでにご推察と思いますが、主人公健太は隠居の初孫であり、勝雄は隠居です。私が私的なことを縷々書いたのは部活とは何かと言うことを世に問いまた己に問いかけたいと思ったからです。
  かって中学教師の時代、高校で部活を続けるのは中学で活躍できた子であり、運動能力が高い生徒であると思っていた。ところが退職後数年母校の高校で指導したが、私の考えが間違っていることに気づいた。中学時代活躍できなかった生徒が、また能力が若干劣る子が毎年入部してきた。何が目的で何が楽しみで彼女たちはバスケ部に来るのか不思議だった。
  ひるがえって我が孫が大学で全く無縁の準硬式の野球部に入った意図は全く理解できなかった。同好会ならいざ知らず正式な部活とは正気の沙汰ではない。グランドも遠距離、理科系大学で教職課程を取るのは至難である。選手にもなれそうにないので「退部せよ」とメールで、また帰郷の度に口やかましく言ったが聞き入れない。部活にはかなり理解が有る私だがどうも納得できなかった。折角の長期休暇も合宿が有るとか言って早々に戻っていってしまう。
  でも毎週送られてくるメールの「諸相」で語られている部活での様子、合宿での夜の楽しさなどを知るに及んでだんだん私の気持ちも変化してきた。
  彼が正月に我が家へ来たとき「部活は何が良かったのか?」と尋ねてみた。「大学の人間関係は希薄である。高校までのようなクラスはない。でも授業のない時間部室へ行くと仲間がいて楽しい。合宿なども辛いがみんなと談笑できて嬉しい。学校祭なども仲間とわれを忘れて活動できた。3年間部活をやって良かった」と。
  3年生引退直前に出場したがノーヒットの連続で、本人も辛い思いをしていたが、ついに会心のヒットが打ててチームに貢献できた。僅か1本でもその感激と感動はきっと孫の一生の思い出となると思う。プライドが相当強い彼が中学時代もそして大学の部活でも、日が当たらなく下隅の生活を耐えたことは彼の今後に大きな財産として残るであろう。

  部活にはただ勝った負けただけではない大きな成果が存在しているようだ。子供たちや生徒たちはそれぞれ何かを求め何かを期待して部活に参加しているのである。指導者は常に細心の注意を個々の部員に払い、彼らの将来に思いを馳せつつ指導しなければならないとつくづく思う!


−−= 終わり =−−