第13話 一滴の涙(1)
昭和46年(1971)4月、クラブ見学で新1年生が7・8名体育館(旧)にガヤガヤと見学に来た。入部させたいので椅子を与えてサービスした。なかに細く色の黒い160cmぐらいの少女がいた。眼鏡をかけている。「眼鏡をかけている子はバスケに向かないよ」そう言ってプレーの指導に専念した。ふと振り向くと先ほど話をした子が泣いている。
「どうしたの?誰が泣かしたの」そばにいた肥えた子が「先生がいじめたのだ!眼鏡をかけていると言って。他の子でも今眼鏡をかけていないが持っている子もいるよ」と口をとんがらして抗議。「ごめん ごめん 眼鏡をかけていてもよいよ」この少女こそ名センター加藤孝子である。見学に来た連中廊下で会うと「バスケに入れて」と私を囲みしがみついてきた。
事実彼女たちが3年生の時は県一の実力を十分持っていた。県大会の組み合わせも今と異なり12チームで(現在16チーム)シート無し。1回戦名門北稜中(名古屋代表)とあたった。優勝候補同志の対決だった。3分経たないうちにセンターの孝子3反則、相手センターに触ったかどうか判然としないのに笛が鳴り続ける。続いて4反則。他の誰一人反則なし。彼女だけねらい打ちの感じ。審判は北稜中にコーチに行っている人らしい。(このごろ審判は地方にあまりいなくて、このゲーム名古屋市の審判二人で吹かれていた。)あまりの不公平な審判に憤慨する。やむなく彼女を外す。それでも相手を引き離して前半を終わる。
後半孝子を再び出す。また笛。チャージング(そのころチャージングは滅多に鳴らなかったのに)で退場。ここでチームは焦った。じりじり追い上げられ敗北。この後北稜中は楽々勝ち進んで優勝。


第13話 一滴の涙(2)

 名センター加藤孝子始め4人のスタートプレーヤーが揃って県立津島高校へ進学。楽に尾張地区の王者に、続いて県新人戦には第2位となる。孝子2年の時国体選手として愛知選抜にはいる。(この高校でバスケ国体選手は前も後も彼女独りだけ)
愛知県で県立高校が準優勝したことは、今日まで30数年間は皆無のはず。
 かってこんなことがあった。孝子のプレーはとっても荒く危険なのでしばらく謹慎をさせていた。そんなおり津島高校へ練習試合に行くことになった。彼女は学校に残留。孝子が職員室へ来て「ゲームには出なくてもよいから連れていって」と懇願。やむなく同伴させた。
 彼女大学は筑波大学へ、そしてレギュラーでインカレ優勝に貢献した。教育実習は母校で、そして赴任もまた母校、バスケ部女子の監督となる。彼女の結婚式に招待されたが筑波の同級生数人出席、大きな女性たちが晴れ着で出席迫力があった。もう高校も3っ目で長女が中学に今春入学とのこと。
 あの入部の見学での一滴の涙がなかったら、今の体育教官の彼女の存在はなかったかも知れないとつくづく思う。