第16話 山陰・九州行脚 師匠その2

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 7秒での逆転負けはショックだった。まして審判の不公平にはバスケへの情熱を失わせた。3度も挑戦し全て敗れた。もうこれでは県制覇は幻だ。そんな傷心の時市邨短大の新井春生先生が山陰方面への旅に誘っていただいた。新井先生については前に少し触れたが、あの桜花高校の井上先生が師事された名女商のN先生が心底尊敬されていた大先生だった。
 私の教え子が高蔵高校卒業にあたっての進路のことで先生との接触があった時期だった。先生は毎夏国体予選を兼ねて帰郷する生徒を家に送り、実家に寄ったり、各地の指導者に会ったり、大会を応援したりの旅であった。
先生の車には妹さん(日本女子体育大学助教授)、選手2人と私が同乗した。詳しい行程は殆ど覚えていない。途中玉造温泉の旅館に宿泊し、深夜までバスケのお話を伺った。余り人怖じしない私も先生には圧迫感を感じその人間性の大きさに圧倒されていた。 
旅館から家へ電話した。そしたら同窓会の幹事さんが迎えに来たと言う。そう言えば同窓会に招待されていたのだ。同窓会の期日を全く忘れていたのだ。それほど敗戦の後遺症が酷かったようだ。同窓会を欠席したのはこの時だけ申し訳ないことをしたと今も思っている。
 車の中で妹さん、栄子先生が新体操の監督をしていると言われた。始めて聞く新体操、かって体操部を創部した経験のある私もそんな体操を知らず説明してもらった。
先生の実家にも泊まった。高校教師の弟さんが家を継いでおられる様子。幼い時父親を亡くされた先生はお母さんを助け、妹さんや弟さんを育て教育された。先生と同じ蚊帳のなかで眠ったのも印象的です。
 宇部商業?だったかここのコーチ親子が先生の信奉者で歓待を受けた思い出も残っている。また今一人の同乗していた中村千代美さんだったか、千代子さんだったか記憶がないが彼女の家にも宿泊した(山口県小野田市刈屋 中村亀之助氏宅)。(この娘さん短大1年・2年インカレ得点王、大阪体育大学3・4年も得点王)大変な歓待、そのうえたくさんの土産をいただいて次の目的地に向かった。 
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先生との旅の間に私の心中に再びバスケへの情熱が甦りつつあった。あの有名な能代の前の監督の加藤先生が大学卒業のころ、東京の美術の展覧会で、バスケ選手たちの(女性像)の大きな木彫を見て感激され、その作者新井先生に是非面会したく、満員の汽車を乗り継ぎ島根まで行かれた。そして感動新に希望を持って能代高校に赴任したと書籍で読んだことがあります。
国体予選のゲームも見ました。あの得点王の中村さんの華麗なプレーは素敵だった。彼女のお母さんは言っていた。「高校時代は腰を痛めどれほど治療にあちこち行ったか分からない」と。新井先生は「彼女のリバンドの着地を直したら腰痛は自然に治癒した」と言っておられた。
最後は確か博多当たりの選手の家を訪問された。立派な釣具屋さんだった。高級な釣り竿をそれぞれいただいた。
 先生は言っておられた「今東京までの地図を書き全員走っている。そしてその距離を東京に向かって地図に色づけをしている。」「シュートは1日千本練習時間外にさせている」(千本成功)と。仰天何時間かかるの?いつやるの?・・・・
その年念願のインカレ優勝をされた。短大での偉業凄いことでした。
 約1週間に及ぶ旅はバスケに対する浅薄な私の概念を壊し、再び県制覇のエネルギーを醸し出してくれた。全て先生のお陰「心の師匠」として感謝している。先生から著作も贈られた。息子も2・3回生徒を連れて指導を受けに大学に伺ったこともある。毎年年賀状をいただいているが今年はなかった。もう退職されたが何をしてみえることだろう。
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新井先生については多くのバスケ関係者は知って見えると思いますが、かってバスケの月刊誌に載った記事を紹介します。
平成2年の記事
新井春生氏(名経大監督)に  米国の「体育学名誉博士号」
 66歳の今も、名古屋経済大の監督として学生バスケット界の現場で陣頭指揮にあったっている新井春生氏が名誉ある称号を受けた。
 アメリカ・カリフォルニア大学バークレー校(UCB)校内にある、誉れ高き一般教育科学研究所(NMSRI)の研究員第1号として認定された。また併せて同研究所から、体育学名誉博士の称号を受けたものだ。・・・・・・・・・・・・・・・省略・・・・・・
 新井氏は全国9ブロックの大学元大学総長や元学長ら9人からなる人選委員会によって推挙され、同研究所の研究員選抜協議会で、英訳した論文や著書、実績、人格などの審査の結果、資格を認められた。・・・・・「体育学名誉博士の学位は、論文「教育者としてのバスケットボール・コーチ」を基に総合的に判断が下され、昨年10月26日、承認を受けた。・・・・・・。

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新井春生先生のプロフィール
大正12年島根県安来市生まれ
 バスケを始めたのは安来小(現 十神小)4年の時。後に島根師範学校(現島根大学教育学部)や島根クラブ時代はプレーヤーとして活躍。昭和二十年に卒業後は。安来一中や安来高などで指導した。(注:小学校の教師をしながら・・隠居)32年には静岡国体で安来高女子を全国優勝に導いた。
 40年には新天地愛知県・安城短付高に移る。その後市邨短大(現名古屋経済大学)で再スタート、安城短付高でインターハイ、国体合わせて3度、市邨短大でもインカレで全国制覇を達成した。
(注:新井先生を小学校4年に担任した先生が、バスケを教えたのがその後の先生のコースを決めたようです。そのまま島根県に残れば当然校長の椅子が待っていたのに、思う存分バスケがやれる愛知を目指して故郷に別れを告げたと、旅の宿で先生は私に語られた。)