第1話  井上真一先生

2000年12月31日投稿

 今朝新聞を見たら桜花優勝の写真やら記事が中日新聞の12版に大きく報じられていた。1面の3分の1ほどを占めていた。彼の快挙に拍手を送りたい。実は来年から掲載予定でしたが、この新聞の影響でまず井上監督のことから昔話を書き始め始めることにしました。とは言っても殆ど交流は無いので詳しいことは知りません。初めて会ったのは県大会でした。彼は楠中学の監督でした。対戦したが楽勝した覚え。いつだったか記憶がない。2度目は52年度の県大会1回戦、守山中学、38−33で私の方(佐屋中学)の勝ちでした。その後運良く再び優勝できた。この年度で転勤し一応引退。その翌年より守山中学の快進撃始まる。大治中に転じたおり3度目の対戦をした。(新米監督のお手伝いをしていた)県大会2回戦で100点を越える一方的な負けでした。ゲーム後彼は私のところまでやってきて挨拶をしてくれました。感心な人物だと思った。でも20年後高校日本一の監督になるとは夢にも思わなかった。2勝1敗私の誇りです。 ちょっと長くなって迷惑になるかとも思い、この辺で一服します。続は明日にでも。(大治中学の現監督は昨年全中3位、最近ビデオを出しているようです。バスケットボールマガジン1月号に彼の記事が出ていました。)                     

                   第1話 続 井上先生  12月31日

 大治中に転じて3年目頃、久しぶりに高蔵高校へ選手をつれていった。(私立高蔵高校は女子校で20数年にわたって愛知県のバスケの名門校)そしたら守山中学も来ていた。すでに守山中は全国制覇をしていた。高校生との練習試合で対等のゲームを展開していてびっくり。県優勝した私のチームの子も2人高校生として出ていた。佐屋中時代時々訪れ高校生とゲームをしたが全く歯がたたなかった。殆ど得点が入らない。それでも中学では県の上位の力があった。それが守山は堂々と高校生と戦っている。あわや高蔵が負けるのではないかとさえ思われた。
 これは凄いチームだ、中学日本一の実力はこのようなものかと痛感した。後で大治中が守山と手合わせしたはずだがあまり記憶に残っていない。確かボールが全然運べなかった覚えのみ残っている。どうしてこんな強いチームが誕生したか、名古屋より20Km離れた木曽川の近く、愛知の一番西の小さな町に住む私には良くは分からない。でも私が教えてもらった市邨高校のN先生にいろいろ教わったようである。その意味では彼は私の弟弟子かも知れない。このあたりの話題については別の機会にぜひ触れたいと思っています。